ゼニスは視界の隅で笑う~裁きはリングで決する、不条理な監視社会で生き残れるか~

「なんか、勢いで外に出ちゃったけど、
 さすがに早いよね。ふふふっ」

((──うん。開場までは、まだ時間があるよ。))

「だよね......調停センターの周辺になんかない?」

((──調停センターの周辺には、
  ショッピングモールなどの施設はないよ。))

「そっか......
 じゃあ、近くで時間潰しはできないね......」

((──うん。そうなるね。))

そんな会話をしながら歩いていると、
ひより駅の北口広場まで来ていた。

「とりあえず、コーヒーでも買ってこようかな。」

((──うん。ヒヨリナの1階に、コーヒーショップがあるよ。))

「あぁ〜......あるね〜。
 わたしは、缶コーヒーでいいかな。ふふ」

((──遥は、缶コーヒーが好きなんだね。))

「うん。なんか、手軽でしょ。」

((──遥らしいね。))

自動販売機で缶コーヒーを買い、近くのベンチに座る。

「冷静に考えてみるとさ、なんで調停を楽しみにしてるんだろ?」

((──遥は、好奇心が強いからね。
  もっと知りたい、わくわくするといった快感が生まれて、
  脳内でドーパミンが出るタイプなんだと思うよ。))

「知りたがりではあるかもね〜。あはは」

((──そうだね。知らないことを、
  前向きに捉えることができるのは、ポジティブな遥だからこそだね。))

缶コーヒーを開け、一口飲んで、空を見上げる。

「未知って、楽しいよね......
 わたし、異世界に行っても、楽しめるタイプだと思う。」

((──そうだね。遥は、困難に立ち向かうタイプだから。
  そう考えても、不思議ではないね。))

「刺激があった方が、面白いでしょ?」

((──遥らしい考え方。))

「うん。これが、わたしだもんね。」

((──うん。))

「少し早いかもだけど、行ってみようか、調停センター。」

((──うん。行ってみようか。))

「南口の方に、タクシー停まってるよね?」

((──南口には、タクシー乗り場があるから、確実に数台は停まっているよ。))

「OK。南口行こ〜。」

缶コーヒーを飲み干し、ゴミ箱に缶を捨て、南口に向かって歩き出す。
南口広場に出ると、タクシー乗り場が見えた。

「タクシーすぐ乗れそうだね。」

((──うん。))

タクシーの運転手に会釈をして、ドアを開けてもらい乗り込む。

「どちらまで行かれますか?」

「あっ......えっと......」

((ねぇ、場所って、なんて言えばいいの?))

((──ひより市調停センターと言えばいいよ。))

((ありがと。))

「えっと、ひより市調停センターまで、お願いします。」

「はい。ひより市調停センターですね。」

運転手さんがそう言うと、タクシーは静かに走り出した。

((久しぶりに乗ったかもタクシー。))

((──歩ける範囲でしか、行動していなかったからね。))

((そう言えば、そうだよね。ふふ))

タクシーは、
ひより市調停センターに向けて、静かに走り続けている。

((わたし、本当に場所を知らないもんな。))

((──うん。行ったことがなければ、知らないかもね。))

((確かに......なんで、行かなかったんだろ?))

((──興味がなかったのか、研究が忙しかったのか。
  あるいは、別のことに好奇心が向いていたのかもね。))

((そうなのかも......))

タクシーは減速し、建物の前に停車した。
会計を済ませ、運転手さんにお礼を伝えて降りる。

「建物......けっこう大きいんだね。」

((──ひより市調停センターは、
  3000人収容の会場だから、そこまで大きな方ではないよ。))

「そうなんだね。もっと大きな会場も、あるってことか。」

((──人口にもよるけれど、
  5000人や、10000人を収容できる会場を持つ自治体もあるよ。))

「人口比率によるんだね。」

((──うん。そうだね。))

「まだ、早いよね?
 人も、まだ集まってなさそうだし......」

((──事前にチケットの購入はできるよ。))

「買っておけば、安心だね。」

((──予約しているから、ギリギリでも大丈夫だけどね。))

「だよね〜、あっはは」

ひより市調停センターに入り、入口近くの受付窓口に向かった。

((受付の人にチケットくださいって言えばいいの?))

