恨み、という言葉を、直人はしばらくうまく読めなかった。
朔のスマホの黒い画面に浮いた二文字だけが、さっきまでの二〇一号室の空気を別のものにしていた。壁の時計は、十九時五分の手前をゆっくり進んでいる。秒針が一つ動くたび、いつもの五回が来る準備をしているみたいに、玄関のほうが静かになる。
やがて、時計が小さく鳴った。
二人とも肩に力を入れる。けれど、その夜は、扉は鳴らなかった。
来ると思って待っていた五回が来ない。来ないことのほうが、直人には落ち着かなかった。ノックの代わりに、画面の中の白い文字だけが残る。
『あの夜の恨みは忘れていない』
朔がスマホを伏せる。テーブルの上に置かれた黒い板が、妙に重く見えた。
「……今日は、これか」
低い声だった。
直人は返事をしない。
十九時六分。
十九時七分。
それでも玄関は鳴らない。
郁子のいない家の静けさに、今夜は五回の代わりにその一文だけが染みていく。居間の奥では、空いた椅子の背に郁子のエプロンがかかったままだった。昼に病院から戻ってきてから、一度も動かしていない。動かしたら、ほんとうに今夜も郁子がいないと認める気がしたからだ。
「恨み、だって」
気づくと、直人はそう言っていた。
朔はすぐには何も言わない。軽くしないように口を閉じた感じだった。
「……当然だってことかよ」
「何が」
「開けなかった家なんだから、恨まれてもしょうがないって」
言った瞬間、胸の奥で何かがざらついた。誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。郁子に向けたのか、あの夜の五回に向けたのか、それとも今ここに立っている自分に向けたのか。
朔が眉を寄せる。
「お前じゃねえだろ」
「でも、今ここにいるの俺だろ」
声が思ったより強く出た。
直人は空いた椅子の背をつかんだ。引くつもりもないのに手に力が入って、脚が畳を強く擦る。ぎ、と嫌な音がした。
直人は朔を見た。
朔も目を逸らさない。
「お前もばらまいただろ、これ」
「うん」
「じゃあ今さら分かった顔するなよ」
少し間が空いた。
朔の指先が、小さく震える。
「してねえ」
「してるだろ」
「してねえよ」
朔はそこで初めて、少しだけ声を強くした。
「普通に見えてるなら、俺のことわかっていないだけだ」
その一言で、直人のほうが黙る。
朔はすぐに声を落とした。
「お前が責めたいのは分かってる。だから、逃げねえ」
椅子を元の位置に戻しながら言う。
「でも、一人で荒れるな」
その言い方に、直人はまた腹が立った。
腹が立つのに、胸のどこかは少しだけ息をした。
「俺さ」
声が掠れた。
「病院で聞いたとき、責めるみたいな言い方しただろ」
「うん」
「でも、倒れたときの顔を思い出したら、今度は責めた自分が嫌になって。なのに、家に帰ってきたらまた腹立って」
空いた椅子の背のエプロンを見る。白地に小さな花柄のある、何度も見た布だった。
「怖かったのは分かるんだよ。分かるのに、分かりたくない」
それを口にした瞬間、胸の奥で固まっていたものが少しだけ形になった気がした。
朔は直人を見た。
まっすぐではあるけれど、問い詰めるような目ではない。
「両方でいいだろ」
短い声だった。
直人は眉を寄せる。
「そんな器用にできない」
「器用にやる話じゃねえ」
「じゃあ、どうしろって」
「今すぐ、どっちかに決めんな」
朔はそう言って、ずり落ちかけていたエプロンの端をかけ直した。乱れたものを元に戻すみたいな、静かな手つきだった。
「怒ってるなら、怒ってていい」
朔は言う。
「でも、一人でやるな」
直人はすぐに言葉を返せなかった。
その一言が、妙にまっすぐ入ってきたからだった。
台所のほうで、冷蔵庫が低く唸る。
向かいの棟のどこかで、テレビの笑い声が薄く漏れて、すぐに消えた。
「……責任感じてるから、いるのか」
