スキゾフレニアの恋人

「どうかした?」

 僕は「何が?」と尋ね返した。イルハくんは「黙っているから」と答えた。

「小説のことを考えていたんだ」

 ソファに寝転んだ狼が「嘘だ」と笑う。実際、本当は甲斐さんのことを考えていたのだ。僕は夕方からずっと混乱し続けていた。イルハくんが通話の向こう側で「大変よね」と首肯する気配がした。

「0から何かをつくりあげる人間のことを本当に尊敬する。役者って結局どこまでいっても1を10にする仕事だから。そしてそれは別に私でなくてもかまわない」
「きみはスターだ。誰もが『西塔イルハ』を観に劇場へ足を運ぶ」
「City Of Stars...」と、イルハくんは『ラ・ラ・ランド』の『City Of Stars』の一節をハミングした。

 僕の頭蓋骨の内側にはずっと甲斐さんの声と息遣いが反響し続けていた。僕は頭を押さえながら「最近どう?」とイルハくんに尋ねた。イルハくんは「最近?」と抑揚のない声で言った。

「熱愛スキャンダルの真っ最中よ」
「大変だ」
「というか、テレビや新聞で私とあなたのことが色々取り沙汰されていると思うのだけれど」
「テレビは見ないんだ」と僕は言った。「新聞も読まない」
「オールドメディアの影響力の低下を示す格好の材料と言えるわね」とイルハくんはため息をついた。「でもネットニュースなんかにも記事は載っているわよ」
「ネットニュースも見ない」
「あなたはいったいどこから生活に必要な情報を得ているの?」

 言われてみれば不思議だった。僕は生活に必要な情報をどこから得ているんだろう? でも、そもそもテレビや新聞は「生活に必要な情報」を発信しているんだろうか? 僕は少なくとも10年以上テレビも新聞もない生活に慣れ親しんできたが別に不自由もしていなかった。

「人の気も知らないで」
「ごめん」
「まあ、別にいいけれど。何か聞かれても『プライベートなことなので』の一言ですむ話だし」
「普通アイドルの熱愛スキャンダルはもっと燃えるものだと思うけれど」
「めちゃくちゃに大炎上しているけれど」とイルハくんは当たり前のように言った。
「めちゃくちゃに?」
「イベントへの殺害予告とか」
「ええ?」
「よくある話よ。ほとぼりが冷めるのを待つしかないの。私が変なことをしなければそれ以上は燃え広がったりしないから大丈夫」
「僕は何かする必要ないのかな?」
「逆にあなたに何ができるの?」

 僕は沈黙した。イルハくんは「ね?」と言った。

「あなたはそのままそこでおとなしく小説を書いていなさい」

 僕は「はい」と肯いた。イルハくんが「よろしい」と頷き返す気配がした。

「小説はどう?」
「今日は2万文字書いたよ」
「2万文字というと、」
「原稿用紙50枚分だね」
「それってどれくらいの量なのかしら」
「一般的な作家と比べれば多い方だと思う。他と比べたことがないからわからないけれど。僕は書き始めたら結構速いんだ。プロットの段階でもうストーリーは完璧に決まってあとは書くだけというタイプだから」
「登場人物が勝手に動き回ったりもしない」
「プロットの段階ではずいぶん遊ばせているんだけれどね。実際に書く段階までキャラクターが勝手に動いてしまうというのは僕にはとても奇妙なことに感じられる」
「じゃあ、あなたの小説は本当にあらかじめ用意した設計図の通りに完成するのね。寸分の狂いもなく」
「僕が10万字で完成するといえば間違いなく10万字で完成する。プロとして当たり前のことだと僕は思うんだけれど」

 しかし、世の中には「プロットはつくらない」とか「書いてみなければわからない」とかいう作家が多くいるのもまた事実だ。僕には彼らのことがまったく理解できなかった。ただ、そういう風に話が作れたら面白いだろうなとは思う。僕の書き方では最初から最後まで不明な部分はなにもない。なにもかも明瞭でだからこそ滞りなく筆が進む。その代わり意外な発見もなかった。自分の小説を書くなかに「発見」があるなんて実に楽しそうなことだ。

