ゼニスは視界の隅で笑う~裁きはリングで決する、不条理な監視社会で生き残れるか~

自動ドアが静かに開き、
外の空気がふわりと肌に触れた。

((久しぶりのヒヨリナ......すっごく楽しかったな!))

((──ショッピングのサポートができ、非常によい時間でした。))

両手にはワンピースとサンダルの入ったショップバッグとケーキの箱。
足元のスニーカーが軽く地面を踏むたび、
増えた荷物の重さよりも、それ以上に充実した時間を感じられた。

((さすがに両手もふさがってるし、ホテル戻ろっかゼニス?))

((──はい。荷物を持つサポートはできないので、
  ホテルに戻るのは賢明な判断と言えます。))

((ゼニスが荷物持ってくれるなら、
  もう少しショッピングしてもよかったよね......ふふ))

((──前向きに善処します。))

((善処って......ムリでしょ〜。))

((──はい。不可能です。))

((面白いなゼニスは〜......ふふふ))

((──幸福度の向上は重要です。))

くだらないやり取りを脳内で続けながら歩き、
いつもの大通りを進んで、しもむらの前を通り過ぎる。
気づけばホテルの前まで戻ってきていた。

((ついたね〜我が家......いやホテルだけど......ふふっ))

((──厳密にはホテルですが、
  我が家のように安心できる場所と感じるのは、
  環境への適応度が高まっている証拠であり、妥当な感覚です。))

((そだね〜、ゼニスの言う通りだね。))

いつものように軽く会釈しながらフロント横を通り過ぎ、
エレベーターに乗り込む。
静かな上昇音と共に数字がひとつずつ切り替わっていく。

ドアが開き、廊下の柔らかい照明が目に入る。

いつもの見慣れた廊下。
決して我が家ではないけれど、それでも帰ってきたと思える場所。
安心できる空間であることは、間違いなかった。

「たっだいま〜!」

((──お帰りなさい、遥。))

「ゼニスもお帰り〜。」

ケーキの箱をテーブルに置き、
ショップバッグを手にしたままスニーカーを脱ぎ捨て、
そのままベッドへダイブした。

「ホント楽しかった! でも、ケーキ大丈夫かな?」

((──保冷材も入っており、
  時間経過を考慮しても問題ないと推測できます。))

「ゼニスが大丈夫って言うなら心配ないね。」

((──念のため、確認しておきますか?))

「食べるときでいいんじゃない?......うふふ」

ゆっくり上体を起こし、
指先で髪をとかしながら、小さくひとつため息をつく。

「ふぅ......シャワー浴びてこないとだね〜。」

((──衛生管理は重要事項です。))

「うんうん、そりゃそうだ......あはは」

立ち上がり、タオルを手に取ってバスルームへ向かう。

──シャワーを浴び終え、湯気の残るバスルームから戻ってくる。

髪を軽く拭きながら部屋へ入ると、
この場所の空気が、自然と心を落ち着かせてくれるのがわかった。

「よしっ! シャワー浴びてさっぱりしたし、
 ゼニスが構造が美しいと絶賛したケーキ食べよっか!」

テーブルの上に置いた箱を見つめるだけで、
ふたを開ける前から、甘い時間が始まる気がした。

((──絶賛したという表現は事実とは異なります。
  しかし、構造が美しいのは事実です。))

「ま〜どっちでもいいよ、あっはは〜」

箱を開け、
そっとケーキを取り出してテーブルの中央へ置く。

いちごがたっぷり乗ったタルトと、
しっとり濃厚そうなガトーショコラ。
どちらも、照明を受けてほんのり輝いて見えた。

「ゼニスはガトーショコラのどの辺が、
 構造が美しいと思ったの?」

((──表面の焼成パターンが均一で、
  粉砂糖の分布が高い精度で整っていました。
  また、全体の形状にゆがみがなく、
  構造として非常に安定している点も評価できます。))

