シャワーを浴び、シェービングジェルをたっぷり使ってひげを剃った。風呂の鏡に反射した自分は「狼」の顔をしていた。狼は「準備は大事だぜ、相棒」と言った。その通りだと思った。何事も準備は大事だ。
僕は黒のタートルネックにダークブラウンのセットアップスーツという格好をすると、髪の毛をジェルで丁寧に整えた。警察に職務質問を受けるのは大抵の場合は身だしなみが問題なのだ。僕はジャケットの内ポケットにマネークリップを、ズボンにスマートフォンと車の鍵を入れた。そして、デスクの引き出しの一番奥からナイフを取り出した。
全長20cmのナイフだ。フルタング構造。把手は木製。刃長10cmは言うまでもなく銃刀法違反だった。僕はブリーフケースにラップトップと適当な本を詰めるとナイフを一緒に放り込んだ。
準備が終わるとスマートフォンの配車アプリケーションでタクシーを呼んだ。タクシーの到着を待つ間にハムとチーズのサンドイッチをつくって小腹を満たした。タクシーは20分後に到着した。僕はイルハくんの高級マンションの最寄り駅の名前をタクシーの運転手に伝えた。タクシーの運転手はカーナビゲーションに駅の名前を入力すると「東京の?」と僕に尋ねた。僕は無言で首肯した。
東京までの4時間、僕はタクシーの後部座席で狼と話し込んだ。狼の話は最終的には「誰もあんたを愛さない」「西塔イルハは嘘つきだ」という部分に終始した。僕も狼の話に納得した。誰も僕を愛さない。西塔イルハは嘘つきだ。
タクシーの運転手がときどきバックミラー越しに僕の顔を見た。誰もいないはずの後部座席でずっと話し込んでいる僕を不気味に思っているのはあきらかだった。とはいえ、タクシーの運転手はそれ以上なにか積極的に僕にかかわってくるということもなかった。
タクシーが目的地の駅に到着する頃には、深夜の3時になっていた。僕はスマートフォンの地図アプリケーションにイルハくんの住所を入力するとそれを頼りに夜道を歩いた。
閑静な住宅街の一角にそのマンションはあった。高所得者向けの低層高級マンションだ。僕はスマートフォンをズボンのポケットにしまうとインターホンでイルハくんの部屋の番号を押した。もう一度押した。三度目に押したところでイルハくんの「はい」という声が聞こえた。僕は自分の名前を名乗った。イルハくんは「入って」と玄関のオートロックを解除した。僕は瀟洒な玄関からエレベータに乗り込むとイルハくんの部屋がある3階のボタンを押した。エレベータは真新しく駆動音も静かだった。僕はブリーフケースからナイフを取り出して右手に握った。エレベータが3階に到着するとイルハくんの部屋番号が印字された表札があった。僕はそのインターホンを押した。
ドアが開く音がした。
イルハくんは、ジェラートピケのワンピース姿で「いらっしゃい」と僕を出迎えた。僕は「やあ」と言った。イルハくんは僕の右手にあるナイフへそっと視線を落とした。僕の背後でドアが閉まった。
「それで」とイルハくんは自分を抱きしめるような格好をした。「私を殺しにきたの?」
「僕はただきみの嘘を暴きにだけだ」
「私、なにも嘘なんかついてない」
狼が「また嘘をついてやがる」と僕の耳元でささやいた。僕は頷いた。イルハくんは僕の動きを目で追った。
「狼がいるのね」
「狼は僕のそばにずっといる」
「どんなことを話しかけてくるの」
「そんなことはどうでもいい」
イルハくんは「そう」と目を伏せた。そして、首を振った。
「なぜ私が嘘つきだと思うの?」
「狼がそういうんだ」
「狼のいうことを信じるの?」
「狼のいうことは絶対なんだ」と僕は言った。「僕はきみのことを嘘つきだなんて思わない。だって理屈に合わない。でも狼がいうことは絶対だ。狼が嘘つきだというならきみは嘘つきなんだ」
イルハくんは僕の言葉を吟味するようにしばらく黙り込んだ。僕のナイフを持つ手はときどき小刻みに震えた。
「狼は何を根拠にあなたが誰からも愛されないだなんて極端なことをいうの?」
僕は「わからない」と答えた。すると、狼は「わからない?」と僕をあざけった。
「わからなくなんかない。理由は誰の目にもあきらかだ。明々白々だよ。話してやれ」
