十九時になっても、何も起きなかった。
だからこそ、五分という時間が長く感じられた。
誰もそのことを口にしないのに、壁の時計が一分進むたび、三人の視線は同じところへ吸われる。
郁子は台所と食卓のあいだを行ったり来たりしていたが、何かを片づけ終えることはなかった。ふきんを畳み直し、箸を揃え直し、また玄関を見る。そのたびにエプロンの紐のあたりを指で強くつまむ。
朔は玄関に近い椅子から動かない。足元のコンビニ袋がときどきかすかに鳴っている。
直人は麦茶が入ったままのコップを見ていた。氷はもう半分くらい溶けているのに、一口も飲む気になれなかった。
十九時一分。
団地の下で、原付が通りすぎる音がした。向かいの棟のどこかで、笑い声がひとつだけ上がって、すぐ消える。外の世界はいつも通り動いているのに、二〇一号室の中だけが別の時間を刻んでいるみたいだった。
朔のスマホがまた震えた。
今度は短くではなく、続けて二度。
朔は画面も見ずに電源ごと落とした。
「……帰ったほうがいいなら、言えよ」
不意に朔が言った。
直人は顔を上げる。
「今さら?」
「今さらだな」
朔は自分で言って、口元だけ少し歪めた。笑うところではないと分かっていて、それでも黙りすぎるのを避けるみたいな顔だった。
「でも、言われても帰んねえけど」
「最悪」
「知ってる」
それきり、会話はまた切れた。
けれどその短いやりとりで、部屋の空気がほんの少しだけ和らいだ。
十九時二分。
郁子がとうとう玄関まで行き、チェーンに触れた。
金具がかすかに鳴る。
「おばあちゃん」
呼ぶと、郁子は肩を揺らして振り返った。
「……ちゃんとかかってるか、見ただけ」
「さっきも見てた」
それでも指はチェーンから離れない。金属に触れていないと落ち着かないみたいだった。
朔が椅子から少し身を乗り出す。
郁子は返事をしなかった。ただ、うなずく代わりみたいに目を伏せて、ゆっくり食卓のほうへ戻る。
戻る途中で、一度だけ足が止まった。立ちくらみでもしたのかと思ったが、違った。耳を澄ませていた。
直人もつられて息を止める。
来る前なら、外階段を上る足音か、廊下の床を踏む気配があるはずだった。薄いコンクリートと金属の階段は、誰かが通れば必ず音を返す。さっきからずっと、その前触れを待っていた。
けれど何も聞こえない。
何も聞こえないままなのに、来る気配だけがある。
その感じの悪さに、直人は膝の上の手を握った。
十九時三分。
壁の時計の秒針が、やけに大きく鳴るようになった。ひとつ進むたびに、喉の奥の空気まで削られていく。
郁子はとうとう椅子に座ったが、背もたれにはつかなかった。いつでも立ち上がれる姿勢のまま、玄関だけを見ている。
朔はコップに触れたまま、飲まない。指先に力が入りすぎて、ガラスの縁がわずかに鳴った。
「……お前のノック、二回なんだな」
気づけば、直人はそんなことを言っていた。
意味のある話ではなかった。ただ、今ここにある扉のことを、少しでも別の形で口にしたかった。
朔は一瞬だけ目を瞬いた。
「さっきの?」
「うん」
「まあ……普通だろ」
「そうだな」
十九時四分。
長針が一つ進んだのを見て、直人は自分の唾を飲み込む音の大きさに驚いた。
郁子が小さく「お茶、足そうかしら」と言って、立ち上がろうとして、やめる。
朔の喉が、目に見えるほど上下していた。
直人はそれを見て、少しだけ呼吸の仕方を思い出した。
「……もし、何もなかったら」
自分でも何を言いたいのか分からないまま口を開くと、朔はすぐに返した。
「そのときは、そのときでいいだろ」
「お前、ほんとに雑だな」
「先のことなんて、分からないから」
