「もし誰かと会ってその人が実は精神疾患だとわかったら甲斐さんならどうしますか?」
僕が尋ねると、甲斐さんは「そうね」と僕の目線のやや上のあたりへ視線をさまよわせた。
「私はれっきとした社会人だから表立って態度を変えるということはしないと思う。実際、あなたにも今まで通り接しているでしょう? でも、これはあくまでもビジネスライクな付き合いだからよ。リスクとリターンを天秤にかけてリターンの割合が大きいからそうしているのに過ぎない」
「プライベートでは違う?」
「そりゃね。ただでさえあんな事件があったあとだもの。あなたの病気に対する世間の評判は芳しくないわよ」
僕は「そうですよね」と首肯した。甲斐さんは「誰か会いに行きたい人ができたんだ?」と僕の顔をにやつきながら見た。僕は「そんなんじゃないですよ」と首を振った。
駅前のホテルラウンジには相変わらず仕事の打ち合わせをするサラリーマンと赤いジャケットの男の姿があった。僕と甲斐さんはコーヒーを飲みながら近況報告をしあった。甲斐さんは編集長の座がいよいよ見えてきたと語った。僕は「すごい」と言った。すごいとしか言いようがない。甲斐さんの出版社は10年前とはもう別の会社と言ってよかった。出版不況を跳ね返すほどの急成長の裏にはつねに甲斐さんの影が見え隠れしていた。
甲斐さんは類まれな嗅覚を備えた編集者だ。いま何が売れるのかを把握してどうすれば売れる本が作れるのかを理解している。しかし、残念ながら彼女自身に創作の才能はない。少し話せばわかる。甲斐さんには作家も顔負けの技術論はあっても肝心要の「つくりたいもの」がないのだ。
「たまにね、自分でも原稿に向かってみるのよ。ためしにね。でも、書くことが何も思いつかないの。本当に『何も』書くことがないのよ。私って本当に作家には向いていないのね」
甲斐さんの技術論は完璧だったが結局はそれも誰かの受け売りにすぎなかった。実用書を出しても誰かの二番煎じで終わるだけよ、と甲斐さんは笑った。とにかく「自分には作家の才能がない」というのが甲斐さんの口癖だった。
「そういえば、西塔イルハというアイドルを知っている?」
僕が「西塔イルハ?」と尋ね返すと、甲斐さんは「相変わらず邦画とテレビには興味がないのね、あなた」と呆れた顔で僕を見た。
「話題の人気アイドルよ。アイドルというか、今ではほとんど女優ね。事務所のプロモーション戦略で最初はアイドルとして売り出したんだけれど、関係者に名前が知れるとすぐに映画女優として頭角をあらわし始めた。日本アカデミー賞の主演女優賞を初主演で獲ったりね。でも、今でも歌って踊れるアイドルであることに変わりはない。彼女、ブロードウェイ出身のミュージカル俳優だもの」
「ブロードウェイ?」
「帰国子女って話よ。興味出てきた?」
正直に言えば、西塔イルハに対する興味はぜんぜんないに等しかった。ツナマヨくんの好きな俳優であるクリストファー・ウォーケンがそういえばブロードウェイ出身のミュージカル俳優だったな、ということに思い当たっただけだ。
甲斐さんは仕事の話だからか実に楽しそうに西塔イルハについて語った。
西塔イルハは、日本のアイドル、女優だ。2008年生まれ。所属事務所はゾーラギ。アメリカのニューヨーク州生まれ。6歳の頃に現地のサマープログラムに参加したのをきっかけに演技を学び始める。以後、子役として主にブロードウェイ・ミュージカルで活躍。天才子役として名を馳せる。15歳で母親の再婚にともなって日本へ移住後は、ゾーラギからアイドルグループ『Pale Chrysalis』のメンバーとしてデビューした。同年にはライト文芸を原作とする恋愛映画『星屑シンドローム』で日本アカデミー賞主演女優賞最優秀賞を獲得。Pale Chrysalisが歌った同名の主題歌はYouTubeで1億再生を突破した。その後、多忙を理由にPale Chrysalisを卒業。活動の軸足を女優に移す。現在、YouTubeのチャンネル登録者数は1300万人。
甲斐さんは「今度、西塔イルハの半生を綴った自叙伝を出版社から刊行する予定なのよ」と僕に語った。担当編集は自分ではないが、腕の確かな編集者だからきっといいものになる。自分も彼女の出る映画は毎回観るし、来週封切りの新作も楽しみだ。とか、そんなことを。
「西塔イルハの主演映画はどんなものがあるんですか?」と僕は一応尋ねてみた。
「おおむねいわゆるライト文芸の映画化ね。西塔イルハはいつも主人公と恋に落ちるちょっと変わった女の子なの。彼女は綺麗で儚くて、そして、」
「なんやかんやあって最後には死んでしまう」と僕はうんざりと答えた。「相変わらず映画の趣味がベタですね」
「ベタが結局一番売れるのよ。私は、いま売れる作品は何か? というのを知るために映画を観ているんだから」
