スキゾフレニアの恋人

 湯船に浸かると一日の疲れが全身から溶け出すような気がした。僕は「髪の毛をまとめるから先に入っていて」というイルハくんを待ちながらシャルル・アズナヴールの『忘れじのおもかげ』を口笛で吹いた。1999年にエルヴィス・コステロが『ノッティング・ヒルの恋人』の主題歌としてリバイバル・ヒットもさせた名曲だ。

「私、その歌好き」

 イルハくんはドン・キホーテで買ったシャンプーやトリートメントを持って浴室のドアを押し開いた。髪の毛をクリップでひとまとめにしている。僕は生まれたままの姿をしたイルハくんのまぶしさに目を細めた。

 イルハくんの体にはぜい肉というものがすこしもなかった。華奢な肩は鋭角に鍛えられ、細く括れたウエストには縦に筋が入っている。普段の節制とトレーニングの賜物だ。そして、そのおおきな胸は重さに反して垂れることなくつんと上向きに持ち上がっていた。

「ゴージャスだ」

 イルハくんは「ありがとう」と頷くとボディーソープで体を洗い始めた。僕は口笛の続きを吹いた。

「照れ隠し?」
「女の子の裸を見るのは10年ぶりだ」
「本当?」とイルハくんは僕を見た。

 僕は「本当」と首肯した。

「症状の悪化でずっと入退院を繰り返していたからね。女の子と知り合う暇なんかなかったんだ。薬の副作用で性欲も湧かなかったからそれでも苦労はしなかった」
「今は?」
「性欲?」
「そう」
「今は、ほら。ご存知の通りだ。最近の薬は副作用が少なくて助かる」

 イルハくんは体の泡をシャワーで洗い流すと、長い脚をそのつま先から湯船にそっと浸からせた。僕らは向かい合う形で狭い湯船に腰を落ち着けた。少なくない湯がこぼれ落ちた。イルハくんは膝を抱えるように座ると僕の目をまっすぐ見つめた。イルハくんには人の目をまっすぐ見詰めすぎるところがある。彼女の容姿の際立った端正さとその視線の強さが僕の視線をどこへともなくさまよわせた。

「ねえ、私のことをどう思う?」

 僕は「素敵な女の子だと思う」と答えた。イルハくんは「そう」と人差し指で唇をそっと撫でた。秘密の呪文を唱えようとするみたいに。それから、今度は小さな控えめな声でまた尋ねた。

「ねえ、私を女扱いすることをやめてもらうことってできるかしら」
「女扱いをやめる?」と僕は尋ね返した。「男扱いされたいということ?」
「女扱いも男扱いもされたくないの」

 僕はいったんイルハくんの言葉を自分のなかで検証した。女扱いも男扱いもされたくない?

「じゃあいったいきみをどう扱えばいいんだろう?」
「私は私よ。私を見てありのまま扱えばいいの」

僕は「ありのまま」としばらく思考を逡巡させた。

「それはLGBTQに関連している?」
「ええ」とイルハくんは頷き返した。

 僕は「なるほど」と首肯した。

「僕の今日の行動は不適切だった?」
「ところどころね。あまり女の子だと思わずもっと自然に扱ってもらえたらよかったんだけれど。でも、私もなかなか言い出せなかったから」
「たとえばどんな風に?」
「『素敵な女の子』という言い回しは私には不適切かもね。私は自分のことを女だとは思っていないから」
「でも男とも思っていない」
「ええ」とイルハくんは頷く。「私には性別がないの」
「性別がない?」
イルハくんは肯いた。「私、昔はスカートを絶対に穿かなかった。女じゃないから。だからと言って性自認が男というわけでもなかった。きっとこんなこと聞いてもなにがなんだかわからないわよね。私自身も最近まで自分のことがぜんぜんわからなかったくらいだもの」
「なるべく理解できるように努力している」と僕は言った。
「私のような人間をあらわす言葉は色々ある。でも私のことに関して言えば私が話すことを第一に考えて欲しい。他人がどうこう言っていたとかではなくね」
「君の場合とりあえず性別がない」
「今日はあなたが喜ぶかと思ってあんな格好をしていたけれど、普段はもっと男みたいな格好をしていることもよくあるのよ。というか、私にとってはメンズとレディスという垣根がそれほどないのね」
「男装というわけではないんだね?」
「ええ、べつに男の真似がしたいわけではないもの。私にとってはそれも自然な格好のひとつなの。スカートを穿くのと同じくらいにはね」

 僕は「なるほど」と首肯した。僕の脳は先ほどからずっとフル稼働していた。

「セックスはどうなんだろう?」
「性的指向はバイね。男も女も関係なく愛することができる」
「男女のどんな部分に興奮する?」
「そのへんも一般的なイメージと変わらないと思う。男でも女でも鍛えた体が好きよ。映画を見ながら『この俳優いいケツしてるな』と思うこともたびたびある」
「いいケツ」
「私、俳優を見るときは男女を問わず自然とお尻に目がいくの。そういうのって、なんというか不可抗力よね。あなたが私の胸を見てしまう気持ちもよくわかる」

 イルハくんは「私」と言葉を喉に詰まらせた。

「私、このことを家族に打ち明けたことがあるの。キャリアが順調にいっていた時期で今なら自分を受け入れてもらえるような気がした。

 でも、家族は私の話を聞いたあと『心配しなくてもお前は女だよ』と言った。

 男は男、女は女、というのが家族の凝り固まった価値観なの。私の家族は私の意見なんかこれっぽっちも受け入れようとはしないのよ」

 僕は「そうかもしれない」と肯いた。僕にしろ正しく理解できたとは言い難いのだ。京都の伝統ある旧家に生まれた狭量な人間たちが今のイルハくんの告白を理解できるかと言えば難しいだろうと思った。

「私の話は理解できた?」
「どうだろう」と僕は正直な気持ちを口にした。「僕はLGBTQの専門家じゃないしきみとも知り合ってまだ一年しか経っていない。何もかもを全部理解できたかと言えば難しい」
「そうでしょうね」とイルハくんは首を振った。「何もかも理解する必要なんかないのよ。わからないということも含めて私を受け入れて欲しい」

 イルハくんはため息をついた。

「私はあなたに高望みしすぎているわよね」
「お互いさまじゃないかな」

 イルハくんは自分の膝を抱えるように自分の胸元へ引き寄せた。

「私、あなたの病気につけ込んで自分の理解を求めているのかしら」
「それもお互いさまだ」と僕は両手をあげた。「それに、きみは少なくとも殺人鬼じゃない」
「殺人鬼でもあなたが好きよ」

 誰かが僕の耳元で「嘘だ!」と叫んだ。僕はとっさに耳を押さえた。しかし、その声は僕の頭蓋骨の内側で「嘘だ、嘘だ、嘘だ」と反響し続けた。

「どうしたの?」

 イルハくんが訝しげな顔をした。僕は「君に水が入ったんだ」と答えた。自分の声とは思えないほど感情のない声だった。