十九時四分五十秒。
数字を見たわけでもないのに、それくらいだと分かった。
部屋じゅうの音が、急に遠くなったからだ。
十九時五分を知らせるみたいに、壁の時計が小さく鳴る。
その一拍あとだった。
コン。
短くはない、重すぎもしない音だった。
乾いているのに、扉の木目の奥までまっすぐ入ってくる。
直人の肩が勝手に跳ねた。
次の音までのあいだに、秒針が二つ進む。
コン。
同じ高さ。同じ強さ。同じ間。
人が考えながら叩く音ではなかった。
最初から五回と決まっているものが、その通りに鳴っているだけの音だった。
郁子が息を呑む。
椅子の脚が床を擦って、鈍い音を立てた。
コン。
三回目で、朔が立ち上がった。
けれど玄関へ飛びつくことはしない。行くべきか止まるべきか、そのどちらでもない場所で足が止まる。
直人も半分だけ腰を浮かせたまま、続きを待った。
コン。
四回目。
さっき朔がこの部屋の外から鳴らした、二回のノックが頭をよぎる。
あのノックは、ためらいと気まずさが混じった人の音だった。
コン。
五回目は、前の四つと寸分違わず鳴った。
そこまでそろっていることが、いちばん気味が悪かった。
それで終わる。
六回目は来ない。
急かすような追い打ちも、名前を呼ぶ声も、ドアノブを回す音もない。
五回だけ、きっちり置いていったみたいに、外は静かになった。
誰も動けなかった。
直人は玄関までたった数歩の距離が、急に別の階のことみたいに遠く感じた。さっきまで見えていたドアの色も、チェーンの金具も、今は全部、触れたら何か不吉なことが起きるものに見える。
郁子が椅子の背をつかむ。
爪の先が白くなっていた。
「……だめ」
掠れた声だった。
「開けないで」
二言目は、もう頼む声だった。
郁子がこんなふうに言うのを、直人はほとんど聞いたことがない。
朔は玄関の前まで行ききらず、そこで立ち尽くしたままうなずいた。
「開けないです」
そう返した声は、自分に言い聞かせているみたいでもあった。
ノブに伸びかけた右手が、途中で止まっている。
怖くて開けられないのだと、その手が教えていた。
直人は何か言おうとして、喉のところで止まった。
いつもならとりあえず「大丈夫」と言ってしまうはずの場面だった。
けれど今は、その言葉を口にした瞬間に壊れるものがある気がした。
五回のあと、廊下には足音ひとつ立たなかった。
立ち去る気配がない。
かといって、まだそこに誰かが立っている感じもしない。
扉の向こうだけ、音の仕組みが少し違うみたいだった。
壁の時計が、またひとつ進む。
それで初めて、時間が止まっていなかったことを知る。
「……今の」
朔が先に言って、言葉を切る。
それから、低く言い直した。
「五回、だよな」
直人はうなずくので精いっぱいだった。
「しかも、同じ間だった」
自分の声が、自分のものじゃないみたいだった。
朔は返事の代わりに、口の中だけで小さく息を吐いた。
郁子は座り直すこともできず、その場に立ったまま両手を胸の前で握っていた。
肩が小さく上下している。
怖いのだと、説明されるまでもなく分かった。
ただの悪ふざけに脅かされた人の怯え方ではなかった。
「もう、何も言わないで」
郁子が言う。
誰に向けた言葉か分からないまま、部屋に落ちた。
「返事もしないで。聞こえても、そのままにして」
その言い方に、直人は胸の奥を掴まれた気がした。
聞こえてもという言葉に、聞いたことのある人の重さがあった。
けれど今それを問い返す勇気はなかった。
朔も何も聞かない。
ただ一度だけ、直人のほうを見る。
目が合うと、すぐに逸らした。
