スキゾフレニアの恋人

 初デートにサイゼリヤなんて本当にいいのかな、と僕は不安になったが、イルハくんはテーブルにつくと早速サイゼリヤ名物の間違い探しに没頭し始めた。

「あたらしいのが出たからずっと気になっていたのよ」

 僕は間違い探しに夢中のイルハくんから注文を聞くとスマートフォンでオーダーを出した。

【僕】
バッファローモッツアレラのカプレーゼ
コーンクリームスープ
エスカルゴのオーブン焼き
アロスティチーニ
ムール貝のガーリック焼き
フォッカチオ
ティラミスクラシコ

【イルハくん】
わかめのサラダ
田舎風ミネストローネ
ミラノ風ドリア
イタリアンプリン

 僕が赤いジャケットの男の後ろに並んでドリンクバーからコーヒーと紅茶をテーブルへ運ぶ間もイルハくんはずっと間違い探しに真剣な目を注ぎ続けていた。

「間違い探しが好きなの?」
「ええ」
「エスカルゴとムール貝すこし食べる?」
「ええ」
「料理さめるよ」
「ええ」
「ダニエル・カッツ、デヴィッド・フェンケル、ジョン・ホッジスらが2012年に立ち上げた映画会社の名前は?」
「A24」

 僕らはテーブルに揃った料理を分け合って食べながら間違い探しに挑んだ。サイゼリヤの間違い探しははっきり言って意地悪だ。そもそも解けるようにはできていない。それでも、僕とイルハくんは果敢に挑戦し続けた。僕が3つ、イルハくんは5つ間違いを見つけた。残る2つはどうしても見つからなかった。大抵そうなのだ。全部で10個ある間違いの2つが見つからない。

「お手上げだ」
「悔しいからネットで検索するわ」

 イルハくんはサイゼリヤの間違い探しの答え合わせをしている個人ブログか何かを見ながら残る2つの間違いを見つけ出した。それは間違いというにはあまりにも些細な違いだった。線が数ミリ長いか短いかという程度の差異なのだ。拡大鏡か何かを使ってようやくわかるかどうかという違いだった。

「こんなのわかるわけないよ」
「サイゼリヤらしいわね」
「ほんとに腹が立つ」
「でも簡単に解けたら料理が運ばれてくるまでの時間を潰せなくなるんじゃないかしら」

 僕は「そりゃそうだけれど」と腕を組んだ。イルハくんは「楽しかった」と間違い探しを閉じた。

「ねえ、あなたのことを聞かせて」
「僕?」
「子供の頃はどんなだった?」

 僕は「どんなと言われてもな」とエスカルゴバターに千切ったフォッカチオをひたして食べた。

「昨日も言ったけれど、猫としゃべるような少年だったよ。あとは、すごく気分のむらが激しかった。今でも統合失調症の薬とは別に気分を落ち着かせる薬を飲んでいるんだ」
「薬はそのふたつだけ?」
「あとはパニック発作が起きたときのための頓服だね。パニック発作はわかる?」
「何かの拍子に混乱してしまうということ?」
「それは単なるパニックだ。パニック発作というのは、脳の扁桃体という部分が過剰反応する自律神経の誤作動なんだ。症状は一言でいうと『死なない心臓発作』だね。呼吸ができなくなって心臓が止まりそうな錯覚に陥る。僕もそうだけれどはじめて発作を体験した人は心筋梗塞だと思って大抵は救急車を呼ぶよ」
「あなたって、その」
「脳みそがひどく壊れているんだ、生まれつき」

 イルハくんは少しの沈黙を挟んだ。

「お父様の遺伝なのよね」
「多分ね」
「お父様のことはどう?」
「昔は嫌いだった」と僕は言った。「というより、嫌いになるように母親から仕向けられていた。僕を父さんに面会させないためにね。でも、今は好きだよ。色々な話を聞くとやっぱり僕と血の繋がった人間なんだと思う」
「どんなところに対してそう思うの?」
「多分きみは怖がると思う」

