十九時五分、二〇一号室を五回ノックしてみてください

十九時になっても、何も起きなかった。
だからこそ、五分という時間が長く感じられた。
誰もそのことを口にしないのに、壁の時計が一分進むたび、三人の視線は同じところへ吸われる。

郁子は台所と食卓のあいだを行ったり来たりしていたが、何かを片づけ終えることはなかった。ふきんを畳み直し、箸を揃え直し、また玄関を見る。そのたびにエプロンの紐のあたりを指で強くつまむ。
朔は玄関に近い椅子から動かない。足元のコンビニ袋がときどきかすかに鳴っている。
直人は麦茶が入ったままのコップを見ていた。氷はもう半分くらい溶けているのに、一口も飲む気になれなかった。

十九時一分。
団地の下で、原付が通りすぎる音がした。向かいの棟のどこかで、笑い声がひとつだけ上がって、すぐ消える。外の世界はいつも通り動いているのに、二〇一号室の中だけが別の時間を刻んでいるみたいだった。

朔のスマホがまた震えた。
今度は短くではなく、続けて二度。
朔は画面も見ずに電源ごと落とした。

「……帰ったほうがいいなら、言えよ」

不意に朔が言った。
直人は顔を上げる。

「今さら?」

「今さらだな」

朔は自分で言って、口元だけ少し歪めた。笑うところではないと分かっていて、それでも黙りすぎるのを避けるみたいな顔だった。

「でも、言われても帰んねえけど」

「最悪」

「知ってる」

それきり、会話はまた切れた。
けれどその短いやりとりで、部屋の空気がほんの少しだけ和らいだ。

十九時二分。
郁子がとうとう玄関まで行き、チェーンに触れた。
金具がかすかに鳴る。

「おばあちゃん」

呼ぶと、郁子は肩を揺らして振り返った。

「……ちゃんとかかってるか、見ただけ」

「さっきも見てた」

それでも指はチェーンから離れない。金属に触れていないと落ち着かないみたいだった。

朔が椅子から少し身を乗り出す。

郁子は返事をしなかった。ただ、うなずく代わりみたいに目を伏せて、ゆっくり食卓のほうへ戻る。
戻る途中で、一度だけ足が止まった。立ちくらみでもしたのかと思ったが、違った。耳を澄ませていた。

直人もつられて息を止める。
来る前なら、外階段を上る足音か、廊下の床を踏む気配があるはずだった。薄いコンクリートと金属の階段は、誰かが通れば必ず音を返す。さっきからずっと、その前触れを待っていた。
けれど何も聞こえない。

何も聞こえないままなのに、来る気配だけがある。

その感じの悪さに、直人は膝の上の手を握った。

十九時三分。
壁の時計の秒針が、やけに大きく鳴るようになった。ひとつ進むたびに、喉の奥の空気まで削られていく。
郁子はとうとう椅子に座ったが、背もたれにはつかなかった。いつでも立ち上がれる姿勢のまま、玄関だけを見ている。
朔はコップに触れたまま、飲まない。指先に力が入りすぎて、ガラスの縁がわずかに鳴った。

「……お前のノック、二回なんだな」

気づけば、直人はそんなことを言っていた。
意味のある話ではなかった。ただ、今ここにある扉のことを、少しでも別の形で口にしたかった。

朔は一瞬だけ目を瞬いた。

「さっきの?」

「うん」

「まあ……普通だろ」

「そうだな」

十九時四分。
長針が一つ進んだのを見て、直人は自分の唾を飲み込む音の大きさに驚いた。
郁子が小さく「お茶、足そうかしら」と言って、立ち上がろうとして、やめる。

朔の喉が、目に見えるほど上下していた。
直人はそれを見て、少しだけ呼吸の仕方を思い出した。

「……もし、何もなかったら」

自分でも何を言いたいのか分からないまま口を開くと、朔はすぐに返した。

「そのときは、そのときでいいだろ」

「お前、ほんとに雑だな」

「先のことなんて、分からないから」

十九時四分五十秒。
数字を見たわけでもないのに、それくらいだと分かった。
部屋じゅうの音が、急に遠くなったからだ。

十九時五分を知らせるみたいに、壁の時計が小さく鳴る。

その一拍あとだった。

コン。

短くはない、重すぎもしない音だった。
乾いているのに、扉の木目の奥までまっすぐ入ってくる。
直人の肩が勝手に跳ねた。

次の音までのあいだに、秒針が二つ進む。

コン。

同じ高さ。同じ強さ。同じ間。
人が考えながら叩く音ではなかった。
最初から五回と決まっているものが、その通りに鳴っているだけの音だった。

郁子が息を呑む。
椅子の脚が床を擦って、鈍い音を立てた。

コン。

三回目で、朔が立ち上がった。
けれど玄関へ飛びつくことはしない。行くべきか止まるべきか、そのどちらでもない場所で足が止まる。
直人も半分だけ腰を浮かせたまま、続きを待った。

