アパートメントに訪ねてきた記者は名前を「佐伯」と名乗った。インターホンを鳴らした時点では「ヤマト運輸」を名乗っていたはずなのだが、寝起きの僕がドアを開くと記者の名刺を差し出して名乗りを変えたのだ。名刺は「ジャーナリスト 佐伯和比古」と肩書と名前のみのシンプルなデザインだった。
「カズヒコと読みます。初対面の方からはよくワヒコと間違われます」
僕は「カズヒコさん」と呼んだ。佐伯さんは「佐伯で結構です」と答えた。僕は「佐伯さん」と呼び直した。
「どのようなご用件でしょうか?」
佐伯さんは僕の質問をいったん無視すると決めたらしかった。僕は彼の革靴のつま先がドアの隙間に突っ込まれているのをさり気なく確認した。
「大手メディアは」と佐伯さんは言った。「紳士協定から一般人のあなたのことを強く詮索はしません。また、中小メディアはあなたが厄介なネタを抱えていると知るやみんな手を引きました。あとに残ったのは、ま、私だけというわけです」
僕は「はあ」と生返事をした。僕の知らない場所で僕のことをずいぶん色々な人たちが調べて回っているようだなと思った。
「しかし、はるばる遠方からご足労いただき恐縮ですが、僕から話せることは何もありません。プライベートなことですから」
「西塔イルハの秘密をお教えする、と申し上げてもですか」
僕は「秘密」と佐伯さんの言葉に眉をひそめた。佐伯さんは僕の顔色をうかがうように何度かまばたきをくりかえした。
「いいじゃないか。入れてやれよ」
僕の後ろから狼が佐伯さんに興味深そうな視線を注いでいた。僕は狼を横目で睨んだ。佐伯さんは「お部屋にどなたかいらっしゃるので?」と僕に不安な様子で尋ねた。僕はそれには答えず「どうぞ」と佐伯さんを部屋に招き入れた。佐伯さんは革靴を脱ぐと「お邪魔いたします」と軽く頭を下げた。
僕がお客に出す紅茶を準備していると、狼が隣に並んで「秘密ねえ」と楽しげにほくそ笑んだ。
「隠し事はすっかりしゃべってしまったという話だったけれどな」
僕は狼の言葉を無視してティーバッグで淹れた紅茶を佐伯さんの前に置いた。佐伯さんは「いや、これはどうも」と礼儀正しくそれを受け取った。デスクの前の椅子には狼が、ソファには佐伯さんがいたので、僕はクッションを床のカーペットのうえに置いてそこに座った。僕は「それで」と佐伯さんに尋ねた。
「西塔イルハの秘密というのは?」
佐伯さんは「まあまあ」と手をあげて僕を制した。それから、ティーカップの紅茶を少し飲んだ。
「あなたは、西塔イルハと知り合ってどれくらい経ちますか」
「1年と2か月になります」と僕は慎重に言葉を選んだ。
「ほう」と佐伯さんはいささか驚いた様子だった。「1年と2か月。我々があなたをマークし始めたのはここ1か月あたりのことです。人目を忍ぶのがずいぶんとお上手ですな」
「影が薄いんですよ」
「西塔イルハはつねに監視されております。我々のようなマスコミ以外にも一般人の目もある。それらすべてをあざむくのは不可能です。ということは、あなた方はおそらくリアルで知り合ったわけではありませんな」
「ご想像にお任せします」
「今の若い方々には色々な出会いの場があって羨ましい限りです」
佐伯さんは何度か頷くと上着から取り出したメモにペンで何かを記入した。僕は茫洋とした印象の男の意外な鋭さに舌を巻いた。ジャーナリストを名乗るだけはある。
「率直にお尋ねしますが」と佐伯さんは僕に毒のない笑みを浮かべた。「西塔イルハとあなたは恋人関係にあるのでしょうか?」
「ご想像にお任せします」
「私の想像では、あなた方は恋人関係にはない」
佐伯さんは鼻の先端を何度か掻いた。
「過去の事例からあきらかです」
「過去の事例?」
「過去のスキャンダルですよ。ご存知でない?」
僕は「いえ」と首を何度か横に振った。佐伯さんは僕の部屋を見回した。
「テレビがありませんな」
「新聞も取っていません」
