十九時五分、二〇一号室を五回ノックしてみてください

朝になっても、昨夜扉の向こうで揺れたかすかな息は、直人の耳の奥に引っかかったままだった。

ほとんど眠れないまま目を開けると、カーテンの隙間から入る光がやけに白い。スマホは六時を少し過ぎていた。居間のほうから、食器の触れ合う小さな音がしている。

布団を出ると、足の裏が冷たかった。
扉の前に立ち続けたせいか、肩も背中も固い。

居間へ行くと、郁子はもうエプロンをつけていた。
やかんの前に立っている背中が、いつもより小さく見える。

「おはよう」

声だけは普通だった。
けれど顔色が悪い。目の下に、昨夜にはなかった影が落ちている。

「……おはよう」

直人は椅子の背に手をかけたまま、郁子を見た。

「寝てない?」

「少しは寝たわよ」

嘘だと思った。
昨夜、五回のノックのあとに扉の前で固まっていた横顔のまま、朝になったような顔だった。

やかんが小さく鳴る。
郁子は火を止め、湯呑みを取ろうとした。

「いいよ、朝飯とか」

「食べないと、学校――」

そこまで言って、郁子の声がふっと切れた。

伸ばした手が、棚の手前で止まる。
指先が空をつかむみたいに一度だけひらいて、そのまま肩が落ちた。

「おばあちゃん!」

駆け寄ったときには、もう膝が抜けていた。
直人の腕に半分もたれかかるみたいにして、郁子の体が床へ沈む。頭を打たせないように支えたせいで、自分の手首までひどく痛んだ。

「おばあちゃん、聞こえる?」

返事はすぐにはなかった。
目は閉じていない。けれど焦点が合っていない。

「大丈夫」と言いかけたみたいに唇が動いて、それきり言葉にならなかった。

直人はポケットからスマホを出した。
指がうまく動かない。画面を二度、三度と触り損ねてから、ようやく通話をつなぐ。

相手の声は落ち着いていた。
年齢、意識、呼吸、倒れた時刻。聞かれるまま答えているうちに、自分の声が思ったより震えているのが分かった。

言われた通り、郁子の体を少し横向きにする。
丸めたタオルを頭の下に入れる。
呼吸はある。けれど浅い。

通話が切れたあとも、耳の中には相手の声が残っていた。
落ち着いてください、もう向かっています、と。

落ち着けるわけがなかった。

それでも何かしないといけなくて、直人はスマホを開いた。
考えるより先に押していたのは、昨夜のうちに帰っていた朔の名前だった。

『おばあちゃん倒れた。救急車呼んだ』

送ってから、自分でその短さに驚いた。
事情の説明も何もない。ただ事実だけだった。

画面を見つめている間にも、郁子の呼吸は浅く上下している。
居間の時計の秒針だけが、妙に大きかった。

そのとき、玄関で音がした。

コン、コン。

昨夜のノック音とは違う、焦りのある音だった。
同じ扉の音なのに、体の反応が少し違う。

「直人」

低い声がして、直人は立ち上がった。
のぞき穴を覗く余裕もなく、鍵を外す。

開けると、朔がいた。
制服のシャツの襟が少し曲がっていて、髪もきれいに整いきっていない。走ってきたのが分かる顔だった。

けれど最初に言ったのは励ましじゃなかった。

「救急車は」

「呼んだ。もう来る」

「保険証どこ」

直人は一拍遅れて、台所のほうを見た。

「食器棚の横の引き出し」

「分かった」

朔は靴も揃える暇なく上がり、言われた場所へまっすぐ行った。
引き出しを開け、診察券の束と一緒に透明なケースをつかむ。
それから玄関を振り返った。

「財布」

「……あ」

「あと鍵」

直人は何も言えず、言われた通りに準備した。

朔はそのあいだに、流しに出たままだったやかんの火を確認し、濡れた布巾を端へ寄せ、郁子の鞄まで見つけて持ってきた。
視線だけは常に部屋全体を見ている。
どこに何があるか知らないはずなのに、知らない家で迷っている感じがしなかった。

「スマホ持ったか」

「うん」

「充電、何パー」

「……四十」

安心させる言葉は一つもない。
その代わり、本来自分で考えて用意すべきだったものが一つずつ減っていく。

団地の下でサイレンが止まった。
その音に、直人の肩がびくりと揺れる。

そのあとからは、音ばかりが増えた。
玄関で交わされる短い確認の声。
担架の車輪の硬い音。
ストレッチャーの金具。
知らない大人の靴が、二〇一号室の床を慎重に踏む音。

