昨日聞いた五回のノックの音は、朝になっても直人の耳の奥に残っていた。
目が覚めたとき、乾いた音と、そのあとに続いた空っぽの廊下が先に浮かんだ。眠ったのかどうかも曖昧なまま制服を着て、いつもの道を歩いた。商店街のシャッターは半分上がっていて、パン屋の前には焼けた匂いが出ていたのに、それさえ今日は遠い町のものみたいだった。
教室に入ると、朝なのに空気が少し重い。ざわめきはあるのに、どこかよそよそしい。昨日までなら朔の席の近くにスマホを囲む輪ができていたのに、今日は笑い声が長く続かなかった。誰かが何かを話しかけても、朔は短く返すだけで、画面を掲げもしない。昨日の昼休みの、あの軽さが消え、本人だけ静かになっている感じだった。
直人は鞄を机の横にかけて、何も見ていない目で黒板を見た。窓の外は晴れている。昨日のことが、嘘みたいに思えるくらいだった。
それでも、後ろの扉が開くたびに肩がこわばる。
そんなふうに音に敏感になっている自分に気づいて、直人は余計に気が滅入った。
ホームルームが終わっても、朔はいつもの調子で騒がなかった。誰かに話しかけられれば返すが、自分から真ん中へ行こうとはしない。昼休み、教室を出ようとした直人の前に立って、「少しいいか」とだけ言った。
断ってもたぶんついてくる声だった。
直人は答えず、廊下の端まで歩いた。窓の外に中庭が見える。部活のボールが跳ねる音が、下のほうから鈍く上がってきた。昼の光は明るいのに、人の少ない廊下だけが別の時間みたいに静かだった。
朔は少し離れて立ち止まった。昨日、玄関にいちばん近い椅子を選んだときと同じ距離だった。
「昨日のこと、もう一回ちゃんと謝りたい」
直人は窓枠にもたれたまま、黙っていた。
「俺、あのアカウント見つけたとき、最初から最後までネタだと思ってた」
朔はそこで一度、喉を鳴らした。
「死んだ先輩とか、最後の声とか、そういう言葉ついてると、嘘っぽいだろ。そういう軽さで見た。スクショして、グループに投げて、学校の近くらしいって言って、昼にみんなにも見せた」
昨日、教室の真ん中にあったスマホの画面が、また頭に浮かぶ。白い文字。笑い声。肩の触れ合う近さ。
朔は続けた。
「コメント欄で団地の名前出してるやつも見た。部屋番号、本物かもって少し思ったのに、止めるより先に面白いほうに乗った。お前が顔色変えたの見ても、空気変えたくなくて、ごまかした」
「ごまかした?」
「……『ただの悪趣味だろ』って言った。『夜に聞いたほうがおもしろい』とも言った」
直人の指先に力が入った。
その言葉は、昨日の昼休みに実際に聞いたはずなのに、今ここで改めて言われると、もっとひどく聞こえた。
軽い。軽すぎる。
「それだけじゃない」と、朔が自分から言った。
「俺、あのあとも止めなかった。別のやつが『今夜行ってみようかな』って笑ったときも、やめろって言わなかった。たぶん、その場で一番軽かったの、俺だ」
「……それを今、わざわざ言うんだ」
「言わないとだめだと思った」
「言えば済むのか」
「済まない」
朔はすぐに言った。
「済まないから、言う」
直人は目を逸らした。中庭の隅で、風にあおられたビニールが金網に引っかかっていた。白くひらひらしているだけなのに、昨夜の扉の隙間から見えた蛍光灯の色を思い出す。
「お前さ」
声が思ったより低く出た。
「俺、この町にまだ全然慣れてないんだよ」
朔は黙って聞いている。
「学校も、道も、店も、全部まだ借り物みたいで、どこ歩いても少し浮いてる感じがする。せめて家の中だけは、普通でいたかった」
言いながら、胸の奥にたまっていたものの形が少しずつ分かってきた。
「玄関の音なんて気にしないで、ごはん食って、風呂入って、寝るだけでよかったんだよ。おばあちゃんと二人で、静かに暮らせればよかった」
窓の向こうでは、誰かが笑っている。春の昼の音だ。何も怖くないはずの明るさなのに、その明るさのほうが腹立たしかった。
