ゼニスは視界の隅で笑う~裁きはリングで決する、不条理な監視社会で生き残れるか~

財布と鍵が入ったバッグが、
歩くたびに小さく揺れる。

いつも財布は手に持っていたから、
手が塞がっていない感覚が少し新鮮だった。

「うん、いい感じだね、バッグ。」

((──はい。))

「3階も見てみようかな?」

((──はい。
  3階は生活雑貨、書店、コスメ、
  ガジェット類などの売り場があります。))

エスカレーターへ向かいながら、
無意識にバッグのショルダーストラップの位置を直す。

「コスメかぁ......
 メイク、あんまりしないもんな、ふふっ」

((──はい。))

「特に必要なものはなさそうだけど、
 せっかくだし、ぶらぶらしてみようかな。」

((──はい。))

「本屋さん行ってみよ。」

((──はい。))

本屋さんへ向かっていると、
男性同士が言い争っている場面が目に入った。

((なんか、トラブルかな?))

((──はい。
  原因は不明ですが、
  トラブルの可能性は高いと推測できます。))

そこへ、
ヒヨリナの警備員が駆けつける。

男性の間に入り、
何か話しているように見えた。

((警備員さん、来たね......))

((──はい。
  館内通報で駆けつけたと思われます。))

興味本位で、少しだけ近づいてみる。

((なに話してるのかな......))

((──声が不明瞭なため、判読不可です。))

((そっか、残念......))

その時、
警備員さんが端末を取り出し、
男性二人の手の甲に当てた。

((ん?なんで本人確認してるんだろ?))

((──調停センターへの申請だと思われます。))

((えっ!?調停センター?......))

((──はい。軽微なトラブルも含め、
  紛争は調停センターで扱われます。))

((ちょっとのトラブルでも、なの?))

((──はい。基本的に、
  全てのトラブルは調停センターが取り扱います。))

((調停センター、
  仕事多すぎない? ふふっ))

((──はい。トラブルの内容によって、
  扱う調停センターは異なります。
  そのため、取扱量は過剰ではないと推測できます。))

((トラブルの種類で、調停センター変わるの?))

((──はい。軽微なものは、
  地区公民館に併設された調停センターが対応します。))

((なるほど......))

((──はい。))

((そんな制度があったんだね......
  知らなかった?いや......忘れてるんだね......))

((──はい。
  遥の状況では、忘れていても仕方ありません。))

((うん、ありがと。))

((──はい。))

((本屋さん行くんだったね、ふふ))

((──はい。))

警備員さんと二人の男性は、
調停センターでの取り扱いが決まったからなのか、
それぞれバラバラに歩き出していた。

その様子を、
少しだけ眺めてから、本屋さんに入る。

((やっぱり、小説かな?))

((──はい。))

小説が並んでいる棚の前を、ゆっくり歩く。

((たくさんあるね......))

((──はい。))

((小説も買い始めると、
  キリがなくなりそうだな......
  今日は買わなくていいかな、ふふっ))

((──はい。))

そのまま、本屋さんを後にした。

「そういえば、さっきのトラブル......
 わたし達以外、誰も興味なさそうだったよね?」

((──はい。
  特に珍しい光景ではないため、
  足を止める人は少ないと考えられます。))

「珍しくないんだね......」

((──はい。
  街中で深刻なトラブルに発展することは、
  ほとんどないと考えられます。))

「そうなんだね......
 制度が機能してるってことだよね?」

((──はい。))

「なんだろ......覚えてないからなのか、
 すごく不思議に思っちゃうよね......」

((──はい。
  遥の置かれている状況では、仕方のないことです。))

「うん、そだね......」

((──はい。))

ゼニスと会話をしながら、
下へ降りるエスカレーターに乗る。

「帰ろっか?」

((──はい。))

「なんか、忘れていることって、
 新しく知ったみたいな感覚で面白いね。」

((──はい。))

「新鮮な感じ?
 知らない世界に迷い込んだ感じかな?あっはは」

((──はい。
  そのように感じてしまうのも、無理はありません。))

エスカレーターを降り、そのまま外へ向かう。

「毎日、いろいろなことが起きるよね。」

((──はい。))

「わたしの周りだけ、
 いろいろなことが起きてるってこともないでしょ?」

((──はい。遥が観測している出来事は、
  日常的に各所で発生しているものと、
  大きな差はありません。))

「だよね~、ふふっ」

((──はい。))

「ここまで知らないこと多いとさ、
 異世界だとしても、不思議じゃないよね?
 そんなわけないんだけどさ、あはは」

((──はい。異世界と判別できるような、
  差異や違和感は、現在の観測範囲では確認されていません。))

「うん、知ってる~。」

((──はい。))

「ちなみに、ゼニスが異世界かもって判断する基準って、
 どんなところにあるの?」

((──モンスターの出現や、魔法の行使など。
  明らかに、現実世界では起こり得ない事象が観測された場合です。))

「なるほど......
 そこまでわかりやすかったら、さすがに気づくよね。あはは」

((──はい。))

