十九時五分、二〇一号室を五回ノックしてみてください

あと五分で、十九時五分だった。

居間の真ん中には、さっき広げた布団が二組並んでいる。まだ枕の向きもきちんと揃えきっていないのに、寝る準備だけが先に部屋へ来てしまったみたいだった。壁際には朔のスポーツバッグが寄せてあり、少し開いたファスナーの隙間から白いTシャツの端が見えている。

直人は時計を見た。朔も見ていた。別々の場所にいるのに、同じ針を見ていた。

「まだ五分」と、朔が言う。

「知ってる」

声は出たが、喉のところで少し擦れた。

夕飯はまだだった。腹は減っているはずなのに、空っぽなのは胃じゃなくて家のほうみたいだった。冷蔵庫の低い唸りと、外の廊下の蛍光灯がつく前のじ、とした小さな音だけが、やけに広く聞こえる。

十九時になってからの五分は、今日も短くならなかった。

十九時一分。
朔は玄関から一歩引いた場所に立ったまま、手を上げない。昨日の「見に行こうとした」動きすら、今日は最初からしなかった。

十九時二分。
直人は自分の手が、さっきからずっとチェーンの位置を目で追っていることに気づいた。触れていないのに、そこだけ冷たい気がした。

十九時三分。
向かいの棟のどこかで窓が閉まる。

十九時四分。
朔の呼吸が、少しだけ浅くなる。

十九時五分ちょうど、壁の時計が小さく鳴った。

その一拍あとだった。

コン。

直人の肩が跳ねる。
すぐそばの扉が、木の内側からまっすぐ叩かれたみたいな音だった。

コン。

同じ強さ。
同じ高さ。
同じ間。

さっきの朔の二回とは、最初から違っていた。人がためらいながら鳴らす音じゃない。五回と決まっているものが、そのとおりに置かれていく音だった。

コン。

三回目で、二人とも動けなくなる。

コン。

玄関の向こうには足音も、衣擦れもない。
叩くためだけにそこに来て、叩くためだけに存在しているみたいな、不自然な静けさだった。

コン。

五回目は、前の四つを寸分違わずなぞって終わった。

それで終わる。
六回目はない。

誰もすぐには息をしなかった。
五つの音だけが、扉の表面にまだ残っている気がした。

その沈黙を切ったのは、畳の上で震えた短い通知音だった。

ぶる、と一度だけ震えたスマホを、直人は反射で見た。朔のものだった。

朔もすぐには手を伸ばさない。
昨日、自分で「通知は切らない」と言っていたことを、たぶん思い出している顔だった。

「……見ろよ」

直人が言うと、朔はようやくしゃがみ込み、スマホを取った。
画面が白く点いて、二人の顔を下から照らす。
通知の送り主の横には、例の、空っぽなままのアイコンがあった。

朔が画面を開く。
直人も自然にその横へ寄った。
肩が触れるか触れないかの距離で、同じ画面を見る。

黒い画面に、白い文字が一行だけ浮かんでいた。

『二〇一号室の家主は知っている』

直人はしばらく、その短い文を読めなかった。
文字は簡単なはずなのに、意味だけが遅れて頭に入ってくる。

「……家主って」

掠れた声でそう言うと、朔は画面を見たまま答えた。

「お前のおばあちゃんのことだろ」

それ以外、思いつかなかった。

「なんで?どういうこと?」

言い終える前に、見られているみたいな感じが背中を這った。
五回のあと、ほとんど間を置かずに届いた通知だった。聞いたかどうかを確かめるような、あまりにいいタイミングだった。

朔は返事をしない。
画面を伏せて、玄関のほうを見る。

「一人で開けるなよ」

直人はすぐに言った。

「開けない」

朔もすぐに返した。
昨日より低く、短い声だった。

それでも二人とも、しばらく扉から目を離せなかった。
向こうにまだ何かがいるのか、もういないのか、それすら分からないまま、廊下の蛍光灯の低い唸りだけが聞こえている。

