その一行の最後まで目で追いきる前に、二つ目の音が鳴った。
コン。
朔のスマホの白い光が、指の骨ばった影をテーブルに落とす。
郁子が椅子の背に手をかけたまま、息を止めるのが分かった。
コン。
昨日と同じ間だった。
待っている側の呼吸だけが乱れるのに、扉の向こうの五回は少しも迷わない。
コン。
四つ目で、直人はようやく自分の喉がひどく乾いていることに気づいた。
コン。
最後の一回は、前の四つとまったく同じ強さで鳴って、それで終わった。
しん、とした静けさが、五回よりあとに来た。
廊下を誰かが通る音もしない。階段の軋みもない。古い蛍光灯の低い唸りだけが、扉の向こうで細く続いている気がした。
テーブルの上のスマホには、黒い画面に白い文字が残っていた。
『十九時五分、二〇一号室でノックを聞いた人へ。
あなたは、すでに死者の声を聞いているはずだ。』
朔が小さく息を吐く。
「……なんだよ、これ」
掠れた声だった。
怖がっていない人間の声じゃない。けれど、それでも目を逸らさない声だった。
直人は画面から顔を上げた。
視界の端で、郁子の肩がまだ上がったままなのが見える。食卓の端に置いた手の指先が、白くなるほど力んでいた。
「もう、見なくていい」
郁子の声は低く、薄かった。
昨日よりも小さいのに、止める力だけはまっすぐあった。
「そんなの、読む必要ないわ」
朔はすぐに画面を伏せた。
言い返さない。ただ、その黒い画面から手を離しても、視線だけは玄関のほうに引かれたままだった。
直人も同じだった。
文字の気味悪さより先に、扉の向こうの静かさが気になっている。五回が終わったあとだけ、廊下が廊下じゃなくなる。昨日もそうだった。今日もそうだ。
「死者の声って」
朔が言いかけて、言葉を選び直すみたいに口を閉じる。
「昨日の音声のことか」
「そう思わせたいだけだろ」
直人はすぐに言った。
そう言ってしまわないと、その一文が本当に何かを指しているみたいで嫌だった。
「こういうの、煽ってるだけだ。開けさせたいんだよ」
朔が直人を見る。
その視線の返しが早すぎて、たぶん同じことを考えていたのだと分かった。
「……俺もそう思う。ていうか、この書き方、昨日の音声だけじゃ足りないって言ってるみたいだ」
「足りないって?」
「昨日の最後、声になってなかっただろ。息みたいなのだけで」
直人の背筋がわずかに強張る。
昨夜、小さなスピーカーから流れた湿った呼吸を思い出した。
「なのに『聞いてるはず』って言うの、今日のこっちで聞かせるつもりみたいで気持ち悪い」
「だから開けるなよ」
言ったあとで、自分の声が思ったよりきつかったことに気づいた。
けれど、言い直す気にはなれなかった。今は少しきついくらいでちょうどいい気がした。
朔は椅子から立ち上がりかけたまま止まった。
「今すぐ勝手に開けるとは言ってねえよ」
「そういう動きしただろ」
「見に行こうとはした」
「同じだ」
部屋の空気が少し張る。
郁子が「直人くん」と小さく呼んだが、直人はそちらを見なかった。見たら、声の勢いが落ちる気がした。
昨日、五回のあとにチェーン越しで外を見たときの、空っぽの廊下を思い出す。
誰もいないのに、誰かに近づきすぎたみたいな寒気が、まだ手のひらに残っている。
「顔も見えない。名前も言わない。何しに来たかも分かんない。そんな相手に、すぐ開けるほうが危険だろ。夜に知らない相手が来たら、怖いから開けないのは普通だよな?」
朔は何も言わない。
「しかもここ、俺の家っていうか、おばあちゃんの家なんだよ。ひとりで住んでた家に、こんな時間に誰だか分かんないやつ来て、簡単に開けられるわけないだろ」
最後のほうは、朔に言っているのか、自分に言っているのか分からなくなっていた。
