朝になっても、昨夜扉の向こうで揺れたかすかな息は、直人の耳の奥に引っかかったままだった。
ほとんど眠れないまま目を開けると、カーテンの隙間から入る光がやけに白い。スマホは六時を少し過ぎていた。居間のほうから、食器の触れ合う小さな音がしている。
布団を出ると、足の裏が冷たかった。
扉の前に立ち続けたせいか、肩も背中も固い。
居間へ行くと、郁子はもうエプロンをつけていた。
やかんの前に立っている背中が、いつもより小さく見える。
「おはよう」
声だけは普通だった。
けれど顔色が悪い。目の下に、昨夜にはなかった影が落ちている。
「……おはよう」
直人は椅子の背に手をかけたまま、郁子を見た。
「寝てない?」
「少しは寝たわよ」
嘘だと思った。
昨夜、五回のノックのあとに扉の前で固まっていた横顔のまま、朝になったような顔だった。
やかんが小さく鳴る。
郁子は火を止め、湯呑みを取ろうとした。
「いいよ、朝飯とか」
「食べないと、学校――」
そこまで言って、郁子の声がふっと切れた。
伸ばした手が、棚の手前で止まる。
指先が空をつかむみたいに一度だけひらいて、そのまま肩が落ちた。
「おばあちゃん!」
駆け寄ったときには、もう膝が抜けていた。
直人の腕に半分もたれかかるみたいにして、郁子の体が床へ沈む。頭を打たせないように支えたせいで、自分の手首までひどく痛んだ。
「おばあちゃん、聞こえる?」
返事はすぐにはなかった。
目は閉じていない。けれど焦点が合っていない。
「大丈夫」と言いかけたみたいに唇が動いて、それきり言葉にならなかった。
直人はポケットからスマホを出した。
指がうまく動かない。画面を二度、三度と触り損ねてから、ようやく通話をつなぐ。
相手の声は落ち着いていた。
年齢、意識、呼吸、倒れた時刻。聞かれるまま答えているうちに、自分の声が思ったより震えているのが分かった。
言われた通り、郁子の体を少し横向きにする。
丸めたタオルを頭の下に入れる。
呼吸はある。けれど浅い。
通話が切れたあとも、耳の中には相手の声が残っていた。
落ち着いてください、もう向かっています、と。
落ち着けるわけがなかった。
それでも何かしないといけなくて、直人はスマホを開いた。
考えるより先に押していたのは、昨夜のうちに帰っていた朔の名前だった。
『おばあちゃん倒れた。救急車呼んだ』
送ってから、自分でその短さに驚いた。
事情の説明も何もない。ただ事実だけだった。
画面を見つめている間にも、郁子の呼吸は浅く上下している。
居間の時計の秒針だけが、妙に大きかった。
そのとき、玄関で音がした。
コン、コン。
昨夜のノック音とは違う、焦りのある音だった。
同じ扉の音なのに、体の反応が少し違う。
「直人」
低い声がして、直人は立ち上がった。
のぞき穴を覗く余裕もなく、鍵を外す。
開けると、朔がいた。
制服のシャツの襟が少し曲がっていて、髪もきれいに整いきっていない。走ってきたのが分かる顔だった。
けれど最初に言ったのは励ましじゃなかった。
「救急車は」
「呼んだ。もう来る」
「保険証どこ」
直人は一拍遅れて、台所のほうを見た。
「食器棚の横の引き出し」
「分かった」
朔は靴も揃える暇なく上がり、言われた場所へまっすぐ行った。
引き出しを開け、診察券の束と一緒に透明なケースをつかむ。
それから玄関を振り返った。
「財布」
「……あ」
「あと鍵」
直人は何も言えず、言われた通りに準備した。
朔はそのあいだに、流しに出たままだったやかんの火を確認し、濡れた布巾を端へ寄せ、郁子の鞄まで見つけて持ってきた。
視線だけは常に部屋全体を見ている。
どこに何があるか知らないはずなのに、知らない家で迷っている感じがしなかった。
「スマホ持ったか」
「うん」
「充電、何パー」
「……四十」
安心させる言葉は一つもない。
その代わり、本来自分で考えて用意すべきだったものが一つずつ減っていく。
団地の下でサイレンが止まった。
その音に、直人の肩がびくりと揺れる。