コン。

四回目。
さっき朔がこの部屋の外から鳴らした、二回のノックが頭をよぎる。
あのノックは、ためらいと気まずさが混じった人の音だった。

コン。

五回目は、前の四つと寸分違わず鳴った。
そこまでそろっていることが、いちばん気味が悪かった。

それで終わる。

六回目は来ない。
急かすような追い打ちも、名前を呼ぶ声も、ドアノブを回す音もない。
五回だけ、きっちり置いていったみたいに、外は静かになった。

誰も動けなかった。

直人は玄関までたった数歩の距離が、急に別の階のことみたいに遠く感じた。さっきまで見えていたドアの色も、チェーンの金具も、今は全部、触れたら何か不吉なことが起きるものに見える。
郁子が椅子の背をつかむ。
爪の先が白くなっていた。

「……だめ」

掠れた声だった。

「開けないで」

二言目は、もう頼む声だった。
郁子がこんなふうに言うのを、直人はほとんど聞いたことがない。

朔は玄関の前まで行ききらず、そこで立ち尽くしたままうなずいた。

「開けないです」

そう返した声は、自分に言い聞かせているみたいでもあった。
ノブに伸びかけた右手が、途中で止まっている。
怖くて開けられないのだと、その手が教えていた。

直人は何か言おうとして、喉のところで止まった。
いつもならとりあえず「大丈夫」と言ってしまうはずの場面だった。
けれど今は、その言葉を口にした瞬間に壊れるものがある気がした。

五回のあと、廊下には足音ひとつ立たなかった。
立ち去る気配がない。
かといって、まだそこに誰かが立っている感じもしない。
扉の向こうだけ、音の仕組みが少し違うみたいだった。

壁の時計が、またひとつ進む。
それで初めて、時間が止まっていなかったことを知る。

「……今の」

朔が先に言って、言葉を切る。
それから、低く言い直した。

「五回、だよな」

直人はうなずくので精いっぱいだった。

「しかも、同じ間だった」

自分の声が、自分のものじゃないみたいだった。
朔は返事の代わりに、口の中だけで小さく息を吐いた。

郁子は座り直すこともできず、その場に立ったまま両手を胸の前で握っていた。
肩が小さく上下している。
怖いのだと、説明されるまでもなく分かった。
ただの悪ふざけに脅かされた人の怯え方ではなかった。

「もう、何も言わないで」

郁子が言う。
誰に向けた言葉か分からないまま、部屋に落ちた。

「返事もしないで。聞こえても、そのままにして」

その言い方に、直人は胸の奥を掴まれた気がした。
聞こえてもという言葉に、聞いたことのある人の重さがあった。
けれど今それを問い返す勇気はなかった。

朔も何も聞かない。
ただ一度だけ、直人のほうを見る。
目が合うと、すぐに逸らした。
その短さが、かえって助かった。今、何かを確かめるような目で長く見られたら、それだけで息が詰まっていたと思う。

それから一分ほど、三人は同じ沈黙の中にいた。
五回は繰り返されない。
外階段の軋みも、隣の部屋の物音も、ようやく少しずつ戻ってくる。
団地そのものは何も知らない顔で、いつもの夜になろうとしていた。

それでも、直人の耳だけはまだ扉のすぐ向こうに置き去りのままだった。

「……あの音声」

自分で言ってから、喉がひりついた。
朔が顔を上げる。

「持ってるのか」

「保存はした」

「聞かせて」

郁子がはっとしたようにこちらを見る。

「直人くん」

止める声だった。
直人はその目を見られなかった。

「同じか、知りたい」

「今、そんなもの」

「確かめたい」

言いながら、自分でもそれが確認なのか、恐怖に名前をつけたいだけなのか分からなかった。
ただ、このまま五回の音だけを頭の中に残しておくほうが、よほどまずい気がした。

朔はすぐには動かなかった。
郁子と直人を一度ずつ見て、それからスマホを手に取る。

「音、小さくする」

郁子は唇を結んだまま、反対しなかった。
反対する力も残っていないように見えた。

朔が再生ボタンを押す。
三人とも、自然にその小さな画面のほうへ顔を寄せた。

最初に入っていたのは、ざ、と擦れるような雑音だった。
薄い砂みたいなノイズ。
その向こうで、雨とも風ともつかない音が鳴っている。
今夜の乾いた廊下とは違う湿った気配が、スマホの小さなスピーカーからこぼれた。