ただ、言葉にしてしまうと、その理屈がやけに切実だった。
通学のために来ただけだった。
最初は、自分が世話になる側のつもりでいた。
けれど今は、この家の中にいる郁子へ外の気配を近づけないことだけが、自分の役目になった気がする。
朔がゆっくり椅子から腰を上げた。
勢いではなく、話を切らないためみたいな立ち方だった。
「変だとは言ってねえよ」
「じゃあ何だよ」
「怖いのは分かる」
その言い方に、直人は一瞬だけ言葉を失った。
軽くもなければ、慰めでもなかった。怖がっている側に立ったうえで、まだ何か言う声だった。
「俺だって、今ノブ触れって言われたら嫌だ」
朔はそう言って、玄関を見た。
右手は上がらない。昨日みたいに途中で止まることすらなく、膝の横に下がったままだった。
「でも」
その一音だけで、直人は次の言葉を待ってしまう。
「でも、このままずっと開けないで終わるのも、違う気がする」
直人は眉を寄せた。
「違うって、何が」
「毎日十九時五分だけ待って、五回聞いて、怖かったなで終わるの」
朔の声は低い。いつもの荒っぽさより、考えながら喋っているときの遅さが前に出ている。
「それで何も変わらなかったら、次の日も同じだろ。誰が来てるのかも、なんで二〇一なのかも、ずっと分かんねえままになる」
「分からなくていい」
ほとんど反射だった。
「分からないほうがいいこともあるだろ」
「そうかもしれねえけど」
「そうだよ」
直人は思った以上に強く言い切っていた。
郁子の視線がこちらへ向く気配がする。けれど今はそっちを見られなかった。
「おばあちゃん、昨日からずっとあんな感じなんだよ。今日だって、さっきから時計と玄関しか見てない。これ以上怖い思いさせて、開けた先に何かいたらどうすんだよ」
言い終えてから、胸の奥がじくりと熱くなった。
守る、という言葉を使わなくても、それに近い気持ちが声に混じったのが自分で分かった。
朔は少しだけ目を伏せた。
「……見た」
「何を」
「昨日の顔」
短い返事だった。
「見たから言ってる」
直人は息を詰めた。
朔は玄関に一歩だけ近づいた。けれどノブには触らない。扉と食卓のちょうど間で止まる。そこは昨日も、行くべきか引くべきか分からないまま朔が立っていた場所だった。
「あのまま毎日怯えさせるのも違うだろ」
低い声が、今度はまっすぐ届いた。
「今すぐ開けろって言ってるわけじゃねえよ。俺だって、こんなの普通じゃないの分かるし、夜に知らない相手が来るのが危ないのも分かる。けど、怖いからって何も見ないままだと、向こうの思い通りな気がして嫌なんだよ」
向こう、という言い方が、余計に寒かった。
扉の向こうにいるものが人なのか、人じゃないのか、その区別すら今は曖昧だ。
「悪ふざけなら、なおさらだろ」
直人は言った。
「開けさせたいなら、開けないのが正しい」
「そうかもしれねえ」
朔はすぐにうなずいた。
「でも、悪ふざけじゃないかもしれねえだろ」
その一言で、部屋がまた静かになった。
郁子が小さく息を呑んだのが聞こえた。
それは大げさな音ではなかったのに、ひどく近かった。
直人は喉の奥が狭くなるのを感じた。
「……だからって」
声が少し掠れた。
「開けろって言うのかよ」
「言ってねえよ」
「同じだ」
「同じじゃない」
言い返した朔の声は強くなかった。
むしろ、直人のほうが強かった。
それでも、朔はそこで引かなかった。
「すぐ開けるのは違う。けど、開けないことが絶対正しいみたいに決めるのも、俺は怖い」
直人は思わず、扉のほうを見た。
薄い木の向こうに、何があるのかは分からない。分からないまま、想像だけが先に大きくなる。
夜の訪問者に扉を開けない。
それは、少なくとも普通のことのはずだった。