気づくと、そんなことを聞いていた。
朔は少しだけ視線を逸らした。正直に答える前の癖みたいな間だった。
「感じてる」
「じゃあ帰れよ」
自分でも驚くくらい、ひどい言い方だった。
言った瞬間に嫌になる。けれど取り消せなかった。
「責任で残られるのも腹立つ」
朔はすぐには返さなかった。
ただ、さっきと同じように逃げなかった。
「分かる」
「じゃあ」
「でも、帰らねえ」
直人は顔を上げる。
朔は壁の時計を一度だけ見て、それから直人のほうへ戻した。
「それだけなら、泊まったりしてない」
その声は飾らなかった。
いいことを言おうとしていない。ただ、自分で決めたことをそのまま伝えるみたいな言い方だった。
「……じゃあ今は何?」
朔はほんの少しだけ口を結んでから言う。
「一人で聞かせたくねえ」
大きな言葉ではない。
昨日までにも、似たことは言われている。
それでも今は、その短さのほうが胸に響いた。
直人は喉の奥が詰まるのを感じた。
返事の代わりに、台所のほうへ向かう。
何かしていないと、今の言葉がそのまま胸の真ん中に残りすぎる気がしたからだ。
戸棚を開ける。
手前に郁子の使っていた湯呑みがある。指先が一度そこで止まる。
取らない。
その隣から、少し大きめのマグを二つ出した。
一つは自分の前へ。もう一つは、考えるより先に朔のぶんとしてテーブルに置いていた。
朔はやかんを持ち上げる。
「お湯、まだある」
「いらない」
「分かってる。けど飲め」
火をつける小さな音がした。
湯が沸くまでのあいだ、二人とも何も言わない。
時計は十九時十分を回っているのに、五回が来なかったことが、まだどこかに引っかかっていた。
朔が湯を注ぐ。
湯気が立つ。
一つを直人の前へ滑らせ、自分の前にも置く。
直人はマグの縁に手を置いたまま、飲まなかった。
熱が手のひらに来るだけで十分な気がした。
「恨み、ってさ」
また自分から口を開いていた。
「それ読んだら、ほんとにそうなんだって思うだろ」
「うん」
朔は否定しない。
「おばあちゃん、開けなかった」
「うん」
「それで、その人は助からなかった」
「うん」
「じゃあ、恨まれても……」
そこまで言って、直人は口を閉じた。
自分でその続きを言いたくなかった。
朔はすぐには答えず、マグを両手で包んだ。
「恨んでるやつがいるのは、そうなんだろうな」
直人は視線を落とす。
床の木目がぼやけた。
「でも、お前が代わりに受ける筋合いはない」
「この家で聞くのは俺だろ」
「だから、一緒にいる」
またそれだった。
責任だとか、義務だとか、そういう説明の仕方をしない。
ただ、その場に残ることだけを言う。
それがずるいと思った。
ずるいくせに、助かる。
直人はようやく一口だけ飲んだ。
熱い。
舌に乗った温度で、やっと自分がずっと冷えていたことに気づく。
「……腹立つんだよ」
「うん」
「おばあちゃんに、っていうか、もう全部に」
「うん」
「俺だって、怖いから開けないのは普通だって言った。なのに、聞いたあとだと、それも全部言い訳みたいに見える」
「見えるだろうな」
あまりに正面から返されて、直人は少しだけ顔をしかめた。
「否定しろよ」
「してほしいのか」
「分かんない」
「じゃあしねえ」
それで、少しだけ力が抜けた。
慰められていないのに、変に楽になる返しだった。
朔はマグを置く。
「怖かったのは、ほんとだろ」
直人は黙って聞く。
「でも、外にいたやつが痛かったのも、ほんとだ」
低い声だった。
「どっちか消して、きれいにできる話じゃねえ」
病室で聞いた郁子の声がよみがえる。
怖かったの。ほんとうに、怖かった。
その声を思い出すたびに責めにくくなるのに、扉の外に置かれた五回を思うと、今度はそれだけでは済ませられなくなる。
「俺、どうしたらいいか分かんない」
やっと出たのは、それだけだった。
朔は短く答える。
「分かるまで、一緒にいる」
