僕とイルハくんはドン・キホーテでパジャマを選んだ。イルハくんは「絶対に綿100%よ」と言ってパジャマを吟味していた。僕はイルハくんの後ろ姿を眺めながら店内に流れている田中マイミの『MIRACLE SHOPPING〜ドン・キホーテのテーマ〜』をときどき口ずさんだ。僕はこの歌の「ジャングルだ」という部分が大好きなのだ。
イルハくんはやがて慎重な手つきで一着のパジャマを選んだ。半袖とショートパンツのパジャマだ。僕が「寒くない?」と訪ねると、イルハくんは「でも可愛いから」とそれを僕が持っている買い物かごに放り込んだ。買い物かごにはイルハくんのお泊りに必要な歯ブラシやスキンケア用品などのアイテムが既に一通り入れられていた。僕は「そういえば」とイルハくんに尋ねた。
「お酒は飲む?」
「もちろん」
我々はパジャマやお泊りセットと一緒に白ワインといくつかのつまみを買い込んだ。車の助手席にイルハくんを乗せると「これからこの子が家にくるんだな」と思った。ジェムさんが初対面の人間を警戒しやしないかと僕は少し心配になった。気難しいところもある猫さんなのだ。
アパートメントまでの道中、僕らはほとんど何も喋らなかった。イルハくんは窓の外を流れる景色を黙って見ていたし僕も運転に集中していた。
アパートメントの玄関前の駐車場に車を停めたのは午後7時を回った頃だった。階段を登って2階にある部屋のドアを押し開くといつも通りジェムさんが僕を出迎えた。
「おかえり」
ジェムさんは僕の足元に顔をすり寄せたあと、僕の後ろから「こんばんは、ジェムさん」と顔を見せたイルハくんに目を細くした。ジェムさんは「お客さんかい」と僕に尋ねた。僕は「イルハくんだ」と答えた。
「今夜ここに泊まるんだ」
ジェムさんは値踏みするように「ふうん」と何度か鼻を鳴らしたあと、定位置である椅子のクッションの上へと戻って丸くなった。特にイルハくんを警戒した様子はなかった。
「どうだった?」
「多分、合格した」
「よかった」
僕はコートとジャケットを脱いでハンガーにかけるとペリエにライムを絞ったものをグラスに入れて出した。イルハくんは「おしゃれね」と眉をあげた。僕は「ひとりで飲むときのために常備してあるだけだよ」と肩をすくめた。
僕はコートを脱いだイルハくんのそのおおきな胸にたびたび気を取られながら白ワインとつまみを冷蔵庫に詰めた。イルハくんはソファに腰を落ち着けるとグラスの中身をちびちびと飲んだ。僕はジェムさんにいったんどいてもらってからデスクの前の椅子に腰かけた。僕が椅子にいるときはソファが定位置なのだが今回はそのどちらも埋まってしまったためジェムさんは「やれやれ」と台所の方へ避難していった。
「私、ジェムさんの居場所を奪ってしまったんじゃないかしら」
「ジェムさんも僕の異バシィを勝手に奪っているんだ。お互いさまさ」
台所の方から「聞こえてるぞ」という声がした。僕は口を斜めにした。イルハくんには聞こえていないようだ。
「きれいな部屋ね」
「ものが少ないだけだよ」
「私の部屋もそう。片付けができないから。ものもよくなくすし」
「なくしたものは出てくる?」
「いいえ」とイルハくんは首を振った。「妖精が消してしまうの」
僕は『ピーター・パン』のティンカー・ベルが魔法の粉でイルハくんの私物をどこかへ消してしまうところを想像した。
「なぜ妖精はイルハくんに意地悪をするんだろう?」
「妖精っていたずら好きだから」
「困った妖精さんだ」
「あなたは妖精を見たことはある?」
「喋る猫をケット・シーというらしい」
「ああ」とイルハくんは首肯した。「お互い妖精には縁のある生活を送っているみたいね」
「どうやらね」
僕はMacBookからiPadにpdfファイルを送ると、イルハくんに「どうぞ」と手渡した。イルハくんはグラスをサイドテーブルに置くと僕から受け取ったiPadで僕の小説を読み始めた。それはこんな小説だった。
ある日、主人公は思いを寄せる女の子を街角で見かける。主人公は好奇心から女の子のあとを追いかける。しかし、女の子は路地の角を曲がった拍子に煙のように消えてしまう。女の子の足跡をたどるうちに主人公は不思議な王国へと迷い込むことになる。
「不思議の国のアリスみたい」
「話の掴みはおおむね一緒だね」
