スキゾフレニアの恋人

 僕らの関係が週刊誌にスクープされたのは2ヶ月後のことだ。僕はイルハくんから連絡を受けて近くのコンビニでその週刊誌を読んだ。週刊誌には夜の繁華街を腕を組んで歩く僕とイルハくんの写真が載っていた。東京で会ったときのものだった。自分の写真が週刊誌に載るなんて過去には想像もしなかったことだ。写真の僕は僕が思う僕よりもいくぶんか表情のない顔つきをしているように見えた。

「しばらく会えなくなると思う」

 イルハくんはビデオ通話の向こうで「やれやれ」と肩をすくめた。僕は「大丈夫なの?」と尋ねた。イルハくんは「なにが?」と尋ね返した。

「わからないけれど、なにかしら問題はないのかな。僕と一緒にいて」
「事務所にとっては問題かもしれないけれど、私にはどうでもいいことよ。女優の仕事が減るとも思えないし」
「アイドルの仕事は?」
「元々アイドルの仕事には乗り気ではなかったの。歌も踊りも好きだけれど。これを機に女優一本でやっていくということになるのであればそれはそれでかまわない」

 僕は「なるほど」と首肯した。イルハくんは「それにしても」と腕を組んだ。

「仕事に復帰するタイミングで記事が出たのは少し問題かもね。どこへ行ってもその質問はさけられないから。週刊誌もタイミングをうかがっていたということなのかしら」
「きみは何も恐れていないように見える」
「私は恋をしているだけよ」とイルハくんは意外そうな顔で言った。「何を恐れる必要があるの?」

 僕はイルハくんの心の強さにすっかり感心してしまった。イルハくんは「それよりも」と僕を見た。iPadのカメラの位置的にイルハくんの視線は僕よりもやや上のところを見ているように見えた。

「小説はうまく書けている?」
「なんとも言えないね。まだプロットを作り始めたばかりだから」
「でも、おおきな進歩ね」
「ありがとう」
「やっぱりキスしてあげたのがよかったのかしら」
「『真実の愛のキス』?」
「王子さまにかけられた呪いを解くのはいつだってプリンセスのキスなのよ」

 僕が「もっとすごいこともした気がするけれど」というと、イルハくんは「切るわよ」と通話を切る素振りをした。僕は「ごめん、ごめん」と言った。

「でもまあ、とにかく小説は書いてみているよ」
「いつか読ませてくれる?」
「完成したらね。完成する前に誰かに読ませるとそこで満足してしまって筆が進まなくなる気がするんだ」
「気持ちはわかる気がする。私も中途半端なものを他人に見せるのは嫌いだから」

 僕らはイギリスとアイルランドが共同制作したホラー映画『聖なる鹿殺し』を観たあと、イルハくんの「明日から仕事だから」という一言で解散した。午前0時だった。僕は台所に行くとグラスで水を一杯飲んだ。ジェムさんが「ちょっと遊んでくれないか」というので僕はなるべく音を立てないようにジェムさんの体中をくすぐった。ジェムさんは「うむ」と満足したように頷くとソファのうえに飛び乗ってそこで丸くなった。僕は「さて」と思った。

「なにをするんだい」
「小説のプロットを考えるんだよ」
「プロット?」
「設計図のようなものだね」
「ぼくの人生には設計図のようなものはない」
「そりゃきみは猫さんだから」
「でも、それでなにか困ったことがあったこともない」
「行き当たりばったりの生活だなあ」

 部屋のホワイトボードにはペンで「第1幕」「第2幕」「第3幕」という3つの枠組みが描き込まれていた。第2幕は「前」と「後」に分かれるから正確には4つの区分があることになる。日本の「序破急」や「起承転結」に対応する形だ。1つの区分には同じ色で10個の付箋が貼られていた。付箋1枚は1つのシーンをあらわしている。1枚の文字数の目安は3000字。合計40枚なら12万字のストーリープロットになる。文庫本1冊サイズだ。

 僕は1枚また1枚と付箋の内容をあらためた。今はまだほとんどの付箋の中身は空欄だ。中身がある付箋にもちょっとしたメモ書き程度の内容が書き込まれているのにすぎない。僕はボールペンを手に取ると想像力のおもむくがままペン先を走らせた。ストーリーのある1シーンも、ひとつのシークエンスも、人物設定や状況設定もごたまぜに。それらカオスのなかからいずれは秩序が生み出されるのだ。雨雲のなかで形作られる雪の結晶のように。

 インターホンが鳴る音がした。

 僕は作業する手をとめて部屋の目覚まし時計を見た。午後1時半だ。午後1時半に僕の部屋のインターホンを鳴らす人間について僕はまったく心当たりがなかった。僕には甲斐さんとイルハくんを除けばまともな知り合いすらいないのだ。

 僕は「あるいは週刊誌の記者かもしれないな」と思った。週刊誌の記者やYouTuberといった数字をもとめてうろつく人種が僕の住所を突き止めたのかもしれない。それは十分あり得ることに思えた。

 数分、僕は息を凝らしてインターホンを鳴らしている誰かがドアの前から立ち去るのを待った。相手がどんな人間であれドアを開けるつもりはなかった。僕の脳が警戒音を鳴らしていた。

 このドアを開けるべきではないのだ。

 すると、ドンドンドン! とその誰かは今度は部屋のドアをノックし始めた。最初は控えめに。しかし、すぐさま力強く。

 僕は息を呑んだ。台所の抽斗からフライパンを引っ張り出すとそれをお守り代わりにぎゅっと両手で握りしめた。いったい誰がこんな夜中に僕を訪ねなきゃならないのだ? 僕は静かに小説が書きたいだけなのだ。

 僕はありったけの勇気を振り絞ってフライパンを手に玄関へにじり寄った。その間もドアをノックする音が止まることはなかった。相手はわかっているのだ。僕が部屋のなかにいることを。そして、そのノックの音から決して逃げられないことを。

 僕は細かく震える手で玄関のドアのチェーンを外した。呼吸が乱れ、心臓の音が早鐘を打つのを感じた。発作の兆候だ。全身に脂汗がにじんだ。僕はドアをゆっくりと開いた。

 直後、誰かの拳が僕の頬にクリーンヒットした。

 僕はフライパンを放り出して真後ろに倒れ込んだ。ジェムさんが「どうした!」とソファから飛び上がった。僕はちかちかと星が回るような視界の向こうにおぼろげながら影のようなものが映るのを感じた。その影は急速に像を結び始めた。

 赤いジャケットの男だ。

 赤いジャケットの男は、しばらくの間、黙って僕を見下ろしていた。彼はドアに肩をもたれさせると唇に咥えた煙草から立ち上る煙に目を細めた。

「猫、飼い始めたのか?」

 赤いジャケットの男は、ふーっ、と息を吐くと、手に挟んだ煙草の先でジェムさんを指した。僕はまだふらつく頭を振るとどうにか床から腰を上げた。赤いジャケットの男は煙草の煙をくゆらせながら僕を黙って見ていた。

「とっくに知っているものだと思っていたけれど」
「そうか?」と赤いジャケットの男はあいまいに笑った。「可愛い猫だ。オスか?」
「メス」
「名前は?」
「ジェム」
「昔、たまって猫を飼ってたよな。英語にするとジェムだ。つまり、ありゃ2号機ってわけだ」

 僕は赤いジャケットの男を睨みつけ――でも、途中でその気力を失った。赤いジャケットの男は後ろ手にドアを閉めると僕の肩をどんと力強く叩いた。

「さあ、やろうぜ、相棒」

 10年ぶりの「狼」との再会だった。