面会時間の始まる少し前、直人と朔は病室の前に並んで立っていた。
白い廊下には消毒液の匂いが薄く漂っていて、壁の時計の針だけがやけに目についた。学校が終わってそのまま来たから、二人ともまだ制服のままだ。直人は鞄の紐を握ったまま、病室の引き戸の細い隙間を見ていた。
隣にいる朔は、来る道のあいだ、ほとんど余計なことを言わなかった。
行く、と昨夜言った通りに来て、今もただ隣に立っている。
「入るぞ」
直人がそう言うと、朔は短くうなずいた。
病室の中は、廊下より少しだけ暖かかった。
郁子はベッドの背を少し起こして座っていた。点滴の管が腕にのびていて、顔色はまだ悪いが、昨日の朝よりは目に力が戻っている。けれど、その力は元気の色というより、無理に保っている感じに近かった。
「来てくれたの」
郁子が言う。
「うん」
「学校の帰り?」
「そう」
直人はベッド脇の丸椅子に座った。朔は少し離れた窓際の椅子を引いた。近すぎず、遠すぎない場所だった。
「無理しなくてよかったのに」と郁子が言う。
「お見舞いに来たかったから」
それだけ返すと、郁子はかすかに笑おうとした。うまく形にならない笑い方だった。
「朔くんも、ありがとう」
「いえ」
朔は短く頭を下げた。それ以上は言わない。
しばらく、病室には空調の低い音だけがあった。
ベッド脇の棚には、未開封の水のペットボトルと紙コップが置いてある。テレビは消えていた。窓の外はもう夕方に近く、白い建物の壁にやわらかい影がついている。
郁子が先に、普通の話をしようとした。
「授業、ちゃんと受けられた?」
「まあ」
「ご飯、食べられてる?」
「うん」
短いやりとりが、すぐ途切れる。
普通に戻ろうとしているのが分かるのに、その普通が少しも長く続かなかった。
直人は膝の上で指を組み直した。
「昨日、また来た」
郁子の顔から、薄く乗っていた色が引いた。
「……何が」
分かっているくせに、そう聞いた声だった。
「十九時五分」
返すと、郁子の指先がシーツをつかんだ。
「ノックが鳴った」
郁子はすぐには何も言わない。点滴の管のそばの皮膚だけが、少し白く見えた。
「あなた、一人で聞いたの?」
「違う」
直人は横を見なかった。
「朔もいた」
郁子は視線を落としたまま、小さく息を吸う。
「……何回だったの?」
直人は眉を寄せた。
「分かってるだろ」
言い方が少し強くなる。
自分でもそれが分かったが、引っ込められなかった。
「五回。毎回、同じ間隔で」
郁子の喉が動く。
その仕草だけで、答えはほとんど出ていた。
朔が制服のポケットからスマホを出して、何も言わずに直人のほうへ寄せた。
直人はそれを受け取って、画面を開いた。例の空っぽなアイコンの下に残っている短い文を、郁子の見える位置まで持ち上げる。
『二〇一号室の家主は知っている』
郁子はその一行を見たまま、しばらく瞬きもしなかった。
やがて、震えた声で言う。
「……また、来たのね」
「来るよ」
直人は答えた。
「おばあちゃんがいない夜も、変わらなかった」
そこまで言ってから、病室の中が少し冷えた気がした。
郁子がいない夜、と口にすると、本当に今の家には、家主がいないままなのだと分かる。
「だから来た」
直人は続けた。
「お見舞いだけじゃない。聞きに来た」
郁子はすぐに首を振った。
「そんなの、気にしなくていいの。あんなもの、相手にしないで」
「無理だよ」
「直人くん」
「無理だ」
今度は言い直した。
病室の白さが、かえって言葉をまっすぐにする。
「家で毎日待つことになる。十九時五分になるたびに、あの扉を見ることになる。なのに、家主は知ってるって来たんだよ」
郁子は視線を上げない。
ただ、シーツをつかむ指先だけが少しずつ強くなる。
「俺たち、知りたいんだ。あのノックは誰なのか」
その「俺たち」に、朔の分も自然に入った。