「なのに、お前が面白がって回したせいで、俺の家の部屋番号がみんなに知られた。昨日までただの玄関だった場所が、今は音ひとつで息止める場所になった」
そこで初めて、直人は朔をまっすぐ見た。
「壊したの、お前だろ?」
朔はうなずいた。
「うん」
「昨日怖かったのは、お前も同じだろ。でも、お前は昨日を終わらせればいいだけだ」
自分でもきつい言い方だと思った。けれど止まらなかった。
「俺は今日もあそこに帰るんだよ。今日の十九時五分も、明日の十九時五分も、あの玄関の音を待つことになるかもしれない」
朔の喉が、目に見えるほど小さく動いた。
「許せない」
言った瞬間、胸の奥が少しだけ楽になった。
優しい言い方ではなかった。正しいかどうかも分からない。ただ、それを飲み込まずに出したのは初めてだった。
朔はしばらく何も言わなかったが、やがて「そうだと思う」と言った。
「許してもらえると思ってない」
「じゃあ謝るなよ」
「謝りたいから謝る」
「自己満足だろ」
「うん。たぶん、それもある」
それでも目を逸らさなかった。
「面白がった。適当にネットに転がっている、ただの噂だと思った。ごめん」
直人は窓枠から背を離した。
「今日も来るつもりか」
朔は一拍だけ遅れて、「行きたい」と言った。
昨日までなら、「行く」と言い切ったはずの声だった。
今日はそこを変えてきたのが分かった。
「勝手に後つけたりはしない。昨日みたいなのは、もうしない。言っていいか、ちゃんと聞く」
「来るなって言ったら?」
朔は少しだけ口を結んだ。それから、無理にきれいな答えを選ばずに言った。
「……それでも気にはなる。でも、来るなって言われたら、行かない」
昨日との違いは、その一言に全部出ていた。
直人はすぐには返事をしなかった。
許していない。
腹も立っている。
それでも、昨夜、扉に手を添えて隣に立った気配だけは、嘘じゃなかったと思い出してしまう。
思い出したこと自体に、少し苛立つ。
「十九時前に来い」
朔が顔を上げた。
「ノックは二回だけにしろ」
「……分かった」
自分で言ってから、その言い方が妙に具体的すぎて、直人は少し眉を寄せた。けれど朔は笑わなかった。
「二回だけにする」
それだけ答える。
昼休みの窓の光が、二人のあいだの床に長く落ちていた。仲直りしたわけではない。怒りが消えたわけでもない。ただ、昨日より少しだけ、言葉がまっすぐ届いた感じがした。
放課後、家に帰ると、郁子は台所でじゃがいもをむいていた。
「おかえり」
「ただいま」
直人は鞄を置いて、少し迷ってから言った。
「……今日、朔が来る」
包丁の音が止まる。
郁子はすぐには顔を上げなかった。皮の途切れたじゃがいもを手の中で一度回してから、「そう」とだけ言った。
「嫌なら、断るけど」
「ううん」
郁子はようやくこちらを見た。昨日より顔色は少しましだったが、玄関のほうへ気を配っている目つきはまだ消えていない。
直人はそれ以上何も言わず、自分の部屋に鞄を置きに行った。
戻ると、気づかないうちに玄関に近い椅子を昨日と同じ場所へ引いていた。自分で引いたくせに、その位置を見て少し苛立つ。戻そうとして、やめた。
夕方がゆっくり濃くなる。
時計の針が進むたび、昨日の十九時五分がまたこちらへ歩いてくるみたいだった。
夕飯は昨日より早く済ませた。味噌汁の湯気が上がっているあいだも、時計を見ないふりをしていたのに、箸を置くタイミングだけが不自然なくらい揃った。食器を下げる音が終わると、部屋の中の生活らしい音はそれでほとんどなくなった。
直人は自分のスマホを何度も見た。朔からの連絡はまだ来ていない。来なくても落ち着かないし、来たら来たで昨日の続きが始まる。どちらにしても嫌なのに、結局、画面が暗いままだとそれはそれで胸がざわついた。
廊下を誰かが通るたび、足音の数を無意識に追ってしまう。自分の家の外で鳴るただの生活音を、疑って数えるようになったことが、また腹立たしかった。