佐伯さんは「なるほど」と首肯した。それから、ブリーフケースのジッパを開くと週刊誌の記事のスクラップを僕の前に差し出した。西塔イルハと男のツーショット写真が載った記事だ。記事の数はひとつではなかった。
「私が把握しているだけでも3年で実に18人との交際がありました。記事になったのはごく一部です。映画のダブル主演同士の熱愛とか。『アクアリウムの恋人たち』はご覧になりましたか?」
僕は「観た」と答えた。
「西塔イルハは五反田亮一とも関係を持っています」
佐伯さんは「これがその写真です」とスクラップ記事のひとつを抜き取って僕の前に置いた。日付は最近のものだ。西塔イルハと五反田亮一が仲良く腕を組んで深夜の繁華街を駅とは反対方向に歩いていく写真が載っていた。僕はスクラップ記事を黙って見つめた。
「こんなことを18歳の少女にいうべきかはわかりませんが」と佐伯さんは続けた。「西塔イルハは、誰とでも恋に落ちる女の子です。プロデューサ、作曲家、映画監督、カメラマン、俳優、みんな西塔イルハと寝たことがある」
「何が言いたいのですか」
「あなたは何も彼女にとって特別な存在などではないということを申し上げたいのですよ」
佐伯さんは「わかるでしょう?」と笑みを浮かべた。
「西塔イルハから秘密を打ち明けられましたね? 自閉スペクトラム症だとかなんとか。誰にでもやっていることです」
「なぜそんなことを?」
「弱みを見せることで男に取り入るんですな。ある種のテクニックのようなものです」
佐伯さんは「いいですか」と手を組んでソファから身を乗り出した。
「私がなぜあなたにこんなことをお教えするのかといえば、それはもちろん、西塔イルハの特ダネを仕入れるためです。しかし、同時に私は老婆心からあなたにご忠告申し上げたいと思い今日ここに参上したのです。
あなたは五反田亮一のスケープゴートにされたのですよ。
メディアは少し前から西塔イルハと五反田亮一の熱愛スキャンダルを狙っていました。そこで、西塔イルハは五反田亮一を守るためにあなたを身代わりにすることを思いついたのです。効果はてきめんでした。メディアはあなたに食いついた。そして、あなたが深刻な精神障害を負っていると知るや報道は急速に収束しつつある。西塔イルハの狙い通りというわけです」
佐伯さんがティーカップの中身を残らず飲み干すのを僕は黙って見ていた。佐伯さんは濡れた口元を手の甲で拭った。佐伯さんは「で、どうです?」と僕に尋ねた。僕は「どうです、とは?」と尋ね返した。
「西塔イルハに意趣返しをしたくはありませんか」と佐伯さんはペンを僕の前に見せた。「剣はペンよりも強しと申します。あなたとの交友関係が記事になれば、西塔イルハは少なからぬダメージを負うことになる。致命的とはいかずともね。なかなか愉快なことじゃあないかと思うのですが」
僕は佐伯さんのその「意趣返し」についてしばらく考えてみた。佐伯さんは期待に満ちた瞳を僕に向けていた。しかし、僕は首を横に振った。
「せっかくですが」
「西塔イルハに義理を通される、と?」
「まず」と僕は言った。「あなたのご想像どおり、僕とイルハくんは恋人関係ではありません。彼女が誰と何をしようと僕に口出しする権利はない」
それから、と僕は言った。
「それから、僕は個人的にメディアというものが好きではありません。テレビ、新聞、雑誌、ネットニュース、そういったものと関わり合いを持ちたくないのです。ですから、これ以上お答えすることはありません」
佐伯さんは「なるほど、なるほど」と首肯した。僕は「申し訳ありません」と頭をさげた。
「ご忠告には感謝します」
「いえ、いえ」と佐伯さんは手をあげた。「ま、そういうことなら仕方ありません。人から嫌われるのには慣れておりますのでね。少なからず新情報も得られましたし、今日はここいらでおいとまするとします」
佐伯さんは「どうも朝からお邪魔いたしまして」というと、革靴を履き直して僕のアパートメントからいなくなった。僕は玄関先で佐伯さんを見送ったあとそのジャーナリストがいなくなった空白をそのまま見つめ続けていた。狼が「なあ」と僕の肩に首を乗せた。