言ってから、直人は横を見なかった。見なくても、朔が動かなかったことだけは分かる。
「だから、何を知ってるのか、言って」
郁子はしばらく黙っていた。
点滴の落ちる間より、その沈黙のほうが長く感じる。
やがて郁子は、シーツから手を離して、自分の指先を見た。
何かを確かめるみたいに、細いしわのある手の甲を一度撫でる。
「……一年前。雨の夜だったの」
それが最初だった。
直人は息を止めた。
隣の椅子でも、布がかすかに鳴る。朔も姿勢を直したのだと分かったが、声はしない。
郁子は窓のほうではなく、病室の白い壁を見ていた。
「窓にずっと雨が当たっていて、ベランダの手すりから落ちる水の音が、うるさいくらいしてた」
言葉はゆっくりだった。
説明しようとしているというより、思い出した順に、出せるぶんだけ出している感じだった。
「夕飯の支度をしてたの。時計、見たのよ。十九時五分くらい。そこだけは、はっきり覚えてる」
十九時五分。
病室にいるのに、その数字だけで二〇一号室の扉が近づく。
「それで、鳴ったの。五回」
郁子はそこでいったん口を閉じた。
唇の端が小さく震える。
「一回目で、びっくりして。二回目で、玄関のほう見て。三回目、四回目、五回目って……同じ間で、きれいに鳴って」
直人は何も言えなかった。
今、自分たちが聞いている音と同じ並びが、そのまま病室の中に置かれていく。
「玄関まで、行ったの」
郁子は言った。
「行って、チェーンに手をかけた。そこまではしたのよ」
その一文が、直人の胸に重く落ちる。
今の郁子が、玄関のチェーンに何度も触れていた指とつながった。
「でも、外せなかった」
声が、そこで少し割れた。
「怖かったの。ほんとうに、怖かった。夜に、顔も見えないまま、あんなふうに五回も叩かれて……知らないものを家の中に入れてしまう気がして」
誰にも責められていないのに、弁解みたいに聞こえた。
けれど弁解ではなく、ただそのときの本当の恐怖なのだと分かる声だった。
「返事もしなかった。息をひそめて、動けなかった」
郁子はそこで目を閉じた。
まぶたの端に、水気がひとつだけ溜まる。でも声は崩れなかった。
「後から知ったのよ」
病室の空気がさらに静かになる。
「あのとき、あそこにいたのは、怪我をした子だったって。助けを求めて、二〇一号室まで来てたんだって」
直人は思わず顔を上げた。
「怪我って」
郁子は小さくうなずく。
「ひどく消耗してたって、あとで聞いた。雨で濡れて、あそこまで来るのもやっとだったのかもしれない」
そこまで言ってから、郁子は首を振った。
「わたし、見てないの。見てないから、ほんとの顔も、どんな怪我だったのかも分からない。分からないまま、開けなかった。わたしが開けていたら助かったのかどうか、そんなこと、今さら誰にも分からない。でも、助けを求める音を聞いたのに、わたしは中にいたままだった」
その「見てない」が、妙に痛かった。
見なかったのではなく、見られなかったのだと分かるぶんだけ、痛い。
「それで……その人、死んだの」
直人は、自分の声がこんなに薄くなるのかと思った。
郁子はすぐには答えなかった。
シーツの上に置いた手が、小さく握られる。
やがて、ごく小さく言った。
「……亡くなったって聞いた」
病室の白さが急に固くなる。
去年死んだ先輩、という噂の軽さが、その一言で全部剥がれた気がした。
直人は、すぐには次の言葉が出なかった。
怒りなのか、驚きなのか、自分が今どこを痛いと思っているのか、はっきりしない。ただ、胸の中に何か重いものが落ちたまま、底へ着かない感じだけが続く。
夜の訪問者に扉を開けないのは普通だと、直人はついこの前まで思っていた。
いや、今も、その理屈自体は間違いだと思えない。
怖いものは怖い。
知らない相手を夜に家へ入れたくない。
