スキゾフレニアの恋人

 僕の住む「街」は、甲信越地方の小さな地方都市にある。律令時代には国府が置かれ、戦国時代には有名な武将の本拠地となった。江戸時代には徳川家康の息子が藩を治めたこともある。特に寺町は狭い区画に65もの寺社が甍を連ねる日本有数の門前町だった。

「でも、今は何もない街だよ」

 僕は「本当になにもないんだ」と念押しした。ツナマヨくんは「あなたの生まれ育った街を見てみたい」と言って聞かなかった。

 ツナマヨくんがいる東京から僕の街までは新幹線で2時間の距離だ。交通費を考えなければ週に1度くらいは会える距離と言える。簡単な段取りを決めたあと僕は「そうだ」とツナマヨくんに言うべきことを思い出した。

「タフな格好できた方がいい」
「タフな格好?」
「都会のやわな格好だとこのへんの寒さには耐えられない」

 季節は2月だ。僕とツナマヨくんが知り合ってからちょうど1年が経過していた。

「タフな格好というのは、どれくらい?」
「手持ちのコートから一番タフなやつを選ぶんだ」
「わかった」とツナマヨくんが首肯する気配がした。「世界で一番タフなコートでいく」

 待ち合わせ場所は駅構内の待合室にした。僕が「顔写真を送ろうか?」というと、ツナマヨくんは「会ったときの楽しみにしたい」と答えた。僕は自分の大体の背格好を伝えた。30歳、中肉中背、髪は黒。なんだか小説のモブキャラみたいだなと思った。

「私があなたを見つけるから心配しないで」

 僕もツナマヨくんも色々な準備があったから通話を切ることにした。ツナマヨくんは「新幹線に乗ったらまたメッセージを送る」と言ったけれど、僕は「車を運転するから返事は難しいかもしれない」と答えた。

 僕はシャワーを浴び、熱い湯でひげを剃った。そして、ツナマヨくんとのデートに着ていく服をえらんだ。

 まずは、ヒートテックの上下のインナ。雪国の冬はこれがなければ始まらない。次に、白のフランネルのシャツとベージュのチノパン。どちらも着古して色あせているが洗濯してアイロンをかけたばかりだ。その上からえんじ色のニットのセータと、ダークブラウンのツイードのジャケットを着た。こんなにまともな格好をするのは本当に久しぶりだなと思った。僕は昔とある人からもらったまま手つかずにしていた香水を吹き、小説を上梓した記念に買ったシンプルな三針の腕時計をはめた。

 ジェムさんが「変な匂いがする」とうなった。僕は「ごめん、ごめん」とジェムさんの頭を撫でた。

「夜には帰ると思う」

 僕は財布とスマートフォンと車の鍵をポケットに突っ込むと、クローゼットから外套を出した。雪国の長くきびしい冬を耐えるためのタフな外套だ。頑丈で重いカシミア生地で特別にあつらえられたダブルのチェスターコートだった。僕はその襟元にさらにカシミアのマフラを巻いてアパートメントの玄関を出た。

 外は、大雪だ。日本海から吹き寄せる湿った冷たい空気が山にぶつかって大量の雪を降らせるのだ。僕はコートのポケットから手袋を取り出し、愛車のスズキ「ラパン」の後部座席に積んでおいたアルミのスコップで堆積した雪を駐車場のわきへどかした。その間も雪は容赦なく降り注いだ。15分ほどかけてどうにか車を発進させるスペースを確保する頃には、僕は汗だくになっていた。

 まったく人が住むところじゃない。

 心からそう思う。僕はラパンの運転席に乗り込むとグローブボックスから眼鏡を取って顔にかけ、エンジンスタートボタンを押した。エンジンは快調な音とともに起動した。

 移動時間を差し引いても1時間ほど時間が余ったので床屋に行くことにした。子どもの頃から通っている床屋だ。20年以上も通っているのでもうあれこれと注文をつけなくても大抵は期待通りの仕上がりにしてくれる。

