スキゾフレニアの恋人

 狼の外見は僕の最後の記憶から10年分の年齢を重ねていた。彼は少年の頃の面影を残した20歳の青年ではなく30歳の大人の男として再び僕の前に現れた。僕はそのことを多少なりとも不思議に思わざるを得なかった。映画『ビューティフル・マインド』に出てくる幻覚たちは誰もみな年を取らなかったからだ。しかし、狼にも変わらない部分はあった。相変わらず趣味の悪い真っ赤なレザージャケットを気に入っているのがそうだ。そういうところは昔と少しも変わらないなと思った。

「なるほどねえ」

 狼は僕の部屋のホワイトボードの前で腕を組むと、付箋を1枚1枚チェックしていった。そして、即座に「これとこれとこれはだめだ、書き直せ」と僕に命令した。僕は「いいよ」と首肯した。どのみちいずれは書き直さなければならないと思っていたシーンだった。狼はソファに腰をおろすと短くなった煙草を見て舌打ちした。

「なあ、煙草は?」
「きみがいなくなってからやめたんだ」
「ばかばかしい。煙草なしで小説が書けるかよ」

 実際、その通りだと思った。10年振りに煙草を吸いたい気分になっていた。

「なあ、煙草」
「わかったよ、買いに行こう」
「さっすが。話がわかる」

 僕と狼は近くのコンビニでマルボロを2カートンとマッチと灰皿を買った。僕と狼はライタではなくマッチで煙草を吸うことをささやかなポリシィにしていた。押井守監督の『スカイ・クロラ』の影響も多分にあった。

 アパートメントに帰るとデスクに灰皿を置いて早速マッチを擦った。僕と狼が揃って煙草を吸い始めると、ジェムさんは「くさい、くさい」と台所へ避難した。僕はジェムさんに申し訳なく思った。しかし、もはや賽は投げられたのだ。後戻りはできない。僕は煙草を咥えながら付箋にペンを走らせた。狼は同じく煙草を咥えながら僕のつくった付箋を読み込んだ。

「10年ぶりの共同作業ってやつだ」
「そうだね」
「おれがいないと始まらないだろ?」
「うん」と僕は首肯した。事実だ。
「まったく」と狼は両手をあげて天を仰いだ。「歯がゆい思いをさせられたよ。10年も。あんたが何か書こうとするたびおれが何度『こうしろ』『ああしろ』と指示をくれてやりたかったことか」
「仕方なかったんだ」
「仕方なくなんかない」と狼は煙草の先で僕を指した。「薬なんかいつでも飲むのをやめられたんだ。1年前でも5年前でもな」
「平穏な生活が好きだった」
「停滞だ。あんたは人生を10年無駄にしたんだ。10年あれば何冊本が書けた? 20代の貴重な時間を……ばかげている!」

 狼は灰皿に乱暴に吸い殻を押しつけると、次の煙草にマッチを擦った。

「ばかげているぜ、相棒。甲斐のやつも言ってただろう? おれはあんたの失われた10年が悔しいよ」
「甲斐さんの話を聞いていたんだ?」
「聞いているさ。おれはあんたのすることはなんでもお見通しだ。あのアイドルのお嬢ちゃんのこともな」
「女優だ」
「どっちでも変わらんさ」

 狼はソファの背もたれに腕を組んだ。煙草の先から灰がソファのクッションに落ちた。

「まさか本気じゃあないよな?」
「きみにそんなことを言われる筋合いはないと思う」
「なあ相棒、まあ聞けって」と狼は今度は足を組んだ。「相手は17歳――いや、今は18歳か。まあ、とにかく――お前より13歳も年下だ。犯罪だぜ? はっきり言って」
「それはそうかもしれない」
「あの年頃の女はおまえくらいの年齢のやつと火遊びをする。まじめに将来を考えてみたりもする。だが、実際その関係が実を結ぶことはない。そういうもんなんだ。実際のところ」
「きみの言うとおりだと思う」
「しかも、あちらさんはいまをときめく人気アイドルさまだ。本人は女優のつもりだが、まあ、アイドル的な人気の女優だ。アイドルは男と付き合っちゃあだめなんだよ。つまり、おまえの存在は彼女の邪魔だ。あの子も他の子と同じようにおまえとの火遊びにそのうち飽きる。そして、おまえのことを邪魔に思い始める」
「そうかもしれない」
「いいや、そうさ。おれにはわかるんだ」