その短さが、かえって助かった。今、何かを確かめるような目で長く見られたら、それだけで息が詰まっていたと思う。
それから一分ほど、三人は同じ沈黙の中にいた。
五回は繰り返されない。
外階段の軋みも、隣の部屋の物音も、ようやく少しずつ戻ってくる。
団地そのものは何も知らない顔で、いつもの夜になろうとしていた。
それでも、直人の耳だけはまだ扉のすぐ向こうに置き去りのままだった。
「……あの音声」
自分で言ってから、喉がひりついた。
朔が顔を上げる。
「持ってるのか」
「保存はした」
「聞かせて」
郁子がはっとしたようにこちらを見る。
「直人くん」
止める声だった。
直人はその目を見られなかった。
「同じか、知りたい」
「今、そんなもの」
「確かめたい」
言いながら、自分でもそれが確認なのか、恐怖に名前をつけたいだけなのか分からなかった。
ただ、このまま五回の音だけを頭の中に残しておくほうが、よほどまずい気がした。
朔はすぐには動かなかった。
郁子と直人を一度ずつ見て、それからスマホを手に取る。
「音、小さくする」
郁子は唇を結んだまま、反対しなかった。
反対する力も残っていないように見えた。
朔が再生ボタンを押す。
三人とも、自然にその小さな画面のほうへ顔を寄せた。
最初に入っていたのは、ざ、と擦れるような雑音だった。
薄い砂みたいなノイズ。
その向こうで、雨とも風ともつかない音が鳴っている。
今夜の乾いた廊下とは違う湿った気配が、スマホの小さなスピーカーからこぼれた。
誰かの呼吸が、ひどく近い。
走ったあとの息みたいに浅くて、喉に引っかかっている。
直人の背筋が伸びる。
そして、
コン。
誰も時計を見ていないのに、さっきの玄関と同じ間がそこにあった。
コン。
三人の肩が、音に合わせて固くなる。
コン。
コン。
コン。
五回。
ゆっくり、はっきり、同じ間隔。
いま扉の向こうで聞いたものと、違いが分からない。
五つ目のあと、少しだけ衣擦れの音がした。
誰かが壁にもたれたみたいな、頼りない擦れ方だった。
それから、小さく空気を吸う気配。
何か言葉が続くのを待った。
去年死んだ先輩の最後の声、という噂が頭にあるせいで、なおさら待ってしまう。
だが聞こえたのは、言葉になりきらない息だけだった。
「……っ」
郁子が、喉の奥でひとつ息を詰まらせた。
朔がすぐ再生を止める。
画面が暗くなると、部屋の静けさがいっそう濃くなった。
直人はしばらく、何も言えなかった。
音声の中の湿った気配と、たった今の乾いた廊下の五回が、頭の中で重なって離れない。
「同じだ」
先に口を開いたのは朔だった。
少し掠れた声だった。
「……ああ」
直人もそれだけ返す。
似ている、ではない。
同じだ。
そう言い切ってしまえることのほうが怖かった。
郁子が椅子の背に片手をついたまま、ゆっくり首を振る。
「だから、やめてって」
怒っているのではなかった。
怯えすぎて、もう強い声が出ないだけだった。
直人は玄関に向かった。
自分でも、なぜ向かったのか分からない。
ただ、スマホの中と扉の向こうを同じままにしておけなかった。
「直人くん」
郁子の声が追う。
「ちょっとだけ見る」
「だめ」
「チェーンつけたまま」
そう言いながら、もう玄関のほうへ足が向いていた。
本当は見たくない。見なくても済むなら、そのまま今夜を終わらせたかった。
けれど、何も見ないまま音だけを信じるほうが、もっと怖い。
朔がすぐ立つ。
椅子が床を擦る。
「一人で行くな」
それだけ言って、直人の隣に来た。
強い口調ではなかった。低くて、短くて、でも引かない声だった。
ノブに手を伸ばすと、自分の指先が思った以上に冷えていた。