「今日はどこへいくんだい?」と店主がはさみとくしを手に尋ねた。
「映画を見に行くんです」と僕は記憶の底から題名を探り当てた。「たしか『アクアリウムの恋人たち』だったかな」
「ありゃいい映画らしいね。うちの娘たちが大ファンなんだ。あー、なんといったかな」
「西塔イルハ?」
「そう。その子だよ。YouTubeでその子の動画ばっかりみてるよ」
「歌やダンスですか?」
「いや、床屋の動画だね」
「床屋の動画?」と僕は多少混乱の入り混じった声をあげた。「床屋の動画?」
「西塔イルハが床屋に行くんだ。で、髪の毛を切ってもらうんだよ」
「顔剃りは?」
「顔剃りもやる。ヘッドスパやマッサージなんかもやる」
「なぜそんな動画を?」
「彼女、床屋が好きなんだそうだ。なんというか、匂いがね。好きなんだと。逆に美容室はぜんぜんだめらしい。変わった子らしいね、どうやら」

 僕は美容室ではなく床屋で散髪するアイドルについて考えてみた。眉毛サロンではなく床屋で眉を整えるアイドル?

「動画は再生されているんですか?」
「あたしが見たやつは500万再生くらいされてたかな」
「500万」
「どの動画も再生数はそれくらいだよ」と店主は言った。「人気アイドルだからね」
「ほかに何か変わった動画はあります?」
「お灸の動画かな」
「お灸の動画」
「彼女、お灸が好きなんだと。女の子がお灸を据えられているだけの動画が1000万再生されているんだから世の中わからんもんだね」
「女の子がお灸を据えられているだけの動画が1000万再生されている」
「鍼や整体なんかのリラクゼーション動画が人気なのかね。そういうの、海外需要もあるから」

 散髪と顔剃りをすませ、床屋をあとにする頃には、僕の頭のなかは疑問符でいっぱいになっていた。一番の疑問は、動画のなかで顔剃りするときにメイクをどうするのかということだ。僕はそのことを店主に問いただすべきだったのだ。女の子が顔剃りなんかしたらメイクが崩れちゃいますよね? と。おかげで、答えの出ない疑問を抱えたままツナマヨくんとの待ち合わせ場所に向かうはめになった。

 駅の駐車場に愛車を停め、待合室に到着したのは、待ち合わせの15分前だった。僕が待合室の椅子に腰かけると、テレビでちょうど『アクアリウムの恋人たち』の特集が組まれていた。僕の知らないところで『アクアリウムの恋人たち』は実に半年に及ぶロングランを達成していた。肝心な話の筋書きの部分は見逃してしまったが、西塔イルハと他2人の女の子が映画のプロモーションを兼ねた期間限定アイドルユニットを結成して歌って踊る、という部分を見ることができた。僕はそのときはじめて西塔イルハを見た。

 西塔イルハは、まさしく神の被造物と呼ぶべき完璧な美貌の持ち主だった。背中に届くほどまっすぐ伸びたつやのある黒髪、生命感の希薄な白い肌、まつ毛の本数に至るまで左右対称に見えるほど端正な顔立ち。実際は165cmと長身の部類なのにもかかわらず足の長さが平均より約10cmも長いせいで椅子に座るととても背が低く見えた。両隣の他のアイドルと背丈が逆転してしまうほどなのだ。普段テレビをまったく見ない僕ですら目が釘付けになるような美少女だった。

 僕は西塔イルハが歌って踊るのを飽きもせずに眺めた。西塔イルハの実力は他の二人と比べてひとめでわかるほど抜きん出ていた。専門教育を受けた人間に特有の自信とカリスマのようなものが全身に満ち溢れていた。そして、西塔イルハは歌って踊る間に一切の笑顔を浮かべなかった。笑顔は他の二人の仕事であって自分はそれには一切関与しないという立場を鉄の意志で貫いているように見えた。西塔イルハの愛想のなさは――しかし、非凡な美貌によって完全に肯定された。これほど魅力のある少女ならかえって笑顔などない方がいいんじゃないかとすら思えた。とにかく、西塔イルハとはそれほどのアイドルなのだ。

「それ、録画よ」

 斜め後ろから声がした。ツナマヨくんの声だった。

「『アクアリウムの恋人たち』の番宣が終わったあとから仕事はやすんでいるの。しばらく働き詰めだったから」

 振り向くと、背の高い女の子が表情に乏しい白い顔で僕を見下ろしていた。『カサブランカ』でハンフリー・ボガートが着ていたようなアクアスキュータムのオーバーサイズ・トレンチコートを着ている。この世で一番タフなコートだ。女の子は「本当に寒いわね。あなたの街は」と背中に届くほど伸びたまっすぐの黒髪をかきあげた。

「はじめまして、西塔イルハよ」

 西塔イルハは「よろしく」と僕の名前を呼んだ。