そのあとからは、音ばかりが増えた。
玄関で交わされる短い確認の声。
担架の車輪の硬い音。
ストレッチャーの金具。
知らない大人の靴が、二〇一号室の床を慎重に踏む音。
郁子は運ばれる直前に一度だけ目を開けた。
直人を見て、「ごめんね」と唇だけで言った気がした。
ちゃんとは聞こえなかった。
「付き添いは」
言われて、直人が口を開く前に朔が保険証を差し出した。
「一緒に行きます」
まるで前から決まっていたみたいな声だった。
病院の廊下は白くて、朝なのに時間が止まったみたいに静かだった。
壁際の椅子に座ると、自分の膝が小さく揺れているのが見える。
運び込まれてから、思ったより時間がかかった。
診察室のドアが開くたびに、胸の奥が勝手に固くなる。
朔は隣に座っていたが、くっつきすぎない距離を保っていた。
さっきまであんなに近くで動いていたのに、今は変に踏み込まない。
それがありがたかった。
「飲め」
気づくと、ペットボトルの水が目の前にあった。
いつ買ってきたのか分からない。
「……いらない」
「喉、きっと乾いてる」
言われて初めて、自分の喉がひどくひりついているのに気づいた。
直人は受け取って、少しだけ飲んだ。
冷たい水が落ちていくのに、体は全然落ち着かない。
それでも、空の胃に何か入った感じだけはした。
「……悪い」
ぽつりとそう言うと、朔は真正面を見たまま肩をすくめた。
「気にしなくていい」
しばらくして、医師が出てきた。
説明は短かった。
大きな発作や脳の緊急性が高い状態ではなさそうだということ。
血圧が下がっていて、脱水と消耗が強いこと。
年齢のこともあるから、このまま検査入院にしたいということ。
命に関わるようなものではありません、と最後に言われても、すぐには足の力が戻らなかった。
「倒れた理由は」
聞き返しかけて、直人はやめた。
理由なんて、分かりきっている気がした。
少なくとも、昨夜と無関係だとは思えなかった。
病室に入ると、郁子は点滴をつないだまま目を閉じていた。
顔色はまだ悪いが、さっき床に倒れていたときよりは呼吸が落ち着いている。
直人が近づくと、郁子はゆっくり目を開けた。
「ごめんね」
またそれだった。
「謝んなくていいよ」
声が少しきつくなった。
きつくしたつもりはなかったのに、そうなった。
郁子はうっすら笑おうとして、うまくいかない顔のまま目を伏せた。
「ちょっと、反動が来たみたい」
昨夜のことを直接言わないまま、そう言った。
直人も、そこを掘り返せなかった。
「今日は、このまま泊まるって」
「そう」
「検査入院。たぶん何日か」
何日、という言葉が妙に重かった。
家に郁子がいない夜が、急に現実になる。
病室の入口の近くで、朔が小さく頭を下げた。
郁子はベッドの上で寝た状態のまま、朔の方を見て「来てくれて、ありがとう」と言った。
朔は少しだけ視線を落とした。
「いや」
それしか言わなかった。
でも帰ろうともしなかった。
面会を切り上げて廊下に出ると、急に体が重くなった。
説明を聞いて、顔を見て、ようやく緊張が切れたのかもしれない。
壁に背をつけると、病院特有の匂いがする。
消毒液と、洗いたてのシーツと、エアコンの乾いた風の匂い。
朔が横で言った。
「帰るか」
直人は少しだけ顔を上げた。
「……うん」
「鍵あるな」
「ある」
「じゃ、行くぞ」
夕方に戻った二〇一号室は、朝より広かった。
玄関を開けた瞬間、冷蔵庫の低い唸りがすぐ分かる。
それ以外の音がほとんどないからだった。
居間の椅子がひとつ、少し引かれたまま残っている。
背もたれには、いつの間にか畳まれていた郁子のエプロンがかかっていた。
たぶん、朝出る前に朔が拾ってくれたのだろうと、見れば分かった。
テーブルの上には何もない。
なのに、何かがごっそり減った感じだけがする。
直人は鞄も下ろさないまま、しばらく立っていた。
今朝ここで人が倒れたことも、病院へ運ばれたことも、全部同じ部屋の出来事だと思えない。
「座れ」
朔が言う。
「……別に」