直人は鍵を回した。
金属が乾いて鳴る。
その音だけで、また外の何かがノックを返してくるのではないかと身構えたが、何もない。
朔が扉の上のほうに手を添える。
逃げるためではなく、急に何かあったときにすぐ閉められる位置だった。
その袖が、直人の腕にかすかに触れる。
触れただけなのに、ひとりで立っている感じが少し薄くなる。
「……開けるぞ」
言う必要もないのに、言った。
返事は二つあった。
「うん」
「だめよ」
ほとんど同時だった。
直人はノブをゆっくり回した。
扉がきしむ。
すぐにチェーンが張って、金属の短い悲鳴みたいな音を立てる。
そこで止まる。
大人の手が一つ入るかどうかくらいの隙間だった。
廊下の蛍光灯の白さが、その細い隙間から流れ込んできた。
誰もいない。
真正面の白い壁。
左に伸びる廊下。
右の手すりの向こう、暗く沈んだ階段。
さっきまで確かに五回のノックが鳴っていたはずの場所に、人の影がひとつもない。
直人は目だけで左右を確かめた。
足音もない。
息遣いもない。
誰かが慌てて階段を下りたなら聞こえるはずの音も、何ひとつ残っていなかった。
冷たい夜の空気だけが、細い隙間からまっすぐ入ってくる。
朔が扉に添えた手に、少しだけ力を入れた。
「……見えるか」
「誰もいない」
答えながら、自分でその言葉に寒気がした。
いない。
それだけのことが、どうしてこんなに気味が悪いのか分からない。
団地のどこかで、テレビの笑い声が遠くに鳴った。
それがかえって、二〇一号室の前の空白をはっきりさせる。
ここだけ音が消えたみたいだった。
直人はもう一度だけ、廊下の端を見た。
古い蛍光灯が、じっと低く鳴っている。
白い光の下には、立ち去ったあとの影すら残っていない。
五回だけ鳴って、消えた。
そのことだけが、扉の隙間にまだ残っていた。
だからこそ、五分という時間が長く感じられた。
誰もそのことを口にしないのに、壁の時計が一分進むたび、三人の視線は同じところへ吸われる。
郁子は台所と食卓のあいだを行ったり来たりしていたが、何かを片づけ終えることはなかった。ふきんを畳み直し、箸を揃え直し、また玄関を見る。そのたびにエプロンの紐のあたりを指で強くつまむ。
朔は玄関に近い椅子から動かない。足元のコンビニ袋がときどきかすかに鳴っている。
直人は麦茶が入ったままのコップを見ていた。氷はもう半分くらい溶けているのに、一口も飲む気になれなかった。
十九時一分。
団地の下で、原付が通りすぎる音がした。向かいの棟のどこかで、笑い声がひとつだけ上がって、すぐ消える。外の世界はいつも通り動いているのに、二〇一号室の中だけが別の時間を刻んでいるみたいだった。
朔のスマホがまた震えた。
今度は短くではなく、続けて二度。
朔は画面も見ずに電源ごと落とした。
「……帰ったほうがいいなら、言えよ」
不意に朔が言った。
直人は顔を上げる。
「今さら?」
「今さらだな」
朔は自分で言って、口元だけ少し歪めた。笑うところではないと分かっていて、それでも黙りすぎるのを避けるみたいな顔だった。
「でも、言われても帰んねえけど」
「最悪」
「知ってる」
それきり、会話はまた切れた。
けれどその短いやりとりで、部屋の空気がほんの少しだけ和らいだ。
十九時二分。
郁子がとうとう玄関まで行き、チェーンに触れた。
金具がかすかに鳴る。
「おばあちゃん」
呼ぶと、郁子は肩を揺らして振り返った。
「……ちゃんとかかってるか、見ただけ」
「さっきも見てた」
それでも指はチェーンから離れない。金属に触れていないと落ち着かないみたいだった。
朔が椅子から少し身を乗り出す。
