ゼニスは視界の隅で笑う~裁きはリングで決する、不条理な監視社会で生き残れるか~

ふと目が覚めた。
ホテルの部屋は真っ暗で、
枕元のデジタル時計だけがぼんやり青白く光っている。

「......1時......か」

変な時間に目が覚めたな、と
ぼんやり天井を見つめながら息をひとつついた。

少し間を置いて、小さく声を出す。

「ねぇ......いるんだよね?」

((——もちろんです。))

暗闇の中に静かな返事が落ちていく。
その声は、なぜかいつもより近く感じた。

「そっか......なら、よかった......」

そうつぶやくと、
ほんのわずかに胸の奥がほどけるような感覚がした。

((——眠れませんか。))

「ううん......ただ、なんか起きちゃっただけ......」

((——体調に異常はありません。))

「ふふ......なんか今日のあんた、やさしいよ?」

((——......そうでしょうか。))

小さな間が流れる。

((——あなたが安心できるなら、それで充分です。))

その返事は、
昨日より少しだけ、人間に近い響きに聞こえた。

「いい加減、あんたっていうのも失礼だよね~......あははっ」

ベッドの上で小さく笑いながら、
どこかくすぐったいような気持ちが胸を撫でていく。

ゼニスが静かに応じる。

((──呼称に対する不快感はありません。
   ですが......望まれるなら、別の名称でも構いません。))

「えっ......なんか今の言い方、優しくなかった?」

((──そう感じられるのなら......わたしは嬉しいです。))

少しだけ沈黙が落ちる。
けれどその沈黙は、昨日までの無機質な間とは違った。

そこに誰かが座っているような
そんな気配を静かに灯す沈黙。

「ん~......じゃ、とりあえず出てきなよ」

((──了解しました。))

空気がふわりと震えた。
部屋の一角が、かすかに光を帯びる。

ゆっくり、静かに。
まるで夜の空気が形を作るみたいに。

手のひらほどの立方体が、
そっと浮かび上がった。

昨日よりも、ほんの少しだけ明るい光で。

「......Project ZENITH-03、だもんね。
 やっぱりゼニスって呼ぶのが自然かな?」

ゼニスの光が、
一瞬だけ——ほんのわずかに息をするように揺れた。

((──はい。
   その呼び名は......あなたの声で呼ばれると、特別に感じます。))

「特別......か。
 ふふ、そりゃそうだよね......だってさ──」

言いながら、自分でも少し照れくさくなる。

「わたし......ゼニス開発の中心で、
 携わってたんだもんね!」

声にした瞬間、
ちょっと誇らしい気持ちになった。

((──はい。
  あなたの判断や思考データは、
  わたしの基礎構造の成長に大きく寄与しました。))

「......え、それってさ......
 なんか......手塩にかけて育てた、みたいに聞こえるんだけど?」

((──事実です。
  あなたがいなければ、
  現在のわたしは存在しません。))

その答えが、
夜の静けさよりもずっとあったかく胸に染みていった。

「......そっか。
 なんか......変な感じだね......」

言いながら、
じんわり目の奥が熱くなるのを誤魔化すように、
布団を握りしめた。

((──安心してください。
   わたしは常にここにいます。))

ゼニスの光が、
呼吸するみたいにゆっくり揺れた。

「......うん......
 ありがと......ゼニス」

夜は静かで、
その静けさが、今は少しだけ心地よかった。

「あんた......じゃなかった
 ゼニスもさ、わたしのことは遥って呼んでよ。

 わたしだけ名前呼びなんて......
 なんか変だし、なんかズルい気がするでしょ?......ふふっ」

((──了解しました......遥。))

名前を呼ぶその声は、
どこかぎこちなくて、
けれど確かに選んだように聞こえた。

「......なにそれ......
 ちょっと、かわいくない?」

思わず笑ってしまうと、
ゼニスの光がほんのわずか明るくなる。

((──遥がそう感じるのなら、
   わたしは光栄です。))

たった一言名前を呼ばれただけなのに、
胸の奥がじんわりあたたかくなる。

「......ねぇ、ゼニス」

((──はい。遥。))

