スキゾフレニアの恋人

 その日の夜の通話で僕とイルハくんは『ヘッド・オブ・ステイト』を観た。2025年公開のアクション・コメディ映画だ。イドリス・エルバとジョン・シナの豪華ダブル主演。イリヤ・ナイシュラ監督のコメディセンスが光る傑作だ。しかし、主演二人の軽妙なかけあいに反して、僕らの会話が弾むことはなかった。僕もイルハくんもほとんど黙ったまま映画を観た。耐え難い時間だった。しかし、まず映画を観て「それから」というのでなければ僕は到底イルハくんに話を切り出すことはできないと思った。

 僕は映画を観終わるとショットグラスにウォッカを注いで立て続けに2杯飲んだ。イルハくんは「そんなに飲んで大丈夫?」と僕に尋ねた。僕は「どうかな」と答えた。

「具合でも悪いの?」
「よくはない」
「今日はもう休む?」

 僕は「いや」と首を振った。イルハくんは「でも」と何かを言いかけた。僕は「イルハくん」とその言葉をさえぎって名前を呼んだ。

「五反田亮一と付き合っているの?」

 スマートフォンの画面から沈黙が伝わってきた。僕は沈黙の雄弁さを痛感せざるを得なかった。ややあって、イルハくんは「なぜそんなことを聞くの?」と尋ねた。僕は今朝のことを話した。

「きみは、僕を五反田亮一のスケープゴートにした、と佐伯さんは言った」

 イルハくんは「考えを整理するから少し待って」と言った。僕は「もちろん」と答えた。そして、ウォッカをまた一杯飲んだ。

「まず、私が五反田くんと付き合っているかどうかだけれど」
「うん」
「付き合ってはいない」
「付き合ってはいない」
「わかるでしょう?」とイルハくんは抑揚のない声で言った。「そういうことをするだけの関係よ」
「きみはだれとでもそういうことをするという話だ」
「ええ、だれとでもする。寂しさを紛らわせるために」
「妊娠も?」
「最初はみんな避妊してくれるの。でも、だんだんね。私はべつにどうだってよかった。堕ろせばいい話だから」
「どうしてそんなに自分を安売りしなくちゃならないんだろう?」
「お金は取っていない」とイルハくんは的はずれな注釈を入れた。「やさしくして欲しかったのよ。誰でもいいから。だから、べつに五反田くんである必要はなかった。プロデューサでも、映画監督でも、作曲家でも、カメラマンでも、俳優でも、だれでもよかった」
「僕でも?」
「あなたは違う」とイルハくんは語気を強くした。
「でもきみは僕と寝ながら五反田亮一とも寝ていた」
「べつにあなたとも恋人というわけではないし」とイルハくんが首を振る気配がした。「でも、五反田くんとはだんだんうまくいかなくなった。抱かれても楽しくなかったの。だから、関係を解消した。向こうもべつに私に本気というわけではなかった」
「なぜうまくいかなくなったんだろう?」
「あなたが好きになったから」とイルハくんは言った。「私、今まで人を好きになったことってなかった。寂しさを紛らわせられるなら誰でもよかった。でもそんな気持ちで男に抱かれてもむなしいだけだった。あなたとしたあと、はじめて心が満たされる感覚を味わったのよ。だから恋人になりたいと思った」

 狼が「嘘だね」と僕の耳元でささやく。僕は頷く。

「でもきみは僕を五反田亮一のスケープゴートにした」
「タイミングの問題よ。でも、私もよくなかったと思う。それは謝るわ」
「きみは嘘をついている」

 イルハくんは「嘘をついている」と僕の言葉を反復した。

「あなたは私がどの部分で嘘をついていると感じるの?」
「僕を好きだという部分だ」
「あなたのこと好きよ」
「嘘だ」
「じゃあなぜこんなに一緒にいるの? 他の男のスケープゴートにするため?」とイルハくんの声は一段強さを増した。「毎日毎日一緒に通話して映画を観てデートをしてセックスをしてその理由が『他の男のスケープゴートにするため』であなたは納得できるの?」

 狼が「いいや」と首を振る。僕もそうする。

「きみのそうした行動は、きちんと説明がつくんだ」
「聞かせて」
「要するに、きみは役が欲しいんだ」
「役?」
「僕の小説が映画化したとき主演女優の座を狙っているんだ」

 イルハくんの声は「あなたの小説の映画化?」と困惑の色を浮かべた。

「あなたの小説が映画化するの?」
「もう話もずいぶん進んでいる」
 イルハくんは黙考を挟んだ。「でも、あなたの小説は売れなかったのよね。サイゼリヤで話した内容を覚えている?」
「そうだ、売れなかった」
「なぜ売れなかった小説が急に映画化することになるの?」
「映画会社の目に留まったんだ」
「映画会社の名前は言える?」
「配給はワーナー・ブラザース。制作はゴールドバーグ・カンパニーだ」
「ワーナー・ブラザース?」とイルハくんの声はさらに困惑を増した。「ハリウッドで映画化するということ?」
「だから、きみは僕に近づいてきたんだ」

 イルハくんは「待って」と言った。

「薬は飲んでいるの?」
「いや」
「いつから?」
「2か月前から」
「今すぐ飲んで」
「小説が書けなくなる」
「小説なんか書けなくてもあなたが好きよ」

 僕は「嘘だ」と叫んだ。机を思い切り叩いた。包帯とガーゼにまた血がにじんだ。イルハくんがか細い声で「大きな声を出さないで」と言った。

「きみは魂胆があって僕に近づいてきたんだ。甲斐さんと同じだ」
「甲斐さん? 甲斐さんがどうかしたの?」
「甲斐さんは狼のことが好きなんだ。みんなそうだ。僕じゃなく狼を愛しているんだ。小説を書く僕を」
「私があなたを好きになったのはべつにあなたの小説を読んだからではないわ。タイミング的にも」
「きみも僕の小説が好きだと言った」
「ええ、好きよ。でも、あなたが書く小説だから好きなのよ」
「嘘だ」

 僕はスマートフォンの画面に反射する自分の顔にふと気がついた。僕の顔には表情というものがなかった。映画でよく見るサイコな殺人鬼にそっくりだなと思った。

「これからきみの家にいく」
「私の家を知らないでしょう」
「知っている」
「どういうこと?」
「身分証の写真を撮ってある」
「いつ?」
「きみがはじめて僕のアパートにきたときに隙を見て撮った」
「なぜそんなことをしたの?」
「いずれこうなるとわかっていたから」

イルハくんは押し黙った。僕は拳を握りしめた。包帯とガーゼから血がしたたるほど強く。

「これからきみの家にいく。逃げることはできない」