神谷朝陽は、気がつくと廊下の壁際に追い詰められていた。背中に当たるコンクリートの冷たさがやけに現実的で、状況の異様さがぼやける。見上げた視線の先には、一応本日、このときが初対面であるはずの後輩、 深水暁の顔があって、たいへん距離が近…というより、逃げ場がほとんどない。下手に顔を動かすと、鼻とか頬とか、とにかくどこかしらが触れ合ってしまいそうだ。誰にも許したことのない距離をたやすく侵されて、妙な緊張感にごくりと喉が下る。
どうしてこうなったんだろう。散らかる思考を整理するより先に、神谷はまず、相手の顔立ちを観察する。そんな場合ではないのはわかっているのだが、それ以外考えられないくらい、無遠慮な後輩の顔面が近くにあるのも事実だった。黒髪で、同じ色の瞳はやや切れ長、縁取る睫毛は女の子みたいに長い。表情の動きが少なそうだ、と感じるのは、横一文字に結ばれた薄い唇のせいだろうか。身長も高いし体格も良いのに、あまり外へ出ないのだろう。影の落ちる頬は、驚くほどに白い。同性から見ても羨ましいくらいに整っている。など、勝手な感想を抱いてようやく、いま考えるべきことはそれではないだろうと反省をした。
これほど近くにいて、説明もなしに壁際まで追い詰めておいて、深水は、神谷の反応なんて全く気にしていない様子だった。何の感情も読み取れない瞳がわずかに動いて、神谷の肩越し、正確にはその少し後ろを見ている。そんなところには誰もいないはずだ。そもそも背中にコンクリートが当たっている以上、背後はただの壁…のはず、だし。神谷は思う。思いながらも、じゃあ実際に振り返って確認してみようかな、という気にはなれなかった。必要がないと判断したのか、あるいは考えないようにしたのかは、自分でもよくわからない。おそらく後者だろう。
沈黙が続く。そのあいだも距離は変わらない。瞬きによる睫毛の震えも、呼吸の間隔さえも鮮明に読み取れる位置で、その事実がじわじわと意識にのぼってくる。この時間は何だ? 俺はいま何をされてるんだ? 非日常に困惑する脳みそが、ようやく異常事態を察して打開策を模索し始めたとき、目の前にある形の良い唇がゆっくりと開く。
「憑いてますよ、先輩」
愛の告白が飛び出してきそうな距離で、紡がれたのはそんな言葉だった。声は落ち着いていて、冗談めかした調子ではない。神谷は一度だけ瞬きをした。言葉の意味を理解するのに時間がかかったわけではない。ただ、それをどう受け取るべきかを決めかねただけだ。
──まあ、ここまで来ておいて、今更とぼけたって仕方がない。小さく息を吐き、深水の顔を見つめ返す。諦め混じりで、なるべく悲壮感を出さないよう取り繕った表情は、笑顔と呼ぶには程遠かっただろう。
「……やっぱりぃ…?」
「はい。大きいのが三体と、小さいのがいくつか」
三体。数が具体的であることに、妙な説得力がある。神谷は頭を抱えて蹲りたくなった。なんの前触れもなくこんなことを言われたのであれば、多少は反発しただろう。しかし、残念ながら今は、目の前の男を肯定してしまう理由の方が多い。
「…とりあえず、入りますか? お話くらいは聞けると思うので」
そう言ってようやく距離を取り、深水が自身の背後にある扉を指す。もちろん、最初からそのつもりだったので、神谷は素直に首を縦に振った。