誰かの呼吸が、ひどく近い。
走ったあとの息みたいに浅くて、喉に引っかかっている。

直人の背筋が伸びる。

そして、

コン。

誰も時計を見ていないのに、さっきの玄関と同じ間がそこにあった。

コン。

三人の肩が、音に合わせて固くなる。

コン。

コン。

コン。

五回。
ゆっくり、はっきり、同じ間隔。
いま扉の向こうで聞いたものと、違いが分からない。

五つ目のあと、少しだけ衣擦れの音がした。
誰かが壁にもたれたみたいな、頼りない擦れ方だった。
それから、小さく空気を吸う気配。

何か言葉が続くのを待った。
去年死んだ先輩の最後の声、という噂が頭にあるせいで、なおさら待ってしまう。

だが聞こえたのは、言葉になりきらない息だけだった。

「……っ」

郁子が、喉の奥でひとつ息を詰まらせた。
朔がすぐ再生を止める。
画面が暗くなると、部屋の静けさがいっそう濃くなった。

直人はしばらく、何も言えなかった。
音声の中の湿った気配と、たった今の乾いた廊下の五回が、頭の中で重なって離れない。

「同じだ」

先に口を開いたのは朔だった。
少し掠れた声だった。

「……ああ」

直人もそれだけ返す。
似ている、ではない。
同じだ。
そう言い切ってしまえることのほうが怖かった。

郁子が椅子の背に片手をついたまま、ゆっくり首を振る。

「だから、やめてって」

怒っているのではなかった。
怯えすぎて、もう強い声が出ないだけだった。

直人は玄関に向かった。
自分でも、なぜ向かったのか分からない。
ただ、スマホの中と扉の向こうを同じままにしておけなかった。

「直人くん」

郁子の声が追う。

「ちょっとだけ見る」

「だめ」

「チェーンつけたまま」

そう言いながら、もう玄関のほうへ足が向いていた。
本当は見たくない。見なくても済むなら、そのまま今夜を終わらせたかった。
けれど、何も見ないまま音だけを信じるほうが、もっと怖い。

朔がすぐ立つ。
椅子が床を擦る。

「一人で行くな」

それだけ言って、直人の隣に来た。
強い口調ではなかった。低くて、短くて、でも引かない声だった。

ノブに手を伸ばすと、自分の指先が思った以上に冷えていた。

直人は鍵を回した。
金属が乾いて鳴る。
その音だけで、また外の何かがノックを返してくるのではないかと身構えたが、何もない。

朔が扉の上のほうに手を添える。
逃げるためではなく、急に何かあったときにすぐ閉められる位置だった。
その袖が、直人の腕にかすかに触れる。
触れただけなのに、ひとりで立っている感じが少し薄くなる。

「……開けるぞ」

言う必要もないのに、言った。
返事は二つあった。

「うん」

「だめよ」

ほとんど同時だった。

直人はノブをゆっくり回した。
扉がきしむ。
すぐにチェーンが張って、金属の短い悲鳴みたいな音を立てる。
そこで止まる。
大人の手が一つ入るかどうかくらいの隙間だった。

廊下の蛍光灯の白さが、その細い隙間から流れ込んできた。

誰もいない。

真正面の白い壁。
左に伸びる廊下。
右の手すりの向こう、暗く沈んだ階段。
さっきまで確かに五回のノックが鳴っていたはずの場所に、人の影がひとつもない。

直人は目だけで左右を確かめた。
足音もない。
息遣いもない。
誰かが慌てて階段を下りたなら聞こえるはずの音も、何ひとつ残っていなかった。

冷たい夜の空気だけが、細い隙間からまっすぐ入ってくる。

朔が扉に添えた手に、少しだけ力を入れた。

「……見えるか」

「誰もいない」

答えながら、自分でその言葉に寒気がした。
いない。
それだけのことが、どうしてこんなに気味が悪いのか分からない。

団地のどこかで、テレビの笑い声が遠くに鳴った。
それがかえって、二〇一号室の前の空白をはっきりさせる。
ここだけ音が消えたみたいだった。

直人はもう一度だけ、廊下の端を見た。
古い蛍光灯が、じっと低く鳴っている。
白い光の下には、立ち去ったあとの影すら残っていない。

五回だけ鳴って、消えた。

そのことだけが、扉の隙間にまだ残っていた。