スマホの画面を伏せても、白い文字は目の裏に残った。郁子は食器を片づけている。洗い物の音はいつもより硬い。さっきから、二〇一号室のことも、十九時五分のことも、互いにもう口にしていない。壁の時計だけが、会話のない食卓の上で規則正しく秒を刻んでいた。
直人はテーブルに肘をつかず、ただ座っていた。立っても落ち着かない気がした。窓の外はもう夕方を越えていて、向かいの棟の部屋に灯りがひとつずつついていく。玄関のほうは、チェーンの金具がかかったままだ。さっき郁子が確かめたきり、外の空気が遠くなったような気がしていた。
テーブルの上には、食べ終えた茶碗と、伏せたスマホが並んでいる。どちらも片づけてしまえばいいのに、どちらにも手が伸びなかった。片方は夕食の続きを、もう片方はその先の時間を止めているみたいだった。
「直人くん、お風呂、先に入る?」
郁子が背を向けたまま聞いた。
「あとでいい」
それだけ答えて、また沈黙が戻る。
そのとき、玄関で音がした。
コン、コン。
短く、乾いた二回のノックだった。
心臓が先に跳ねた。直人は反射的に、次の音を待った。
三回目、四回目、五回目。
来ない。
代わりに、ドアの向こうでビニール袋の擦れる音がして、低い声がした。
「……悪い。俺」
聞き覚えのある声だった。
郁子の手が止まる。皿と皿が触れて、小さく鳴った。
「誰?」
「……クラスメイト」
そう答えながら立ち上がると、膝が少し固くなっていた。
玄関までの数歩がやけに長い。のぞき穴を覗くと、廊下の蛍光灯の白さの中に、制服のままの朔が立っていた。片手にコンビニの袋を提げ、もう片方の手は所在なさそうに首の後ろに回っている。昼休みの教室の真ん中にいたときと違って、妙に静かに見えた。
「……何」
チェーンをかけたまま少しだけ開けると、朔は一瞬、開いた隙間の金具を見た。
すぐに視線を戻して、「急に悪い」と言った。
「それは分かってる。何しに来た」
朔は袋を少し持ち上げた。
「いや、これ、なんか……」
「何それ」
「自分でも雑だと思ってる」
「雑とかそういう話じゃなくて」
そこで言葉が切れた。自分の家の玄関を、クラスメイト相手にチェーン越しで開けていること自体が、もう普通じゃなかった。
「なんでここ知ってるんだよ」
朔は黙った。廊下の向こうで誰かの足音がして、すぐ遠ざかる。外の空気が冷たく入り込んできて、玄関のたたきの匂いが少し変わる。
「……帰り、お前の後、つけた」
直人は顔を上げた。
「は?」
「悪い。一回、どの部屋に入るのかだけ見て帰った」
「最悪だな」
「うん」
即答だった。言い返されると思っていたのに、それがない分、余計に苛立つ。
「で?」
「で、帰ったあと、時間見て」
朔は言葉を切った。喉を鳴らすみたいに一度息を飲んでから、まっすぐ言った。
「やっぱ来た」
沈黙が落ちた。
直人の後ろから、郁子が遠慮がちに近づく気配がした。振り返ると、リビングの手前で立ち止まっている。エプロンの端を両手で握りしめていた。
「こんばんは」
朔が頭を下げる。さっきまでの荒っぽさが少し引いて、年上に向ける声になっていた。
「同じクラスの、田中朔です。急にすみません」
郁子は目を合わせるまでに少し時間がかかった。
「……こんばんは」
それだけ言って、また玄関のほうを見る。朔ではなく、扉そのものを見ているみたいだった。
玄関で話し続けるのがいやで、直人はチェーンを外した。
「入って」
朔は軽口も叩かず、靴を揃えて上がった。コンビニ袋を持ったまま、玄関に近いリビングの椅子の脇で立ち止まる。勝手に奥へは来ない。
その距離の取り方だけは、ちゃんとしていた。
「麦茶、出すわね」
郁子が言ったのは、礼儀というより、何かしていないと落ち着かないからだと分かった。
「いえ、そんな」
朔が言いかけるのを、「いいから」と直人が遮った。
自分でも驚くくらい、声が固かった。
食卓にコップが三つ並ぶ。冷たい麦茶だった。氷がひとつだけ鳴って、それきり誰もすぐには口をつけなかった。
朔は玄関にいちばん近い椅子に座り、コンビニ袋を足元へ置いた。袋の中にはペットボトルが二本、見えた。あまりに普通の買い物で、その普通さが今は変だった。何かを持っていないと落ち着かなかったのだろうと、それだけは分かる。