郁子は運ばれる直前に一度だけ目を開けた。
直人を見て、「ごめんね」と唇だけで言った気がした。
ちゃんとは聞こえなかった。

「付き添いは」

言われて、直人が口を開く前に朔が保険証を差し出した。

「一緒に行きます」

まるで前から決まっていたみたいな声だった。



病院の廊下は白くて、朝なのに時間が止まったみたいに静かだった。
壁際の椅子に座ると、自分の膝が小さく揺れているのが見える。

運び込まれてから、思ったより時間がかかった。
診察室のドアが開くたびに、胸の奥が勝手に固くなる。

朔は隣に座っていたが、くっつきすぎない距離を保っていた。
さっきまであんなに近くで動いていたのに、今は変に踏み込まない。
それがありがたかった。

「飲め」

気づくと、ペットボトルの水が目の前にあった。
いつ買ってきたのか分からない。

「……いらない」

「喉、きっと乾いてる」

言われて初めて、自分の喉がひどくひりついているのに気づいた。
直人は受け取って、少しだけ飲んだ。

冷たい水が落ちていくのに、体は全然落ち着かない。
それでも、空の胃に何か入った感じだけはした。

「……悪い」

ぽつりとそう言うと、朔は真正面を見たまま肩をすくめた。

「気にしなくていい」

しばらくして、医師が出てきた。
説明は短かった。

大きな発作や脳の緊急性が高い状態ではなさそうだということ。
血圧が下がっていて、脱水と消耗が強いこと。
年齢のこともあるから、このまま検査入院にしたいということ。

命に関わるようなものではありません、と最後に言われても、すぐには足の力が戻らなかった。

「倒れた理由は」

聞き返しかけて、直人はやめた。
理由なんて、分かりきっている気がした。
少なくとも、昨夜と無関係だとは思えなかった。

病室に入ると、郁子は点滴をつないだまま目を閉じていた。
顔色はまだ悪いが、さっき床に倒れていたときよりは呼吸が落ち着いている。

直人が近づくと、郁子はゆっくり目を開けた。

「ごめんね」

またそれだった。

「謝んなくていいよ」

声が少しきつくなった。
きつくしたつもりはなかったのに、そうなった。

郁子はうっすら笑おうとして、うまくいかない顔のまま目を伏せた。

「ちょっと、反動が来たみたい」

昨夜のことを直接言わないまま、そう言った。
直人も、そこを掘り返せなかった。

「今日は、このまま泊まるって」

「そう」

「検査入院。たぶん何日か」

何日、という言葉が妙に重かった。
家に郁子がいない夜が、急に現実になる。

病室の入口の近くで、朔が小さく頭を下げた。

郁子はベッドの上で寝た状態のまま、朔の方を見て「来てくれて、ありがとう」と言った。

朔は少しだけ視線を落とした。

「いや」

それしか言わなかった。
でも帰ろうともしなかった。



面会を切り上げて廊下に出ると、急に体が重くなった。
説明を聞いて、顔を見て、ようやく緊張が切れたのかもしれない。

壁に背をつけると、病院特有の匂いがする。
消毒液と、洗いたてのシーツと、エアコンの乾いた風の匂い。

朔が横で言った。

「帰るか」

直人は少しだけ顔を上げた。

「……うん」

「鍵あるな」

「ある」

「じゃ、行くぞ」



夕方に戻った二〇一号室は、朝より広かった。

玄関を開けた瞬間、冷蔵庫の低い唸りがすぐ分かる。
それ以外の音がほとんどないからだった。

居間の椅子がひとつ、少し引かれたまま残っている。
背もたれには、いつの間にか畳まれていた郁子のエプロンがかかっていた。
たぶん、朝出る前に朔が拾ってくれたのだろうと、見れば分かった。