その言葉に、直人はすぐ返事ができなかった。
朔はもうこちらを見ていなかった。
押し入れのほうへ歩いて、ふすまを開ける。
中から客用の布団を引っ張り出す。
「何してんの」
「敷く」
「まだ早い」
「帰らねえから」
あまりに当たり前みたいに言うので、直人はそれ以上何も言えなかった。
畳の上を布団が滑る音がする。
朔は慣れた手つきではないが、迷いなく二組目を広げていく。
直人は少しだけ見てから、押し入れの奥に手を伸ばした。枕をもう一つ出し、言われもしないのに朔の布団のほうへ置く。
「ありがと」
「……別に」
短いやりとりだった。
それで十分だった。
朔がスマホを手に取る。
伏せた画面を表に返すと、さっきの白い文字がまたそこに浮かぶ。
『あの夜の恨みは忘れていない』
「返すか」
朔が言った。
直人はすぐには答えなかった。
「反応したら、向こうの思い通りじゃないのか」
「いや、さっき見たら、今までの投稿が削除されていた」
「え?」
部屋の中の空気が、少しだけ変わる。
「さすがに、実在する住所とかが返信のところに書かれてあったから、まずいと思ったんじゃないのか?」
「そっか……。通報されちゃうかもしんないもんね」
「だから、向こうも焦っていると思う」
「なんで?」
直人の呼吸が、思わず浅くなる。
「これ以上の投稿がしづらくなっているかもしれない。今日来なかったのも、正体がばれたらまずいと思って警戒してんのかも」
「……なるほど」
「それに、待つだけのほうが、だるい」
その言い方は朔らしかった。
雑に聞こえるのに、逃げるための言葉ではない。
直人は椅子ではなく、布団の端に腰を下ろした。
朔も少し離れて同じ高さに座る。
二人のあいだにスマホが置かれる。
同じ画面を同じ距離で見る形だった。
入力欄の白いカーソルが、短く点滅している。
「何て送る」
朔が聞く。
直人はしばらく答えられなかった。
聞きたいことが多すぎて、どこから言葉にすればいいのか分からない。
なんで投稿を消したのか。
なんで二〇一号室に来るのか。
なんで今日は来なかったのか。
何の目的でこのアカウントを作ったのか。
恨み、という言葉で、この家に何をさせたいのか。
けれど、どの問いよりも前に、先に一つ聞かないといけないことがある気がした。
「……貸して」
朔が何も言わずにスマホを渡す。
画面は温かかった。
直人は親指で入力欄を押す。
キーボードが立ち上がり、白い文字を打てる場所が開く。
最初に、『何が目的だ』と打った。
すぐに消した。
それでは足りない気がした。
誰だ、ではなく、こっちの家を勝手に恨む相手に、もっと荒くぶつけたい何かがあった。
もう一度、打つ。
『二〇一号室に何がしたい』
それも消す。
カーソルだけが点滅する。
指が止まる。
横で、朔は急かさなかった。覗き込みすぎもしない。ただ、すぐ隣で同じ画面を見ている。
「短くでいい」
朔が言う。
直人は小さく息を吐いた。
それから、打った。
『お前は誰なんだ?』
文字にすると、それがいちばん近かった。
この部屋を勝手に恨みで染める相手に、まず返したいのはそれだった。
直人は画面を朔に見せる。
「……これでいい」
朔は一拍だけ見てから、うなずいた。
「よし」
送信ボタンの上で、直人の親指が止まる。
送った瞬間に、何かを家の中へ入れてしまう気がした。
返事なんて来ないほうがましかもしれないとも思う。
それでも、もう待つだけは嫌だった。
隣で、朔が言う。
「一緒にいるから」
その一言で、直人はようやく親指を動かした。
送信の小さな音もしない。
白い吹き出しだけが画面の右側に増える。
『お前は誰なんだ?』
送った直後だった。
ぶる、と短く震えたスマホが、二人の手のあいだで跳ねた。
直人と朔が同時に息を止める。
返信は、待たせる間もなく返ってきた。
黒い画面に、白い文字が一行だけ浮かぶ。