 イルハくんは「言ってみて」と促した。

「父さんはね、僕ら親子をストーキングしていた時期があるんだ。面会を断られて実力行使に打って出たんだね。母親は気味悪がって警察や弁護士に相談した。接近禁止命令も出た。でも、父さんは執念深く僕らをストーキングし続けた。僕の誕生日になると家の前に張り込んで僕が姿を見せるのをずっと待っていた。子供の頃はそんな父さんが怖くて仕方なかった」
「でも、今はそんなお父様が好きなのね?」
「僕にも偏執的なところがあるから」
「何かに異常なこだわりを見せることが?」

 僕は「そうだね」と首肯した。

「特に狼がいた頃は酷かったな。気分のむらも激しかった。発作も何度も出た。でも、一番怖かったのは自分が誰かを傷つけるかもしれないという恐怖だった」
「誰かに何かをしたの?」
「どうだったかな」
「どうだったかな?」とイルハくんは訝しげな顔をした。「どうだったかなって何?」
「わからない」
「わからない?」
「僕の記憶にはそのことについて考えようとすると思考が停止してしまう部分があるんだ」
「思い出せないの?」
「思い出せないわけではない。僕はそのことをきちんと覚えている。ただ、」
「ただ?」

 僕の思考は完全に停止した。食事を取る手も完全に止まった。イルハくんは何か異質なものを見る目で僕を見た。

「大丈夫?」
「なにが?」
「昨日自分が言ったことを覚えている?」
「自分が言ったこと?」
「あなたはこう言ったのよ。月夜の晩にナイフを持って私を訪ねるかもしれない、って」
「ああ」
「そういうことを誰かにしたの?」

 僕は「どうだったかな」とくりかえした。

「少なくともきみをからかうためにそんなことを言ったんじゃないことだけはたしかだ」
「ええ、それはわかっているけれど」
「僕が怖くなったならそれはそれでいいんだ」と僕は首を振った。「多分、僕はきみに警告しているんだ。僕に深入りすると危険なんだということを」
「私にいなくなって欲しい?」
「いや」と僕はまた首を振る。「でも、僕は危険だ。狼がきみを見ている」
「狼が見えるの?」
「感じるんだ。狼がきみを見ている。狼は今も僕のすぐそばにいる」
「狼はなにをしようとしているの?」
「それは、」

 僕の思考はまた停止した。イルハくんは動きを止めた僕に「ごめんなさい」と言った。

「別の話をしましょう」
「いいんだ、ごめん」
「あなたの小説について聞かせて」

 僕は「たいした小説じゃないんだ」と言った。イルハくんは「聞かせて」とくりかえした。

「どんなジャンルなの?」
「純文学だね、一応は」
「夏目漱石みたいな?」
「僕自身はエンタメ小説のつもりで書いたんだけれど出版社が純文学として売り出したんだ。そういうのって結局は作る側じゃなくて売る側の都合だから」
「本はどこかで読める?」
「僕のところにはない。自分の小説を読むのがいやになって捨ててしまった」
「どこかにないの?」
「なにせ、売れなかったからね」

 でも、と僕は思い出した。

「でも、僕のパソコンに書きかけの原稿があるよ。10年前にほんの少し書いたやつ。それでよかったら読ませられると思う」
「今夜読ませてもらえる?」
「あとでpdfにして送るよ。新幹線のなかで読むといい」

 イルハくんは「なにを言っているの」と僕の顔をまじまじと見た。

「これからあなたの家で読むのよ」
「僕の家で?」と僕は腕時計を確かめた。「帰りの新幹線は?」
「今夜は泊まるわ」
「どこに?」
「あなたの家に」

 僕が何も言えずにいると、イルハくんは紙ナプキンで唇を拭って「さて」と僕を見た。

「このあとパジャマを買いたいのだけれど、いいかしら。私、コットン100%じゃないとだめなの。他のものが混ざっていると肌がちくちくして寝られないのよ」