「純文学というからもっと堅苦しいのを想像していたんだけれど、ぜんぜんそんなことないのね」
「純文学も大抵は堅苦しくなんてないんだ。シェイクスピアだって当時の大衆娯楽だよ」
「これ、続きはないの?」
「ない」と僕は両手をあげた。「何度も続きを書こうとしたんだ。でも、書けなかった」
「狼がいないから?」
「そういうことになるね」
「私、あなたの書く小説好きよ」
「ありがとう。僕もだ」
イルハくんは再び僕の小説に目を落とした。僕はイルハくんのそのおおきな胸に目をやった。なにぶん、どうしても目立ってしまうのだ。
「気になる?」
「気になる」
「もう少ししたら見せてあげる」
僕は「ふむ」と腕を組んだ。イルハくんはiPadのページを指先でめくった。
「ねえ、本当に今は小説が書けない?」
「書けない」
「一文字も?」
「一文字も」
「不思議ね」とイルハくんは首を傾げた。
僕は「なんといえばいいのかな」と言葉を選んだ。
「過去の僕は翼を広げて太陽に近づくことができた。神話のイカロスのようにね。僕は自由に空を飛び、太陽の熱を間近から浴びた。僕の小説はそんな風にして書かれた。でも、太陽に近づきすぎてしまったんだね。僕は翼を焼き焦がして墜落してしまった」
「ぜんぜんわからない」
「つまり」と僕は熟考した。「過去の自分と今の自分を比べてしまうんだ。過去の自分はアイデアも文才も冴え渡っていた。それと比べれば、今の僕は才能を失った凡人そのものだ。凡人の小説なんか誰も読まないよ」
イルハくんは「そうかしら」と顎に指先を当てた。僕は「そうさ」と首肯した。
「僕の小説なんか誰も読まないんだ」
時刻は午後8時を回っていた。僕は「映画でも観る?」と尋ねた。イルハくんは「いいわね」と首肯した。
「でも、その前にお風呂に入るわ。お化粧も落としたいし」
僕が「お先にどうぞ」というと、イルハくんは「ねえ」と僕に向かって身を乗り出した。
「一緒に入りましょう」
「一緒に?」
「いや?」
僕は「いやではないけれど」と答えた。イルハくんは「けれど?」と尋ねた。
「アパートの狭い風呂だよ」
「狭いお風呂って好きよ」
僕は「なるほど」と首肯した。他にイルハくんの申し出を断らなければならない理由をいくつか探してみたがどうやら見当たらないようだった。
イルハくんはやがて慎重な手つきで一着のパジャマを選んだ。半袖とショートパンツのパジャマだ。僕が「寒くない?」と訪ねると、イルハくんは「でも可愛いから」とそれを僕が持っている買い物かごに放り込んだ。買い物かごにはイルハくんのお泊りに必要な歯ブラシやスキンケア用品などのアイテムが既に一通り入れられていた。僕は「そういえば」とイルハくんに尋ねた。
「お酒は飲む?」
「もちろん」
我々はパジャマやお泊りセットと一緒に白ワインといくつかのつまみを買い込んだ。車の助手席にイルハくんを乗せると「これからこの子が家にくるんだな」と思った。ジェムさんが初対面の人間を警戒しやしないかと僕は少し心配になった。気難しいところもある猫さんなのだ。
アパートメントまでの道中、僕らはほとんど何も喋らなかった。イルハくんは窓の外を流れる景色を黙って見ていたし僕も運転に集中していた。
アパートメントの玄関前の駐車場に車を停めたのは午後7時を回った頃だった。階段を登って2階にある部屋のドアを押し開くといつも通りジェムさんが僕を出迎えた。
「おかえり」
ジェムさんは僕の足元に顔をすり寄せたあと、僕の後ろから「こんばんは、ジェムさん」と顔を見せたイルハくんに目を細くした。ジェムさんは「お客さんかい」と僕に尋ねた。僕は「イルハくんだ」と答えた。
「今夜ここに泊まるんだ」
ジェムさんは値踏みするように「ふうん」と何度か鼻を鳴らしたあと、定位置である椅子のクッションの上へと戻って丸くなった。特にイルハくんを警戒した様子はなかった。
「どうだった?」
「多分、合格した」
「よかった」
僕はコートとジャケットを脱いでハンガーにかけるとペリエにライムを絞ったものをグラスに入れて出した。イルハくんは「おしゃれね」と眉をあげた。僕は「ひとりで飲むときのために常備してあるだけだよ」と肩をすくめた。