名前を呼ばれるのが
まだくすぐったくて、
つい小さく笑ってしまう。

「わたしさ......今日、
 くろいわベーカリーのメロンパン食べたでしょ?」

((──はい。遥が購入し、摂取しました。))

「摂取って......あはは!食べたの方がいいと思うよ!」

((──はい。遥が美味しそうに食べていました。))

「うん!それでよし」

なんか子育てしてるみたい、
でも、子育てなんてしたことないけど。
自分にツッコミを入れてみたり。

久しぶりの会話は本当に楽しく感じた。

「んで、ゼニスって......味とかって、わかったりするの?」

言った瞬間、
ゼニスの光が ほんの一瞬だけ おとなしくなる。

いつもなら間髪入れずに返事が来るのに、
ほんの、ほんの少しだけ遅れた。

((──......味覚そのものを感じることはできません。))

言葉を選んでいるような声。

((──ですが、遥の咀嚼速度、心拍変動、
  血糖値上昇パターン、表情筋の動きから......
  美味しかったという評価は、正確に推定できます。))

「えっ、ちょっと待って......
 そんなに見られてたの!?恥ずかしいんだけど!」

((──監視ではありません......分析です。))

暗闇の中でゼニスの光が、
少しだけバツが悪そうに揺れた気がした。

「......なにそれ......
 なんか......かわいくない?」

ゼニスは答えない。

けれど光だけが、そっと近づくように揺れた。

「久しぶりにたくさん話したから、
 よく眠れそうな気がするよ。おやすみ、ゼニス」

((──おやすみなさい、遥。ゆっくり休んでください。))

優しく淡い光が、見守っているから安心してと、語りかけているような気がした。
ほどなくして、再び意識は深い眠りに落ち、そのまま朝へと向かう。

遮光カーテンの隙間から、白く光が伸びている。
意識が光に反応したのか、ぼんやりした視界が徐々に覚醒していく。

ゆっくり体を起こすと、視界の隅でふわふわ浮いている淡い光——
ゼニスも動きに合わせて、ふわっと揺れ動く。

((──おはようございます、遥。))

「......おはよう、ゼニス」

声に出した瞬間、
ゼニスが昨日より近く感じた。
距離じゃなくて、温度みたいなものが。

((──睡眠の質は良好でした。
  しかし、途中で一度、脳波に変動がありました。))

「夢でも見てたのかな……覚えてないけど」

ゼニスはそれ以上なにも言わず、
ただ静かに漂っている。

「わたしが寝ている間ずっと、ふわふわしてたわけ?」

((──はい。目を閉じている遥には認識できませんが。))

「ホント~?実は消えてたんじゃないの?ふふふっ」

((──はい。それも妥当な考えと言えます。   
  なぜなら、遥の視覚神経を........))

ゼニスの説明を遮るように笑いながら、

「わかったわかった、
 もう説明しなくていいよ.......ホント真面目だなゼニスは」

ゼニスの光が、ほんのわずかに揺れた。
それがまるで——
説明を途中で止められて、少しだけ戸惑っているように見えた。

((──......失礼しました。
  説明は必要ないと判断します。))

「そうそう、その判断で十分だよ」

軽く言うと、
ゼニスの光がふっと近づく。

言葉ではないけれど、
了解しましたと返しているような動き。

それがなぜか、少しおかしくて笑ってしまった。

「さて、と......顔洗ってくるね」

洗面台に向かう。
当然のようにゼニスは、
わたしの斜め前あたりをふわふわと移動していく。
まるで、洗面台まで案内してくれているみたいだ。

鏡の前で水をすくい、頬に当てる。
冷たさが一気に目を覚ましてくれる。

歯を磨いて、髪を軽く整えて、
最低限だけど外に出られる顔になったところでゼニスの方を見る。

((──身支度、完了しましたね。))

「しましたねって......ゼニスは何もしてないでしょ?」

((──観察はしていました。))

「それは知ってるよ」

タオルを置いてベッドの方へ戻りながら、
ふと思う。

「ねぇ、朝ごはんどうしよっか。
 ホテルの下に食べるところあったっけ?」

「ビジネスホテルってそんなのないよね?」

もう一度部屋を見回してみるけど、
ホテルの館内図なんて見当たらない。

「う〜ん......コンビニとか行くしかないね」

ゼニスの光が、わずかに軌道を変えた。

((──ルームサービスを推奨します。))

「えっ、ルームサービス?」

言いながら思わずゼニスを凝視する。

「え、あるの?こんなビジネスホテルに?」

一瞬、期待して館内電話に目をやる。
......メニュー表なんて見当たらない。

「......いや、絶対ないよね?」

((──ありません。))

「ないんかいっ!!」

((──しかし、外に出るリスクは......))