十九時少し前、スマホが震えた。
『着いた』
短い一文だった。
直人は返事をしなかった。
そのまま待っていると、玄関で音がした。
コン、コン。
二回。
反射で、直人は三回目を待った。
昨日の五回が耳のどこかにまだ住み着いていて、二回と分かっていても体がすぐには追いつかない。
来ない。
代わりに、向こうで息を整える気配が一つだけして、直人は立ち上がった。
のぞき穴の向こうに、昨日と同じ制服姿の朔がいた。今日はコンビニ袋も持っていない。ただ、昨日より少しだけ姿勢が固い。
チェーンをかけたまま少し開けると、朔は「おつかれ」と小さく言った。
「二回だった」
直人が言うと、朔は一瞬だけ目を見開いた。
「……言われたから」
「知ってる」
それだけ返して、直人はチェーンを外した。
家に上がった朔は、昨日と同じように玄関に近い椅子の前で止まった。そこが自分の席だと決められたわけではないのに、二人とも自然にそうなっているのが少し変だった。
郁子は麦茶を三つ出した。今日は氷を入れなかった。氷の鳴る音すら聞きたくないみたいに見えた。
「昨日、帰ったあと」と、朔が言った。
「何」
「あのアカウントにDM送った。やめろって」
直人は顔を上げた。
「返事は?」
「来てない」
「既読も?」
「ついてない」
朔はスマホをテーブルの上に伏せる。
「でも、何か新しい投稿とかがあるかもしれないから、通知だけは切ってない」
郁子の指先が、コップの縁で止まった。
誰も、その判断が正しいかどうかは言わなかった。正しいことを選べる場所に、もういない気がした。
壁の時計は十八時五十八分を指していた。
誰も大きな声を出さない。
冷蔵庫の低い音、向かいの棟で窓が閉まる音、廊下の蛍光灯がつくときのかすかな唸り。それぞれが昨日より近く聞こえる。
朔はスマホに触れないまま、玄関のほうを見ていた。
郁子は食卓の端に手を置き、背もたれには寄りかからない。
直人はコップの水面に映る蛍光灯の白さを見ていた。
「……昨日より静かだな」と、朔が言った。
直人は少しだけ眉を寄せた。
「静かなほうが嫌だ」
「分かる」
朔はそれ以上、余計なことを言わなかった。
十九時になった。
それだけで、部屋の空気が一段深く沈む。
昨日はこのあと五分がやけに長かった。今日は最初から、それが短くなる感じがしなかった。時間だけが、部屋の外をゆっくり歩いているみたいだった。
十九時一分。
誰も喋らない。
十九時二分。
外階段を誰かが上って、三段ぶんで止まり、また下りた。
十九時三分。
朔が一度だけ息を深く吸った。
十九時四分。
郁子の視線が、時計と玄関のあいだを往復する。
そして、十九時五分。
壁の時計が小さく鳴った。
直人は肩に力を入れた。
昨日と同じ一拍を待つ。
来ない。
扉は静かなままだった。
廊下の向こうで誰かが咳をした気配だけが、薄く届いて消える。
二拍。
三拍。
それでも何も鳴らない。
鳴らないことが、逆に落ち着かなかった。
昨日の五回が来ると決めて待っていたぶん、空白のほうが気味が悪い。玄関の前に誰もいないのか、それとも昨日より近くにいるのか、その区別すらつかない。
「……来ない」
直人は自分に言い聞かせるみたいに呟いた。
「昨日だけ、だったのかも」と郁子が言いかけたそのとき、昨日と同じように規則正しいノックの音が、玄関から聞こえた。
同時に、テーブルの上でスマホが短く振動した。
びくりと三人の肩が揺れる。
朔のスマホだった。
伏せていた画面を裏返す手つきが、一瞬だけ止まる。
通知欄の上に、見覚えのある黒いアイコンが浮いていた。
朔の喉が動く。
「何」
掠れた声だった。
直人は椅子を引いて身を乗り出した。郁子も立ち上がりかけて、やめる。
二人の肩が触れそうな距離で、朔が画面を開く。
昨日の投稿と同じ、黒い画面に白い文字。
余計な文は何もない、短いメッセージだった。
『十九時五分、二〇一号室でノックを聞いた人へ。
