スキゾフレニアの恋人

 僕は西塔イルハを助手席に乗せて近くのスターバックスまで車を運転した。人気アイドルを車の助手席に乗せるなんて変な気分だ。僕は幻覚でも見ているんじゃないかと思った。僕の場合それは決して笑い話ではない。

 スターバックスには平日の正午というのもあって人の気配はまばらだった。僕らの他には赤いジャケットの男がいるだけだ。僕はカフェ・アメリカーノとシフォンケーキを、西塔イルハはティー・ラテとスコーンを注文した。僕はもしかすると注文を受ける店員が西塔イルハに気づくのではないかとかなり不安になったが、笑顔が素敵な女性店員はテキパキと自分の仕事を終わらせると「お飲み物はあちらのカウンターでお受け取りください」と僕らから離れていった。僕はなんだか拍子抜けしてしまった。

「ねえ、びっくりした?」

 窓際の二人掛けのテーブル席に落ち着くと、西塔イルハはテーブルの上で組んだ手に顎を乗せ、僕の顔を表情のない目つきでじっと見詰めた。僕はトレンチコートを脱いだ西塔イルハのそのおおきな胸がタートルネックのニットのセーター越しにコルセットで強調されているのに気づいた。僕は胸の形のよさに感心しながら「そりゃね」と首肯した。

「幻覚と妄想を今でも疑っているよ」
「大変ね、あなたも」

 僕は「まあね」と肩をすくめた。まあね、とは言ったが人気アイドルと急にデートする事態に陥れば健常者でも幻覚と妄想を疑うだろうとも思った。西塔イルハは「ねえ」と僕に呼びかけた。

「お互いの第一印象を交換しましょう」
「第一印象?」
「思っていたのと合っていた部分や違っていた部分を話すの」
「なるほど」
「あなたからどうぞ」

 僕は「よし」と気合を入れた。

「まあ、とにかくびっくりしたよ」
「なにに対して?」
「きみが西塔イルハなことに対して」
「でも、あなたは私がどんな人でもツナマヨくんはツナマヨくんだと言ったわ」
「そりゃそうだけれど」
「けれど?」
「僕は不登校の女の子かフリーターだと思っていたよ。自然に考えればそうじゃないか? まさか休暇中のアイドルだとは思わない」
「人気アイドルよ」
「人気アイドル」
「国民的超人気アイドル」
「国民的超人気アイドル」と僕はオウム返しにくりかえした。「本当に?」
「あのね」と西塔イルハはこめかみを押さえた。「本当に何も知らないの? 映画館で私が映っているポスターやパンフレットを見かけたことはない? 私の主演映画の予告編を観たことは?」
「ごめん、覚えてない」
「はあ」と西塔イルハはこれみよがしにため息をついた。「まあ、そんな人もいるわよね。きっと。多分。おそらく」

 僕は甲斐さんや床屋の店主との会話で得た情報を総動員して話題を探した。

「ブロードウェイでミュージカルをしていたんだっけ」
「アジア人だったからなかなか役には恵まれなかったけれどね。でも、そのぶん少ないアジア人の役はほとんど私のものになったけれど」
「天才子役」
「アメリカには掃いて捨てるほど天才子役がいるのよ」

西塔イルハはさっと形而上学的なテーブル上のゴミを払うような仕草をした。あるいは、そこに含まれる天才子役たちを。

「日本には、お母様の再婚できたんだよね」
「そうね。それ以前から長期休みを利用してときどきパパの実家なんかに遊びにきてはいたけれど」
「アメリカには残らなくてよかったの?」
「いずれは日本にくるつもりだったの。どのみちね」

 僕は「なるほど」と首肯した。面と向かって話していると西塔イルハとツナマヨくんの人物像がだんだん一致してくるのを感じた。ふたりは紛れもなく同一人物なのだ。当たり前のことではあるけれど。

「最初は、アイドルをやっていたって話だけれど」
「そうね、5人組のアイドルグループをしていた。でも、あれはいい方は悪いんだけれど、私を売り出すための当て馬のようなものだったのよ」
「当て馬?」
「プロデューサーは私に言ったの。きみは長い下積み経験があるから本当はアイドルなんかやる必要はない。でも、きみの歌とダンスは強い武器になる。とりあえず1年自分に任せてくれ。1年で結果を出して見せる。……ってね」
「実際、1年ですごい結果が出たみたいだ」
「ええ、私もおどろいた。急に映画の主演が決まって翌年には受賞でしょう。プロデューサーは1年間ほとんど私のためだけに奔走していたようなものだった」
「なぜプロデューサーはそんなにきみを推してくれたんだろう?」
「作家と編集と同じ関係よね、つまりは。すぐれた才能を世の中に出すのが自分の氏名だとそのプロデューサーは考えていたの。私は彼のお眼鏡にかなったのね」

 僕は「すごいな」としみじみ頷いた。西塔イルハは「そうかもね」と素っ気なく答えた。

「床屋が好きだって聞いたよ」
「そうね、髪の毛は床屋でしか切らない」
「匂いが好きという話だけれど」
「私、感覚過敏なの。自閉スペクトラム症にはよくあることなのよ。健常者には気にならない音や匂いがとても気になって耐えられないの。美容室の匂いはぜんぜんだめ。ずっといると気分が悪くなってしまう」