でも、と甲斐さんは続けた。
「実際、西塔イルハは天才よ。あの美貌とあのスタイルで演技も完璧なんだから同年代の仕事を全部奪ってしまったのも頷けるわ」
「何歳なんですか」
「17歳よ」
僕は「17歳」と繰り返した。僕が17歳の頃は映画に夢中だった。DVDのレンタルショップでまとめて借りたDVDをPS2で一日中再生していたものだ。西塔イルハにはそんな普通の10代としての生き方が許されているのだろうかと僕は少し心配になった。
「今度、よかったら西塔イルハの映画を観てみたら?」
僕は「考えておきます」と気のない返事をした。とにかく、僕は邦画とテレビを観ない人間なのだ。
僕は帰り道の途中にあるドラッグストアで猫の缶詰と一緒に歯ブラシや石鹸など細々した日用品を買い込んだ。僕はジェムさんにはなるべくいいものを食べさせてあげることにしていた。ジェムさんは奴隷ではない。いいものを食べる当然の権利があるのだ。ジェムさんの顔を思い浮かべて「おれよりいいもん食ってるよな」と独りごちながら、僕は甲斐さんと最初にした話の内容を反芻した。
あなたの病気に対する世間の評判は芳しくないわよ。
僕は「それはそうだ」と思う。あんな事件があったあとなのだ。僕はツナマヨくんが僕の病気を知ったらどう思うだろうと思った。甲斐さんは「私は社会人だから表立って態度を変えるということはしないと思う」と言った。ツナマヨくんも表向きは態度を変えないかもしれない。しかし、知る前と知ったあとでは何かが変わってしまうことは確実だった。
問題は、僕がツナマヨくんと仲良くなれてしまうことにあるのだ。今よりもっと深い関係になることもおそらくできる。そうなったあとでもし拒絶されたらと思うと僕は怖かった。これ以上先に進むのは無理だと思った。
保留。
ツナマヨくんが一番嫌いなことだ。僕はそのうちしびれを切らしたツナマヨくんに捨てられてしまうのかもしれない。そう考えるのもいやだった。僕はため息をついた。
「人生はままならないものだね」
僕はアパートメントに帰宅したあとジェムさんに語りかけた。ジェムさんは「そのままならなさを楽しむのさ」と言った。相変わらずクールだな、と思った。
「ジェムさんはこの家にいて満足?」
「ぼくはいまも旅人だよ」
「そう?」
「いまはちょっとより道しているだけなのさ」
「そういう考え方もあるのかもしれないね」
ジェムさんは「そうなのさ」とあくびをした。
僕が尋ねると、甲斐さんは「そうね」と僕の目線のやや上のあたりへ視線をさまよわせた。
「私はれっきとした社会人だから表立って態度を変えるということはしないと思う。実際、あなたにも今まで通り接しているでしょう? でも、これはあくまでもビジネスライクな付き合いだからよ。リスクとリターンを天秤にかけてリターンの割合が大きいからそうしているのに過ぎない」
「プライベートでは違う?」
「そりゃね。ただでさえあんな事件があったあとだもの。あなたの病気に対する世間の評判は芳しくないわよ」
僕は「そうですよね」と首肯した。甲斐さんは「誰か会いに行きたい人ができたんだ?」と僕の顔をにやつきながら見た。僕は「そんなんじゃないですよ」と首を振った。
駅前のホテルラウンジには相変わらず仕事の打ち合わせをするサラリーマンと赤いジャケットの男の姿があった。僕と甲斐さんはコーヒーを飲みながら近況報告をしあった。甲斐さんは編集長の座がいよいよ見えてきたと語った。僕は「すごい」と言った。すごいとしか言いようがない。甲斐さんの出版社は10年前とはもう別の会社と言ってよかった。出版不況を跳ね返すほどの急成長の裏にはつねに甲斐さんの影が見え隠れしていた。
甲斐さんは類まれな嗅覚を備えた編集者だ。いま何が売れるのかを把握してどうすれば売れる本が作れるのかを理解している。しかし、残念ながら彼女自身に創作の才能はない。少し話せばわかる。甲斐さんには作家も顔負けの技術論はあっても肝心要の「つくりたいもの」がないのだ。
「たまにね、自分でも原稿に向かってみるのよ。ためしにね。でも、書くことが何も思いつかないの。本当に『何も』書くことがないのよ。私って本当に作家には向いていないのね」
甲斐さんの技術論は完璧だったが結局はそれも誰かの受け売りにすぎなかった。実用書を出しても誰かの二番煎じで終わるだけよ、と甲斐さんは笑った。とにかく「自分には作家の才能がない」というのが甲斐さんの口癖だった。
「そういえば、西塔イルハというアイドルを知っている?」
僕が「西塔イルハ?」と尋ね返すと、甲斐さんは「相変わらず邦画とテレビには興味がないのね、あなた」と呆れた顔で僕を見た。