直人は、空いた椅子を見た。
郁子のエプロンが、そこに誰も座っていない形のままかかっている。
今この家で、あのメッセージの答えを言える人は、ここにはいない。

「……先に食うぞ」

不意に、朔が言った。

直人は顔を上げた。

「こんなときに?」

「こんなときだから」

朔はスマホを伏せたまま、台所へ向かった。
言い聞かせるでも、励ますでもない。ただやることを一つ決めたみたいな動きだった。

「何かある?」

「分かんない」

「冷蔵庫、見ていいか」

「いい」

朔は勝手に引き出しを開けたりはせず、ちゃんと声をかけてくれた。それから冷蔵庫の扉を開ける。白い光が居間まで薄く伸びた。

「卵あるな」

「……ある」

「乾麺もある」

戸棚の音がした。郁子がいつも置いていたらしい袋の位置を、直人は昨日今日で朔が覚えてしまったことに、少しだけ驚く。

「鍋どれ」

「下」

「味噌は?」

「右」

それだけのやりとりで、台所の音が少しずつ戻ってきた。
蛇口をひねる音。
鍋に水が落ちる音。
コンロの火がつく短い音。

さっきまで家の中を占めていた、五回のあとの静けさが、その普通の音に少しずつ押し返されていく。

直人は食器棚を開けた。
手前に、いつも郁子が使っていた白い茶碗がある。口が薄くて、縁にだけ細い青い線が入っている。何度も見た茶碗だった。

指先がそこに触れて、直人は止まった。

出さない。
出しても、座る人がいない。

代わりに、隣のどんぶりを二つ取り出した。箸も二膳。気づいたときには、もう朔の分まで自然に手に取っていた。

鍋の湯気が立つ。
朔が黙って麺を入れ、卵を落とす。手つきは家の台所に慣れている人のそれだったが、作っているものはひどく簡単だった。簡単であることが、今は助かった。

「座れ」と、朔が言う。

「食えるか分かんない」

「いいから、少しだけ」

直人は反論せずに座った。
朔がどんぶりを二つ運ぶ。
湯気が上がる。その湯気だけで、さっきまで冷たかった部屋の空気が少し動く。

二人とも、しばらく箸をつけなかった。
食卓の上に伏せたままのスマホが、黒く沈んでいる。

直人はようやく麺を口に運ぶ。味はよく分からなかったが、熱いものが喉を通っていく感じだけは、ちゃんとあった。

「薄い?」と、朔が聞いた。

「別に」

「そうか」

会話はそれきりだった。
食べる音だけが、静かな家の中でやけに近い。向かいの棟のテレビの笑い声も、廊下の足音も、さっきより遠かった。

どんぶりが空になると、少しだけ腹の中に重さが戻った。
何も解決していないのに、その重さだけで、いくらか座っていられる気がした。

朔が立ち上がる。

「置いとけ」

直人が言うと、「いい」と返される。
そのまま流しへ持っていって、水を出す。

「俺がやる」

振り返りもせずに言う。
それで直人は、食器かごの横にあったふきんを取った。

洗う音と、拭く音。
台所に二人分の手があるだけで、家の空気が少し変わる。

直人が皿を受け取るたび、朔の指先に少しだけ水が残っている。いつも教室の真ん中にいるやつが、自分の家の流しの前で黙って皿を洗っている。それを変だと思う余裕も、もうあまりなかった。

最後のどんぶりを拭き終えるころ、朔が言った。

「歯磨き粉どこ」

「洗面台の棚」

「分かった」

本当に泊まるんだと、その何でもない問いで改めて分かる。

洗面台の前に立つと、歯ブラシが三本になっていた。
朝まで二本しかなかった場所に、朔の黒い歯ブラシが増えている。隣に立てられただけなのに、その狭い棚が別の場所みたいに見えた。

「先に使えよ」と、朔が後ろから言う。

振り返ると、朔はシャツの袖を肘までまくって、バッグからTシャツを出していた。言い方はぶっきらぼうなのに、内容だけは世話を焼く側のそれだった。

「うん」

直人は洗面台に向かった。
水で口をすすぐ音が、家の中に小さく返る。
鏡の中には、昨日までより少しだけ疲れた顔があった。その後ろに、居間のほうでTシャツに着替えた朔の気配が動く。