郁子は返事をしなかった。ただ、うなずく代わりみたいに目を伏せて、ゆっくり食卓のほうへ戻る。
戻る途中で、一度だけ足が止まった。立ちくらみでもしたのかと思ったが、違った。耳を澄ませていた。
直人もつられて息を止める。
来る前なら、外階段を上る足音か、廊下の床を踏む気配があるはずだった。薄いコンクリートと金属の階段は、誰かが通れば必ず音を返す。さっきからずっと、その前触れを待っていた。
けれど何も聞こえない。
何も聞こえないままなのに、来る気配だけがある。
その感じの悪さに、直人は膝の上の手を握った。
十九時三分。
壁の時計の秒針が、やけに大きく鳴るようになった。ひとつ進むたびに、喉の奥の空気まで削られていく。
郁子はとうとう椅子に座ったが、背もたれにはつかなかった。いつでも立ち上がれる姿勢のまま、玄関だけを見ている。
朔はコップに触れたまま、飲まない。指先に力が入りすぎて、ガラスの縁がわずかに鳴った。
「……お前のノック、二回なんだな」
気づけば、直人はそんなことを言っていた。
意味のある話ではなかった。ただ、今ここにある扉のことを、少しでも別の形で口にしたかった。
朔は一瞬だけ目を瞬いた。
「さっきの?」
「うん」
「まあ……普通だろ」
「そうだな」
十九時四分。
長針が一つ進んだのを見て、直人は自分の唾を飲み込む音の大きさに驚いた。
郁子が小さく「お茶、足そうかしら」と言って、立ち上がろうとして、やめる。
朔の喉が、目に見えるほど上下していた。
直人はそれを見て、少しだけ呼吸の仕方を思い出した。
「……もし、何もなかったら」
自分でも何を言いたいのか分からないまま口を開くと、朔はすぐに返した。
「そのときは、そのときでいいだろ」
「お前、ほんとに雑だな」
「先のことなんて、分からないから」
十九時四分五十秒。
数字を見たわけでもないのに、それくらいだと分かった。
部屋じゅうの音が、急に遠くなったからだ。
十九時五分を知らせるみたいに、壁の時計が小さく鳴る。
その一拍あとだった。
コン。
短くはない、重すぎもしない音だった。
乾いているのに、扉の木目の奥までまっすぐ入ってくる。
直人の肩が勝手に跳ねた。
次の音までのあいだに、秒針が二つ進む。
コン。
同じ高さ。同じ強さ。同じ間。
人が考えながら叩く音ではなかった。
最初から五回と決まっているものが、その通りに鳴っているだけの音だった。
郁子が息を呑む。
椅子の脚が床を擦って、鈍い音を立てた。
コン。
三回目で、朔が立ち上がった。
けれど玄関へ飛びつくことはしない。行くべきか止まるべきか、そのどちらでもない場所で足が止まる。
直人も半分だけ腰を浮かせたまま、続きを待った。
コン。
四回目。
さっき朔がこの部屋の外から鳴らした、二回のノックが頭をよぎる。
あのノックは、ためらいと気まずさが混じった人の音だった。
コン。
五回目は、前の四つと寸分違わず鳴った。
そこまでそろっていることが、いちばん気味が悪かった。
それで終わる。
六回目は来ない。
急かすような追い打ちも、名前を呼ぶ声も、ドアノブを回す音もない。
五回だけ、きっちり置いていったみたいに、外は静かになった。
誰も動けなかった。
直人は玄関までたった数歩の距離が、急に別の階のことみたいに遠く感じた。さっきまで見えていたドアの色も、チェーンの金具も、今は全部、触れたら何か不吉なことが起きるものに見える。
郁子が椅子の背をつかむ。
爪の先が白くなっていた。
「……だめ」
掠れた声だった。
「開けないで」
二言目は、もう頼む声だった。
郁子がこんなふうに言うのを、直人はほとんど聞いたことがない。