僕は「いやだ」と首を振った。狼は「話すんだよ」と言った。イルハくんは僕の挙動をただ黙って見つめていた。
「僕は」
僕は生唾を呑み込んだ。耳の奥でひどくおおきな音がした。
「僕は、両親を殺したからだ」
イルハくんが「ご両親を?」と怪訝な顔をした。
「あなたが殺したの?」
「僕が殺した」
「警察に捕まった?」
「いや」と僕は首を振った。「警察は僕の仕業だと気づかなかった。そもそも、実行犯も僕ではないんだ」
「実行犯はあなたではない?」
僕は「詳しく説明するよ」と言った。
「子供の頃、僕は母親に監禁されていたんだ。家の外に出してもらえなかった。僕の病気が表沙汰になるのをいやがったんだ。僕は食事や水も与えられなかった。母親の目を盗んで残飯を食べ漁りトイレの水を飲んで渇きをいやしていた」
「トイレの水?」
「台所や洗面台を使うと怒られたんだ。僕が飲める水はトイレの水に限られていた。母親は僕を積極的に殺すつもりはなかったけれど生かすつもりもなかった。育児放棄したんだ。僕の気分にはむらがあるという話はしたよね」
「ええ、統合失調症とは別にそういう症状があるという話はされた」
「それは、このときの経験のせいだ。母親の仕打ちに対する怒りと憎しみが僕をたまにどうしようもないほど苛立たせるんだ。主治医は長年に渡る虐待で感情を制御する前頭葉の機能が壊れてしまったんだと僕に言った。怒りの感情のブレーキが効かなくなってしまったんだ。母親に壊された。あのクソ女に」
「それで」とイルハくんは促した。「殺したの? お母様を」
「あんな女は殺されて当然のカスだが」と僕は言った。「でも、僕はもちろんリスクとリターンを考えていた。だから、自分の手を汚す必要はないと考えていた。
僕はね、父さんにお願いしたんだよ。
ある日、いつも通り僕をどうにか助け出そうとしている父さんのところに僕は母親の目を盗んで近づいたんだ。僕は話した。もう何年も満足にご飯を食べていないこと。トイレの水しか飲ませてもらえないこと。心も体もどんどんおかしくなっていること。
直接『殺せ』とは言わなかった。でも、父さんは僕の言葉の裏にある思惑をきちんと理解してくれた。僕と一緒に家に帰った父さんは、家の包丁で母親をめった刺しにして殺してくれた。僕はそれをそばで笑いながら見ていたんだ。すごく楽しかった。ざまあないと思った。
『いいぞ、父さん! もっとやっちゃえ!』
僕は狂ったように叫び続けた。母親の息の根が完全に止まると、父さんは僕の頭を優しく撫でてくれた。誰かにそんな風に頭を撫でてもらったのは久しぶりの経験だった。父さんは言った。おれはいつでもおまえの味方だぞ、ってね」
イルハくんは「お父様は?」と僕に尋ねた。僕は首を振った。
「死んだよ。拘置所で首を吊ったんだ。両親が死んだあと僕は親戚の家に引き取られた」
僕はね、と僕は言った。
「僕は、父さんが正常な判断ができない状態なのをよく知っていたんだ。あんなことを言えば母親をどうするかもきちんと理解していた。僕は両親を殺したんだ。僕はそういう人間なんだ」
イルハくんはしばらく目を閉じていた。くらやみのなかから何かを探し出そうとするみたいに。それから、ゆっくりと目をひらいた。
「あなたが殺したわけではない」
「僕が殺したんだ」
「あなたはお父様に助けを求めたのよ。子どもとして当たり前のことだわ」
「でも結果として死んだ」
「あなたがなにか悪いことをしたわけではない。しいていえば、めぐりあわせが悪かったのよ」
イルハくんは一歩僕に近づいた。僕はナイフの切っ先をイルハくんに向けたままあとずさった。
「私、あなたのこと好きよ」
「嘘だ。あのクソ女もそう言って僕に便所の水を飲ませたんだ。女は全部クソだ。クソの万国博覧会だ」
僕の背中が玄関のドアに当たった。僕は両手でナイフを握り直した。狼が耳元で「殺せ」と言った。
「あのクソ女と同じ目にあわせてやれ」
僕の頭のなかは混乱しきっていた。おれはなぜナイフなんか持ってイルハくんのマンションにいるのだ? なぜ過去の打ち明け話など始めてしまったのだ? なぜイルハくんは僕を怖がらないのだ?
