スキゾフレニアの恋人

 イルハくんが髪の毛を乾かす間に映画を観る準備をした。僕は冷えた白ワインをグラスに注ぎ、チーズを適切なサイズにカットして皿に並べた。部屋にはテレビがなかったから映画はiPadの小さな画面を二人で共有することになった。イルハくんは「二人で一緒にベッドで寝転んで見ましょう」と提案した。僕も同意見だった。

 僕らは(行儀は悪いけれど)白ワインのグラス片手にベッドに寝転んフィンランド映画の『ハッチング―孵化―』を観た。不思議な映画だ。不条理なシチュエーションに翻弄される家族の姿に僕とイルハくんは「いったいこれはなんなんだろう?」と揃って疑問符を浮かべた。

 映画を観ながら僕はときどきイルハくんの横顔を眺めた。化粧を落としたイルハくんはいくぶん年齢相応の幼さを取り戻したように見えた。髪からはヘアミルクの匂いがした。イルハくんもたまに僕を見ているようだった。そういう気配を僕は自分の横顔にひしひしと感じ取ることができた。

 映画が終わる頃には11時を過ぎていた。僕らの生活習慣から言えばそろそろ寝る時間だ。僕は「寝る?」と尋ねた。イルハくんは「ええ」と答えた。僕もイルハくんも同じベッドで寝ることを自然に受け入れた。僕は部屋の電気を落とした。

 僕もイルハくんも最初はお互い少し離れた位置に寝ていた。シングルサイズのベッドだからほとんど遠ざかることはできなかったけれどそれでも寝息が聞こえない程度の距離を保っていた。しかし、イルハくんは寝返りを打った拍子に僕の懐に転がり込んできた。僕は腕を少し持ち上げて彼女を自分の腕の中に迎え入れた。イルハくんは布団のなかで僕に素肌の足を絡めた。

 数分、僕らは抱き合ったままお互いの鼓動の音を聞いた。イルハくんの鼓動はどきどきと高鳴っていた。寝たふりなのはあきらかだった。

「私、気持ち悪くない?」

 イルハくんは出し抜けにほんの小さな声で僕に尋ねた。僕は最初イルハくんの言葉の意味がまるで理解できなかった。

「きみが発達障害や性的少数者であることについて僕が気持ち悪く思うかどうかということ?」
「それもある」とイルハくんは僕の胸に顔を埋めて首肯した。「でも、一番は私の外見の醜さについてよ」

 僕は「外見の醜さ?」とイルハくんの顔を部屋のくらやみのなかで見詰めた。もちろん、化粧を落としたからといってイルハくんのかがやくような美貌が損なわれることはなかった。外見の醜さ?

「私、暇さえあれば整形について考えるの」

 僕は「整形」とまたイルハくんの言葉を驚きとともにくりかえした。

「きみは僕が今まで出会ったなかで一番素敵な子だ」
「でも、私にはまだ足りないように感じられるの。毎朝鏡を見るたびに欠点ばかりが目についていっそ顔をぐちゃぐちゃにしたくなる」
「いつから?」
「ずっと子供の頃から。一番気になるのは、鼻ね」

 僕はイルハくんの鼻をまじまじと眺めた。鼻筋の通ったうつくしい鼻だ。僕はイルハくんが自分の鼻のいったいどこにそんなに思い悩まなければならないのか不思議に思った。

「誰に尋ねても美人だと言われるし私自身もそう思う。でも、ふと鏡を見た拍子に自分の醜さに驚くのよ。そして、鏡を割ってしまう。部屋中の鏡やガラスや自分の顔がうつるもの全部」

 僕はイルハくんが自分の部屋の鏡やガラスやコップをかたっぱしから壊して回る姿を想像した。それはとても痛ましい光景だった。誰もが羨む美女が自分の醜さに思い悩んでヒステリックに自分自身を傷つけている。僕は自分の知識の本棚からそれにふさわしいと思える名称をひとつ抜き取った。