直人は向かいに座らず、しばらく立ったままだった。座ってしまうと、この状況を認める気がした。
「昼のこと」
朔が先に言った。
直人は答えない。
「俺、あのアカウント、クラスのグループに流した」
郁子の指先が、テーブルの端で止まる。
朔はそこには触れず、直人だけを見た。
「最初に見つけたのは別のやつかもしんねえけど、うちのクラスに回したのは俺」
「そう」
「面白半分だった」
胸の奥で、昼休みの笑い声がもう一度鳴った気がした。スマホを囲んで肩を寄せていた輪の熱気が、そのままこの部屋まで土足で入り込んでくるみたいだった。
「面白かったか」
自分の声が思ったより低く出た。
朔は瞬きをした。
「……」
「うちの部屋が都市伝説になっていることが」
言った瞬間、郁子が小さく息を呑んだ。けれど直人は止まれなかった。
「去年死んだ先輩とか、最後の声とか、怖いだの釣りだの言って、面白かったかよ」
語尾が少し震えた。
「コメントに載っているからって、勝手に他人の住所を見つけて、みんなで覗き込んで」
怒鳴ったわけでもないのに、喉が痛い。
「ここ、誰かの家なんだよ。生活してる部屋なんだよ」
言い足してから、自分でもそこで初めて本当に腹が立っていたのだと分かった。
朔は目を逸らさなかった。
「悪かった」
「悪かったで済む話じゃないだろ」
「うん」
「さっきからそればっかだな」
「それ以外、今言えねえ」
それが言い訳じゃないと分かってしまう言い方だった。だから余計に腹が立つ。
直人は椅子の背に手をかけた。
「おばあちゃん、さっきからずっと怯えてる」
郁子が「直人くん」と小さく呼んだ。止める声だった。
でも止まれなかった。
「平気なわけないだろ。ここ、俺んちなんだよ。勝手に幽霊が出る家にするな」
最後の一言は、自分に向けて言ったみたいだった。教室でも、さっきの食卓でも、反射で「平気」と言ってきた口が、今さら熱を持っている。
朔はしばらく何も言わなかった。それから、両手を膝の上に置き直した。
「……悪かった」
もう一度だけ言う。
それはさっきより低く、軽さのない声だった。
「俺、ああいうの、変な噂っていうか、よくあるやつだと思ってた。学校で回るやつ。笑って終わるやつ」
「終わってない」
「うん。終わってない」
朔はうなずいた。
「お前の顔見て、なんか知っているのか?って思って……正直やばいこと言ったかもって思った。で、後ろつけて、ここ見て、一回帰って」
そこで初めて、朔の喉が少し詰まるのが分かった。
「帰ったのに、帰れなくなった」
直人は眉を寄せた。
「意味分かんない」
「俺も分かんねえよ」
朔は乾いた笑いも混ぜずに言った。
「でも今日は帰らない」
部屋が静かになった。
外で誰かが階段を上る音がして、三段目あたりで止まったように聞こえ、また離れていく。誰もその足音に触れない。
「……なんで」
「十九時五分までいる」
「聞いてない」
「だから、聞いて。十九時五分までいる」
朔は今度は言い直すみたいに、ゆっくり言った。
「俺がクラスに流した。ああいうの、面白がってほんとに来るやついるかもしんねえだろ。ここがこうなってんのに、俺だけ帰るの無理」
「来るわけ」
言いかけて、直人は口を閉じた。来るわけがない、とは言い切れなかった。昼の自分なら言えたかもしれない。けれど、郁子の顔を見たあとの今は、何がどこまでただの悪趣味で、どこからがそうじゃないのか分からない。
朔は続きを待たずに言った。
「来ないなら、それでいい」
「なら帰れよ」
「それ確認してから帰る」
「なんでそこまでするんだよ」
その問いに、朔はすぐには答えなかった。
「……俺のせいだから」
短い声だった。
格好つけてもいなければ、優しくも聞こえない。ただ事実だけを伝えるみたいな言い方だった。
郁子がそこで初めて、口を開いた。
「そんな、気にしなくていいのよ」
言葉は柔らかいのに、視線はやはり扉のほうへ流れていく。
朔は麦茶のコップを取りながら、小さく首を振った。
「いや、気にします」
それだけ言って、手をつけないままコップの水滴を指でなぞった。
直人はようやく椅子に座った。膝の力が、怒ったぶんだけ抜けていた。