「話題の人気アイドルよ。アイドルというか、今ではほとんど女優ね。事務所のプロモーション戦略で最初はアイドルとして売り出したんだけれど、関係者に名前が知れるとすぐに映画女優として頭角をあらわし始めた。日本アカデミー賞の主演女優賞を初主演で獲ったりね。でも、今でも歌って踊れるアイドルであることに変わりはない。彼女、ブロードウェイ出身のミュージカル俳優だもの」
「ブロードウェイ?」
「帰国子女って話よ。興味出てきた?」
正直に言えば、西塔イルハに対する興味はぜんぜんないに等しかった。ツナマヨくんの好きな俳優であるクリストファー・ウォーケンがそういえばブロードウェイ出身のミュージカル俳優だったな、ということに思い当たっただけだ。
甲斐さんは仕事の話だからか実に楽しそうに西塔イルハについて語った。
西塔イルハは、日本のアイドル、女優だ。2008年生まれ。所属事務所はゾーラギ。アメリカのニューヨーク州生まれ。6歳の頃に現地のサマープログラムに参加したのをきっかけに演技を学び始める。以後、子役として主にブロードウェイ・ミュージカルで活躍。天才子役として名を馳せる。15歳で母親の再婚にともなって日本へ移住後は、ゾーラギからアイドルグループ『Pale Chrysalis』のメンバーとしてデビューした。同年にはライト文芸を原作とする恋愛映画『星屑シンドローム』で日本アカデミー賞主演女優賞最優秀賞を獲得。Pale Chrysalisが歌った同名の主題歌はYouTubeで1億再生を突破した。その後、多忙を理由にPale Chrysalisを卒業。活動の軸足を女優に移す。現在、YouTubeのチャンネル登録者数は1300万人。
甲斐さんは「今度、西塔イルハの半生を綴った自叙伝を出版社から刊行する予定なのよ」と僕に語った。担当編集は自分ではないが、腕の確かな編集者だからきっといいものになる。自分も彼女の出る映画は毎回観るし、来週封切りの新作も楽しみだ。とか、そんなことを。
「西塔イルハの主演映画はどんなものがあるんですか?」と僕は一応尋ねてみた。
「おおむねいわゆるライト文芸の映画化ね。西塔イルハはいつも主人公と恋に落ちるちょっと変わった女の子なの。彼女は綺麗で儚くて、そして、」
「なんやかんやあって最後には死んでしまう」と僕はうんざりと答えた。「相変わらず映画の趣味がベタですね」
「ベタが結局一番売れるのよ。私は、いま売れる作品は何か? というのを知るために映画を観ているんだから」
でも、と甲斐さんは続けた。
「実際、西塔イルハは天才よ。あの美貌とあのスタイルで演技も完璧なんだから同年代の仕事を全部奪ってしまったのも頷けるわ」
「何歳なんですか」
「17歳よ」
僕は「17歳」と繰り返した。僕が17歳の頃は映画に夢中だった。DVDのレンタルショップでまとめて借りたDVDをPS2で一日中再生していたものだ。西塔イルハにはそんな普通の10代としての生き方が許されているのだろうかと僕は少し心配になった。
「今度、よかったら西塔イルハの映画を観てみたら?」
僕は「考えておきます」と気のない返事をした。とにかく、僕は邦画とテレビを観ない人間なのだ。
僕は帰り道の途中にあるドラッグストアで猫の缶詰と一緒に歯ブラシや石鹸など細々した日用品を買い込んだ。僕はジェムさんにはなるべくいいものを食べさせてあげることにしていた。ジェムさんは奴隷ではない。いいものを食べる当然の権利があるのだ。ジェムさんの顔を思い浮かべて「おれよりいいもん食ってるよな」と独りごちながら、僕は甲斐さんと最初にした話の内容を反芻した。
あなたの病気に対する世間の評判は芳しくないわよ。
僕は「それはそうだ」と思う。あんな事件があったあとなのだ。僕はツナマヨくんが僕の病気を知ったらどう思うだろうと思った。甲斐さんは「私は社会人だから表立って態度を変えるということはしないと思う」と言った。ツナマヨくんも表向きは態度を変えないかもしれない。しかし、知る前と知ったあとでは何かが変わってしまうことは確実だった。
問題は、僕がツナマヨくんと仲良くなれてしまうことにあるのだ。今よりもっと深い関係になることもおそらくできる。そうなったあとでもし拒絶されたらと思うと僕は怖かった。これ以上先に進むのは無理だと思った。
保留。
ツナマヨくんが一番嫌いなことだ。僕はそのうちしびれを切らしたツナマヨくんに捨てられてしまうのかもしれない。そう考えるのもいやだった。僕はため息をついた。
「人生はままならないものだね」
僕はアパートメントに帰宅したあとジェムさんに語りかけた。ジェムさんは「そのままならなさを楽しむのさ」と言った。相変わらずクールだな、と思った。
「ジェムさんはこの家にいて満足?」
「ぼくはいまも旅人だよ」
「そう?」
「いまはちょっとより道しているだけなのさ」
「そういう考え方もあるのかもしれないね」
ジェムさんは「そうなのさ」とあくびをした。