「私を殺したい?」
「わ、わからない。わからない」
「大丈夫よ」
ナイフの切っ先がイルハくんのお腹に当たった。狼が「殺せ! やれ!」と耳元で叫んだ。僕はぎゅっと目を閉じた。僕はいったいどうすればいいのだ?
僕はいったいどうすれば……。
「大丈夫、目を開けて」とイルハくんが言った。「なにも心配しなくていいのよ」
僕は恐る恐る目を開いた。イルハくんの色素の薄い瞳が僕の顔をまっすぐ見つめていた。僕は唇を震わせた。イルハくんのジェラートピケのワンピースから玄関の床に向かって血が滴っていた。ナイフはその刃の半ばまでイルハくんの体に突き刺さっていた。狼が息を呑む気配がした。
「怖いことがあったのね。でも、大丈夫よ。大丈夫」とイルハくんは僕を抱きしめた。そして、ぎこちなく微笑んだ。「あなたのなにもかもが好きよ」
僕の目から涙がこぼれた。悲しいからでも嬉しいからでもなかった。僕はどうしたらいいのかわからなくなってしまったのだ。イルハくんは青ざめた顔をして気を失ってしまった。僕はナイフの突き立った彼女の体を支えながら「どうしよう、どうしよう」と子どものように涙を流し続けた。
「救急車だ、救急車を呼べ!」
狼が僕の耳元で何度も叫んだ。救急車を呼べ。その子が死ぬぞ。救急車を呼ぶんだ。
僕は泣き続けた。いったいどうすればいいのかなにもわからなかった。
僕は黒のタートルネックにダークブラウンのセットアップスーツという格好をすると、髪の毛をジェルで丁寧に整えた。警察に職務質問を受けるのは大抵の場合は身だしなみが問題なのだ。僕はジャケットの内ポケットにマネークリップを、ズボンにスマートフォンと車の鍵を入れた。そして、デスクの引き出しの一番奥からナイフを取り出した。
全長20cmのナイフだ。フルタング構造。把手は木製。刃長10cmは言うまでもなく銃刀法違反だった。僕はブリーフケースにラップトップと適当な本を詰めるとナイフを一緒に放り込んだ。
準備が終わるとスマートフォンの配車アプリケーションでタクシーを呼んだ。タクシーの到着を待つ間にハムとチーズのサンドイッチをつくって小腹を満たした。タクシーは20分後に到着した。僕はイルハくんの高級マンションの最寄り駅の名前をタクシーの運転手に伝えた。タクシーの運転手はカーナビゲーションに駅の名前を入力すると「東京の?」と僕に尋ねた。僕は無言で首肯した。
東京までの4時間、僕はタクシーの後部座席で狼と話し込んだ。狼の話は最終的には「誰もあんたを愛さない」「西塔イルハは嘘つきだ」という部分に終始した。僕も狼の話に納得した。誰も僕を愛さない。西塔イルハは嘘つきだ。
タクシーの運転手がときどきバックミラー越しに僕の顔を見た。誰もいないはずの後部座席でずっと話し込んでいる僕を不気味に思っているのはあきらかだった。とはいえ、タクシーの運転手はそれ以上なにか積極的に僕にかかわってくるということもなかった。
タクシーが目的地の駅に到着する頃には、深夜の3時になっていた。僕はスマートフォンの地図アプリケーションにイルハくんの住所を入力するとそれを頼りに夜道を歩いた。
閑静な住宅街の一角にそのマンションはあった。高所得者向けの低層高級マンションだ。僕はスマートフォンをズボンのポケットにしまうとインターホンでイルハくんの部屋の番号を押した。もう一度押した。三度目に押したところでイルハくんの「はい」という声が聞こえた。僕は自分の名前を名乗った。イルハくんは「入って」と玄関のオートロックを解除した。僕は瀟洒な玄関からエレベータに乗り込むとイルハくんの部屋がある3階のボタンを押した。エレベータは真新しく駆動音も静かだった。僕はブリーフケースからナイフを取り出して右手に握った。エレベータが3階に到着するとイルハくんの部屋番号が印字された表札があった。僕はそのインターホンを押した。