僕はコートを脱いだイルハくんのそのおおきな胸にたびたび気を取られながら白ワインとつまみを冷蔵庫に詰めた。イルハくんはソファに腰を落ち着けるとグラスの中身をちびちびと飲んだ。僕はジェムさんにいったんどいてもらってからデスクの前の椅子に腰かけた。僕が椅子にいるときはソファが定位置なのだが今回はそのどちらも埋まってしまったためジェムさんは「やれやれ」と台所の方へ避難していった。
「私、ジェムさんの居場所を奪ってしまったんじゃないかしら」
「ジェムさんも僕の異バシィを勝手に奪っているんだ。お互いさまさ」
台所の方から「聞こえてるぞ」という声がした。僕は口を斜めにした。イルハくんには聞こえていないようだ。
「きれいな部屋ね」
「ものが少ないだけだよ」
「私の部屋もそう。片付けができないから。ものもよくなくすし」
「なくしたものは出てくる?」
「いいえ」とイルハくんは首を振った。「妖精が消してしまうの」
僕は『ピーター・パン』のティンカー・ベルが魔法の粉でイルハくんの私物をどこかへ消してしまうところを想像した。
「なぜ妖精はイルハくんに意地悪をするんだろう?」
「妖精っていたずら好きだから」
「困った妖精さんだ」
「あなたは妖精を見たことはある?」
「喋る猫をケット・シーというらしい」
「ああ」とイルハくんは首肯した。「お互い妖精には縁のある生活を送っているみたいね」
「どうやらね」
僕はMacBookからiPadにpdfファイルを送ると、イルハくんに「どうぞ」と手渡した。イルハくんはグラスをサイドテーブルに置くと僕から受け取ったiPadで僕の小説を読み始めた。それはこんな小説だった。
ある日、主人公は思いを寄せる女の子を街角で見かける。主人公は好奇心から女の子のあとを追いかける。しかし、女の子は路地の角を曲がった拍子に煙のように消えてしまう。女の子の足跡をたどるうちに主人公は不思議な王国へと迷い込むことになる。
「不思議の国のアリスみたい」
「話の掴みはおおむね一緒だね」
「純文学というからもっと堅苦しいのを想像していたんだけれど、ぜんぜんそんなことないのね」
「純文学も大抵は堅苦しくなんてないんだ。シェイクスピアだって当時の大衆娯楽だよ」
「これ、続きはないの?」
「ない」と僕は両手をあげた。「何度も続きを書こうとしたんだ。でも、書けなかった」
「狼がいないから?」
「そういうことになるね」
「私、あなたの書く小説好きよ」
「ありがとう。僕もだ」
イルハくんは再び僕の小説に目を落とした。僕はイルハくんのそのおおきな胸に目をやった。なにぶん、どうしても目立ってしまうのだ。
「気になる?」
「気になる」
「もう少ししたら見せてあげる」
僕は「ふむ」と腕を組んだ。イルハくんはiPadのページを指先でめくった。
「ねえ、本当に今は小説が書けない?」
「書けない」
「一文字も?」
「一文字も」
「不思議ね」とイルハくんは首を傾げた。
僕は「なんといえばいいのかな」と言葉を選んだ。
「過去の僕は翼を広げて太陽に近づくことができた。神話のイカロスのようにね。僕は自由に空を飛び、太陽の熱を間近から浴びた。僕の小説はそんな風にして書かれた。でも、太陽に近づきすぎてしまったんだね。僕は翼を焼き焦がして墜落してしまった」
「ぜんぜんわからない」
「つまり」と僕は熟考した。「過去の自分と今の自分を比べてしまうんだ。過去の自分はアイデアも文才も冴え渡っていた。それと比べれば、今の僕は才能を失った凡人そのものだ。凡人の小説なんか誰も読まないよ」
イルハくんは「そうかしら」と顎に指先を当てた。僕は「そうさ」と首肯した。
「僕の小説なんか誰も読まないんだ」
時刻は午後8時を回っていた。僕は「映画でも観る?」と尋ねた。イルハくんは「いいわね」と首肯した。
「でも、その前にお風呂に入るわ。お化粧も落としたいし」
僕が「お先にどうぞ」というと、イルハくんは「ねえ」と僕に向かって身を乗り出した。
「一緒に入りましょう」
「一緒に?」
「いや?」
僕は「いやではないけれど」と答えた。イルハくんは「けれど?」と尋ねた。
「アパートの狭い風呂だよ」
「狭いお風呂って好きよ」
僕は「なるほど」と首肯した。他にイルハくんの申し出を断らなければならない理由をいくつか探してみたがどうやら見当たらないようだった。