夜に知らない相手に気をつけろなんて、そんなの当たり前みたいに言われている。高齢者だけの家ならなおさらだ。
怖いから開けない。
それだけで十分な理由になるはずなのに、朔の言い方は、その十分さを少しだけ揺らす。
「怖いってだけで、理由になるだろ」
半分は朔に、半分は扉に向けて、直人は言った。
「夜に来る知らない相手に、怖いから開けない。それのどこが悪いんだよ」
誰かを責めるつもりで言ったわけじゃなかった。
むしろ逆だった。
責められるようなことじゃないと、どこかで先回りして言っておきたかった。
郁子は何も言わない。
けれど、その沈黙が返事みたいに感じられた。
しばらくしてから、朔が短く息を吐く。
「悪いとは言ってねえ」
「じゃあ」
「ただ」
朔はまた言葉を探した。
「その理由だけで、この先も毎回ここに立って、毎回聞こえないふりして、毎回終わりにするのかって思う」
たしかに、それで一晩はやり過ごせるのかもしれない。
でも、やり過ごした先にまた次の十九時五分があることも、もう知っている。
「お前はどうしたいんだよ」
気づくと、直人はそう聞いていた。
朔は少しだけ驚いた顔をした。
すぐに、変に格好つけないまま答える。
「……分からない」
直人は目を細めた。
「は?」
「ほんとに分かんねえ」
朔は自分でも情けないと思っているみたいに、口の端をわずかに歪めた。
「開けたほうがいいのか、開けないほうがいいのか、そこまではまだ分かんねえ。でも、向き合ったほうがいいとは思う」
その言い方は、正解を知っているやつの声ではなかった。
分からないまま、それでも逃げないで立とうとしているだけの声だった。
「向き合うって?」
朔はそこでようやく直人を見た。
「一人で決めないで、ここで一緒に考えるとか」
その言葉に、直人はすぐ返事ができなかった。
郁子が椅子を引く、ごく小さな音がした。
立ち上がるのかと思ったが、そうではなかった。浅く腰掛け直しただけだった。
その仕草の弱さが、直人にはつらかった。
「直人くん」
今度の呼びかけは、止めるためではなく、確かめるみたいな声だった。
直人はそちらを見た。
郁子の顔色はまだ悪い。けれど、まっすぐ見返してくる目だけは、昨日より少しだけ保っているように見えた。
「無理に、しなくていいのよ」
その言い方は優しかった。
優しいからこそ、直人はすぐにうなずけなかった。
無理をさせたくない。
本当にそう思う。
けれど、自分だけ食卓に戻って、扉から離れてしまうのも違う気がした。
郁子を玄関の近くにひとりで置くのも、朔だけをそこに立たせるのも、どちらも嫌だった。
直人は椅子を引いた。
床に脚が擦れて、鈍い音がする。
「開けない」
まず、それを言った。
朔の目が動く。
反論するかと思ったが、しなかった。
「今日は、開けない」
直人はもう一度言った。
それから立ち上がって、玄関のほうへ歩いた。
扉の前まで行って、チェーンがきちんとかかっていることを目で確かめる。
金属は動かさない。ただ、そこにあるのを確認する。
そのすぐ横に立つと、扉の木目の冷たさまで見える気がした。
朔もついてきた。
何も言わず、直人の隣で止まる。
肩が触れるほどではないが、片方が手を伸ばせばすぐ届く距離だった。
「でも」
直人は扉を見たまま言った。
「逃げるのも嫌だ」
自分で言ってから、その言葉のほうがよほど本音に近いと分かった。
食卓に座っているあいだ、扉の向こうの気配はどんどん大きくなる。
近づいてしまえば怖いのに、離れているだけで余計にふくらむ。
だったら、せめてここにいたほうがまだましだ。
朔が小さくうなずく気配がした。
「分かった」
それだけだった。
開けろとも、開けるなとも、もう言わない。
その代わりみたいに、扉の前に残る。