「そろそろ笑っていいか?」
「カズヒコと読みます。初対面の方からはよくワヒコと間違われます」
僕は「カズヒコさん」と呼んだ。佐伯さんは「佐伯で結構です」と答えた。僕は「佐伯さん」と呼び直した。
「どのようなご用件でしょうか?」
佐伯さんは僕の質問をいったん無視すると決めたらしかった。僕は彼の革靴のつま先がドアの隙間に突っ込まれているのをさり気なく確認した。
「大手メディアは」と佐伯さんは言った。「紳士協定から一般人のあなたのことを強く詮索はしません。また、中小メディアはあなたが厄介なネタを抱えていると知るやみんな手を引きました。あとに残ったのは、ま、私だけというわけです」
僕は「はあ」と生返事をした。僕の知らない場所で僕のことをずいぶん色々な人たちが調べて回っているようだなと思った。
「しかし、はるばる遠方からご足労いただき恐縮ですが、僕から話せることは何もありません。プライベートなことですから」
「西塔イルハの秘密をお教えする、と申し上げてもですか」
僕は「秘密」と佐伯さんの言葉に眉をひそめた。佐伯さんは僕の顔色をうかがうように何度かまばたきをくりかえした。
「いいじゃないか。入れてやれよ」
僕の後ろから狼が佐伯さんに興味深そうな視線を注いでいた。僕は狼を横目で睨んだ。佐伯さんは「お部屋にどなたかいらっしゃるので?」と僕に不安な様子で尋ねた。僕はそれには答えず「どうぞ」と佐伯さんを部屋に招き入れた。佐伯さんは革靴を脱ぐと「お邪魔いたします」と軽く頭を下げた。
僕がお客に出す紅茶を準備していると、狼が隣に並んで「秘密ねえ」と楽しげにほくそ笑んだ。
「隠し事はすっかりしゃべってしまったという話だったけれどな」
僕は狼の言葉を無視してティーバッグで淹れた紅茶を佐伯さんの前に置いた。佐伯さんは「いや、これはどうも」と礼儀正しくそれを受け取った。デスクの前の椅子には狼が、ソファには佐伯さんがいたので、僕はクッションを床のカーペットのうえに置いてそこに座った。僕は「それで」と佐伯さんに尋ねた。
「西塔イルハの秘密というのは?」
佐伯さんは「まあまあ」と手をあげて僕を制した。それから、ティーカップの紅茶を少し飲んだ。
「あなたは、西塔イルハと知り合ってどれくらい経ちますか」
「1年と2か月になります」と僕は慎重に言葉を選んだ。
「ほう」と佐伯さんはいささか驚いた様子だった。「1年と2か月。我々があなたをマークし始めたのはここ1か月あたりのことです。人目を忍ぶのがずいぶんとお上手ですな」
「影が薄いんですよ」
「西塔イルハはつねに監視されております。我々のようなマスコミ以外にも一般人の目もある。それらすべてをあざむくのは不可能です。ということは、あなた方はおそらくリアルで知り合ったわけではありませんな」
「ご想像にお任せします」
「今の若い方々には色々な出会いの場があって羨ましい限りです」
佐伯さんは何度か頷くと上着から取り出したメモにペンで何かを記入した。僕は茫洋とした印象の男の意外な鋭さに舌を巻いた。ジャーナリストを名乗るだけはある。
「率直にお尋ねしますが」と佐伯さんは僕に毒のない笑みを浮かべた。「西塔イルハとあなたは恋人関係にあるのでしょうか?」
「ご想像にお任せします」
「私の想像では、あなた方は恋人関係にはない」
佐伯さんは鼻の先端を何度か掻いた。
「過去の事例からあきらかです」
「過去の事例?」
「過去のスキャンダルですよ。ご存知でない?」
僕は「いえ」と首を何度か横に振った。佐伯さんは僕の部屋を見回した。
「テレビがありませんな」
「新聞も取っていません」
佐伯さんは「なるほど」と首肯した。それから、ブリーフケースのジッパを開くと週刊誌の記事のスクラップを僕の前に差し出した。西塔イルハと男のツーショット写真が載った記事だ。記事の数はひとつではなかった。