『俺はあのとき、蓮と繋がってた』
朔のスマホの黒い画面に浮いた二文字だけが、さっきまでの二〇一号室の空気を別のものにしていた。壁の時計は、十九時五分の手前をゆっくり進んでいる。秒針が一つ動くたび、いつもの五回が来る準備をしているみたいに、玄関のほうが静かになる。
やがて、時計が小さく鳴った。
二人とも肩に力を入れる。けれど、その夜は、扉は鳴らなかった。
来ると思って待っていた五回が来ない。来ないことのほうが、直人には落ち着かなかった。ノックの代わりに、画面の中の白い文字だけが残る。
『あの夜の恨みは忘れていない』
朔がスマホを伏せる。テーブルの上に置かれた黒い板が、妙に重く見えた。
「……今日は、これか」
低い声だった。
直人は返事をしない。
十九時六分。
十九時七分。
それでも玄関は鳴らない。
郁子のいない家の静けさに、今夜は五回の代わりにその一文だけが染みていく。居間の奥では、空いた椅子の背に郁子のエプロンがかかったままだった。昼に病院から戻ってきてから、一度も動かしていない。動かしたら、ほんとうに今夜も郁子がいないと認める気がしたからだ。
「恨み、だって」
気づくと、直人はそう言っていた。
朔はすぐには何も言わない。軽くしないように口を閉じた感じだった。
「……当然だってことかよ」
「何が」
「開けなかった家なんだから、恨まれてもしょうがないって」
言った瞬間、胸の奥で何かがざらついた。誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。郁子に向けたのか、あの夜の五回に向けたのか、それとも今ここに立っている自分に向けたのか。
朔が眉を寄せる。
「お前じゃねえだろ」
「でも、今ここにいるの俺だろ」
声が思ったより強く出た。
直人は空いた椅子の背をつかんだ。引くつもりもないのに手に力が入って、脚が畳を強く擦る。ぎ、と嫌な音がした。
直人は朔を見た。
朔も目を逸らさない。
「お前もばらまいただろ、これ」
「うん」
「じゃあ今さら分かった顔するなよ」
少し間が空いた。
朔の指先が、小さく震える。
「してねえ」
「してるだろ」
「してねえよ」
朔はそこで初めて、少しだけ声を強くした。
「普通に見えてるなら、俺のことわかっていないだけだ」
その一言で、直人のほうが黙る。
朔はすぐに声を落とした。
「お前が責めたいのは分かってる。だから、逃げねえ」
椅子を元の位置に戻しながら言う。
「でも、一人で荒れるな」
その言い方に、直人はまた腹が立った。
腹が立つのに、胸のどこかは少しだけ息をした。
「俺さ」
声が掠れた。
「病院で聞いたとき、責めるみたいな言い方しただろ」
「うん」
「でも、倒れたときの顔を思い出したら、今度は責めた自分が嫌になって。なのに、家に帰ってきたらまた腹立って」
空いた椅子の背のエプロンを見る。白地に小さな花柄のある、何度も見た布だった。
「怖かったのは分かるんだよ。分かるのに、分かりたくない」
それを口にした瞬間、胸の奥で固まっていたものが少しだけ形になった気がした。
朔は直人を見た。
まっすぐではあるけれど、問い詰めるような目ではない。
「両方でいいだろ」
短い声だった。
直人は眉を寄せる。
「そんな器用にできない」
「器用にやる話じゃねえ」
「じゃあ、どうしろって」
「今すぐ、どっちかに決めんな」
朔はそう言って、ずり落ちかけていたエプロンの端をかけ直した。乱れたものを元に戻すみたいな、静かな手つきだった。
「怒ってるなら、怒ってていい」
朔は言う。
「でも、一人でやるな」
直人はすぐに言葉を返せなかった。
その一言が、妙にまっすぐ入ってきたからだった。
台所のほうで、冷蔵庫が低く唸る。
向かいの棟のどこかで、テレビの笑い声が薄く漏れて、すぐに消えた。
「……責任感じてるから、いるのか」
気づくと、そんなことを聞いていた。