後ろで、郁子が何か言いかけた。
けれど声にはならなかった。
言葉より先に、部屋の音が少しずつ戻ってくる。
遠くで蛇口を閉める音。下の階でテレビが笑う声。廊下の蛍光灯の、じ、と鳴る低い音。
二人はそのまま、しばらく扉の前に立っていた。
朔はノブに触れない。
直人も触れない。
ただ、どちらも目を離さない。
考えは同じじゃない。
それでも、ここから動かないことだけは同じだった。
「……俺さ」
ぽつりと、朔が言う。
「昨日、お前に帰れって言われても帰れなかっただろ」
「うん」
「今日も、たぶん同じだ」
直人は少しだけ眉を寄せた。
「それ、自慢?」
「違う」
朔の声が、ごくわずかに笑いを混ぜた。
けれどすぐ真面目に戻る。
「こういうとき、一人にさせたくねえだけ」
扉を見たままの横顔だった。
気の利いた慰めみたいに言わないのが、かえってずるいと思った。
直人は何も返さなかった。
返したら、今の空気が変わる気がした。
だから、言葉の代わりに立ったままでいた。
扉一枚ぶんの距離の向こうは、まだ何も言わない。
それでも、そこに何かが残っている感じだけは消えなかった。
昨日の空っぽとは少し違う。
気配が濃いわけではないのに、薄くならない。
直人は息を浅くする。
隣でも、朔の呼吸が同じように浅くなったのが分かった。
そのときだった。
扉の向こうで、何かが木に擦れるような、ごく小さな音がした。
二人とも、同時に動きを止める。
風かもしれない、と思った。
蛍光灯の唸りが耳に残って、そう聞こえただけかもしれない。
昨日聞いた音声の記憶が、勝手に続きを作っただけかもしれない。
けれど次の瞬間、息に引っかかったみたいな、かすかな音が、扉のすぐ向こうで揺れた気がした。
言葉にはならない。
ただ、誰かが何かを言いかけて、うまく声にならなかったみたいに聞こえた。
隣で、朔も同じように息を止めていた。
コン。
朔のスマホの白い光が、指の骨ばった影をテーブルに落とす。
郁子が椅子の背に手をかけたまま、息を止めるのが分かった。
コン。
昨日と同じ間だった。
待っている側の呼吸だけが乱れるのに、扉の向こうの五回は少しも迷わない。
コン。
四つ目で、直人はようやく自分の喉がひどく乾いていることに気づいた。
コン。
最後の一回は、前の四つとまったく同じ強さで鳴って、それで終わった。
しん、とした静けさが、五回よりあとに来た。
廊下を誰かが通る音もしない。階段の軋みもない。古い蛍光灯の低い唸りだけが、扉の向こうで細く続いている気がした。
テーブルの上のスマホには、黒い画面に白い文字が残っていた。
『十九時五分、二〇一号室でノックを聞いた人へ。
あなたは、すでに死者の声を聞いているはずだ。』
朔が小さく息を吐く。
「……なんだよ、これ」
掠れた声だった。
怖がっていない人間の声じゃない。けれど、それでも目を逸らさない声だった。
直人は画面から顔を上げた。
視界の端で、郁子の肩がまだ上がったままなのが見える。食卓の端に置いた手の指先が、白くなるほど力んでいた。
「もう、見なくていい」
郁子の声は低く、薄かった。
昨日よりも小さいのに、止める力だけはまっすぐあった。
「そんなの、読む必要ないわ」
朔はすぐに画面を伏せた。
言い返さない。ただ、その黒い画面から手を離しても、視線だけは玄関のほうに引かれたままだった。
直人も同じだった。
文字の気味悪さより先に、扉の向こうの静かさが気になっている。五回が終わったあとだけ、廊下が廊下じゃなくなる。昨日もそうだった。今日もそうだ。
「死者の声って」
朔が言いかけて、言葉を選び直すみたいに口を閉じる。
「昨日の音声のことか」
「そう思わせたいだけだろ」
直人はすぐに言った。
