スキゾフレニアの恋人

 甲斐さんは僕のアパートメントに来るなり熱心な様子でホワイトボードに目を通し始めた。今朝方、僕が小説の簡単なアイデアをLINEで話すと「今から行くわ」と連絡が返ってきたのだ。夕方にはもう甲斐さんは僕のアパートメントに到着していた。

「相変わらずご執心なこって」

 狼はソファにくつろぎながら甲斐さんの後ろ姿に人を食った笑みを浮かべていた。僕はなるべく狼の方を見ないようにしながら甲斐さんに尋ねた。

「どうですか?」

 甲斐さんは長い間なにも答えなかった。小声でぶつぶつと独り言をくりかえしていた。甲斐さんのそんな姿を見るのは10年ぶりだった。狼が「懐かしいよな」というのに僕は頷き返した。ややあって、甲斐さんは「そうね」と頷いた。何に対して頷いたのかはわからないが、とにかく、彼女のなかで何かしらの答えが出たようだ。甲斐さんは僕の方を振り返った。

「私が思っている通りならこれはものになると思う。あなたは実際に書いてみなければわからないというタイプの作家ではないし」
「そうですね」と僕は肯いた。僕の小説がプロットから逸脱することはまずない。登場人物が勝手に動き出すということもない。そうでなければプロットを作る意味などないというのが僕と狼の考えだ。
「いったん書いてみせてくれる?」
「かまいませんよ」
「完成したら教えて」

 僕は「わかりました」と首肯した。狼も同じ動きをしていた。甲斐さんは「それにしても」と腕を組んだ。

「これ、どれくらいで考えたの?」
「1か月くらいですね。実際にプロットの形にし始めたのは1週間前から」
「いったいなにがきっかけであなたの創作意欲に火が点いたのかは知らないけれど」と甲斐さんは複雑そうな表情を浮かべた。「私が直接の原因というわけではなさそうね。ちょっと残念。私は私なりにあなたのパートナーとして10年がんばってきたつもりだったんだけれど」
「甲斐さんには感謝してます」
「配信でなにかあったのよね、きっと」

 僕は「だから、間接的には甲斐さんのおかげですよ」と首肯した。それから、甲斐さんは僕とイルハくんのことを知らないのか、と思った。週刊誌にあんなにはっきりと写真が載っていたのに。あるいは、写真を見てもそれが僕だとは気づかなかったのかもしれない。僕自身ですらそれが僕だとは信じられないくらいなのだ。甲斐さんが僕だと気づかなくても無理はないなと思った。

「甲斐のやつも年を取ったな。しかし、身体は相変わらずだ」

 狼が甲斐さんを見ているのがわかった。僕は「狼」と小声で狼を牽制した。狼は「はん」と鼻を鳴らした。

「部屋に招き入れたのは、そういうことだと思ったがね」
「やめろ」
「甲斐も甲斐だ。あんたと会うたびにがらにもなくしゃれた格好をして」
「やめてくれ」
「いいじゃあないか。作家とアイドルよりも作家と編集の方がおさまりがいいよ。というか、昔はそうだったじゃあないか。おれは甲斐の身体の感触もしっかり覚えているがね」

 僕がデスクを殴りつけると、甲斐さんは目を丸くして振り返った。

「なに? どうかした?」
「なんでもない」
「あなた」と甲斐さんは僕の手を見た。「大丈夫?」

 僕の手はデスクの角に当たったらしくすり切れて血が流れ落ちていた。甲斐さんは「大変」というと僕の部屋の救急箱から包帯とガーゼを取り出して僕を手当てした。甲斐さんは傷ついた僕の手を見て困ったような微笑みを浮かべた。

「昔を思い出すわね」
「いやな思い出ですよ」
「そう?」と甲斐さんは僕の顔を上目遣いにみあげた。「私は、別にそうは思わないけれど」

 狼が「ほらな」と笑った。

「甲斐もその気なんだ。そりゃあそうさ。甲斐があんたになぜ再起して欲しいかわかるかね。あんたがまた小説を書き始めれば、作家と編集者として元の関係に戻れると思っているのさ。でなけりゃあ、東京から2時間もかけて毎回毎回こんな辺鄙な田舎街にくるもんか」