あなたは、すでに死者の声を聞いているはずだ。』
目が覚めたとき、乾いた音と、そのあとに続いた空っぽの廊下が先に浮かんだ。眠ったのかどうかも曖昧なまま制服を着て、いつもの道を歩いた。商店街のシャッターは半分上がっていて、パン屋の前には焼けた匂いが出ていたのに、それさえ今日は遠い町のものみたいだった。
教室に入ると、朝なのに空気が少し重い。ざわめきはあるのに、どこかよそよそしい。昨日までなら朔の席の近くにスマホを囲む輪ができていたのに、今日は笑い声が長く続かなかった。誰かが何かを話しかけても、朔は短く返すだけで、画面を掲げもしない。昨日の昼休みの、あの軽さが消え、本人だけ静かになっている感じだった。
直人は鞄を机の横にかけて、何も見ていない目で黒板を見た。窓の外は晴れている。昨日のことが、嘘みたいに思えるくらいだった。
それでも、後ろの扉が開くたびに肩がこわばる。
そんなふうに音に敏感になっている自分に気づいて、直人は余計に気が滅入った。
ホームルームが終わっても、朔はいつもの調子で騒がなかった。誰かに話しかけられれば返すが、自分から真ん中へ行こうとはしない。昼休み、教室を出ようとした直人の前に立って、「少しいいか」とだけ言った。
断ってもたぶんついてくる声だった。
直人は答えず、廊下の端まで歩いた。窓の外に中庭が見える。部活のボールが跳ねる音が、下のほうから鈍く上がってきた。昼の光は明るいのに、人の少ない廊下だけが別の時間みたいに静かだった。
朔は少し離れて立ち止まった。昨日、玄関にいちばん近い椅子を選んだときと同じ距離だった。
「昨日のこと、もう一回ちゃんと謝りたい」
直人は窓枠にもたれたまま、黙っていた。
「俺、あのアカウント見つけたとき、最初から最後までネタだと思ってた」
朔はそこで一度、喉を鳴らした。
「死んだ先輩とか、最後の声とか、そういう言葉ついてると、嘘っぽいだろ。そういう軽さで見た。スクショして、グループに投げて、学校の近くらしいって言って、昼にみんなにも見せた」
昨日、教室の真ん中にあったスマホの画面が、また頭に浮かぶ。白い文字。笑い声。肩の触れ合う近さ。
朔は続けた。
「コメント欄で団地の名前出してるやつも見た。部屋番号、本物かもって少し思ったのに、止めるより先に面白いほうに乗った。お前が顔色変えたの見ても、空気変えたくなくて、ごまかした」
「ごまかした?」
「……『ただの悪趣味だろ』って言った。『夜に聞いたほうがおもしろい』とも言った」
直人の指先に力が入った。
その言葉は、昨日の昼休みに実際に聞いたはずなのに、今ここで改めて言われると、もっとひどく聞こえた。
軽い。軽すぎる。
「それだけじゃない」と、朔が自分から言った。
「俺、あのあとも止めなかった。別のやつが『今夜行ってみようかな』って笑ったときも、やめろって言わなかった。たぶん、その場で一番軽かったの、俺だ」
「……それを今、わざわざ言うんだ」
「言わないとだめだと思った」
「言えば済むのか」
「済まない」
朔はすぐに言った。
「済まないから、言う」
直人は目を逸らした。中庭の隅で、風にあおられたビニールが金網に引っかかっていた。白くひらひらしているだけなのに、昨夜の扉の隙間から見えた蛍光灯の色を思い出す。
「お前さ」
声が思ったより低く出た。
「俺、この町にまだ全然慣れてないんだよ」
朔は黙って聞いている。
「学校も、道も、店も、全部まだ借り物みたいで、どこ歩いても少し浮いてる感じがする。せめて家の中だけは、普通でいたかった」
言いながら、胸の奥にたまっていたものの形が少しずつ分かってきた。
「玄関の音なんて気にしないで、ごはん食って、風呂入って、寝るだけでよかったんだよ。おばあちゃんと二人で、静かに暮らせればよかった」
窓の向こうでは、誰かが笑っている。春の昼の音だ。何も怖くないはずの明るさなのに、その明るさのほうが腹立たしかった。