朔は少しだけ視線を逸らした。正直に答える前の癖みたいな間だった。
「感じてる」
「じゃあ帰れよ」
自分でも驚くくらい、ひどい言い方だった。
言った瞬間に嫌になる。けれど取り消せなかった。
「責任で残られるのも腹立つ」
朔はすぐには返さなかった。
ただ、さっきと同じように逃げなかった。
「分かる」
「じゃあ」
「でも、帰らねえ」
直人は顔を上げる。
朔は壁の時計を一度だけ見て、それから直人のほうへ戻した。
「それだけなら、泊まったりしてない」
その声は飾らなかった。
いいことを言おうとしていない。ただ、自分で決めたことをそのまま伝えるみたいな言い方だった。
「……じゃあ今は何?」
朔はほんの少しだけ口を結んでから言う。
「一人で聞かせたくねえ」
大きな言葉ではない。
昨日までにも、似たことは言われている。
それでも今は、その短さのほうが胸に響いた。
直人は喉の奥が詰まるのを感じた。
返事の代わりに、台所のほうへ向かう。
何かしていないと、今の言葉がそのまま胸の真ん中に残りすぎる気がしたからだ。
戸棚を開ける。
手前に郁子の使っていた湯呑みがある。指先が一度そこで止まる。
取らない。
その隣から、少し大きめのマグを二つ出した。
一つは自分の前へ。もう一つは、考えるより先に朔のぶんとしてテーブルに置いていた。
朔はやかんを持ち上げる。
「お湯、まだある」
「いらない」
「分かってる。けど飲め」
火をつける小さな音がした。
湯が沸くまでのあいだ、二人とも何も言わない。
時計は十九時十分を回っているのに、五回が来なかったことが、まだどこかに引っかかっていた。
朔が湯を注ぐ。
湯気が立つ。
一つを直人の前へ滑らせ、自分の前にも置く。
直人はマグの縁に手を置いたまま、飲まなかった。
熱が手のひらに来るだけで十分な気がした。
「恨み、ってさ」
また自分から口を開いていた。
「それ読んだら、ほんとにそうなんだって思うだろ」
「うん」
朔は否定しない。
「おばあちゃん、開けなかった」
「うん」
「それで、その人は助からなかった」
「うん」
「じゃあ、恨まれても……」
そこまで言って、直人は口を閉じた。
自分でその続きを言いたくなかった。
朔はすぐには答えず、マグを両手で包んだ。
「恨んでるやつがいるのは、そうなんだろうな」
直人は視線を落とす。
床の木目がぼやけた。
「でも、お前が代わりに受ける筋合いはない」
「この家で聞くのは俺だろ」
「だから、一緒にいる」
またそれだった。
責任だとか、義務だとか、そういう説明の仕方をしない。
ただ、その場に残ることだけを言う。
それがずるいと思った。
ずるいくせに、助かる。
直人はようやく一口だけ飲んだ。
熱い。
舌に乗った温度で、やっと自分がずっと冷えていたことに気づく。
「……腹立つんだよ」
「うん」
「おばあちゃんに、っていうか、もう全部に」
「うん」
「俺だって、怖いから開けないのは普通だって言った。なのに、聞いたあとだと、それも全部言い訳みたいに見える」
「見えるだろうな」
あまりに正面から返されて、直人は少しだけ顔をしかめた。
「否定しろよ」
「してほしいのか」
「分かんない」
「じゃあしねえ」
それで、少しだけ力が抜けた。
慰められていないのに、変に楽になる返しだった。
朔はマグを置く。
「怖かったのは、ほんとだろ」
直人は黙って聞く。
「でも、外にいたやつが痛かったのも、ほんとだ」
低い声だった。
「どっちか消して、きれいにできる話じゃねえ」
病室で聞いた郁子の声がよみがえる。
怖かったの。ほんとうに、怖かった。
その声を思い出すたびに責めにくくなるのに、扉の外に置かれた五回を思うと、今度はそれだけでは済ませられなくなる。
「俺、どうしたらいいか分かんない」
やっと出たのは、それだけだった。
朔は短く答える。
「分かるまで、一緒にいる」
その言葉に、直人はすぐ返事ができなかった。