 僕は吸いかけの煙草を灰皿のふちに置くと、椅子から立ち上がった。台所の棚の一番奥にあるウイスキィを取るためだ。

「飲んでもいいかな?」
「もちろん」と狼は首肯した。「もちろんどうぞ。ここはあんたの家で、それはあんたの酒だ。飲みなよ」

 僕はウイスキィをグラスに半分ほど注ぐと一気に飲み干した。狼はソファに頬杖を突いて僕のことを面白そうに見ていた。

「で?」
「僕はたしかにイルハくんにはふさわしくないかもしれない。でも、」
「まあたしかにすごい美人だ。若いし。手放したくない気持ちはわかる」
「そうじゃなくて、」
「いいや、そうさ。降って湧いた幸運にしがみついているんだ。でもそんなのは本当の愛情なんかじゃあない。あの子のことを思うならどう考えたって別れを切り出すべきじゃあないか。そうしないのは結局のところ我が身可愛さなのさ。だいたい、18歳の女の子と寝るか普通? おれはドン引きしたぜ、あのときばかりは」

 僕は狼に反論しようとした。反論しなければならない。

「でも僕はイルハくんが好きだ」
「それで? 一緒になれるのか?」
「それは、」
「無理だよなあ? おまえは統合失調症だ。他の誰にも見えないおれとこうやって深夜に話し込んでいる。猫と会話ができる? ファンタジィな表現を使うなよ病人が。おまえは頭がおかしいんだよ」
「でもイルハくんは頭のおかしい僕のことも受け入れてくれたんだ」
「なあ相棒」と狼は乾いた唇を舐めた。「あの嬢ちゃんがあんたを心から受け入れてくれたと本気で思ってるのかね? あんたのちょっとした病気の傾向すら見たことがないあの18歳のお嬢ちゃんが? あんたが子どもの頃なにをやらかしたのかあの嬢ちゃんはまだ知らんのだろう?」
「その話はやめろ」
「いいや、やめないね」と狼はすごんだ。「あんなことをしておいてよくいままで普通の人間みたいな顔をして暮らしてきたよな。まったく信じられんぜ、相棒」
「僕は薬で普通の人間になったんだ。もうあんなことはしない」
「いいや、するね。なぜならおまえは生まれつき脳みそが壊れているイカれ野郎だからだ。もう薬も飲んじゃあいない。おれともこうやってもう一度話し始めた。お膳立ては全部整ったってわけだ」
「やめろ」
「やめないね。なぜなら、ああ、なぜならおれはあんたの頭のなかにいるからだ。おれはいつだってあんたを見ている」

 僕はソファに向かって思いっきりグラスを投げつけた。グラスは壁にぶつかって大小様々な破片に砕け散った。狼は素知らぬ顔で『雨に歌えば』を口笛で吹き出した。狼の顔は笑みの形に歪んでいた。

「な? すぐ手を上げる。あの頃と同じだ」
「だまれ」
「怖いねえ。でも、いいぜ。その調子だ。あんたのその感じやすい性格があればこそ小説はうまくできあがるんだからな。いわば、あんたの才能と病気は同じコインの裏表なのさ。あんたが不安定になればなるほど小説はいいものになる。過去の経験からもあきらかだ」
「だまれ」
「おれの役割はね、相棒。あんたの人生をなるべく不安定にし続けることなんだ。そのことについていまさら疑問はないだろう? おれがあんたの人生をいままでどんな風にしてきたかはあんたが一番よく知っているはずだからな」

僕は「だまれ」と叫んだ。狼はにやにやと笑ったまま煙草の煙越しに僕の顔をみあげた。

「ま、気を楽にしなよ、相棒。なにもかもあんたが望んだことだ。とにかく、小説は書き上がる。そりゃあ間違いようのないところさ」
「いいか」と僕は指に挟んだ煙草の先で狼を指した。「イルハくんに何かしたらおまえを殺す」
「おお、こわいねえ。殺す、ときたもんだ。20年来の人生の相棒に向かって殺す? はん、やってみたらどうだ」

 僕が手を上げるよりもずっと早く狼は僕のみぞおちに拳をめり込ませた。僕は肺のなかの空気を全部吐き出したような心地がした。息も吸えなかった。

「おれ抜きじゃあプロットひとつ満足に完成させられんカスの分際でよくおれに立てつけるな。10年ぶりの再会だから人が優しくしてやっているのがわからんらしい」

 狼は僕の髪を掴むと僕の顔を上向かせた。僕は狼の顔を睨んだ。狼は僕を間近から見下すとにやりと笑みを浮かべた。

「あんたはおれに勝てっこないんだ。身にしみてわかってるはずだぜ。なあ、相棒」