ドアが開く音がした。
イルハくんは、ジェラートピケのワンピース姿で「いらっしゃい」と僕を出迎えた。僕は「やあ」と言った。イルハくんは僕の右手にあるナイフへそっと視線を落とした。僕の背後でドアが閉まった。
「それで」とイルハくんは自分を抱きしめるような格好をした。「私を殺しにきたの?」
「僕はただきみの嘘を暴きにだけだ」
「私、なにも嘘なんかついてない」
狼が「また嘘をついてやがる」と僕の耳元でささやいた。僕は頷いた。イルハくんは僕の動きを目で追った。
「狼がいるのね」
「狼は僕のそばにずっといる」
「どんなことを話しかけてくるの」
「そんなことはどうでもいい」
イルハくんは「そう」と目を伏せた。そして、首を振った。
「なぜ私が嘘つきだと思うの?」
「狼がそういうんだ」
「狼のいうことを信じるの?」
「狼のいうことは絶対なんだ」と僕は言った。「僕はきみのことを嘘つきだなんて思わない。だって理屈に合わない。でも狼がいうことは絶対だ。狼が嘘つきだというならきみは嘘つきなんだ」
イルハくんは僕の言葉を吟味するようにしばらく黙り込んだ。僕のナイフを持つ手はときどき小刻みに震えた。
「狼は何を根拠にあなたが誰からも愛されないだなんて極端なことをいうの?」
僕は「わからない」と答えた。すると、狼は「わからない?」と僕をあざけった。
「わからなくなんかない。理由は誰の目にもあきらかだ。明々白々だよ。話してやれ」
僕は「いやだ」と首を振った。狼は「話すんだよ」と言った。イルハくんは僕の挙動をただ黙って見つめていた。
「僕は」
僕は生唾を呑み込んだ。耳の奥でひどくおおきな音がした。
「僕は、両親を殺したからだ」
イルハくんが「ご両親を?」と怪訝な顔をした。
「あなたが殺したの?」
「僕が殺した」
「警察に捕まった?」
「いや」と僕は首を振った。「警察は僕の仕業だと気づかなかった。そもそも、実行犯も僕ではないんだ」
「実行犯はあなたではない?」
僕は「詳しく説明するよ」と言った。
「子供の頃、僕は母親に監禁されていたんだ。家の外に出してもらえなかった。僕の病気が表沙汰になるのをいやがったんだ。僕は食事や水も与えられなかった。母親の目を盗んで残飯を食べ漁りトイレの水を飲んで渇きをいやしていた」
「トイレの水?」
「台所や洗面台を使うと怒られたんだ。僕が飲める水はトイレの水に限られていた。母親は僕を積極的に殺すつもりはなかったけれど生かすつもりもなかった。育児放棄したんだ。僕の気分にはむらがあるという話はしたよね」
「ええ、統合失調症とは別にそういう症状があるという話はされた」
「それは、このときの経験のせいだ。母親の仕打ちに対する怒りと憎しみが僕をたまにどうしようもないほど苛立たせるんだ。主治医は長年に渡る虐待で感情を制御する前頭葉の機能が壊れてしまったんだと僕に言った。怒りの感情のブレーキが効かなくなってしまったんだ。母親に壊された。あのクソ女に」
「それで」とイルハくんは促した。「殺したの? お母様を」
「あんな女は殺されて当然のカスだが」と僕は言った。「でも、僕はもちろんリスクとリターンを考えていた。だから、自分の手を汚す必要はないと考えていた。
僕はね、父さんにお願いしたんだよ。