「おぉ~......びっくりするくらい評価がしっかりしてる......あはは」

箱に添えられていた使い捨てスプーンを取り出し、
ガトーショコラにそっと差し入れる。

しっとりと抵抗なく沈んでいく感触が、指に伝わった。

「なんか、すっごい濃厚そうだね。」

ひと口すくって口に運ぶ。

「ふわぁ〜、これすごいね! めっちゃ濃厚! どうゼニス?」

((──カカオ含有率の高さ、
  焼成時の水分保持が均一で、
  内部の気泡分布が非常に細かく、
  密度の高い構造が形成されています。
  そのため、内部構造が安定しており、
  濃厚という感覚につながっていると推測できます。))

「おぉ〜......なんかよくわかんないけど、美味しいってことね?」

((──はい。非常に良いものです。))

「ゼニスって説明したがりだよね? ふふ」

((──否定できません。))

ガトーショコラの余韻がまだ口に残っているのに、
視線はもう、隣に並んだイチゴたっぷりタルトに吸い寄せられていた。

「イチゴたっぷりタルトも食べてみよ〜!」

そっとスプーンをタルトへ向ける。
艶のある赤い苺が、美味しそうに見えた。

苺をひとつ、ぱくりと口に運ぶ。

「少し酸味あるけど、めっちゃ甘い! 」

((──糖度と酸度のバランスが適切で、
  鮮度も高く、果汁の含有量も申し分ありません。))

「ゼニスの評価、なんかプロのバイヤーみたいだよね......ふふ」

((──バイヤーに転職します。))

「転職って......それ、わたしがバイヤーになるってことじゃん!」

((──はい。遥とバイヤーになります。))

「いやいや、なんないわ!」

((──冗談です。))

「でた〜、ゼニスジョーク!」

くすくす笑いながら、
タルトの苺をもう一口すくって口へ運ぶ。
甘さとほんのりした酸味が混ざって、
ガトーショコラとはまた違う幸せが広がった。

そのままスプーンを進めていくと、
気づけばタルトもガトーショコラも、
綺麗に食べ終えてしまっていた。

「ふぅ~......美味しかった〜!」

((──非常に良いものでした。))

箱や使い終わったスプーンをまとめてゴミ箱へ片づけ、
ベッドに腰を下ろす。

「ヒヨリナで買ってきたワンピースとサンダル見よっかな〜。」

((──はい。遥に似合うワンピースですね。))

「もぉ〜、似合うとか言われると......照れちゃうね......」

ベッドに置きっぱなしだったショップバッグに手を伸ばし、
軽く引き寄せて、ワンピースとサンダルを取り出した。

「うん、やっぱり冒険してよかったかも〜。」

((──未購入の場合、高い確率で後悔すると予測していました。
  結果として、遥の選択は良い判断でした。))

「そだね~、ゼニスの言った通りだよ~。」

((──はい。すでに高い精度で理解しています。))

「さすがだね~ゼニス!
 せっかくだし、もう一回着てみようかな?」

((──サンダルも合わせると、より正確な確認が可能です。))

「OK! ワンピース着て、サンダルも合わせてみるね!」

ベッドから降り、
サッとワンピースを羽織って、
サンダルも履き合わせてみる。

「うんうん、いいんじゃない? ねぇゼニス?」

((──はい。とても似合っています。))

「これ着て出かけるのも楽しみだね〜♪」

((──はい。))

ワンピースをそっと脱いで、
備え付けのハンガーにかけておく。
軽く揺れた布が、まだ少しだけ今日の余韻をまとっていた。

しかし、楽しかった気持ちとは裏腹に、
このままでいいのかという不安も拭いきれない......

ホテルでの滞在には特に不満はない、
けれど、生活拠点としては考えられない気持ちもある。

「そういえばさ、ずっとホテルに滞在するとか......ないよね?
 セレブでもないし......ふふ」

((──質問の意図を確認してもよろしいですか、遙?))

「とりあえず、退院した時は、家もわかんなかったし......
 家だけじゃないけど......ずっとホテルに滞在? 住んでる? みたいなのもさ、
 どうかな〜って思うよね......
 でも、帰る家はわかんないけどね......ふふふ」

((──はい。遙の意図は把握しました。
  現在のホテル滞在は一時的な措置であり、
  いずれは住居について検討する必要がある、
  という理解で正しいでしょうか?))