そう思うことのどこが悪いのかと、自分だって言った。
なのに、その普通の中に、誰かひとりの助けが外に置かれたのだとしたら。
その五回がほんとうに人の手だったのだとしたら。
「……なんで、黙ってたの」
出てきたのは、それだった。
郁子は目を開けた。
その目はもう逃げていなかったが、代わりにひどく疲れて見えた。
「わたしは、あの夜をなかったことにしたかったのよ。助けを求める五回を、聞かなかったことにしたかった。そうしないと、あの扉の前で止まったまま、ずっと生きることになる気がして」
病室のベッドの上で言うには、あまりに重い言葉だった。
「ごめんね」
またその一言だった。
けれど昨日の朝とは違った。
ただ倒れたことを謝っているのではない。もっと前からずっと言えなかったものが、やっと形になった「ごめんね」だった。
直人はすぐには何も返せなかった。
口を開くと、責める言葉と、責めきれない気持ちがいっしょに出てしまいそうだった。
隣で、朔はまだ黙っていた。
郁子に質問もしないし、直人をなだめることもしない。ただ、急かさずに座っている。その気配だけがある。
それでようやく、直人はもう一つ聞けた。
「昨日までのメッセージも、一年前の夜と関係あることだと思う?」
郁子は少しだけ迷ってから、うなずいた。
「たぶん……そう」
「誰が送ってるのか、心当たりあるの?」
「……ごめんなさい。分からないわ」
その声は弱いままだった。
直人は小さく息を吐いた。
息を吐いただけなのに、肺の奥が痛かった。
朔がそこで初めて口を開いた。
「……分かりました」
短い声だった。
慰めでも断罪でもない。ただ、今聞いたことをそのまま受け取るみたいな声だった。
郁子はその一言に、少しだけ目を伏せた。
「朔くんまで、ごめんね」
「俺はいいです」
朔はそれだけ言った。
それ以上、何も足さない。
病室を出ると、廊下の白さがさっきよりきつく見えた。
直人はすぐには歩けず、壁際で一度立ち止まった。自販機の低い唸りがしている。向こうのナースステーションから、紙をめくる音がかすかに聞こえた。
朔は隣に来ても、「大丈夫か」とは聞かなかった。
代わりに、少ししてから言った。
「帰るか」
「……うん」
それしか返せなかった。
病院を出てから家に着くまでの道を、直人はほとんど覚えていなかった。
団地の外階段を上がる音だけが、やけに耳に残った。
二〇一号室の鍵を開ける。
金属が乾いて鳴る。
その音に、一年前の郁子の指が重なった気がした。
居間へ入ると、空いた椅子が今朝と同じ位置にあった。
背もたれのエプロンはそのままだ。使う人のいない茶碗も、棚のいつもの場所に戻っている。
見慣れたはずのものに、知らなかった夜がひとつずつ染み込んでいるみたいだった。
直人は鞄を下ろさないまま、食卓の前に立ち尽くした。
「座ったら?」
後ろから、朔が言う。
「……今、そんな気分じゃない」
「じゃあ、立ったままでいい」
ぶっきらぼうな返しだった。
けれど、いつも通りの雑さに少しだけ助けられる。
朔は手を洗って、そのまま台所へ向かった。
勝手に冷蔵庫を開ける前に、「卵使うぞ」とだけ言う。
「……うん」
「飯、少しでいいなら作る」
「食えるか分かんない」
「じゃあ食える分だけ」
それ以上は聞かない。
コンロの火がつく小さな音がして、鍋に水が落ちる。
家の中に、ようやく生活の音が戻った。
直人は棚を開けて、どんぶりを二つ出した。
箸も二膳。頼まれていないのに、手がもうそう動く。
湯気が立つまでのあいだ、居間には冷蔵庫の唸りと、鍋の底が鳴る音だけがあった。
「俺、前に言ったんだよ」
気づくと、直人はそんなことを言っていた。
「何を」
朔は鍋を見たまま聞く。
「夜に知らない相手が来たら、怖いから開けないのは普通だって」
朔はすぐには答えなかった。
麺をほぐす箸の音だけが二度ほどして、それから言う。