「じゃあそのままでもいい。俺、お湯沸かす」
勝手に台所へ行く。
引き出しの場所を覚えてしまったみたいに、もう変なためらいがない。
「何してんの」
「何か飲む」
「いらない」
「いる」
やかんに水の入る音がした。
その普通の音が、帰ってきてから初めて、部屋の中に生活らしいものを戻した。
直人は流しの前まで行き、棚を開けた。
コップを二つ出してから、自分の手元を見た。
頼まれたわけでもない。
なのに、もう一つは自然に朔の分だった。
そのことに気づいたのは、テーブルへ置いたあとだった。
朔はそれを見ても何も言わなかった。
ただ、湯気の立つコップを一つ直人の前へ寄せて、自分の分を持った。
二人とも、しばらく口をつけない。
熱いから、というより、今やっと家の静けさをまともに聞いてしまったからだった。
「……病院、明日もだよな」
朔が先に言った。
「たぶん」
「学校、どうする」
「分かんない」
本当に分からなかった。
家に一人でいていいのかも、学校へ行くのが普通なのかも、今は判断が鈍っている。
朔はコップを置いた。
「一回戻る」
直人は顔を上げた。
「……帰るのか」
言ってから、その言い方が自分で少し引っかかった。
確認のつもりだったのに、別の意味を持った気がしたからだ。
朔はすぐに首を振る。
「違う。取ってくるだけ」
「何を」
「着替えと歯ブラシ。あと、充電器」
短く区切って言ってから、少しだけ間を置く。
「今日はいる」
直人は何も言わなかった。
朔は続ける。
「たぶん、明日も」
その言い方は軽くなかった。
決めたことをただ伝えるみたいな声だった。
「嫌なら言え」
直人はエプロンのかかった椅子を見た。
空いたままの席を見た。
それから、テーブルの上の二つのコップを見た。
帰るな、と言えたのに、そういう言葉は喉のところでうまく形にならない。
ようやく出たのは、別の言葉だった。
「……家には、何て言うの?」
「友達の家にしばらく泊まるって伝える。テスト近いから勉強会ってことで」
「そう」
「三十分もかからないで、戻ってくるから」
朔は立ち上がって、自分のコップだけを流しに持っていった。
それから玄関で靴を履きながら言う。
「戻ったら二回ノックするから」
直人はうなずいた。
扉が閉まる。
鍵の音がして、足音が廊下を遠ざかる。
それだけで、部屋はまた急に広くなった。
冷蔵庫の音。
壁時計の秒針。
向かいの棟のどこかで窓が閉まる音。
人が一人いないだけで、こんなに空気の量が変わるのかと思った。
郁子がいないぶんの広さに、今度は朔のいないぶんまで重なる。
直人は居間の真ん中で立ち尽くした。
病院から持ち帰った紙が、テーブルの端で少しだけ浮いている。
背もたれのエプロンは、誰も着ない形のまま静かだった。
押し入れを開ける。
客用の布団が奥にしまってあるのが見えた。
玄関で、二回鳴った。
コン、コン。
直人はすぐに鍵を開ける。
朔は小さめのスポーツバッグを肩にかけていた。
朝より息は整っているが、たぶん急いでは来たのだろう。額に少しだけ汗が残っている。
「早いな」と直人が言うと、朔は玄関に上がりながら「近いから」とだけ返した。
バッグは本当に最低限だった。
Tシャツが二枚、薄いパーカー、歯ブラシ、スマホの充電器。
それだけで、泊まるつもりなのが分かる。
洗面台の前で、朔が自分の歯ブラシを立てた。
直人のものの横に、もう一本増える。
それだけなのに、見慣れたはずの場所が少し変わった。
「タオル」
直人は戸棚から一枚出して渡した。
自分でも、そこに迷いがなかったことに少し驚く。
「ありがと」
朔が言う。
直人は返事の代わりに、押し入れのほうを顎で示した。
「布団、そこ」
朔が居間を見る。
「ありがと」
二人で押し入れから布団を出した。
広げる音が畳の上を滑る。
その作業は妙に静かだった。
大げさな相談もなく、片方が持ち上げた端をもう片方が自然に受ける。
そういう動きだけが続いた。
終わると、居間には布団が二組並んでいた。
壁の時計は、十八時五十七分を指していた。