朔はもうこちらを見ていなかった。
押し入れのほうへ歩いて、ふすまを開ける。
中から客用の布団を引っ張り出す。
「何してんの」
「敷く」
「まだ早い」
「帰らねえから」
あまりに当たり前みたいに言うので、直人はそれ以上何も言えなかった。
畳の上を布団が滑る音がする。
朔は慣れた手つきではないが、迷いなく二組目を広げていく。
直人は少しだけ見てから、押し入れの奥に手を伸ばした。枕をもう一つ出し、言われもしないのに朔の布団のほうへ置く。
「ありがと」
「……別に」
短いやりとりだった。
それで十分だった。
朔がスマホを手に取る。
伏せた画面を表に返すと、さっきの白い文字がまたそこに浮かぶ。
『あの夜の恨みは忘れていない』
「返すか」
朔が言った。
直人はすぐには答えなかった。
「反応したら、向こうの思い通りじゃないのか」
「いや、さっき見たら、今までの投稿が削除されていた」
「え?」
部屋の中の空気が、少しだけ変わる。
「さすがに、実在する住所とかが返信のところに書かれてあったから、まずいと思ったんじゃないのか?」
「そっか……。通報されちゃうかもしんないもんね」
「だから、向こうも焦っていると思う」
「なんで?」
直人の呼吸が、思わず浅くなる。
「これ以上の投稿がしづらくなっているかもしれない。今日来なかったのも、正体がばれたらまずいと思って警戒してんのかも」
「……なるほど」
「それに、待つだけのほうが、だるい」
その言い方は朔らしかった。
雑に聞こえるのに、逃げるための言葉ではない。
直人は椅子ではなく、布団の端に腰を下ろした。
朔も少し離れて同じ高さに座る。
二人のあいだにスマホが置かれる。
同じ画面を同じ距離で見る形だった。
入力欄の白いカーソルが、短く点滅している。
「何て送る」
朔が聞く。
直人はしばらく答えられなかった。
聞きたいことが多すぎて、どこから言葉にすればいいのか分からない。
なんで投稿を消したのか。
なんで二〇一号室に来るのか。
なんで今日は来なかったのか。
何の目的でこのアカウントを作ったのか。
恨み、という言葉で、この家に何をさせたいのか。
けれど、どの問いよりも前に、先に一つ聞かないといけないことがある気がした。
「……貸して」
朔が何も言わずにスマホを渡す。
画面は温かかった。
直人は親指で入力欄を押す。
キーボードが立ち上がり、白い文字を打てる場所が開く。
最初に、『何が目的だ』と打った。
すぐに消した。
それでは足りない気がした。
誰だ、ではなく、こっちの家を勝手に恨む相手に、もっと荒くぶつけたい何かがあった。
もう一度、打つ。
『二〇一号室に何がしたい』
それも消す。
カーソルだけが点滅する。
指が止まる。
横で、朔は急かさなかった。覗き込みすぎもしない。ただ、すぐ隣で同じ画面を見ている。
「短くでいい」
朔が言う。
直人は小さく息を吐いた。
それから、打った。
『お前は誰なんだ?』
文字にすると、それがいちばん近かった。
この部屋を勝手に恨みで染める相手に、まず返したいのはそれだった。
直人は画面を朔に見せる。
「……これでいい」
朔は一拍だけ見てから、うなずいた。
「よし」
送信ボタンの上で、直人の親指が止まる。
送った瞬間に、何かを家の中へ入れてしまう気がした。
返事なんて来ないほうがましかもしれないとも思う。
それでも、もう待つだけは嫌だった。
隣で、朔が言う。
「一緒にいるから」
その一言で、直人はようやく親指を動かした。
送信の小さな音もしない。
白い吹き出しだけが画面の右側に増える。
『お前は誰なんだ?』
送った直後だった。
ぶる、と短く震えたスマホが、二人の手のあいだで跳ねた。
直人と朔が同時に息を止める。
返信は、待たせる間もなく返ってきた。
黒い画面に、白い文字が一行だけ浮かぶ。
『俺はあのとき、蓮と繋がってた』