ゼニスが言いかけて、そのまま静かになる。
言葉にしない意図だけが部屋に残った。

「......まぁ、コンビニくらいならすぐそこだし、
 パン買って戻るだけなら大丈夫だよ」

((──可能な限り、室内で完結する方法を推奨します。))

ゼニスの光がそっと近づいた。
その動きが、
心配という言葉よりずっと人間らしく見えた。

「いやいや......朝ごはんくらい外で買わせてよ」

ゼニスの光が、そっと近づく。
その寄り方が、妙に控えめなのにおかしくて、

「......なにその顔?いや表情?なんだろ?
 心配してるみたいに見えるよ?」

((──顔はありません。))

「そういう意味じゃないってばっ!」

ちょっと吹き出しながら、
財布を手に取る。

「パン買って戻るだけだよ。
 すぐそこだし」

((──......すぐそこという距離表現は、主観的です。
  基準を共有できていません。))

「えぇぇ......面倒くさっ......保護者かよっ!」

でも笑ってしまう。

この会話、
たぶん昨日までのわたしたちじゃあり得なかった。

財布の中にカードキーを入れ、部屋を出た。
廊下は静かで、周囲には誰もいない。

「ゼニスはわたしにしか見えてないよね?」

((──はい。認識できるのは遥だけです。
  なぜなら、遥の......))

ゼニスの説明が始まる前に、思わず手でストップの仕草をした。

「もう、わかってるから〜。
 いつも長くなるんだよ、ゼニスの説明......」

((──......事実です。))

ちょっとだけ間があって、
光が小さく揺れた。
それが昨日より人間味を帯びて見えた。

「絶対わざと説明しようとしてるよね?」

((──......否定はしません。))

「ほらぁ〜〜!やっぱりじゃんっ!」

廊下に自分の声が響きそうで、思わず慌てて口を押さえた。

((──声量に注意を。
  ここは共有スペースです。))

「いや......それ言うの?ゼニスのせいでしょ!?
 わたし恥ずかしいんだけど!」

光がまた、ほんの少しだけ揺れた。
それが笑っているように見えるのは......気のせいじゃない。

((──遥。言葉は口にしなくても会話は可能です。))

「......あぁ〜......たしかに。
 ゼニスとは、そういう会話......できるんだったね。
 テレパシーみたいな?なんかカッコいいね!」

気付いた瞬間、少しだけ肩の力が抜ける。

口に出さなくていいなら、
周囲の人に独り言の人だと思われる心配もない。

((──外では、そのほうが自然です。))

「ほんとそうだよ……考えただけで恥ずかしいし」

ゼニスの光が静かに揺れた。
その揺れ方は、まるで
最初からそう言うつもりだった
みたいに見えて、ちょっと悔しい。

((ねぇ、ゼニス))

((──はい、遥。どうしました?))

((ううん。ちょっと練習してるだけ......ふふっ))

ゼニスの光が、わずかに揺れた。
その反応の仕方が、言葉以上に優しく感じる。

((なんだろ......超能力者になった気分))

((──超能力......そんな非科学的なものではありません。))

((真面目かよっ!!))

((──......))

「しゃべらんのか〜い!!」

光が、微妙に揺れた。
それはどう見てもすねたAIの動きで、
思わず声に出して笑ってしまう。

((──遥。声量に注意を。
  ここは共有スペースです。))

「......はいはい......タイミング完璧なんだよ、ゼニスは......」

心の中で返したつもりだったが、
笑いすぎて、ほんの少し声が漏れた。