「私が把握しているだけでも3年で実に18人との交際がありました。記事になったのはごく一部です。映画のダブル主演同士の熱愛とか。『アクアリウムの恋人たち』はご覧になりましたか?」
僕は「観た」と答えた。
「西塔イルハは五反田亮一とも関係を持っています」
佐伯さんは「これがその写真です」とスクラップ記事のひとつを抜き取って僕の前に置いた。日付は最近のものだ。西塔イルハと五反田亮一が仲良く腕を組んで深夜の繁華街を駅とは反対方向に歩いていく写真が載っていた。僕はスクラップ記事を黙って見つめた。
「こんなことを18歳の少女にいうべきかはわかりませんが」と佐伯さんは続けた。「西塔イルハは、誰とでも恋に落ちる女の子です。プロデューサ、作曲家、映画監督、カメラマン、俳優、みんな西塔イルハと寝たことがある」
「何が言いたいのですか」
「あなたは何も彼女にとって特別な存在などではないということを申し上げたいのですよ」
佐伯さんは「わかるでしょう?」と笑みを浮かべた。
「西塔イルハから秘密を打ち明けられましたね? 自閉スペクトラム症だとかなんとか。誰にでもやっていることです」
「なぜそんなことを?」
「弱みを見せることで男に取り入るんですな。ある種のテクニックのようなものです」
佐伯さんは「いいですか」と手を組んでソファから身を乗り出した。
「私がなぜあなたにこんなことをお教えするのかといえば、それはもちろん、西塔イルハの特ダネを仕入れるためです。しかし、同時に私は老婆心からあなたにご忠告申し上げたいと思い今日ここに参上したのです。
あなたは五反田亮一のスケープゴートにされたのですよ。
メディアは少し前から西塔イルハと五反田亮一の熱愛スキャンダルを狙っていました。そこで、西塔イルハは五反田亮一を守るためにあなたを身代わりにすることを思いついたのです。効果はてきめんでした。メディアはあなたに食いついた。そして、あなたが深刻な精神障害を負っていると知るや報道は急速に収束しつつある。西塔イルハの狙い通りというわけです」
佐伯さんがティーカップの中身を残らず飲み干すのを僕は黙って見ていた。佐伯さんは濡れた口元を手の甲で拭った。佐伯さんは「で、どうです?」と僕に尋ねた。僕は「どうです、とは?」と尋ね返した。
「西塔イルハに意趣返しをしたくはありませんか」と佐伯さんはペンを僕の前に見せた。「剣はペンよりも強しと申します。あなたとの交友関係が記事になれば、西塔イルハは少なからぬダメージを負うことになる。致命的とはいかずともね。なかなか愉快なことじゃあないかと思うのですが」
僕は佐伯さんのその「意趣返し」についてしばらく考えてみた。佐伯さんは期待に満ちた瞳を僕に向けていた。しかし、僕は首を横に振った。
「せっかくですが」
「西塔イルハに義理を通される、と?」
「まず」と僕は言った。「あなたのご想像どおり、僕とイルハくんは恋人関係ではありません。彼女が誰と何をしようと僕に口出しする権利はない」
それから、と僕は言った。
「それから、僕は個人的にメディアというものが好きではありません。テレビ、新聞、雑誌、ネットニュース、そういったものと関わり合いを持ちたくないのです。ですから、これ以上お答えすることはありません」
佐伯さんは「なるほど、なるほど」と首肯した。僕は「申し訳ありません」と頭をさげた。
「ご忠告には感謝します」
「いえ、いえ」と佐伯さんは手をあげた。「ま、そういうことなら仕方ありません。人から嫌われるのには慣れておりますのでね。少なからず新情報も得られましたし、今日はここいらでおいとまするとします」
佐伯さんは「どうも朝からお邪魔いたしまして」というと、革靴を履き直して僕のアパートメントからいなくなった。僕は玄関先で佐伯さんを見送ったあとそのジャーナリストがいなくなった空白をそのまま見つめ続けていた。狼が「なあ」と僕の肩に首を乗せた。
「そろそろ笑っていいか?」