朔は玄関の前まで行ききらず、そこで立ち尽くしたままうなずいた。
「開けないです」
そう返した声は、自分に言い聞かせているみたいでもあった。
ノブに伸びかけた右手が、途中で止まっている。
怖くて開けられないのだと、その手が教えていた。
直人は何か言おうとして、喉のところで止まった。
いつもならとりあえず「大丈夫」と言ってしまうはずの場面だった。
けれど今は、その言葉を口にした瞬間に壊れるものがある気がした。
五回のあと、廊下には足音ひとつ立たなかった。
立ち去る気配がない。
かといって、まだそこに誰かが立っている感じもしない。
扉の向こうだけ、音の仕組みが少し違うみたいだった。
壁の時計が、またひとつ進む。
それで初めて、時間が止まっていなかったことを知る。
「……今の」
朔が先に言って、言葉を切る。
それから、低く言い直した。
「五回、だよな」
直人はうなずくので精いっぱいだった。
「しかも、同じ間だった」
自分の声が、自分のものじゃないみたいだった。
朔は返事の代わりに、口の中だけで小さく息を吐いた。
郁子は座り直すこともできず、その場に立ったまま両手を胸の前で握っていた。
肩が小さく上下している。
怖いのだと、説明されるまでもなく分かった。
ただの悪ふざけに脅かされた人の怯え方ではなかった。
「もう、何も言わないで」
郁子が言う。
誰に向けた言葉か分からないまま、部屋に落ちた。
「返事もしないで。聞こえても、そのままにして」
その言い方に、直人は胸の奥を掴まれた気がした。
聞こえてもという言葉に、聞いたことのある人の重さがあった。
けれど今それを問い返す勇気はなかった。
朔も何も聞かない。
ただ一度だけ、直人のほうを見る。
目が合うと、すぐに逸らした。
その短さが、かえって助かった。今、何かを確かめるような目で長く見られたら、それだけで息が詰まっていたと思う。
それから一分ほど、三人は同じ沈黙の中にいた。
五回は繰り返されない。
外階段の軋みも、隣の部屋の物音も、ようやく少しずつ戻ってくる。
団地そのものは何も知らない顔で、いつもの夜になろうとしていた。
それでも、直人の耳だけはまだ扉のすぐ向こうに置き去りのままだった。
「……あの音声」
自分で言ってから、喉がひりついた。
朔が顔を上げる。
「持ってるのか」
「保存はした」
「聞かせて」
郁子がはっとしたようにこちらを見る。
「直人くん」
止める声だった。
直人はその目を見られなかった。
「同じか、知りたい」
「今、そんなもの」
「確かめたい」
言いながら、自分でもそれが確認なのか、恐怖に名前をつけたいだけなのか分からなかった。
ただ、このまま五回の音だけを頭の中に残しておくほうが、よほどまずい気がした。
朔はすぐには動かなかった。
郁子と直人を一度ずつ見て、それからスマホを手に取る。
「音、小さくする」
郁子は唇を結んだまま、反対しなかった。
反対する力も残っていないように見えた。
朔が再生ボタンを押す。
三人とも、自然にその小さな画面のほうへ顔を寄せた。
最初に入っていたのは、ざ、と擦れるような雑音だった。
薄い砂みたいなノイズ。
その向こうで、雨とも風ともつかない音が鳴っている。
今夜の乾いた廊下とは違う湿った気配が、スマホの小さなスピーカーからこぼれた。
誰かの呼吸が、ひどく近い。
走ったあとの息みたいに浅くて、喉に引っかかっている。
直人の背筋が伸びる。
そして、
コン。
誰も時計を見ていないのに、さっきの玄関と同じ間がそこにあった。
コン。
三人の肩が、音に合わせて固くなる。
コン。
コン。
コン。
五回。
ゆっくり、はっきり、同じ間隔。
