僕らは駐車場に車を停めると2月の午後の公園をのんびり散歩した。雪が降ったあとだからか公園には赤いジャケットの男の他には人の姿は見えなかった。イルハくんはごく自然に僕の腕に自分の腕を回した。僕はコート越しにそのおおきな胸の感触を感じた。
「ねえ、雪だるまを作ってもいい?」
僕は「雪だるまねえ」と渋い顔をした。雪国生まれ雪国育ちの僕にとって雪だるまは愉快な友達ではなく敵の仲間だ。イルハくんは僕の態度を無視して一人で雪玉を転がし始めた。僕も仕方なくそれに加わった。イルハくんは『アナと雪の女王』の『雪だるまつくろう』を素晴らしい歌唱力で歌った。イルハくんは本当に歌がうまいのだ。僕も下手くそな語りで参加した。
「でも『ずっとひとりでいると壁の絵とおしゃべりしちゃう』って僕の場合ちょっとしゃれにならないよな」
「笑えないジョークはやめて」
僕もイルハくんも壊れたレコードのように『雪だるまつくろう』を口ずさみながら雪玉を転がし続けた。雪だるまを作るために歌っているのか、それとも、歌うために雪だるまを作っているのか、途中からわからなくなってしまいそうなほどだった。
「私はね」とイルハくんが雪玉を転がしながら白い息を漏らした。「京都の医者の家の生まれたの。一族みんな医者。たまに、弁護士や銀行員もいたけれど」
僕はイルハくんとは別の雪玉を転がしながら首肯した。イルハくんはいったん雪玉転がしをやめて真っ赤に上気した顔で息をついた。
「パパもお医者様だった。どちらかと言えば、研究者というタイプね。仕事の都合でニューヨークに行くことになって、私はそこで生まれることになった。
小さい頃は、普通の子と大差はなかったのよ。これと言って育ちが悪いということもなかった。私はその頃に限っては他の子供と同じように両親から無条件に愛されていると感じることができた。
子供の頃の夢はパパみたいな医者になることだった。私がそういうと両親は揃って喜んでくれた。自分が医者になれないなんてそのときは思ってもみなかった。家でも学校でも努力すればどんなものにでもなれると教えられてきたから。
でも、私、小学校の勉強がぜんぜんできなかったの。
両親は私のために家庭教師をつけたけれど無駄だった。家庭教師はすべてをあきらめた顔で両親に『自分にはこれ以上どうしようもできません』と言った。子供心にも見限られたんだということがよくわかった。
私、妹がいるの。私と違って頭のいい妹。パパは『どうして妹にできることがお前にはできないんだ』といって私をよく殴った。母親は私をいないものとして扱っていた。あの人にはできのいい妹だけいればよかったのね」
イルハくんは再び雪玉を転がし始めた。
「でもある日、学校の先生が私に演技学校のサマープログラムを紹介してくれたの。なぜかはわからない。勉強ができないのはあきらかだったからどうにかして他の道を、ということだったのかもしれない。
両親は反対したわ。特に母親がね。芸人の真似事なんかみっともない、って。日本の古い家に生まれ育った狭量な人だった。自分とは他の考え方を受け入れることができないの。残念な人よ」
僕は黙って肯いた。
「で、私はそのサマープログラムでそれまでとはまったく正反対の気分を味わったわけ。他の子供には難しいことが自分には簡単にできた。最初、私は他の子供がふざけて手を抜いているのかと思ったくらい。でも、そうじゃなかった。私が他の子供とはまったく違っていただけだった」
「ペンギンみたいに?」
「ペンギン?」
「空は飛べなくても海を泳げる」
「そうかもしれない」とイルハくんは頷いた。「プログラムの最終日に講師がきみさえよければもっとちゃんとした専門教育を受けられる場所を紹介するよと言った。あとは、トントン拍子ね。行く先々でその時々の講師に認められて私の待遇は上昇し続けた。で、最後にブロードウェイに辿り着いた、というわけ」
僕は「才能があったんだ」と言った。イルハくんは「どうかしらね」と返した。
「私、IQの平均値は100なの。人並みね。でも、詳しく見ると特定のIQだけが130以上ある。そして、その他のIQは70以下しかない。統計学と偏差値についてはわかるわね?」
「つまり、きみはある特定分野については人類全体で見ても上位1%の天才だけれど、その他の分野については下位1%のポンコツだ」
「それが、私が勉強ができなかった理由。そして、演技ができる理由よ」
僕はそのことについて少し考えをめぐらせてみた。小学校の勉強すら満足にできないのに芸術の分野には異常な才能を発揮するある種の天才。
「きみはサヴァン症候群なのかな?」
「条件は満たすわね。でも、べつに日常生活に便利な才能はこれっぽっちもないのよ。映像記憶があったら台本を覚えるのに便利なんだけれど」
「じゃあどんなことができるの?」