長針が、またゆっくり五へ近づいていた。
ほとんど眠れないまま目を開けると、カーテンの隙間から入る光がやけに白い。スマホは六時を少し過ぎていた。居間のほうから、食器の触れ合う小さな音がしている。
布団を出ると、足の裏が冷たかった。
扉の前に立ち続けたせいか、肩も背中も固い。
居間へ行くと、郁子はもうエプロンをつけていた。
やかんの前に立っている背中が、いつもより小さく見える。
「おはよう」
声だけは普通だった。
けれど顔色が悪い。目の下に、昨夜にはなかった影が落ちている。
「……おはよう」
直人は椅子の背に手をかけたまま、郁子を見た。
「寝てない?」
「少しは寝たわよ」
嘘だと思った。
昨夜、五回のノックのあとに扉の前で固まっていた横顔のまま、朝になったような顔だった。
やかんが小さく鳴る。
郁子は火を止め、湯呑みを取ろうとした。
「いいよ、朝飯とか」
「食べないと、学校――」
そこまで言って、郁子の声がふっと切れた。
伸ばした手が、棚の手前で止まる。
指先が空をつかむみたいに一度だけひらいて、そのまま肩が落ちた。
「おばあちゃん!」
駆け寄ったときには、もう膝が抜けていた。
直人の腕に半分もたれかかるみたいにして、郁子の体が床へ沈む。頭を打たせないように支えたせいで、自分の手首までひどく痛んだ。
「おばあちゃん、聞こえる?」
返事はすぐにはなかった。
目は閉じていない。けれど焦点が合っていない。
「大丈夫」と言いかけたみたいに唇が動いて、それきり言葉にならなかった。
直人はポケットからスマホを出した。
指がうまく動かない。画面を二度、三度と触り損ねてから、ようやく通話をつなぐ。
相手の声は落ち着いていた。
年齢、意識、呼吸、倒れた時刻。聞かれるまま答えているうちに、自分の声が思ったより震えているのが分かった。
言われた通り、郁子の体を少し横向きにする。
丸めたタオルを頭の下に入れる。
呼吸はある。けれど浅い。
通話が切れたあとも、耳の中には相手の声が残っていた。
落ち着いてください、もう向かっています、と。
落ち着けるわけがなかった。
それでも何かしないといけなくて、直人はスマホを開いた。
考えるより先に押していたのは、昨夜のうちに帰っていた朔の名前だった。
『おばあちゃん倒れた。救急車呼んだ』
送ってから、自分でその短さに驚いた。
事情の説明も何もない。ただ事実だけだった。
画面を見つめている間にも、郁子の呼吸は浅く上下している。
居間の時計の秒針だけが、妙に大きかった。
そのとき、玄関で音がした。
コン、コン。
昨夜のノック音とは違う、焦りのある音だった。
同じ扉の音なのに、体の反応が少し違う。
「直人」
低い声がして、直人は立ち上がった。
のぞき穴を覗く余裕もなく、鍵を外す。
開けると、朔がいた。
制服のシャツの襟が少し曲がっていて、髪もきれいに整いきっていない。走ってきたのが分かる顔だった。
けれど最初に言ったのは励ましじゃなかった。
「救急車は」
「呼んだ。もう来る」
「保険証どこ」
直人は一拍遅れて、台所のほうを見た。
「食器棚の横の引き出し」
「分かった」
朔は靴も揃える暇なく上がり、言われた場所へまっすぐ行った。
引き出しを開け、診察券の束と一緒に透明なケースをつかむ。
それから玄関を振り返った。
「財布」
「……あ」
「あと鍵」
直人は何も言えず、言われた通りに準備した。
朔はそのあいだに、流しに出たままだったやかんの火を確認し、濡れた布巾を端へ寄せ、郁子の鞄まで見つけて持ってきた。
視線だけは常に部屋全体を見ている。
どこに何があるか知らないはずなのに、知らない家で迷っている感じがしなかった。
「スマホ持ったか」
「うん」
「充電、何パー」
「……四十」
安心させる言葉は一つもない。
その代わり、本来自分で考えて用意すべきだったものが一つずつ減っていく。
団地の下でサイレンが止まった。
その音に、直人の肩がびくりと揺れる。
そのあとからは、音ばかりが増えた。
玄関で交わされる短い確認の声。