「なのに、お前が面白がって回したせいで、俺の家の部屋番号がみんなに知られた。昨日までただの玄関だった場所が、今は音ひとつで息止める場所になった」
そこで初めて、直人は朔をまっすぐ見た。
「壊したの、お前だろ?」
朔はうなずいた。
「うん」
「昨日怖かったのは、お前も同じだろ。でも、お前は昨日を終わらせればいいだけだ」
自分でもきつい言い方だと思った。けれど止まらなかった。
「俺は今日もあそこに帰るんだよ。今日の十九時五分も、明日の十九時五分も、あの玄関の音を待つことになるかもしれない」
朔の喉が、目に見えるほど小さく動いた。
「許せない」
言った瞬間、胸の奥が少しだけ楽になった。
優しい言い方ではなかった。正しいかどうかも分からない。ただ、それを飲み込まずに出したのは初めてだった。
朔はしばらく何も言わなかったが、やがて「そうだと思う」と言った。
「許してもらえると思ってない」
「じゃあ謝るなよ」
「謝りたいから謝る」
「自己満足だろ」
「うん。たぶん、それもある」
それでも目を逸らさなかった。
「面白がった。適当にネットに転がっている、ただの噂だと思った。ごめん」
直人は窓枠から背を離した。
「今日も来るつもりか」
朔は一拍だけ遅れて、「行きたい」と言った。
昨日までなら、「行く」と言い切ったはずの声だった。
今日はそこを変えてきたのが分かった。
「勝手に後つけたりはしない。昨日みたいなのは、もうしない。言っていいか、ちゃんと聞く」
「来るなって言ったら?」
朔は少しだけ口を結んだ。それから、無理にきれいな答えを選ばずに言った。
「……それでも気にはなる。でも、来るなって言われたら、行かない」
昨日との違いは、その一言に全部出ていた。
直人はすぐには返事をしなかった。
許していない。
腹も立っている。
それでも、昨夜、扉に手を添えて隣に立った気配だけは、嘘じゃなかったと思い出してしまう。
思い出したこと自体に、少し苛立つ。
「十九時前に来い」
朔が顔を上げた。
「ノックは二回だけにしろ」
「……分かった」
自分で言ってから、その言い方が妙に具体的すぎて、直人は少し眉を寄せた。けれど朔は笑わなかった。
「二回だけにする」
それだけ答える。
昼休みの窓の光が、二人のあいだの床に長く落ちていた。仲直りしたわけではない。怒りが消えたわけでもない。ただ、昨日より少しだけ、言葉がまっすぐ届いた感じがした。
放課後、家に帰ると、郁子は台所でじゃがいもをむいていた。
「おかえり」
「ただいま」
直人は鞄を置いて、少し迷ってから言った。
「……今日、朔が来る」
包丁の音が止まる。
郁子はすぐには顔を上げなかった。皮の途切れたじゃがいもを手の中で一度回してから、「そう」とだけ言った。
「嫌なら、断るけど」
「ううん」
郁子はようやくこちらを見た。昨日より顔色は少しましだったが、玄関のほうへ気を配っている目つきはまだ消えていない。
直人はそれ以上何も言わず、自分の部屋に鞄を置きに行った。
戻ると、気づかないうちに玄関に近い椅子を昨日と同じ場所へ引いていた。自分で引いたくせに、その位置を見て少し苛立つ。戻そうとして、やめた。
夕方がゆっくり濃くなる。
時計の針が進むたび、昨日の十九時五分がまたこちらへ歩いてくるみたいだった。
夕飯は昨日より早く済ませた。味噌汁の湯気が上がっているあいだも、時計を見ないふりをしていたのに、箸を置くタイミングだけが不自然なくらい揃った。食器を下げる音が終わると、部屋の中の生活らしい音はそれでほとんどなくなった。
直人は自分のスマホを何度も見た。朔からの連絡はまだ来ていない。来なくても落ち着かないし、来たら来たで昨日の続きが始まる。どちらにしても嫌なのに、結局、画面が暗いままだとそれはそれで胸がざわついた。
廊下を誰かが通るたび、足音の数を無意識に追ってしまう。自分の家の外で鳴るただの生活音を、疑って数えるようになったことが、また腹立たしかった。
十九時少し前、スマホが震えた。
『着いた』