「ダンスの振り付けなんかは一発で覚えられるわね。完璧に」
「完璧に」
「普通の人は少しずつ身体に振り付けをなじませるんだと思うけれど、私の場合は一瞬で動きが浸透するの。スポンジに水を含ませるみたいに。アクションシーンも得意よ。得意というか、一度打ち合わせてしまえばあとはその通りやるだけね。私の場合は」
「演技も同じ?」
「ええ」とイルハくんは首肯した。「私、一度観ればあらゆる人間の演技をその場で完璧に再現できるの。なにかやってみせましょうか?」
僕はミュージカル映画『シカゴ』で主演のレネー・ゼルウィガーが歌って踊る『Roxie』の部分を試しに注文してみた。イルハくんは「いいわよ」と簡単に頷き返した。
イルハくんが雪玉から手を離した途端、しん、と空気が凍った気がした。
あとは、圧巻のパフォーマンスだ。イルハくんはレネ・ゼルウィガの演技をそのまま完璧に写し取っていた。あまりにも顔つきや声が別人のように変わったので戸惑いすら覚えたほどだ。
「どうだった?」
演技が終わると、僕は拍手した。こんな素晴らしいものを無料で見せてもらってしまっていいのかと思った。
「きみは天才だ」
イルハくんは「天才」と肩を揺らした。
「おかしなものよね。私、ひとりではゴミ出しすらできないのよ」
僕が「ゴミ出し?」と疑問符を浮かべると、イルハくんは「そう」とうつむきがちに首肯した。
「ゴミを出す日がどうしても覚えられないの。放っておくとペットボトルや瓶なんかのゴミが部屋中にあふれてしまう。だから、家のことは全部ハウスキーパーにお願いしている」
「料理や掃除は?」
「そのへんはできる。でも、まあ、面倒だから。お金には困っていないし。生活は他の人の手を借りる方が間違いないの。私の場合は」
夕暮れの日差しが僕らの影を長く引き伸ばしていた。僕が自分の雪玉をイルハくんの雪玉の上に乗せると、イルハくんは松ぼっくりや木の枝を使って雪だるまの顔をつくった。イルハくんは細かい装飾にずいぶんなこだわりを見せていた。
「これでよし」
僕らは完成した雪だるまの前で頷きあった。時刻は午後5時に近づいていた。昼食はスターバックスのシフォンケーキだけだったから僕はいささかの空腹感を覚えた。僕の考えを読んだかのようにイルハくんが「お腹が空いたわね」と言った。僕は「なにか食べたいものはある?」と尋ねた。
「サイゼリヤ」
僕は「サイゼリヤ?」と尋ね返した。
「サイゼリヤでいいの?」
「サイゼリヤがいいの」
イルハくんの声は妙に弾んでいた。
「私、サイゼリヤ大好き」
「ねえ、雪だるまを作ってもいい?」
僕は「雪だるまねえ」と渋い顔をした。雪国生まれ雪国育ちの僕にとって雪だるまは愉快な友達ではなく敵の仲間だ。イルハくんは僕の態度を無視して一人で雪玉を転がし始めた。僕も仕方なくそれに加わった。イルハくんは『アナと雪の女王』の『雪だるまつくろう』を素晴らしい歌唱力で歌った。イルハくんは本当に歌がうまいのだ。僕も下手くそな語りで参加した。
「でも『ずっとひとりでいると壁の絵とおしゃべりしちゃう』って僕の場合ちょっとしゃれにならないよな」
「笑えないジョークはやめて」
僕もイルハくんも壊れたレコードのように『雪だるまつくろう』を口ずさみながら雪玉を転がし続けた。雪だるまを作るために歌っているのか、それとも、歌うために雪だるまを作っているのか、途中からわからなくなってしまいそうなほどだった。
「私はね」とイルハくんが雪玉を転がしながら白い息を漏らした。「京都の医者の家の生まれたの。一族みんな医者。たまに、弁護士や銀行員もいたけれど」
僕はイルハくんとは別の雪玉を転がしながら首肯した。イルハくんはいったん雪玉転がしをやめて真っ赤に上気した顔で息をついた。
「パパもお医者様だった。どちらかと言えば、研究者というタイプね。仕事の都合でニューヨークに行くことになって、私はそこで生まれることになった。
小さい頃は、普通の子と大差はなかったのよ。これと言って育ちが悪いということもなかった。私はその頃に限っては他の子供と同じように両親から無条件に愛されていると感じることができた。
子供の頃の夢はパパみたいな医者になることだった。私がそういうと両親は揃って喜んでくれた。自分が医者になれないなんてそのときは思ってもみなかった。家でも学校でも努力すればどんなものにでもなれると教えられてきたから。
でも、私、小学校の勉強がぜんぜんできなかったの。
両親は私のために家庭教師をつけたけれど無駄だった。家庭教師はすべてをあきらめた顔で両親に『自分にはこれ以上どうしようもできません』と言った。子供心にも見限られたんだということがよくわかった。
私、妹がいるの。私と違って頭のいい妹。パパは『どうして妹にできることがお前にはできないんだ』といって私をよく殴った。母親は私をいないものとして扱っていた。あの人にはできのいい妹だけいればよかったのね」