歯を磨き終えて居間へ戻ると、朔はもう充電器を出していた。

「コンセント、借りる」

「そこの壁」

「遠いな」

「延長、押し入れの横」

それも直人が言う前に、半分は見つけていた。
コードが畳の上を這う。
二人のスマホが、布団のあいだの床に並んで置かれる。充電の小さな印だけが、暗くなりかけた部屋で薄く点いていた。

「電気、どうする」

「全部は消すな」

「分かった」

居間の明かりだけを落として、台所のほうの小さな灯りをつけたままにする。完全な暗さではない半端な明るさが、かえって今夜にはちょうどよかった。

布団に入る。
最初から二組は近くに敷いてあったが、実際に横になると、その近さがよく分かった。あいだはこぶし一つ分もない。離そうと思えば離せたのに、どちらも動かさなかった。

布団の擦れる音がして、それきりしばらく何も言わない。
時計の針だけが進む。
玄関の向こうではもう何も鳴らないのに、耳だけはまだ扉のほうを気にしていた。

「家の人にちゃんと話したのか」と、直人が聞く。

「した」

「友達の家で、勉強会って?」

「そう」

「あっさり許可出るんだな」

「うち、そういうの雑だから」

暗い中で、朔の声だけが少し近い。
昼の教室で交わすより、ずっと低くて、ずっと短いのに、届き方はこっちのほうがはっきりしていた。

「お前は」

朔が言う。

「何」

「明日、学校どうすんの」

「まだ分かんない」

「病院、行くだろ」

「……たぶん」

返事をしてから、直人は天井を見た。
居間の天井は、自分の部屋のより少し広く感じる。

「さっきの」と、朔が言う。

直人はすぐ意味が分かった。
ノックじゃない。メッセージのほうだ。

「家主って、やっぱ、お前のおばあちゃんのこと?」

「そうじゃない?」

「一昨日から、なんか妙に怯えた感じだったよな?」

直人は返事をしなかった。
郁子が一昨日、玄関のチェーンに触れていた指。
今日、病院のベッドで薄く笑おうとして、うまくいかなかった顔。
どちらも頭に残っている。

「でも」と、直人は言う。

「今、聞けるかよ」

「今じゃない」

朔の声は静かだった。

「明日」

それだけで、直人は少しだけ眉を寄せる。

「また倒れたらどうすんだよ」

「無理に詰める気はねえ」

「だったら」

「でも、聞かないままも無理だろ」

布団の向こうから返ってきた声は、強くはなかった。
押しつける声でもない。
ただ、もうここまで来たら、そこを避けて通れないと言っているだけだった。

直人は目を閉じた。
スマホの黒い画面と、そこに出た白い一文が頭に浮かぶ。

『二〇一号室の家主は知っている。』

知っているのだと思う。
一昨日からの怯え方を見れば、それはもう分かっている。
けれど、分かっていることと、自分の口から聞くことは違う。

「電話じゃ無理だな」と、朔が言った。

「分かってる」

「顔見て、聞くしかない」

直人はすぐには返せなかった。
隣の布団から聞こえる呼吸は、眠りに落ちる手前のものではない。朔も同じように起きているのが分かる。

郁子のいない夜に、別の呼吸がある。
それだけで、怖さが消えるわけじゃない。
それでも、全部を一人で抱えている感じは少し薄まる。

「……お前も来るのか?病院に」

「行く」

「なんで」

少し間が空いた。
それから、暗い中で朔が短く言う。

「一人で背負わせたくない」

直人は布団の端を少しだけ引いた。
その音に合わせるみたいに、隣でも毛布が小さく鳴る。
二つの布団のあいだは、さっきよりさらに狭くなった気がした。

「……明日」

直人は言った。

「学校、終わったら病院行く」

「うん」

「見舞いのついでじゃない」

「分かってる」

「聞けそうになかったら、無理に聞かない」

「うん」

「でも」

そこで一度、息を吐く。

扉の向こうの五回。
黒い画面の白い文字。
空いた椅子と、使わなかった茶碗。
全部が今夜の家の中に残っている。

直人は天井を見たまま、ようやく言った。

「お見舞いに行って、本人に聞くしかない」