向かいに座る朔は、教室で見ていたのと同じ制服なのに、なぜか別の人間みたいに見える。昼は輪の真ん中で、ふざけた調子でスマホを掲げていたやつが、今は祖母の家の食卓で、神妙な顔で、玄関にいちばん近い席を選んで座っている。その姿の違いがまだ、うまく飲み込めない。
椅子の背もたれの向こうには扉がある。朔は無意識なのか意識的なのか、その位置を一度も譲らない。帰るための場所ではなく、そこに残るための場所みたいに見えた。
「家、連絡しなくていいの?」と、郁子が聞いた。
「大丈夫です」
朔は即答した。いつも直人が口にしている言葉と同じなのに、聞こえ方が違った。安心させるための「大丈夫」ではなく、自分で決めたことを変えないための声だった。
郁子はそれ以上は言わなかった。ただ、「そう」と小さく言って、台所へ戻る。
しばらく、誰も喋らなかった。
冷蔵庫の低い唸りと、壁時計の秒針だけが音を持つ。向かいの棟のどこかで、窓が閉まる音がした。玄関の向こうでは、廊下の蛍光灯がじ、と鳴ってつく。古い団地に毎晩あるはずの音が、今日はひとつずつ名前を持って耳に届く。
郁子は台所でふきんを折り直し、また折り直した。同じ皿を二度拭いているのに気づいていないみたいだった。直人はそれを見ないふりをした。
朔のスマホが一度だけ震えた。
画面を見た朔は、すぐ裏返した。
直人はその動きを見ていた。
「まだ回ってんのか」
朔は短く息を吐いた。
「……止めろって送った」
「止まると思う?」
「思ってねえ」
正直すぎる答えだった。
「だから来た」
また沈黙が落ちる。
無理に言葉を継ぎ足されない沈黙は、気まずいはずなのに、どこかましだった。気を遣った慰めや、安い励ましを今聞かされるよりずっといい。
教室で目立つやつほど、こういうときうるさいものだと思っていた。何か言って場を埋めるか、気まずさに耐えられず帰るかのどちらかだと。朔はそのどちらもしない。ただ、この家に残っている。
直人はテーブルの上のスマホに目を落とした。黒い画面の下に、あの投稿がまだ開いたまま残っている。十九時五分。二〇一号室。五回。文字にするとそれだけなのに、その一文だけで部屋の空気が変わる。
「……お前、そういうの信じるの?」
ぽつりと聞くと、朔は少しだけ眉を動かした。
「幽霊とか?」
「この噂のこと」
「分かんねえ」
言ってから、朔は扉を見た。
「信じてるっていうか、信じて面白がるやつはいる」
それは怪異の話じゃなく、人の話だった。
直人は返す言葉が見つからなかった。
台所で食器を拭いていた郁子の手が、また止まる。時間が近づくにつれ、その止まる回数が増えているのが分かった。
壁の時計は、十八時四十七分を指していた。
まだ十八分ある、と思った直後に、もう十八分しかない、という感覚が重なった。
朔は麦茶を一口だけ飲んだ。
グラスがコト、と鳴る。
「なあ」
「なに」
「その……もし、誰か来ても」
朔はそこまで言ってから、言葉を選び直すみたいに口を閉じた。
「勝手に開けんなよ」
直人は少しだけ目を見開いた。
昼の朔なら、こういうときも冗談を混ぜそうだと思っていた。けれど今の声は驚くほど真面目だった。
「お前の考えに従うよ」
「ならいい」
そう言ったくせに、朔自身が玄関に近い席から一度も動いていない。逃げ道を確かめているというより、扉とのあいだに自分を置いているみたいだった。
それに気づいてしまって、直人は視線を逸らした。
「朔くん」
郁子が急に呼んだ。
「はい」
「……ありがとう」
ほんの少し、ためらいの混じった声だった。ありがとうと言う相手がこの場で正しいのか、自分でも決めきれていないような。
朔はまっすぐ返す。
「まだ何もしてないです」
「それでも。心配で来てくれたんでしょ?」
郁子はそこで言葉を切った。続きは出てこなかった。言いかけたことごと飲み込んでしまう癖が、直人だけじゃなくこの部屋全体にあるみたいだった。
遠くで子どもの声がして、それもすぐ聞こえなくなった。団地全体が、昼の名残を少しずつ引っ込めていく。カーテンの隙間から見える空は、もう青より灰色に近い。
壁の時計が、十八時五十三分を過ぎる。
誰もその数字を口にしないのに、全員が見ていた。
朔の指先が、膝の上で一度だけ強く握られる。怖がっていないわけじゃないのだと、その小さな動きで分かった。