僕が「床屋の匂いは落ち着く?」と尋ねると、西塔イルハは「ええ、とても」と答えた。

「YouTubeチャンネルがすごく好評みたいだ」
「あれはね、私の床屋通いを面白く思ったプロデューサーがやってみたらとすすめてくれたのよ。物珍しさから人が見るかもしれないから、って。その通りだったわね」
「気になっていたんだけれど、顔剃りするときメイクはどうしているんだろう? まさかすっぴんでするわけではないと思うけれど」
「目元なんかの大事な部分だけ残していったんオフね。そのへんはうまくやるの。動画の撮影は視聴者に楽しんでもらうためのものだから。メイクを残したまま多少の剃り残しが出てもかまわないのよ」

 僕は「なるほど」と首肯した。色々きちんと考えられているんだと思った。

「西塔イルハというのは本名?」
「本名よ。イルハというのは、ポルトガル語で『島』という意味なの。パパがどこかのリゾート地に行ったときにその言葉の響きを気に入って私につけてくれた」
「素敵な名前だ」
「よかったら今後はイルハと呼んで。外でツナマヨくんと呼ばれるのは、なんというか、その、恥ずかしいし」

 僕は「イルハくん」と西塔イルハを呼んだ。イルハくんは「ええ」と頷き返した。

「次はきみの番だ」
「まず、小綺麗ね」
「小綺麗」
「作家というからもっと野暮ったいのを想像していたんだけれど」
「床屋に行ったんだ」
「それもあるけれど、体型とか、服装とか、全体のイメージとか、色々よ」
「ほめられているのかな?」
「もちろん」
「芸能界にいて美男美女を見慣れているわけだから審美眼は厳しいはずだと思うけれど」
「芸能界にいる男なんて大抵はろくでもない連中よ。スクリーンやテレビ越しに見ているから素敵に見えるだけ」
「きみは実際に会っても素敵だ」
「うれしい」

 僕は話しながらときどきイルハくんの胸元に目を落とした。光沢の鈍い銀のゴツいネックレスと本革のコルセットに上下を挟まれたイルハくんのそのおおきな胸は自然と僕の視線を吸い寄せた。イルハくんはすっと目を細めた。

「私の胸が気になる?」
「気になる」
「実は、あなたに伝えておかなければならないことがあるの」
「伝えておかなければならないこと?」
「そう」とイルハくんは自分の胸を手で押さえた。「私、しばらく前からここのところが浮き上がるようになってしまっていたの。どういうことかわかる?」
「ぜんぜんわからない」と僕は答えた。何の話か見当もつかない。
「下着から胸がはみ出してしまっていた、ということ」
「下着から胸が?」
「で、今日来る前に下着屋さんに行って胸のサイズを測り直してもらってきたの。私は胸がおおきいから都会のマ専門的な下着屋さんじゃないと下着がないのよ。で、わかったの」
「なにが?」
「私、胸のサイズがIになっていた」

 僕は「I」とくりかえした。イルハくんも「I」とくりかえした。

「もう自分のつま先を見ることもできない」

 僕は「自分のつま先を見ることもできない」とイルハくんの言葉を再度くりかえした。森に残響する木霊みたいに。

「嬉しい?」とイルハくんが言った。
「嬉しい?」
「私の胸がおおきくて」

 僕はそれについて少し考えてみた。しかし、僕の知能指数はさきほどから著しく低下し続けていた。

「嬉しい」と僕は答えた。
「形もいいのよ」
「とても嬉しい」
「今日もあなたに見せつけるためにわざわざこんな格好をしているの」
「かなり嬉しい」
「あとで見せてあげるわね」

 僕は首肯した。そして、脳裏に響くイルハくんの声に疑問符を浮かべた。あとで見せてあげるわね?

 僕とイルハくんはマグカップの中身を少し飲み、シフォンケーキとスコーンを口に運んだ。僕はイルハくんの恐ろしく整った容姿を時間をかけて眺めた。他の出会い方をしていたらこんな風に気安く話をするのは絶対無理だっただろうなと思った。西塔イルハの隣にはもっと何か特別な男が相応しいのだ。それがどんな男なのかは僕にも想像がつかない。

「何を見ているの?」
「きみ」
「変じゃない?」
「とてもきれいだ」

 イルハくんは「そう」と少し目を伏せた。長いまつ毛の影が目元に落ちた。

「そうだといいけれど」
「どうして?」

 イルハくんはそれには答えず「さて」と口元についたティー・ラテの泡を指先で拭った。

「映画、観に行く?」
「『アクアリウムの恋人たち』?」
「本人と観に行くなんてなかなかできないわよ」
「水中メガネを用意してくるんだったな」
「私、あの映画大好き」

 僕らは『ノッティングヒルの恋人』の話題でまた笑いあった。僕はしみじみ思った。西塔イルハはやはりツナマヨくんなのだ。姿形がどうであれ。