「間違ってねえだろ」
「……でも」
その先がうまく続かない。
普通だと思っていた理屈と、病室で聞いた五回が、まだ胸の中でうまく並ばない。
朔は火を弱めた。
「間違ってなくても、ダメなことってあるんだろ」
直人は顔を上げた。
朔はこちらを見ないまま、どんぶりに麺を移している。
「怖かったんだろ。だから開けられなかった。それはきっと、ほんとだ」
「うん」
「でも、それで終わらなかった。それも、ほんとだった」
どんぶりを二つ並べて、二人で向かい合って座る。
湯気の向こうに、空いた椅子が見えた。
食べるあいだ、ほとんど会話はなかった。
それでも、一人で黙っているのとは違った。
食べ終わって、流しでどんぶりを洗う。
朔が水を出し、直人が拭いた。
同じ家事を二人でやるだけなのに、家の広さが少しだけ元に戻る。
壁の時計が、十八時五十九分を指す。
二人とも、手が止まった。
流しの水を止める。
ふきんを畳む。
どちらからともなく、玄関のほうを見る。
昨日までと同じはずの十九時前が、今日は少し違っていた。
扉の向こうにある五回が、怪異の音だけではなくなってしまったからだった。
人の手で叩かれた雨の夜が、もう二〇一号室の中に入ってしまっている。
直人はふきんを置いて、玄関の前まで歩いた。
朔もあとから来る。
肩が触れないぎりぎりの距離で、また並ぶ。
「今日も、来るかな」
直人が言うと、朔は「分かんねえ」とだけ答えた。
壁の時計の秒針が進む。
十九時五分の少し前、扉より先に、朔のスマホが震えた。
二人とも同時にそちらを見る。
朔がポケットから取り出した画面には、見慣れた黒い背景と、空っぽなアイコンが浮かんでいた。
直人は何も言わず、朔の肩のそばへ寄る。
同じ画面を、二人でのぞき込む。
白い文字は一行だけだった。
『あの夜の恨みは忘れていない』
恨み、という言葉が、五回のノックより先に二〇一号室へ入ってきた。
白い廊下には消毒液の匂いが薄く漂っていて、壁の時計の針だけがやけに目についた。学校が終わってそのまま来たから、二人ともまだ制服のままだ。直人は鞄の紐を握ったまま、病室の引き戸の細い隙間を見ていた。
隣にいる朔は、来る道のあいだ、ほとんど余計なことを言わなかった。
行く、と昨夜言った通りに来て、今もただ隣に立っている。
「入るぞ」
直人がそう言うと、朔は短くうなずいた。
病室の中は、廊下より少しだけ暖かかった。
郁子はベッドの背を少し起こして座っていた。点滴の管が腕にのびていて、顔色はまだ悪いが、昨日の朝よりは目に力が戻っている。けれど、その力は元気の色というより、無理に保っている感じに近かった。
「来てくれたの」
郁子が言う。
「うん」
「学校の帰り?」
「そう」
直人はベッド脇の丸椅子に座った。朔は少し離れた窓際の椅子を引いた。近すぎず、遠すぎない場所だった。
「無理しなくてよかったのに」と郁子が言う。
「お見舞いに来たかったから」
それだけ返すと、郁子はかすかに笑おうとした。うまく形にならない笑い方だった。
「朔くんも、ありがとう」
「いえ」
朔は短く頭を下げた。それ以上は言わない。
しばらく、病室には空調の低い音だけがあった。
ベッド脇の棚には、未開封の水のペットボトルと紙コップが置いてある。テレビは消えていた。窓の外はもう夕方に近く、白い建物の壁にやわらかい影がついている。
郁子が先に、普通の話をしようとした。
「授業、ちゃんと受けられた?」
「まあ」
「ご飯、食べられてる?」
「うん」
短いやりとりが、すぐ途切れる。
普通に戻ろうとしているのが分かるのに、その普通が少しも長く続かなかった。
直人は膝の上で指を組み直した。
「昨日、また来た」
郁子の顔から、薄く乗っていた色が引いた。
「……何が」
分かっているくせに、そう聞いた声だった。