それでも立たない。
「帰れって言っても、帰んないんだな」
直人が言うと、「うん」と朔は答えた。
「悪かった」
もう三度目だった。
「でも、このまま帰れない」
最初からそこだけは変わらなかった。
時計の秒針がひとつ進むたび、部屋のどこかが少しずつ静かになる。
台所の水気の音も、廊下の人の気配も、向かいの棟の生活音も、全部遠くへ薄まっていって、最後に残るのは壁の丸い時計と、扉の向こうにあるはずの暗い廊下だけだった。
短針が七に近づく。
二〇一号室の空気は、目に見えない膜を張るみたいに、じわじわと硬くなっていった。
直人はテーブルに肘をつかず、ただ座っていた。立っても落ち着かない気がした。窓の外はもう夕方を越えていて、向かいの棟の部屋に灯りがひとつずつついていく。玄関のほうは、チェーンの金具がかかったままだ。さっき郁子が確かめたきり、外の空気が遠くなったような気がしていた。
テーブルの上には、食べ終えた茶碗と、伏せたスマホが並んでいる。どちらも片づけてしまえばいいのに、どちらにも手が伸びなかった。片方は夕食の続きを、もう片方はその先の時間を止めているみたいだった。
「直人くん、お風呂、先に入る?」
郁子が背を向けたまま聞いた。
「あとでいい」
それだけ答えて、また沈黙が戻る。
そのとき、玄関で音がした。
コン、コン。
短く、乾いた二回のノックだった。
心臓が先に跳ねた。直人は反射的に、次の音を待った。
三回目、四回目、五回目。
来ない。
代わりに、ドアの向こうでビニール袋の擦れる音がして、低い声がした。
「……悪い。俺」
聞き覚えのある声だった。
郁子の手が止まる。皿と皿が触れて、小さく鳴った。
「誰?」
「……クラスメイト」
そう答えながら立ち上がると、膝が少し固くなっていた。
玄関までの数歩がやけに長い。のぞき穴を覗くと、廊下の蛍光灯の白さの中に、制服のままの朔が立っていた。片手にコンビニの袋を提げ、もう片方の手は所在なさそうに首の後ろに回っている。昼休みの教室の真ん中にいたときと違って、妙に静かに見えた。
「……何」
チェーンをかけたまま少しだけ開けると、朔は一瞬、開いた隙間の金具を見た。
すぐに視線を戻して、「急に悪い」と言った。
「それは分かってる。何しに来た」
朔は袋を少し持ち上げた。
「いや、これ、なんか……」
「何それ」
「自分でも雑だと思ってる」
「雑とかそういう話じゃなくて」
そこで言葉が切れた。自分の家の玄関を、クラスメイト相手にチェーン越しで開けていること自体が、もう普通じゃなかった。
「なんでここ知ってるんだよ」
朔は黙った。廊下の向こうで誰かの足音がして、すぐ遠ざかる。外の空気が冷たく入り込んできて、玄関のたたきの匂いが少し変わる。
「……帰り、お前の後、つけた」
直人は顔を上げた。
「は?」
「悪い。一回、どの部屋に入るのかだけ見て帰った」
「最悪だな」
「うん」
即答だった。言い返されると思っていたのに、それがない分、余計に苛立つ。
「で?」
「で、帰ったあと、時間見て」
朔は言葉を切った。喉を鳴らすみたいに一度息を飲んでから、まっすぐ言った。
「やっぱ来た」
沈黙が落ちた。
直人の後ろから、郁子が遠慮がちに近づく気配がした。振り返ると、リビングの手前で立ち止まっている。エプロンの端を両手で握りしめていた。
「こんばんは」
朔が頭を下げる。さっきまでの荒っぽさが少し引いて、年上に向ける声になっていた。
「同じクラスの、田中朔です。急にすみません」
郁子は目を合わせるまでに少し時間がかかった。
「……こんばんは」
それだけ言って、また玄関のほうを見る。朔ではなく、扉そのものを見ているみたいだった。
玄関で話し続けるのがいやで、直人はチェーンを外した。
「入って」
朔は軽口も叩かず、靴を揃えて上がった。コンビニ袋を持ったまま、玄関に近いリビングの椅子の脇で立ち止まる。勝手に奥へは来ない。
その距離の取り方だけは、ちゃんとしていた。
「麦茶、出すわね」
郁子が言ったのは、礼儀というより、何かしていないと落ち着かないからだと分かった。
「いえ、そんな」
朔が言いかけるのを、「いいから」と直人が遮った。
自分でも驚くくらい、声が固かった。