テーブルの上には何もない。
なのに、何かがごっそり減った感じだけがする。

直人は鞄も下ろさないまま、しばらく立っていた。
今朝ここで人が倒れたことも、病院へ運ばれたことも、全部同じ部屋の出来事だと思えない。

「座れ」

朔が言う。

「……別に」

「じゃあそのままでもいい。俺、お湯沸かす」

勝手に台所へ行く。
引き出しの場所を覚えてしまったみたいに、もう変なためらいがない。

「何してんの」

「何か飲む」

「いらない」

「いる」

やかんに水の入る音がした。
その普通の音が、帰ってきてから初めて、部屋の中に生活らしいものを戻した。

直人は流しの前まで行き、棚を開けた。
コップを二つ出してから、自分の手元を見た。

頼まれたわけでもない。
なのに、もう一つは自然に朔の分だった。

そのことに気づいたのは、テーブルへ置いたあとだった。

朔はそれを見ても何も言わなかった。
ただ、湯気の立つコップを一つ直人の前へ寄せて、自分の分を持った。

二人とも、しばらく口をつけない。
熱いから、というより、今やっと家の静けさをまともに聞いてしまったからだった。

「……病院、明日もだよな」

朔が先に言った。

「たぶん」

「学校、どうする」

「分かんない」

本当に分からなかった。
家に一人でいていいのかも、学校へ行くのが普通なのかも、今は判断が鈍っている。

朔はコップを置いた。

「一回戻る」

直人は顔を上げた。

「……帰るのか」

言ってから、その言い方が自分で少し引っかかった。
確認のつもりだったのに、別の意味を持った気がしたからだ。

朔はすぐに首を振る。

「違う。取ってくるだけ」

「何を」

「着替えと歯ブラシ。あと、充電器」

短く区切って言ってから、少しだけ間を置く。

「今日はいる」

直人は何も言わなかった。

朔は続ける。

「たぶん、明日も」

その言い方は軽くなかった。
決めたことをただ伝えるみたいな声だった。

「嫌なら言え」

直人はエプロンのかかった椅子を見た。
空いたままの席を見た。
それから、テーブルの上の二つのコップを見た。

帰るな、と言えたのに、そういう言葉は喉のところでうまく形にならない。
ようやく出たのは、別の言葉だった。

「……家には、何て言うの?」

「友達の家にしばらく泊まるって伝える。テスト近いから勉強会ってことで」

「そう」

「三十分もかからないで、戻ってくるから」

朔は立ち上がって、自分のコップだけを流しに持っていった。
それから玄関で靴を履きながら言う。

「戻ったら二回ノックするから」

直人はうなずいた。

扉が閉まる。
鍵の音がして、足音が廊下を遠ざかる。

それだけで、部屋はまた急に広くなった。

冷蔵庫の音。
壁時計の秒針。
向かいの棟のどこかで窓が閉まる音。

人が一人いないだけで、こんなに空気の量が変わるのかと思った。
郁子がいないぶんの広さに、今度は朔のいないぶんまで重なる。

直人は居間の真ん中で立ち尽くした。
病院から持ち帰った紙が、テーブルの端で少しだけ浮いている。
背もたれのエプロンは、誰も着ない形のまま静かだった。

押し入れを開ける。
客用の布団が奥にしまってあるのが見えた。



玄関で、二回鳴った。

コン、コン。

直人はすぐに鍵を開ける。

朔は小さめのスポーツバッグを肩にかけていた。
朝より息は整っているが、たぶん急いでは来たのだろう。額に少しだけ汗が残っている。

「早いな」と直人が言うと、朔は玄関に上がりながら「近いから」とだけ返した。

バッグは本当に最低限だった。
Tシャツが二枚、薄いパーカー、歯ブラシ、スマホの充電器。
それだけで、泊まるつもりなのが分かる。

洗面台の前で、朔が自分の歯ブラシを立てた。
直人のものの横に、もう一本増える。
それだけなのに、見慣れたはずの場所が少し変わった。

「タオル」

直人は戸棚から一枚出して渡した。
自分でも、そこに迷いがなかったことに少し驚く。

「ありがと」

朔が言う。
直人は返事の代わりに、押し入れのほうを顎で示した。

「布団、そこ」

朔が居間を見る。

「ありがと」

二人で押し入れから布団を出した。
広げる音が畳の上を滑る。

その作業は妙に静かだった。
大げさな相談もなく、片方が持ち上げた端をもう片方が自然に受ける。
そういう動きだけが続いた。
終わると、居間には布団が二組並んでいた。

壁の時計は、十八時五十七分を指していた。

長針が、またゆっくり五へ近づいていた。