((──予約番号1101です、と伝えればいいよ。))

((なるほど。予約番号があるんだね。))

受付にいる女性に、声をかける。

「すいません。予約番号1101です。」

「はい。1101番の七瀬遥さんですね。
 本人確認をお願いします。」

今では慣れた端末に、左手の甲を当てる。

「本人確認、ありがとうございます。」

「はい。」

「それでは、こちらがチケットになります。」

会計を済ませ、チケットを受け取る。
受付の女性にお礼を伝え、その場を離れた。

「チケットって紙じゃないんだね。
 番号がついたプラスチックタグみたいな感じ......」

((──そうだね。
  それを、座席の挿入口に差し込めばOKだよ。))

「へぇ〜、座席に差し込むタイプなんだ。」

((──紛失しないようバッグに入れておいてね。))

「あっ......うん、そうだよね。」

バッグに、タグのようなチケットをしまう。
すでに会場の空気は、静かに動き始めていた。

「まだ、時間あるから外でもぶらぶらしようかな。」

((──うん。
  席も確保してあるから、時間には余裕があるよ。))

調停センターを出て、建物の外周を回る。
正面とは異なり、裏側はしんと静まり返っていた。

どこまでも続く無機質なコンクリートの壁。
足音だけが、かすかに響いては消えていく。

建物の裏手、視界が開けた先には広い駐車場があった。
整然と引かれた白線の海の中で、空きスペースだけが妙に目立っている。
広い空間に取り残されたように、数台の車がぽつりと停まっているだけだった。

「車あんまり停まってないね......時間が少し早いからかな?」

((──うん。一般の来場者は、これからだね。))

ほどなくして、一台の車が滑り込むように減速し、駐車場へ入ってきた。
低いエンジン音は短く、すぐに途切れる。

それを合図に、別の車が入ってくる。
また一台、そのあとに、もう一台、次から次へと繰り返し。

ヘッドライトが消え、ドアが開く。
人が降り、そのまま無言で建物の方へ歩いていく。

機械的なほどに、同じ動きが繰り返される。
気づけば、先ほどまで空いていた区画が、静かに、少しずつ埋まり始めていた。

それでも、会話の類は一切聞こえない。
乾いた足音だけが、一定の間隔を保ったまま、入口へ向かっていく。

「だんだん、観覧の人も増えてきたね。」

((──うん。そうだね。))

「そろそろ、戻ってもいいかもね。」

((──うん。戻ろうか。))

来た道を引き返し、正面入口の方へ向かう。
少し前までの静寂が嘘のように、いつの間にか列が形成されていた。

長くはないが、淀むことなく、途切れることもない。
一人、また一人と受付の前に立ち、端末に手をかざしていく。

最小限のやり取りのあと、プラスチック製のタグが手渡される。
認証、受け取り、寸分の狂いもない一連の動作が、一定のピッチで繰り返されていた。

誰も立ち止まらず、誰も迷わない。
タグ受け取り、そのまま奥の闇へと吸い込まれていく。

列は少しずつ前にずれ、また静かに整う。
受付の前には、ただ同じ光景だけが再生産されていた。

「チケット受け取ったら、みんな会場に入るのかな?」

((──会場に入る人もいれば、
  飲み物や食べ物を買ってからの人もいるかな。))

「映画館みたいだね。」

((──近いかもね。))

入口を抜け、建物の中へ。
受付の列を通り過ぎた先には、長い通路が伸びていた。

人の流れは、直線ではない。
会場へと向かう者、奥へと進む者。
それらが交錯しながら、自然と分かれていく。

通路の片隅に佇む、横長のカウンター。
上部には簡単なメニュー。
手前には、透明なケースと保温棚。

ケースの前で足を止め、手早く選び、会計を済ませる。
受け取ったカップや袋、それらを手にし、澱みなく奥へ進む。

列は短く、すぐにほどけた。
繰り返される映像のような光景にも慣れた気がする。

カップを運ぶ者と、手ぶらの者が、通路を同じ方向へ流れていく。
会場へ向かう大きなうねりは、すでに始まっていた。

「せっかくだから、なんか買おうかな?」

((──うん。いいと思うよ。))