短い一文だった。
直人は返事をしなかった。
そのまま待っていると、玄関で音がした。
コン、コン。
二回。
反射で、直人は三回目を待った。
昨日の五回が耳のどこかにまだ住み着いていて、二回と分かっていても体がすぐには追いつかない。
来ない。
代わりに、向こうで息を整える気配が一つだけして、直人は立ち上がった。
のぞき穴の向こうに、昨日と同じ制服姿の朔がいた。今日はコンビニ袋も持っていない。ただ、昨日より少しだけ姿勢が固い。
チェーンをかけたまま少し開けると、朔は「おつかれ」と小さく言った。
「二回だった」
直人が言うと、朔は一瞬だけ目を見開いた。
「……言われたから」
「知ってる」
それだけ返して、直人はチェーンを外した。
家に上がった朔は、昨日と同じように玄関に近い椅子の前で止まった。そこが自分の席だと決められたわけではないのに、二人とも自然にそうなっているのが少し変だった。
郁子は麦茶を三つ出した。今日は氷を入れなかった。氷の鳴る音すら聞きたくないみたいに見えた。
「昨日、帰ったあと」と、朔が言った。
「何」
「あのアカウントにDM送った。やめろって」
直人は顔を上げた。
「返事は?」
「来てない」
「既読も?」
「ついてない」
朔はスマホをテーブルの上に伏せる。
「でも、何か新しい投稿とかがあるかもしれないから、通知だけは切ってない」
郁子の指先が、コップの縁で止まった。
誰も、その判断が正しいかどうかは言わなかった。正しいことを選べる場所に、もういない気がした。
壁の時計は十八時五十八分を指していた。
誰も大きな声を出さない。
冷蔵庫の低い音、向かいの棟で窓が閉まる音、廊下の蛍光灯がつくときのかすかな唸り。それぞれが昨日より近く聞こえる。
朔はスマホに触れないまま、玄関のほうを見ていた。
郁子は食卓の端に手を置き、背もたれには寄りかからない。
直人はコップの水面に映る蛍光灯の白さを見ていた。
「……昨日より静かだな」と、朔が言った。
直人は少しだけ眉を寄せた。
「静かなほうが嫌だ」
「分かる」
朔はそれ以上、余計なことを言わなかった。
十九時になった。
それだけで、部屋の空気が一段深く沈む。
昨日はこのあと五分がやけに長かった。今日は最初から、それが短くなる感じがしなかった。時間だけが、部屋の外をゆっくり歩いているみたいだった。
十九時一分。
誰も喋らない。
十九時二分。
外階段を誰かが上って、三段ぶんで止まり、また下りた。
十九時三分。
朔が一度だけ息を深く吸った。
十九時四分。
郁子の視線が、時計と玄関のあいだを往復する。
そして、十九時五分。
壁の時計が小さく鳴った。
直人は肩に力を入れた。
昨日と同じ一拍を待つ。
来ない。
扉は静かなままだった。
廊下の向こうで誰かが咳をした気配だけが、薄く届いて消える。
二拍。
三拍。
それでも何も鳴らない。
鳴らないことが、逆に落ち着かなかった。
昨日の五回が来ると決めて待っていたぶん、空白のほうが気味が悪い。玄関の前に誰もいないのか、それとも昨日より近くにいるのか、その区別すらつかない。
「……来ない」
直人は自分に言い聞かせるみたいに呟いた。
「昨日だけ、だったのかも」と郁子が言いかけたそのとき、昨日と同じように規則正しいノックの音が、玄関から聞こえた。
同時に、テーブルの上でスマホが短く振動した。
びくりと三人の肩が揺れる。
朔のスマホだった。
伏せていた画面を裏返す手つきが、一瞬だけ止まる。
通知欄の上に、見覚えのある黒いアイコンが浮いていた。
朔の喉が動く。
「何」
掠れた声だった。
直人は椅子を引いて身を乗り出した。郁子も立ち上がりかけて、やめる。
二人の肩が触れそうな距離で、朔が画面を開く。
昨日の投稿と同じ、黒い画面に白い文字。
余計な文は何もない、短いメッセージだった。
『十九時五分、二〇一号室でノックを聞いた人へ。
あなたは、すでに死者の声を聞いているはずだ。』