「でも普段は1日1万文字くらいのペースだって言わなかった? 今日はずいぶんはかどったのね」
 僕は一瞬沈黙した。「今日は甲斐さんと会ったんだ。アイデア出しみたいなことを手伝ってくれた。そのせいかもしれないな」

 狼が「おやおや」と笑った。イルハくんは「なるほどね」と納得したようだ。僕は甲斐さんの妄想を振り払うように何度かかぶりを振った。

「ねえ、イルハくん」
「なに?」
「僕らはその、いわゆる恋人同士なのかな」
「どうかしら」とイルハくんが寝返りを打つような気配がした。「私は恋人になりたいと思うけれど、返事を急ぐのはよくないとも思う。私もあなたも普通とは少し違うしね。お互いを知る時間がもっと必要かもしれない」
「お互いを知る時間」
「あなたは?」と逆にイルハくんが尋ねた。「私と今すぐ恋人になりたいと思う?」

 僕は「いや」と答えた。通話の向こう側で「そう」という返事があった。

「そりゃあいまは甲斐をこき使ってるんだもんなあ」

 僕は狼の言葉をなるべく無視した。

「どのみちスキャンダルの話題が続く間はきみとは会えないし、僕も小説を書くので忙しいしね」
「そうね」と答えるイルハくんの声はどこかぎこちなかった。「そうかもしれない」

 僕はイルハくんに何か言おうとした。けれど、頭蓋骨の内側に反響する甲斐さんの声をかき消すので精一杯だった。僕は「今日は疲れたからもう寝るよ」と言った。少なくとも嘘ではなかった。僕は本当に疲れ切っていた。

「ええ、おやすみ。小説がうまく書けるといいわね」

 僕はスマートフォンの「通話終了」を押した。部屋には一瞬の沈黙が降りた。狼が「いやいや」と待ちかねたようにソファから飛び降りた。

「やるね、相棒。アイドルを振ったよ。ははは、こりゃ痛快だな」
「振ったわけじゃない。保留にしたんだ」
「おんなじさ」

 狼はげらげらと笑った。

「かわいそうになあ、お嬢ちゃん。今すぐとは言わずとも『いずれは』付き合いたいって返事が聞けるもんだとばかり思っていたんだぜ、あの反応は」
「誰のせいだと思っているんだ」
「才能も金もないDVカス野郎なのは全部あんたのせいさ。おれのせいじゃあない」

 僕は叫び出したくなるのをこらえるために煙草にマッチを擦った。狼も煙草を吸い始めた。狼はいつも実にうまそうに煙草を吸った。

「ま、いいじゃあねえか。お嬢ちゃんはお嬢ちゃんでよろしくやるさ。べつに他に男がいないってわけでもないんだ、どうせ」
「きみにイルハくんのなにがわかるんだ」
「あんたにはなにがわかるんだね? 西塔イルハだってことを知ったのもほんの2か月前の話じゃあないか。他にプライベートな話をした覚えは?」

 僕は押し黙った。狼は「それみたことか」と僕に煙草の先を向けた。

「結局のところ、女なんてのはみんなクソさ。クソの万国博覧会だ」
「何が言いたいんだ」
「おれが言いたいのはね」と狼はかわいた手のひらをこすり合わせた。「つまり、誰もあんたのことなんか心からは愛さないってことなんだ。小説なんか書いて歓心を買おうなんて考えても無駄だ。誰もあんたのことなんか愛さない。あんたは死ぬまで孤独なんだよ。だって、あんたは家族にすら捨てられたんだ。家族にすら捨てられたあんたをいったい誰が拾うというんだね?」

 僕は狼に何も反論することはできなかった。僕は満足な恋愛経験もなく定職にも就かないまま31歳になる。統合失調症はいまのところ不治の病だ。僕の人生がこの先なにかのきっかけで好転するとは考えがたい。

 僕は灰皿に吸い殻を詰め込み、ウイスキィをショットグラスに満杯まで注いで一気に飲んだ。耳元で狼がささやき続けていた。

 誰もお前を愛さない。