担架の車輪の硬い音。
ストレッチャーの金具。
知らない大人の靴が、二〇一号室の床を慎重に踏む音。
郁子は運ばれる直前に一度だけ目を開けた。
直人を見て、「ごめんね」と唇だけで言った気がした。
ちゃんとは聞こえなかった。
「付き添いは」
言われて、直人が口を開く前に朔が保険証を差し出した。
「一緒に行きます」
まるで前から決まっていたみたいな声だった。
病院の廊下は白くて、朝なのに時間が止まったみたいに静かだった。
壁際の椅子に座ると、自分の膝が小さく揺れているのが見える。
運び込まれてから、思ったより時間がかかった。
診察室のドアが開くたびに、胸の奥が勝手に固くなる。
朔は隣に座っていたが、くっつきすぎない距離を保っていた。
さっきまであんなに近くで動いていたのに、今は変に踏み込まない。
それがありがたかった。
「飲め」
気づくと、ペットボトルの水が目の前にあった。
いつ買ってきたのか分からない。
「……いらない」
「喉、きっと乾いてる」
言われて初めて、自分の喉がひどくひりついているのに気づいた。
直人は受け取って、少しだけ飲んだ。
冷たい水が落ちていくのに、体は全然落ち着かない。
それでも、空の胃に何か入った感じだけはした。
「……悪い」
ぽつりとそう言うと、朔は真正面を見たまま肩をすくめた。
「気にしなくていい」
しばらくして、医師が出てきた。
説明は短かった。
大きな発作や脳の緊急性が高い状態ではなさそうだということ。
血圧が下がっていて、脱水と消耗が強いこと。
年齢のこともあるから、このまま検査入院にしたいということ。
命に関わるようなものではありません、と最後に言われても、すぐには足の力が戻らなかった。
「倒れた理由は」
聞き返しかけて、直人はやめた。
理由なんて、分かりきっている気がした。
少なくとも、昨夜と無関係だとは思えなかった。
病室に入ると、郁子は点滴をつないだまま目を閉じていた。
顔色はまだ悪いが、さっき床に倒れていたときよりは呼吸が落ち着いている。
直人が近づくと、郁子はゆっくり目を開けた。
「ごめんね」
またそれだった。
「謝んなくていいよ」
声が少しきつくなった。
きつくしたつもりはなかったのに、そうなった。
郁子はうっすら笑おうとして、うまくいかない顔のまま目を伏せた。
「ちょっと、反動が来たみたい」
昨夜のことを直接言わないまま、そう言った。
直人も、そこを掘り返せなかった。
「今日は、このまま泊まるって」
「そう」
「検査入院。たぶん何日か」
何日、という言葉が妙に重かった。
家に郁子がいない夜が、急に現実になる。
病室の入口の近くで、朔が小さく頭を下げた。
郁子はベッドの上で寝た状態のまま、朔の方を見て「来てくれて、ありがとう」と言った。
朔は少しだけ視線を落とした。
「いや」
それしか言わなかった。
でも帰ろうともしなかった。
面会を切り上げて廊下に出ると、急に体が重くなった。
説明を聞いて、顔を見て、ようやく緊張が切れたのかもしれない。
壁に背をつけると、病院特有の匂いがする。
消毒液と、洗いたてのシーツと、エアコンの乾いた風の匂い。
朔が横で言った。
「帰るか」
直人は少しだけ顔を上げた。
「……うん」
「鍵あるな」
「ある」
「じゃ、行くぞ」
夕方に戻った二〇一号室は、朝より広かった。
玄関を開けた瞬間、冷蔵庫の低い唸りがすぐ分かる。
それ以外の音がほとんどないからだった。
居間の椅子がひとつ、少し引かれたまま残っている。
背もたれには、いつの間にか畳まれていた郁子のエプロンがかかっていた。
たぶん、朝出る前に朔が拾ってくれたのだろうと、見れば分かった。
テーブルの上には何もない。
なのに、何かがごっそり減った感じだけがする。
直人は鞄も下ろさないまま、しばらく立っていた。
今朝ここで人が倒れたことも、病院へ運ばれたことも、全部同じ部屋の出来事だと思えない。
「座れ」
朔が言う。
「……別に」
「じゃあそのままでもいい。俺、お湯沸かす」
勝手に台所へ行く。