「わたしも、魔法使えたら面白かったのにね、ふふっ」

((──はい。))

ゼニスと楽しく会話をしながら歩いていると、
あっという間にアパートへと辿り着いた。

鍵を開け部屋に入り、手洗いやうがいをサッと済ませ、
いつも通りソファに腰を下ろす。

「小説を返しに行くときにさ、
 調停センターを見てみたいよね~。」

((──はい。見学は可能です。))

「さすがに、
 調停中は見られないと思うけど。
 施設内の見学は、OKってことだよね?」

((──はい。その認識で合っています。))

「調停センターって、見学したことあるのかな......
 記憶があったとしても、
 見学するような施設ではない気がするけど......ふふっ」

((──利用実態として一般的に、
  地区公民館に併設された調停センターは、
  紛争の当事者にならなければ、立ち寄る機会は少ない施設です。
  見学という行為は、やや珍しいと考えられます。))

「そうなんだね......
 わたしが興味持ちすぎなのかな。あっはは」

((──はい。遥の好奇心は、驚嘆に値します。))

「そんなことないでしょ~。ふふ」

((──いいえ。遥の好奇心が旺盛であったからこそ、
  開発者として、重要な役割を担っていた可能性が高いと推測できます。))

「それは、褒めてくれてるんだよね?」

((──はい。))

「ゼニスの開発に携わってた記憶はある......
 なんか色々、テストしたり調整したりね......
 でも、ざっくりしか覚えてないな。
 会社も同僚も含めて、細かい部分とか、
 な~んにも覚えてないもん。あっはは~」

((──遥が覚えていなくても、わたしの開発に関わり、
  重要な役割を担っていたことは事実です。
  遥がいなければ、現在のわたしは存在していなかったと推測できます。))

「だよね......ほんと、お互い様って感じかな。」

((──はい。))

ソファに横になり、天井を見上げる。

「なんていうか......記憶がなくても、なんとかなるもんだね。
 ゼニスがサポートしてくれてるってのは、間違いないけどさ。」

((──遥の状況を踏まえると、
  現在のサポート体制は、有効に機能しています。))

「ゼニスがいてよかったよ......ほんとに......
 孤独感とか、あんまり感じないし。」

((──孤立状態は観測されていません。
  その点については、問題ないと判断できます。))

ソファに座り直し、
テーブルの上に置いてある本を手に取る。

「もう一冊は、なんてやつだっけ。」

『魔法学校を落第した俺は、人知れず森に住み着き、王国を作ります。』

「......タイトル、長いね。」

((──はい。))

「きっと、逆転人生って感じの物語だよね。」

((──はい。
  タイトルから推測するに、
  主人公が底辺から成り上がる
  物語である可能性が高いです。))

「うんうん。なんか、面白そう。」

((──はい。))

「うんうん、いきなり落第とか面白いね、ふふっ」

((──はい。))

「だね~。」

((──はい。))

いつの間にか、
夢中になって読み進め、
気づけば最後のページまで読み終えていた。

本を閉じ、テーブルの上に戻す。

「......読破だね。」

((──はい。))

少しだけ、ソファにもたれかかる。

「けっこう、面白かったね。」

((──はい。))

「読破したから、図書室に返しに行ける。」

((──はい。))

「そして、
 わくわくの調停センター見学もできるね!」

((──わくわくとは、
  期待や喜びなどで心が落ち着かず、胸が騒ぐさまを意味します。
  主にポジティブな感情、期待や歓喜の予感といった場面で、用いられる表現です。
  そのため、遥は調停センターに対して、相当高い期待感を抱いていると判断できます。))

「うん、正解かな。ふふっ」

((──はい。))

「なんだろ、
 遠足とか修学旅行前の子供みたいな感じ? ふふっ」

((──はい。
  小学生を対象とした調査では、
  修学旅行は、特に期待感が高まる行事として挙げられています。
  事前に行き先や見学内容を想像する過程で、
  わくわくや高揚感が生じやすいと報告されています。))

「調査結果から引用したんだね。ゼニスらしいね。あはは」

((──はい。))

「でも、その感覚は近いよね。すっごい楽しみ!調停センター見学。」

((──はい。))

「そうだ。見学って、予約とか要らないよね?」

((──はい。事前予約は不要です。))

「なんか、必要なものとかあるの?」

((──いいえ。本人確認のみで大丈夫です。))

「OK!本を返したついでに、見学しよう!」

((──はい。))

「明日の楽しみ、できたね。」

((──はい。))

「そうと決まれば、シャワーして寝よう!」

((──はい。))

「どんだけ楽しみなんだ、わたし。ふふっ」

((──......))

「なんか言いなさいよ。あはは」

((──遥の幸福度が、高い状態です。))

「うん、それは間違いない!」

((──非常に良い傾向です。))

シャワーを浴びて、ベッドに潜り込む。
楽しみな予定を、胸の奥にそっと置くと、
意識はゆっくりと深く沈み込んでいった。