「醜形恐怖症というやつなのかな」
「自覚はある」とイルハくんは首肯した。「インターネットで醜形恐怖症について調べたことがあるの。こんなことが書いてあった。醜形恐怖症とは、脳の視覚処理において顔の細部を分析する部分が過剰に働き、全体像の統合が低下している状態を指す、って。つまり、普通の人が『顔』だとひとまとめに認識しているものを醜形恐怖症の患者は『目』『鼻』『口』『耳』と細かいパーツごとに見ているのね。だから、他の人よりパーツの細部が気になってしまう。これは、心の病気ではなく『脳の病気』なのよ」
「医者には?」
イルハくんは首を振った。「行きたくないの」
「どうして?」
「私の役に立つとは思えない」
「専門家の先生がきっと相談に乗ってくれる」
「専門家の先生に私は直せない。自閉スペクトラム症も性自認も醜形恐怖症も私の悩みにはあなたと違って薬がないから」
「大学病院に専門のカウンセラの先生がいるという話を聞いたことがあるよ」
イルハくんはなおも首を振った。「行きたくないの」

 僕はイルハくんの後頭部をゆっくりと撫でた。イルハくんは僕にぎゅっとしがみついた。

「きみは僕が出会ったなかで一番素敵な子だ」
「うん」
「気持ち悪くなんかないよ」

 イルハくんは「ありがとう」と小声で漏らした。

「すっきりしたわ」
「そう?」
「隠し事を全部言ってしまったから」
「ならよかった」
「私って面倒な人よね、きっと」
「まあ、普通の人より少しは面倒かもしれない」

 僕らは見つめ合い、そして、どちらからともなくキスをした。女の子とキスするのは10年ぶりだった。僕は心に色々なものがよみがえるのを感じた。ずっと固まっていたものがやさしくときほぐされるようなすばらしい感覚だ。僕がイルハくんの髪の毛をそっと払うと、イルハくんは僕の目を至近距離からまっすぐ覗き込んだ。

「ねえ、セックスしましょう」

 そして、僕らはセックスをした。僕にはキスと同じく10年ぶりのセックスだった。最初はうまくやれるか不安だったけれど、イルハくんがうまくリードしてくれた。イルハくんは終始楽しげだった。

「あなたとするセックス好きよ」

 一度目のセックスが終わったあと、イルハくんは僕の腕にそのおおきな胸を寄せながらささやいた。彼女の顔はほんのりと赤みを帯びて額や首筋には汗がにじんでいた。

 二度目のセックスの途中、僕はイルハくんの腕に奇妙な跡を見つけた。手首からやや上のあたりにうっすらと他とは感触の違う場所があるのだ。裸を見ても気づかないほど些細な跡だ。しかし、くらやみで肌を撫でるとよくわかる。イルハくんは「ああ」と気づいたように僕の顔に手を添えて自分の顔の近くへ僕を抱き寄せた。

「昔、ちょっとね」
「昔?」
「手首を切るのがくせだったの。色々耐えられなくて」
 僕はもう一度傷跡をなぞった。「綺麗に治ったんだ」
「傷跡修正の手術を受けたの。仕事にも差し障りがあるから。テレビや映画に出るときはメイクさんがうまく隠してくれる」

 イルハくんは「いや?」と僕に尋ねた。僕は首を左右に振った。

「傷跡もきみの一部だと思う」
「または、私そのもの」

 イルハくんは「はあ」と切なげな吐息を吐くと体を強く痙攣させた。僕はイルハくんに強く引き寄せられるがままその華奢な身体に体重を預けた。

「ねえ、あなたは私を殺すのかしら」
「あれは、比喩だよ」
「私、あなたになら殺されたいわ」

 僕の耳元でまた誰かが「嘘だね」と今度はせせら笑った。僕は頭を振ってその声を追い払おうとした。声は僕の頭蓋骨の内側で反響し続けた。嘘だね、嘘だね、嘘だね……。

「いつか私を殺しにきて」

 僕はうわ言のようにささやくイルハくん抱きしめながら頭の片隅で「薬を飲む時間だ」と思った。僕は朝晩薬を飲まなければならないのだ。そうしなければ3日と正気でいることはできない。

 しかし、2度目のセックスを終えると、僕は眠くて仕方なくなってしまった。僕はぐったりと力を失って僕に抱きつくイルハくんの横顔を指先で撫でながら「薬は明日飲もう」と思った。眠りに落ちる寸前にイルハくんの言葉を思い出した。

「あなたの書く小説好きよ」