そう言ってしまわないと、その一文が本当に何かを指しているみたいで嫌だった。
「こういうの、煽ってるだけだ。開けさせたいんだよ」
朔が直人を見る。
その視線の返しが早すぎて、たぶん同じことを考えていたのだと分かった。
「……俺もそう思う。ていうか、この書き方、昨日の音声だけじゃ足りないって言ってるみたいだ」
「足りないって?」
「昨日の最後、声になってなかっただろ。息みたいなのだけで」
直人の背筋がわずかに強張る。
昨夜、小さなスピーカーから流れた湿った呼吸を思い出した。
「なのに『聞いてるはず』って言うの、今日のこっちで聞かせるつもりみたいで気持ち悪い」
「だから開けるなよ」
言ったあとで、自分の声が思ったよりきつかったことに気づいた。
けれど、言い直す気にはなれなかった。今は少しきついくらいでちょうどいい気がした。
朔は椅子から立ち上がりかけたまま止まった。
「今すぐ勝手に開けるとは言ってねえよ」
「そういう動きしただろ」
「見に行こうとはした」
「同じだ」
部屋の空気が少し張る。
郁子が「直人くん」と小さく呼んだが、直人はそちらを見なかった。見たら、声の勢いが落ちる気がした。
昨日、五回のあとにチェーン越しで外を見たときの、空っぽの廊下を思い出す。
誰もいないのに、誰かに近づきすぎたみたいな寒気が、まだ手のひらに残っている。
「顔も見えない。名前も言わない。何しに来たかも分かんない。そんな相手に、すぐ開けるほうが危険だろ。夜に知らない相手が来たら、怖いから開けないのは普通だよな?」
朔は何も言わない。
「しかもここ、俺の家っていうか、おばあちゃんの家なんだよ。ひとりで住んでた家に、こんな時間に誰だか分かんないやつ来て、簡単に開けられるわけないだろ」
最後のほうは、朔に言っているのか、自分に言っているのか分からなくなっていた。
ただ、言葉にしてしまうと、その理屈がやけに切実だった。
通学のために来ただけだった。
最初は、自分が世話になる側のつもりでいた。
けれど今は、この家の中にいる郁子へ外の気配を近づけないことだけが、自分の役目になった気がする。
朔がゆっくり椅子から腰を上げた。
勢いではなく、話を切らないためみたいな立ち方だった。
「変だとは言ってねえよ」
「じゃあ何だよ」
「怖いのは分かる」
その言い方に、直人は一瞬だけ言葉を失った。
軽くもなければ、慰めでもなかった。怖がっている側に立ったうえで、まだ何か言う声だった。
「俺だって、今ノブ触れって言われたら嫌だ」
朔はそう言って、玄関を見た。
右手は上がらない。昨日みたいに途中で止まることすらなく、膝の横に下がったままだった。
「でも」
その一音だけで、直人は次の言葉を待ってしまう。
「でも、このままずっと開けないで終わるのも、違う気がする」
直人は眉を寄せた。
「違うって、何が」
「毎日十九時五分だけ待って、五回聞いて、怖かったなで終わるの」
朔の声は低い。いつもの荒っぽさより、考えながら喋っているときの遅さが前に出ている。
「それで何も変わらなかったら、次の日も同じだろ。誰が来てるのかも、なんで二〇一なのかも、ずっと分かんねえままになる」
「分からなくていい」
ほとんど反射だった。
「分からないほうがいいこともあるだろ」
「そうかもしれねえけど」
「そうだよ」
直人は思った以上に強く言い切っていた。
郁子の視線がこちらへ向く気配がする。けれど今はそっちを見られなかった。
「おばあちゃん、昨日からずっとあんな感じなんだよ。今日だって、さっきから時計と玄関しか見てない。これ以上怖い思いさせて、開けた先に何かいたらどうすんだよ」
言い終えてから、胸の奥がじくりと熱くなった。
守る、という言葉を使わなくても、それに近い気持ちが声に混じったのが自分で分かった。