「十九時五分」
返すと、郁子の指先がシーツをつかんだ。
「ノックが鳴った」
郁子はすぐには何も言わない。点滴の管のそばの皮膚だけが、少し白く見えた。
「あなた、一人で聞いたの?」
「違う」
直人は横を見なかった。
「朔もいた」
郁子は視線を落としたまま、小さく息を吸う。
「……何回だったの?」
直人は眉を寄せた。
「分かってるだろ」
言い方が少し強くなる。
自分でもそれが分かったが、引っ込められなかった。
「五回。毎回、同じ間隔で」
郁子の喉が動く。
その仕草だけで、答えはほとんど出ていた。
朔が制服のポケットからスマホを出して、何も言わずに直人のほうへ寄せた。
直人はそれを受け取って、画面を開いた。例の空っぽなアイコンの下に残っている短い文を、郁子の見える位置まで持ち上げる。
『二〇一号室の家主は知っている』
郁子はその一行を見たまま、しばらく瞬きもしなかった。
やがて、震えた声で言う。
「……また、来たのね」
「来るよ」
直人は答えた。
「おばあちゃんがいない夜も、変わらなかった」
そこまで言ってから、病室の中が少し冷えた気がした。
郁子がいない夜、と口にすると、本当に今の家には、家主がいないままなのだと分かる。
「だから来た」
直人は続けた。
「お見舞いだけじゃない。聞きに来た」
郁子はすぐに首を振った。
「そんなの、気にしなくていいの。あんなもの、相手にしないで」
「無理だよ」
「直人くん」
「無理だ」
今度は言い直した。
病室の白さが、かえって言葉をまっすぐにする。
「家で毎日待つことになる。十九時五分になるたびに、あの扉を見ることになる。なのに、家主は知ってるって来たんだよ」
郁子は視線を上げない。
ただ、シーツをつかむ指先だけが少しずつ強くなる。
「俺たち、知りたいんだ。あのノックは誰なのか」
その「俺たち」に、朔の分も自然に入った。
言ってから、直人は横を見なかった。見なくても、朔が動かなかったことだけは分かる。
「だから、何を知ってるのか、言って」
郁子はしばらく黙っていた。
点滴の落ちる間より、その沈黙のほうが長く感じる。
やがて郁子は、シーツから手を離して、自分の指先を見た。
何かを確かめるみたいに、細いしわのある手の甲を一度撫でる。
「……一年前。雨の夜だったの」
それが最初だった。
直人は息を止めた。
隣の椅子でも、布がかすかに鳴る。朔も姿勢を直したのだと分かったが、声はしない。
郁子は窓のほうではなく、病室の白い壁を見ていた。
「窓にずっと雨が当たっていて、ベランダの手すりから落ちる水の音が、うるさいくらいしてた」
言葉はゆっくりだった。
説明しようとしているというより、思い出した順に、出せるぶんだけ出している感じだった。
「夕飯の支度をしてたの。時計、見たのよ。十九時五分くらい。そこだけは、はっきり覚えてる」
十九時五分。
病室にいるのに、その数字だけで二〇一号室の扉が近づく。
「それで、鳴ったの。五回」
郁子はそこでいったん口を閉じた。
唇の端が小さく震える。
「一回目で、びっくりして。二回目で、玄関のほう見て。三回目、四回目、五回目って……同じ間で、きれいに鳴って」
直人は何も言えなかった。
今、自分たちが聞いている音と同じ並びが、そのまま病室の中に置かれていく。
「玄関まで、行ったの」
郁子は言った。
「行って、チェーンに手をかけた。そこまではしたのよ」
その一文が、直人の胸に重く落ちる。
今の郁子が、玄関のチェーンに何度も触れていた指とつながった。
「でも、外せなかった」
声が、そこで少し割れた。
「怖かったの。ほんとうに、怖かった。夜に、顔も見えないまま、あんなふうに五回も叩かれて……知らないものを家の中に入れてしまう気がして」
誰にも責められていないのに、弁解みたいに聞こえた。
けれど弁解ではなく、ただそのときの本当の恐怖なのだと分かる声だった。