いま扉の向こうで聞いたものと、違いが分からない。
五つ目のあと、少しだけ衣擦れの音がした。
誰かが壁にもたれたみたいな、頼りない擦れ方だった。
それから、小さく空気を吸う気配。
何か言葉が続くのを待った。
去年死んだ先輩の最後の声、という噂が頭にあるせいで、なおさら待ってしまう。
だが聞こえたのは、言葉になりきらない息だけだった。
「……っ」
郁子が、喉の奥でひとつ息を詰まらせた。
朔がすぐ再生を止める。
画面が暗くなると、部屋の静けさがいっそう濃くなった。
直人はしばらく、何も言えなかった。
音声の中の湿った気配と、たった今の乾いた廊下の五回が、頭の中で重なって離れない。
「同じだ」
先に口を開いたのは朔だった。
少し掠れた声だった。
「……ああ」
直人もそれだけ返す。
似ている、ではない。
同じだ。
そう言い切ってしまえることのほうが怖かった。
郁子が椅子の背に片手をついたまま、ゆっくり首を振る。
「だから、やめてって」
怒っているのではなかった。
怯えすぎて、もう強い声が出ないだけだった。
直人は玄関に向かった。
自分でも、なぜ向かったのか分からない。
ただ、スマホの中と扉の向こうを同じままにしておけなかった。
「直人くん」
郁子の声が追う。
「ちょっとだけ見る」
「だめ」
「チェーンつけたまま」
そう言いながら、もう玄関のほうへ足が向いていた。
本当は見たくない。見なくても済むなら、そのまま今夜を終わらせたかった。
けれど、何も見ないまま音だけを信じるほうが、もっと怖い。
朔がすぐ立つ。
椅子が床を擦る。
「一人で行くな」
それだけ言って、直人の隣に来た。
強い口調ではなかった。低くて、短くて、でも引かない声だった。
ノブに手を伸ばすと、自分の指先が思った以上に冷えていた。
直人は鍵を回した。
金属が乾いて鳴る。
その音だけで、また外の何かがノックを返してくるのではないかと身構えたが、何もない。
朔が扉の上のほうに手を添える。
逃げるためではなく、急に何かあったときにすぐ閉められる位置だった。
その袖が、直人の腕にかすかに触れる。
触れただけなのに、ひとりで立っている感じが少し薄くなる。
「……開けるぞ」
言う必要もないのに、言った。
返事は二つあった。
「うん」
「だめよ」
ほとんど同時だった。
直人はノブをゆっくり回した。
扉がきしむ。
すぐにチェーンが張って、金属の短い悲鳴みたいな音を立てる。
そこで止まる。
大人の手が一つ入るかどうかくらいの隙間だった。
廊下の蛍光灯の白さが、その細い隙間から流れ込んできた。
誰もいない。
真正面の白い壁。
左に伸びる廊下。
右の手すりの向こう、暗く沈んだ階段。
さっきまで確かに五回のノックが鳴っていたはずの場所に、人の影がひとつもない。
直人は目だけで左右を確かめた。
足音もない。
息遣いもない。
誰かが慌てて階段を下りたなら聞こえるはずの音も、何ひとつ残っていなかった。
冷たい夜の空気だけが、細い隙間からまっすぐ入ってくる。
朔が扉に添えた手に、少しだけ力を入れた。
「……見えるか」
「誰もいない」
答えながら、自分でその言葉に寒気がした。
いない。
それだけのことが、どうしてこんなに気味が悪いのか分からない。
団地のどこかで、テレビの笑い声が遠くに鳴った。
それがかえって、二〇一号室の前の空白をはっきりさせる。
ここだけ音が消えたみたいだった。
直人はもう一度だけ、廊下の端を見た。
古い蛍光灯が、じっと低く鳴っている。
白い光の下には、立ち去ったあとの影すら残っていない。
五回だけ鳴って、消えた。
そのことだけが、扉の隙間にまだ残っていた。