朔は少しだけ目を伏せた。
「……見た」
「何を」
「昨日の顔」
短い返事だった。
「見たから言ってる」
直人は息を詰めた。
朔は玄関に一歩だけ近づいた。けれどノブには触らない。扉と食卓のちょうど間で止まる。そこは昨日も、行くべきか引くべきか分からないまま朔が立っていた場所だった。
「あのまま毎日怯えさせるのも違うだろ」
低い声が、今度はまっすぐ届いた。
「今すぐ開けろって言ってるわけじゃねえよ。俺だって、こんなの普通じゃないの分かるし、夜に知らない相手が来るのが危ないのも分かる。けど、怖いからって何も見ないままだと、向こうの思い通りな気がして嫌なんだよ」
向こう、という言い方が、余計に寒かった。
扉の向こうにいるものが人なのか、人じゃないのか、その区別すら今は曖昧だ。
「悪ふざけなら、なおさらだろ」
直人は言った。
「開けさせたいなら、開けないのが正しい」
「そうかもしれねえ」
朔はすぐにうなずいた。
「でも、悪ふざけじゃないかもしれねえだろ」
その一言で、部屋がまた静かになった。
郁子が小さく息を呑んだのが聞こえた。
それは大げさな音ではなかったのに、ひどく近かった。
直人は喉の奥が狭くなるのを感じた。
「……だからって」
声が少し掠れた。
「開けろって言うのかよ」
「言ってねえよ」
「同じだ」
「同じじゃない」
言い返した朔の声は強くなかった。
むしろ、直人のほうが強かった。
それでも、朔はそこで引かなかった。
「すぐ開けるのは違う。けど、開けないことが絶対正しいみたいに決めるのも、俺は怖い」
直人は思わず、扉のほうを見た。
薄い木の向こうに、何があるのかは分からない。分からないまま、想像だけが先に大きくなる。
夜の訪問者に扉を開けない。
それは、少なくとも普通のことのはずだった。
夜に知らない相手に気をつけろなんて、そんなの当たり前みたいに言われている。高齢者だけの家ならなおさらだ。
怖いから開けない。
それだけで十分な理由になるはずなのに、朔の言い方は、その十分さを少しだけ揺らす。
「怖いってだけで、理由になるだろ」
半分は朔に、半分は扉に向けて、直人は言った。
「夜に来る知らない相手に、怖いから開けない。それのどこが悪いんだよ」
誰かを責めるつもりで言ったわけじゃなかった。
むしろ逆だった。
責められるようなことじゃないと、どこかで先回りして言っておきたかった。
郁子は何も言わない。
けれど、その沈黙が返事みたいに感じられた。
しばらくしてから、朔が短く息を吐く。
「悪いとは言ってねえ」
「じゃあ」
「ただ」
朔はまた言葉を探した。
「その理由だけで、この先も毎回ここに立って、毎回聞こえないふりして、毎回終わりにするのかって思う」
たしかに、それで一晩はやり過ごせるのかもしれない。
でも、やり過ごした先にまた次の十九時五分があることも、もう知っている。
「お前はどうしたいんだよ」
気づくと、直人はそう聞いていた。
朔は少しだけ驚いた顔をした。
すぐに、変に格好つけないまま答える。
「……分からない」
直人は目を細めた。
「は?」
「ほんとに分かんねえ」
朔は自分でも情けないと思っているみたいに、口の端をわずかに歪めた。
「開けたほうがいいのか、開けないほうがいいのか、そこまではまだ分かんねえ。でも、向き合ったほうがいいとは思う」
その言い方は、正解を知っているやつの声ではなかった。
分からないまま、それでも逃げないで立とうとしているだけの声だった。
「向き合うって?」
朔はそこでようやく直人を見た。
「一人で決めないで、ここで一緒に考えるとか」
その言葉に、直人はすぐ返事ができなかった。
郁子が椅子を引く、ごく小さな音がした。