 僕は甲斐さんの瞳に反射した自分自身のよどんだ目を見た。僕の顔には暗い感情が泥を被ったようにへばりついていた。甲斐さんは最初「?」と要領を得ない様子で小首を傾げていたが、その表情は徐々に驚きで満たされていった。

「あなた」と甲斐さんは僕の目の中に何かを見出したようだった。「薬を飲んでいないのね?」
「ええ」
「狼がいる?」
「ソファにいますよ」

甲斐さんがソファを見ると、狼は「ハイ」と軽く手を挙げてみせた。

「今、狼は何をしてる?」
「挨拶しました、甲斐さんに」
「久しぶりね、狼。会いたかった。本当に」

 甲斐さんは僕の頬に両手を添えると熱っぽい瞳で僕の顔を見つめた。いいや、甲斐さんは僕のなかになにか別のものを見ているのだ。狼は「おやおや」と両手をあげた。甲斐さんはそのまま僕を自分の側に引き寄せた。僕らの唇は触れ合った。何か邪悪な意思の介在を思わせる後ろめたい触れ合いだった。

「誰か女がいるのはわかっているわよ」と甲斐さんはささやいた。「ここ、私以外の女の匂いがするもの」
「なら帰るという選択肢もあるはずです」
「そんなこと言わないで」と甲斐さんは僕の唇に指先をあてた。甲斐さんは夢見る少女のように微笑んだ。「あなたも憂さ晴らしをしたいでしょう? 昔はよく私を殴ったじゃない。同じようにしてくれていいのよ」
「そういうことはもうしたくないんです。僕は、」
「じゃあ、狼に聞いて」と甲斐さんはぞっとするほど冷たい声をした。「狼にどうしたいか聞いてちょうだい」

 僕は「狼は関係ない」とかぶりを振った。狼は「お呼びとあらば」と僕の耳元に口を寄せた。

「ま、抱くんでいいんじゃあないかな」
「いやだ」
「甲斐はおれに聞いているんだぜ。いいじゃあないか。ストレス発散だ。昔みたいにぶん殴りながらセックスしてやれよ。首を死ぬ寸前まで絞めながらさ」
「いやだ」
「やれよ」と狼は僕の足元を蹴った。僕はぐらりとかしいだ。「さっさとすませて小説を書くのに戻るんだよ」

 自分の全身から血の気が引いているのがわかった。甲斐さんは僕の顔をじっと見つめていたが、何かを確信したように頷くと黙って僕のシャツのボタンを外し始めた。さらり、と衣擦れの音を立ててシャツは床に落ちた。

「私はね」と甲斐さんは僕の首筋に口づけながら言った。「自分ではなにひとつ生み出せない人間なの。作家の前ではいつも偉そうにしているけれど本心ではいつもその才能に屈服させられたいと望んでいる。だから、特別な才能に奉仕することを光栄に思うわ。たとえそれがいっときのストレスのはけ口に過ぎないのだとしてもね」

 僕と甲斐さんのセックスはひどく暴力的なものだった。僕は甲斐さんの顔を掴み、腹を殴り、首を絞めた。甲斐さんはそのたびに激しい悦びにむせんだ。全身を強く痙攣させながら僕の背中に鋭い爪痕を残した。10年前と同じように。

 僕は甲斐さんを抱きながら「おれはいったいなにをしているんだろう」と思った。自分で自分がわからなかった。何かに操られているように――実際、狼に言われるがまま――僕は甲斐さんを傷つけているのだ。

 自我意識障害だ。

 僕は精神病院の教育入院で主治医から受けた説明をおぼろげながら思いかえした。自我意識障害とは作為体験や「させられ体験」とも呼ばれるものだ。自我と意識を自分のものにできない。狼の支配から脱出できない。でも、それを実際に行っているのは僕なのだ。僕はいったいどうすればいいのだ? 僕はいったいどうすれば……。

「それじゃあ、帰るわね。また何か相談があったら連絡して。私もちょくちょく様子を見にくるから」

 甲斐さんはあざだらけの身体に元通り服を着るとアパートメントから去った。僕は甲斐さんがいなくなるとすぐMacBookで小説を書き始めた。小説を書く作業はいやになるほど滞りなく進んだ。僕は両手を思っきり机に叩きつけた。包帯にまた血がにじんだ。

「泣いたって誰も助けちゃあくれないんだぜ」

狼がけたたましい声で笑った。