ある日、いつも通り僕をどうにか助け出そうとしている父さんのところに僕は母親の目を盗んで近づいたんだ。僕は話した。もう何年も満足にご飯を食べていないこと。トイレの水しか飲ませてもらえないこと。心も体もどんどんおかしくなっていること。
直接『殺せ』とは言わなかった。でも、父さんは僕の言葉の裏にある思惑をきちんと理解してくれた。僕と一緒に家に帰った父さんは、家の包丁で母親をめった刺しにして殺してくれた。僕はそれをそばで笑いながら見ていたんだ。すごく楽しかった。ざまあないと思った。
『いいぞ、父さん! もっとやっちゃえ!』
僕は狂ったように叫び続けた。母親の息の根が完全に止まると、父さんは僕の頭を優しく撫でてくれた。誰かにそんな風に頭を撫でてもらったのは久しぶりの経験だった。父さんは言った。おれはいつでもおまえの味方だぞ、ってね」
イルハくんは「お父様は?」と僕に尋ねた。僕は首を振った。
「死んだよ。拘置所で首を吊ったんだ。両親が死んだあと僕は親戚の家に引き取られた」
僕はね、と僕は言った。
「僕は、父さんが正常な判断ができない状態なのをよく知っていたんだ。あんなことを言えば母親をどうするかもきちんと理解していた。僕は両親を殺したんだ。僕はそういう人間なんだ」
イルハくんはしばらく目を閉じていた。くらやみのなかから何かを探し出そうとするみたいに。それから、ゆっくりと目をひらいた。
「あなたが殺したわけではない」
「僕が殺したんだ」
「あなたはお父様に助けを求めたのよ。子どもとして当たり前のことだわ」
「でも結果として死んだ」
「あなたがなにか悪いことをしたわけではない。しいていえば、めぐりあわせが悪かったのよ」
イルハくんは一歩僕に近づいた。僕はナイフの切っ先をイルハくんに向けたままあとずさった。
「私、あなたのこと好きよ」
「嘘だ。あのクソ女もそう言って僕に便所の水を飲ませたんだ。女は全部クソだ。クソの万国博覧会だ」
僕の背中が玄関のドアに当たった。僕は両手でナイフを握り直した。狼が耳元で「殺せ」と言った。
「あのクソ女と同じ目にあわせてやれ」
僕の頭のなかは混乱しきっていた。おれはなぜナイフなんか持ってイルハくんのマンションにいるのだ? なぜ過去の打ち明け話など始めてしまったのだ? なぜイルハくんは僕を怖がらないのだ?
「私を殺したい?」
「わ、わからない。わからない」
「大丈夫よ」
ナイフの切っ先がイルハくんのお腹に当たった。狼が「殺せ! やれ!」と耳元で叫んだ。僕はぎゅっと目を閉じた。僕はいったいどうすればいいのだ?
僕はいったいどうすれば……。
「大丈夫、目を開けて」とイルハくんが言った。「なにも心配しなくていいのよ」
僕は恐る恐る目を開いた。イルハくんの色素の薄い瞳が僕の顔をまっすぐ見つめていた。僕は唇を震わせた。イルハくんのジェラートピケのワンピースから玄関の床に向かって血が滴っていた。ナイフはその刃の半ばまでイルハくんの体に突き刺さっていた。狼が息を呑む気配がした。
「怖いことがあったのね。でも、大丈夫よ。大丈夫」とイルハくんは僕を抱きしめた。そして、ぎこちなく微笑んだ。「あなたのなにもかもが好きよ」
僕の目から涙がこぼれた。悲しいからでも嬉しいからでもなかった。僕はどうしたらいいのかわからなくなってしまったのだ。イルハくんは青ざめた顔をして気を失ってしまった。僕はナイフの突き立った彼女の体を支えながら「どうしよう、どうしよう」と子どものように涙を流し続けた。
「救急車だ、救急車を呼べ!」
狼が僕の耳元で何度も叫んだ。救急車を呼べ。その子が死ぬぞ。救急車を呼ぶんだ。
僕は泣き続けた。いったいどうすればいいのかなにもわからなかった。