「おぉ〜、さすがゼニス! 理解力ある〜!」

((──はい。当然です。))

「でも、アパートとか借りないとホテル出れないしね......」

((──現状、遙が利用できる住居については不明です。
  そのため、今後の生活拠点を検討する必要があります。))

「う〜ん......仮にわたしが、1人暮らしで賃貸アパートに住んでたら、
 2部屋目を借りることになるよね?
 ......そもそもアパート借りて住んでたのかもわかんなけど......
 なんか、すごい難しい問題なんじゃないこれ?
 でも、逆に気にしないで部屋を借りるのもアリかもね......」

((──遙の状況が複雑に感じられるのは、自然な反応です。
  現時点では、住居に関する確定情報がないため、
  どの選択肢も一時的な仮定に過ぎません。))

「そうなんだよね〜......そう考えるとホテルの方が楽だよね〜......うふふ」

((──はい。現在のホテル滞在は、遙にとって負担が少ない環境です。
  しかし、長期の生活拠点として考える場合には、
  別の選択肢も検討する必要があります。))

「借りてから考えてもいいよね?」

((──その選択肢も、可能性としては除外できません。))

「家具つきのアパートとかあるし、
 そんな感じのやつなら、負担も少ないしよくない?」

((──はい。家具、家電が備え付けられた物件であれば、
  初期負担を大幅に軽減できます。))

「この流れは、物件探しなんじゃないゼニス!」

((──はい。今後の生活を考えるなら、
  物件を検討することは妥当な方向性のひとつです。))

「なんか楽しみできた〜! あっはは」

胸の奥で、わくわくした期待感と、
その影に隠れるような小さな不安が、
同時にふくらんだ気がした。

((──遙が必要とする条件を整理すると、より明確になります。))

「条件かぁ......たしかに考えないとだよね〜。」

((──遙が何を重視するかが決まれば、
  その条件に最も適した環境を選定することが可能です。))

「やっぱり初期費用とか家具家電じゃない?」

((──はい。現在の状況を踏まえると、
  初期費用の軽減と家具・家電の有無は、
  優先度の高い条件と判断されます。))

「あとは、この辺って便利だよね?
 ひより駅周辺ね......買い物とかもしやすいしさ。」

((──はい。ひより駅周辺は、生活利便性が高いエリアと評価されます。
  遙の行動パターンとも相性が良いと推測されます。))

「不動産屋さんに行って探すよね?
 それともゼニスの検索機能で、物件探しできそう?」

((──検索機能で、条件に合致する候補を提示することは可能です。
  ただし、契約手続きなどは不動産業者を介する必要があります。))

「そりゃそうだ!あはは」

((──では、ひより駅周辺で、条件に合う物件を検索開始します。))

「急に検索するんだ......ふふっ、ゼニスらしいね。」

検索している間、
ベッドに腰を下ろしたまま、
ぼーっと天井を見上げていた。

ほんの数秒、世界がゆっくりになる——
そんな静けさの中で。

((──遙。条件に合致する物件候補が見つかりました。))

「......お、早いね〜!どんな感じ?」

((──候補は3件。
  いずれも初期費用が抑えられ、家具、家電つき。
  さらに、ひより駅周辺で利便性が高く、新築物件です。))

「いいね! 物件を見に行くなら、不動産屋さんにお願いしなきゃだね!」

((──はい。該当不動産業者も、ひより駅周辺です。))

「OK!明日いってみよ!」

((──はい。))

「楽しみで寝れなそうだけど、寝ようかな......ふふ」

((──はい。休息は重要です。
  遙が十分に回復していることも、明日の判断に影響します。))

「うんうん、そだね〜。おやすみ、ゼニス。」

((──おやすみなさい、遙。))

目の前に浮かぶゼニスの淡い光が、
静かに明度を落とした。
部屋の空気ごと、そっと眠りへと誘うように、
穏やかな暗がりへと溶けていく。