「返事もしなかった。息をひそめて、動けなかった」
郁子はそこで目を閉じた。
まぶたの端に、水気がひとつだけ溜まる。でも声は崩れなかった。
「後から知ったのよ」
病室の空気がさらに静かになる。
「あのとき、あそこにいたのは、怪我をした子だったって。助けを求めて、二〇一号室まで来てたんだって」
直人は思わず顔を上げた。
「怪我って」
郁子は小さくうなずく。
「ひどく消耗してたって、あとで聞いた。雨で濡れて、あそこまで来るのもやっとだったのかもしれない」
そこまで言ってから、郁子は首を振った。
「わたし、見てないの。見てないから、ほんとの顔も、どんな怪我だったのかも分からない。分からないまま、開けなかった。わたしが開けていたら助かったのかどうか、そんなこと、今さら誰にも分からない。でも、助けを求める音を聞いたのに、わたしは中にいたままだった」
その「見てない」が、妙に痛かった。
見なかったのではなく、見られなかったのだと分かるぶんだけ、痛い。
「それで……その人、死んだの」
直人は、自分の声がこんなに薄くなるのかと思った。
郁子はすぐには答えなかった。
シーツの上に置いた手が、小さく握られる。
やがて、ごく小さく言った。
「……亡くなったって聞いた」
病室の白さが急に固くなる。
去年死んだ先輩、という噂の軽さが、その一言で全部剥がれた気がした。
直人は、すぐには次の言葉が出なかった。
怒りなのか、驚きなのか、自分が今どこを痛いと思っているのか、はっきりしない。ただ、胸の中に何か重いものが落ちたまま、底へ着かない感じだけが続く。
夜の訪問者に扉を開けないのは普通だと、直人はついこの前まで思っていた。
いや、今も、その理屈自体は間違いだと思えない。
怖いものは怖い。
知らない相手を夜に家へ入れたくない。
そう思うことのどこが悪いのかと、自分だって言った。
なのに、その普通の中に、誰かひとりの助けが外に置かれたのだとしたら。
その五回がほんとうに人の手だったのだとしたら。
「……なんで、黙ってたの」
出てきたのは、それだった。
郁子は目を開けた。
その目はもう逃げていなかったが、代わりにひどく疲れて見えた。
「わたしは、あの夜をなかったことにしたかったのよ。助けを求める五回を、聞かなかったことにしたかった。そうしないと、あの扉の前で止まったまま、ずっと生きることになる気がして」
病室のベッドの上で言うには、あまりに重い言葉だった。
「ごめんね」
またその一言だった。
けれど昨日の朝とは違った。
ただ倒れたことを謝っているのではない。もっと前からずっと言えなかったものが、やっと形になった「ごめんね」だった。
直人はすぐには何も返せなかった。
口を開くと、責める言葉と、責めきれない気持ちがいっしょに出てしまいそうだった。
隣で、朔はまだ黙っていた。
郁子に質問もしないし、直人をなだめることもしない。ただ、急かさずに座っている。その気配だけがある。
それでようやく、直人はもう一つ聞けた。
「昨日までのメッセージも、一年前の夜と関係あることだと思う?」
郁子は少しだけ迷ってから、うなずいた。
「たぶん……そう」
「誰が送ってるのか、心当たりあるの?」
「……ごめんなさい。分からないわ」
その声は弱いままだった。
直人は小さく息を吐いた。
息を吐いただけなのに、肺の奥が痛かった。
朔がそこで初めて口を開いた。
「……分かりました」
短い声だった。
慰めでも断罪でもない。ただ、今聞いたことをそのまま受け取るみたいな声だった。
郁子はその一言に、少しだけ目を伏せた。
「朔くんまで、ごめんね」
「俺はいいです」
朔はそれだけ言った。
それ以上、何も足さない。
病室を出ると、廊下の白さがさっきよりきつく見えた。