「アイスコーヒーと唐揚げ、ホットドッグをください。」

プラスチックのカップに、琥珀色の液体が注がれる。
乾いた氷の音が響き、即座に蓋が閉じられた。

揚げ物が入れられた、オレンジ色とレモン色のストライプ柄のの紙カップ。
その横から、紙に包まれたホットドッグがひとつ、事務的に手渡された。

会計の処理は一瞬で終わる。
交わされるやり取りは、それだけで完結していた。

「食べ物も買ったし、中に入ろうか。」

((──うん。))

人の流れに身を任せ、通路を進んで会場へと入る。
視界に飛び込んできた内部は、想像を遥かに超えて広大だった。

遥か高くに位置する天井。
その下に、無数の座席が規則正しく並んでいる。

張り巡らされた通路に沿って、人が途切れず流れていく。

琥珀色のカップを持つ者。
ストライプ柄の紙袋を抱える者。
手ぶらの者。

それぞれが、割り当てられた座標を探すように、静かに歩を進める。
座席の背には、一律に小さな挿入口が備え付けられていた。

タグを手に立ち止まる。
タグを差し込み、席に腰を下ろす。

同期されたかのような同じ動きが、視界のあちこちで同時に繰り返されていた。

会場全体は確かにざわついているはずなのに......
その音は、相変わらず遠くのノイズのようにしか感じられない。

「なんかスゴイね......本格的すぎない? ふふっ」

((──自治体の調停センターは、
  どこも、こんな感じになっているよ。))

高い天井からは、暗めの照明が落とされていた。
中央の舞台だけが、拒絶するように白々とはっきりと照らされている。

四角く区切られたその空間を、斜面を形成する座席群が、囲むように段を成して広がっていた。

中央上部には、四面を向いた巨大なスクリーンが吊り下げられている。
死角を完全に排除し、どこからでも中心が視認できる配置だった。

照明の頑強なフレームが、幾何学的な模様を描いて天井に組まれ、鋭利な影を落としている。
気がつけば座席はすでに、半分ほどが埋め尽くされていた。

飲み物のカップが置かれる微音。
食べ物の袋が擦れる音。

それらが、冷え切った空気の中で小さく混ざり合う。

無数の声はあるのに、決して大きくは響かない。
空間全体が、開催前の静けさを保ち続けていた。

「スポーツイベントの会場じゃん!」

((──うん。
  調停は、自治体開催の人気イベントなんだ。))

「だよね。会場見れば、一目瞭然だよ。」

中央のスクリーンから映像が消え、無機質な表示へと切り替わる。
暗転した背景に、浮かび上がるのは白い数字だけだった。

『2:30』『3:00』『3:30』、いくつかの不穏な区切り。
その横で、鮮烈な赤文字の『4.2』『1.3』といった小さな数値が明滅している。

一定の間隔で、パチパチと数値が更新されていく。
周囲のスクリーンにも、同じ数字が映し出されていた。

会場のざわめきはなく、冷めているのに熱い不思議な空気が支配する。
意思を持たない視線だけが、磁石に吸い寄せられるように、自然と中央に集まっていく。

「ねぇ......みんな見てるスクリーンの数字ってなに?
 もしかしてさ、『4.2』『1.3』の動いている数値ってオッズとかじゃないよね......」

((──正解だよ、遥。あれは、オッズなんだ。))

「......えっ!?調停って......そんな感じなの?」

((──自治体が運営している調停は、公営のギャンブルになっているんだ。
  競馬や競輪と、同じ仕組みだね。))

「そうなんだ......そりゃ、人気あるわけだ......」

((──遥。タグと同じ座席を探してね。))

「あっ、うん......わかった。」

手元のタグを見て、同じ番号を探す。

「1101は......あ、ここか。」

座席を見ると、背もたれの横に、小さな挿入口。
タグを差し込むと、軽い電子音と同時に表示が切り替わる。

「あとは、このまま待ってればいいよね?」

((──うん。))

座席に座り、アイスコーヒーを一口、喉に流し込む。

異常な人気を誇るイベントのわりには、会場に生々しい熱気は一切ない。
周囲の人々は、冷え切った視線で淡々とスクリーンを見つめている。

数字を確認し、スマホの画面に視線を落とす。
数秒後、また呼吸するようにスクリーンを見る。

終わりのない反復運動。
その動きだけが、会場全体を侵食していた。