立ち上がるのかと思ったが、そうではなかった。浅く腰掛け直しただけだった。
その仕草の弱さが、直人にはつらかった。
「直人くん」
今度の呼びかけは、止めるためではなく、確かめるみたいな声だった。
直人はそちらを見た。
郁子の顔色はまだ悪い。けれど、まっすぐ見返してくる目だけは、昨日より少しだけ保っているように見えた。
「無理に、しなくていいのよ」
その言い方は優しかった。
優しいからこそ、直人はすぐにうなずけなかった。
無理をさせたくない。
本当にそう思う。
けれど、自分だけ食卓に戻って、扉から離れてしまうのも違う気がした。
郁子を玄関の近くにひとりで置くのも、朔だけをそこに立たせるのも、どちらも嫌だった。
直人は椅子を引いた。
床に脚が擦れて、鈍い音がする。
「開けない」
まず、それを言った。
朔の目が動く。
反論するかと思ったが、しなかった。
「今日は、開けない」
直人はもう一度言った。
それから立ち上がって、玄関のほうへ歩いた。
扉の前まで行って、チェーンがきちんとかかっていることを目で確かめる。
金属は動かさない。ただ、そこにあるのを確認する。
そのすぐ横に立つと、扉の木目の冷たさまで見える気がした。
朔もついてきた。
何も言わず、直人の隣で止まる。
肩が触れるほどではないが、片方が手を伸ばせばすぐ届く距離だった。
「でも」
直人は扉を見たまま言った。
「逃げるのも嫌だ」
自分で言ってから、その言葉のほうがよほど本音に近いと分かった。
食卓に座っているあいだ、扉の向こうの気配はどんどん大きくなる。
近づいてしまえば怖いのに、離れているだけで余計にふくらむ。
だったら、せめてここにいたほうがまだましだ。
朔が小さくうなずく気配がした。
「分かった」
それだけだった。
開けろとも、開けるなとも、もう言わない。
その代わりみたいに、扉の前に残る。
後ろで、郁子が何か言いかけた。
けれど声にはならなかった。
言葉より先に、部屋の音が少しずつ戻ってくる。
遠くで蛇口を閉める音。下の階でテレビが笑う声。廊下の蛍光灯の、じ、と鳴る低い音。
二人はそのまま、しばらく扉の前に立っていた。
朔はノブに触れない。
直人も触れない。
ただ、どちらも目を離さない。
考えは同じじゃない。
それでも、ここから動かないことだけは同じだった。
「……俺さ」
ぽつりと、朔が言う。
「昨日、お前に帰れって言われても帰れなかっただろ」
「うん」
「今日も、たぶん同じだ」
直人は少しだけ眉を寄せた。
「それ、自慢?」
「違う」
朔の声が、ごくわずかに笑いを混ぜた。
けれどすぐ真面目に戻る。
「こういうとき、一人にさせたくねえだけ」
扉を見たままの横顔だった。
気の利いた慰めみたいに言わないのが、かえってずるいと思った。
直人は何も返さなかった。
返したら、今の空気が変わる気がした。
だから、言葉の代わりに立ったままでいた。
扉一枚ぶんの距離の向こうは、まだ何も言わない。
それでも、そこに何かが残っている感じだけは消えなかった。
昨日の空っぽとは少し違う。
気配が濃いわけではないのに、薄くならない。
直人は息を浅くする。
隣でも、朔の呼吸が同じように浅くなったのが分かった。
そのときだった。
扉の向こうで、何かが木に擦れるような、ごく小さな音がした。
二人とも、同時に動きを止める。
風かもしれない、と思った。
蛍光灯の唸りが耳に残って、そう聞こえただけかもしれない。
昨日聞いた音声の記憶が、勝手に続きを作っただけかもしれない。
けれど次の瞬間、息に引っかかったみたいな、かすかな音が、扉のすぐ向こうで揺れた気がした。
言葉にはならない。
ただ、誰かが何かを言いかけて、うまく声にならなかったみたいに聞こえた。
隣で、朔も同じように息を止めていた。