直人はすぐには歩けず、壁際で一度立ち止まった。自販機の低い唸りがしている。向こうのナースステーションから、紙をめくる音がかすかに聞こえた。
朔は隣に来ても、「大丈夫か」とは聞かなかった。
代わりに、少ししてから言った。
「帰るか」
「……うん」
それしか返せなかった。
病院を出てから家に着くまでの道を、直人はほとんど覚えていなかった。
団地の外階段を上がる音だけが、やけに耳に残った。
二〇一号室の鍵を開ける。
金属が乾いて鳴る。
その音に、一年前の郁子の指が重なった気がした。
居間へ入ると、空いた椅子が今朝と同じ位置にあった。
背もたれのエプロンはそのままだ。使う人のいない茶碗も、棚のいつもの場所に戻っている。
見慣れたはずのものに、知らなかった夜がひとつずつ染み込んでいるみたいだった。
直人は鞄を下ろさないまま、食卓の前に立ち尽くした。
「座ったら?」
後ろから、朔が言う。
「……今、そんな気分じゃない」
「じゃあ、立ったままでいい」
ぶっきらぼうな返しだった。
けれど、いつも通りの雑さに少しだけ助けられる。
朔は手を洗って、そのまま台所へ向かった。
勝手に冷蔵庫を開ける前に、「卵使うぞ」とだけ言う。
「……うん」
「飯、少しでいいなら作る」
「食えるか分かんない」
「じゃあ食える分だけ」
それ以上は聞かない。
コンロの火がつく小さな音がして、鍋に水が落ちる。
家の中に、ようやく生活の音が戻った。
直人は棚を開けて、どんぶりを二つ出した。
箸も二膳。頼まれていないのに、手がもうそう動く。
湯気が立つまでのあいだ、居間には冷蔵庫の唸りと、鍋の底が鳴る音だけがあった。
「俺、前に言ったんだよ」
気づくと、直人はそんなことを言っていた。
「何を」
朔は鍋を見たまま聞く。
「夜に知らない相手が来たら、怖いから開けないのは普通だって」
朔はすぐには答えなかった。
麺をほぐす箸の音だけが二度ほどして、それから言う。
「間違ってねえだろ」
「……でも」
その先がうまく続かない。
普通だと思っていた理屈と、病室で聞いた五回が、まだ胸の中でうまく並ばない。
朔は火を弱めた。
「間違ってなくても、ダメなことってあるんだろ」
直人は顔を上げた。
朔はこちらを見ないまま、どんぶりに麺を移している。
「怖かったんだろ。だから開けられなかった。それはきっと、ほんとだ」
「うん」
「でも、それで終わらなかった。それも、ほんとだった」
どんぶりを二つ並べて、二人で向かい合って座る。
湯気の向こうに、空いた椅子が見えた。
食べるあいだ、ほとんど会話はなかった。
それでも、一人で黙っているのとは違った。
食べ終わって、流しでどんぶりを洗う。
朔が水を出し、直人が拭いた。
同じ家事を二人でやるだけなのに、家の広さが少しだけ元に戻る。
壁の時計が、十八時五十九分を指す。
二人とも、手が止まった。
流しの水を止める。
ふきんを畳む。
どちらからともなく、玄関のほうを見る。
昨日までと同じはずの十九時前が、今日は少し違っていた。
扉の向こうにある五回が、怪異の音だけではなくなってしまったからだった。
人の手で叩かれた雨の夜が、もう二〇一号室の中に入ってしまっている。
直人はふきんを置いて、玄関の前まで歩いた。
朔もあとから来る。
肩が触れないぎりぎりの距離で、また並ぶ。
「今日も、来るかな」
直人が言うと、朔は「分かんねえ」とだけ答えた。
壁の時計の秒針が進む。
十九時五分の少し前、扉より先に、朔のスマホが震えた。
二人とも同時にそちらを見る。
朔がポケットから取り出した画面には、見慣れた黒い背景と、空っぽなアイコンが浮かんでいた。
直人は何も言わず、朔の肩のそばへ寄る。
同じ画面を、二人でのぞき込む。
白い文字は一行だけだった。
『あの夜の恨みは忘れていない』
恨み、という言葉が、五回のノックより先に二〇一号室へ入ってきた。