引き出しの場所を覚えてしまったみたいに、もう変なためらいがない。
「何してんの」
「何か飲む」
「いらない」
「いる」
やかんに水の入る音がした。
その普通の音が、帰ってきてから初めて、部屋の中に生活らしいものを戻した。
直人は流しの前まで行き、棚を開けた。
コップを二つ出してから、自分の手元を見た。
頼まれたわけでもない。
なのに、もう一つは自然に朔の分だった。
そのことに気づいたのは、テーブルへ置いたあとだった。
朔はそれを見ても何も言わなかった。
ただ、湯気の立つコップを一つ直人の前へ寄せて、自分の分を持った。
二人とも、しばらく口をつけない。
熱いから、というより、今やっと家の静けさをまともに聞いてしまったからだった。
「……病院、明日もだよな」
朔が先に言った。
「たぶん」
「学校、どうする」
「分かんない」
本当に分からなかった。
家に一人でいていいのかも、学校へ行くのが普通なのかも、今は判断が鈍っている。
朔はコップを置いた。
「一回戻る」
直人は顔を上げた。
「……帰るのか」
言ってから、その言い方が自分で少し引っかかった。
確認のつもりだったのに、別の意味を持った気がしたからだ。
朔はすぐに首を振る。
「違う。取ってくるだけ」
「何を」
「着替えと歯ブラシ。あと、充電器」
短く区切って言ってから、少しだけ間を置く。
「今日はいる」
直人は何も言わなかった。
朔は続ける。
「たぶん、明日も」
その言い方は軽くなかった。
決めたことをただ伝えるみたいな声だった。
「嫌なら言え」
直人はエプロンのかかった椅子を見た。
空いたままの席を見た。
それから、テーブルの上の二つのコップを見た。
帰るな、と言えたのに、そういう言葉は喉のところでうまく形にならない。
ようやく出たのは、別の言葉だった。
「……家には、何て言うの?」
「友達の家にしばらく泊まるって伝える。テスト近いから勉強会ってことで」
「そう」
「三十分もかからないで、戻ってくるから」
朔は立ち上がって、自分のコップだけを流しに持っていった。
それから玄関で靴を履きながら言う。
「戻ったら二回ノックするから」
直人はうなずいた。
扉が閉まる。
鍵の音がして、足音が廊下を遠ざかる。
それだけで、部屋はまた急に広くなった。
冷蔵庫の音。
壁時計の秒針。
向かいの棟のどこかで窓が閉まる音。
人が一人いないだけで、こんなに空気の量が変わるのかと思った。
郁子がいないぶんの広さに、今度は朔のいないぶんまで重なる。
直人は居間の真ん中で立ち尽くした。
病院から持ち帰った紙が、テーブルの端で少しだけ浮いている。
背もたれのエプロンは、誰も着ない形のまま静かだった。
押し入れを開ける。
客用の布団が奥にしまってあるのが見えた。
玄関で、二回鳴った。
コン、コン。
直人はすぐに鍵を開ける。
朔は小さめのスポーツバッグを肩にかけていた。
朝より息は整っているが、たぶん急いでは来たのだろう。額に少しだけ汗が残っている。
「早いな」と直人が言うと、朔は玄関に上がりながら「近いから」とだけ返した。
バッグは本当に最低限だった。
Tシャツが二枚、薄いパーカー、歯ブラシ、スマホの充電器。
それだけで、泊まるつもりなのが分かる。
洗面台の前で、朔が自分の歯ブラシを立てた。
直人のものの横に、もう一本増える。
それだけなのに、見慣れたはずの場所が少し変わった。
「タオル」
直人は戸棚から一枚出して渡した。
自分でも、そこに迷いがなかったことに少し驚く。
「ありがと」
朔が言う。
直人は返事の代わりに、押し入れのほうを顎で示した。
「布団、そこ」
朔が居間を見る。
「ありがと」
二人で押し入れから布団を出した。
広げる音が畳の上を滑る。
その作業は妙に静かだった。
大げさな相談もなく、片方が持ち上げた端をもう片方が自然に受ける。
そういう動きだけが続いた。
終わると、居間には布団が二組並んでいた。
壁の時計は、十八時五十七分を指していた。
長針が、またゆっくり五へ近づいていた。