イルハくんは再び雪玉を転がし始めた。
「でもある日、学校の先生が私に演技学校のサマープログラムを紹介してくれたの。なぜかはわからない。勉強ができないのはあきらかだったからどうにかして他の道を、ということだったのかもしれない。
両親は反対したわ。特に母親がね。芸人の真似事なんかみっともない、って。日本の古い家に生まれ育った狭量な人だった。自分とは他の考え方を受け入れることができないの。残念な人よ」
僕は黙って肯いた。
「で、私はそのサマープログラムでそれまでとはまったく正反対の気分を味わったわけ。他の子供には難しいことが自分には簡単にできた。最初、私は他の子供がふざけて手を抜いているのかと思ったくらい。でも、そうじゃなかった。私が他の子供とはまったく違っていただけだった」
「ペンギンみたいに?」
「ペンギン?」
「空は飛べなくても海を泳げる」
「そうかもしれない」とイルハくんは頷いた。「プログラムの最終日に講師がきみさえよければもっとちゃんとした専門教育を受けられる場所を紹介するよと言った。あとは、トントン拍子ね。行く先々でその時々の講師に認められて私の待遇は上昇し続けた。で、最後にブロードウェイに辿り着いた、というわけ」
僕は「才能があったんだ」と言った。イルハくんは「どうかしらね」と返した。
「私、IQの平均値は100なの。人並みね。でも、詳しく見ると特定のIQだけが130以上ある。そして、その他のIQは70以下しかない。統計学と偏差値についてはわかるわね?」
「つまり、きみはある特定分野については人類全体で見ても上位1%の天才だけれど、その他の分野については下位1%のポンコツだ」
「それが、私が勉強ができなかった理由。そして、演技ができる理由よ」
僕はそのことについて少し考えをめぐらせてみた。小学校の勉強すら満足にできないのに芸術の分野には異常な才能を発揮するある種の天才。
「きみはサヴァン症候群なのかな?」
「条件は満たすわね。でも、べつに日常生活に便利な才能はこれっぽっちもないのよ。映像記憶があったら台本を覚えるのに便利なんだけれど」
「じゃあどんなことができるの?」
「ダンスの振り付けなんかは一発で覚えられるわね。完璧に」
「完璧に」
「普通の人は少しずつ身体に振り付けをなじませるんだと思うけれど、私の場合は一瞬で動きが浸透するの。スポンジに水を含ませるみたいに。アクションシーンも得意よ。得意というか、一度打ち合わせてしまえばあとはその通りやるだけね。私の場合は」
「演技も同じ?」
「ええ」とイルハくんは首肯した。「私、一度観ればあらゆる人間の演技をその場で完璧に再現できるの。なにかやってみせましょうか?」
僕はミュージカル映画『シカゴ』で主演のレネー・ゼルウィガーが歌って踊る『Roxie』の部分を試しに注文してみた。イルハくんは「いいわよ」と簡単に頷き返した。
イルハくんが雪玉から手を離した途端、しん、と空気が凍った気がした。
あとは、圧巻のパフォーマンスだ。イルハくんはレネ・ゼルウィガの演技をそのまま完璧に写し取っていた。あまりにも顔つきや声が別人のように変わったので戸惑いすら覚えたほどだ。
「どうだった?」
演技が終わると、僕は拍手した。こんな素晴らしいものを無料で見せてもらってしまっていいのかと思った。
「きみは天才だ」
イルハくんは「天才」と肩を揺らした。
「おかしなものよね。私、ひとりではゴミ出しすらできないのよ」
僕が「ゴミ出し?」と疑問符を浮かべると、イルハくんは「そう」とうつむきがちに首肯した。
「ゴミを出す日がどうしても覚えられないの。放っておくとペットボトルや瓶なんかのゴミが部屋中にあふれてしまう。だから、家のことは全部ハウスキーパーにお願いしている」
「料理や掃除は?」
「そのへんはできる。でも、まあ、面倒だから。お金には困っていないし。生活は他の人の手を借りる方が間違いないの。私の場合は」
夕暮れの日差しが僕らの影を長く引き伸ばしていた。僕が自分の雪玉をイルハくんの雪玉の上に乗せると、イルハくんは松ぼっくりや木の枝を使って雪だるまの顔をつくった。イルハくんは細かい装飾にずいぶんなこだわりを見せていた。
「これでよし」
僕らは完成した雪だるまの前で頷きあった。時刻は午後5時に近づいていた。昼食はスターバックスのシフォンケーキだけだったから僕はいささかの空腹感を覚えた。僕の考えを読んだかのようにイルハくんが「お腹が空いたわね」と言った。僕は「なにか食べたいものはある?」と尋ねた。
「サイゼリヤ」
僕は「サイゼリヤ?」と尋ね返した。
「サイゼリヤでいいの?」
「サイゼリヤがいいの」
イルハくんの声は妙に弾んでいた。
「私、サイゼリヤ大好き」