食卓にコップが三つ並ぶ。冷たい麦茶だった。氷がひとつだけ鳴って、それきり誰もすぐには口をつけなかった。
朔は玄関にいちばん近い椅子に座り、コンビニ袋を足元へ置いた。袋の中にはペットボトルが二本、見えた。あまりに普通の買い物で、その普通さが今は変だった。何かを持っていないと落ち着かなかったのだろうと、それだけは分かる。
直人は向かいに座らず、しばらく立ったままだった。座ってしまうと、この状況を認める気がした。
「昼のこと」
朔が先に言った。
直人は答えない。
「俺、あのアカウント、クラスのグループに流した」
郁子の指先が、テーブルの端で止まる。
朔はそこには触れず、直人だけを見た。
「最初に見つけたのは別のやつかもしんねえけど、うちのクラスに回したのは俺」
「そう」
「面白半分だった」
胸の奥で、昼休みの笑い声がもう一度鳴った気がした。スマホを囲んで肩を寄せていた輪の熱気が、そのままこの部屋まで土足で入り込んでくるみたいだった。
「面白かったか」
自分の声が思ったより低く出た。
朔は瞬きをした。
「……」
「うちの部屋が都市伝説になっていることが」
言った瞬間、郁子が小さく息を呑んだ。けれど直人は止まれなかった。
「去年死んだ先輩とか、最後の声とか、怖いだの釣りだの言って、面白かったかよ」
語尾が少し震えた。
「コメントに載っているからって、勝手に他人の住所を見つけて、みんなで覗き込んで」
怒鳴ったわけでもないのに、喉が痛い。
「ここ、誰かの家なんだよ。生活してる部屋なんだよ」
言い足してから、自分でもそこで初めて本当に腹が立っていたのだと分かった。
朔は目を逸らさなかった。
「悪かった」
「悪かったで済む話じゃないだろ」
「うん」
「さっきからそればっかだな」
「それ以外、今言えねえ」
それが言い訳じゃないと分かってしまう言い方だった。だから余計に腹が立つ。
直人は椅子の背に手をかけた。
「おばあちゃん、さっきからずっと怯えてる」
郁子が「直人くん」と小さく呼んだ。止める声だった。
でも止まれなかった。
「平気なわけないだろ。ここ、俺んちなんだよ。勝手に幽霊が出る家にするな」
最後の一言は、自分に向けて言ったみたいだった。教室でも、さっきの食卓でも、反射で「平気」と言ってきた口が、今さら熱を持っている。
朔はしばらく何も言わなかった。それから、両手を膝の上に置き直した。
「……悪かった」
もう一度だけ言う。
それはさっきより低く、軽さのない声だった。
「俺、ああいうの、変な噂っていうか、よくあるやつだと思ってた。学校で回るやつ。笑って終わるやつ」
「終わってない」
「うん。終わってない」
朔はうなずいた。
「お前の顔見て、なんか知っているのか?って思って……正直やばいこと言ったかもって思った。で、後ろつけて、ここ見て、一回帰って」
そこで初めて、朔の喉が少し詰まるのが分かった。
「帰ったのに、帰れなくなった」
直人は眉を寄せた。
「意味分かんない」
「俺も分かんねえよ」
朔は乾いた笑いも混ぜずに言った。
「でも今日は帰らない」
部屋が静かになった。
外で誰かが階段を上る音がして、三段目あたりで止まったように聞こえ、また離れていく。誰もその足音に触れない。
「……なんで」
「十九時五分までいる」
「聞いてない」
「だから、聞いて。十九時五分までいる」
朔は今度は言い直すみたいに、ゆっくり言った。
「俺がクラスに流した。ああいうの、面白がってほんとに来るやついるかもしんねえだろ。ここがこうなってんのに、俺だけ帰るの無理」
「来るわけ」
言いかけて、直人は口を閉じた。来るわけがない、とは言い切れなかった。昼の自分なら言えたかもしれない。けれど、郁子の顔を見たあとの今は、何がどこまでただの悪趣味で、どこからがそうじゃないのか分からない。
朔は続きを待たずに言った。
「来ないなら、それでいい」
「なら帰れよ」
「それ確認してから帰る」
「なんでそこまでするんだよ」
その問いに、朔はすぐには答えなかった。
「……俺のせいだから」
短い声だった。
格好つけてもいなければ、優しくも聞こえない。ただ事実だけを伝えるみたいな言い方だった。
郁子がそこで初めて、口を開いた。
「そんな、気にしなくていいのよ」
言葉は柔らかいのに、視線はやはり扉のほうへ流れていく。
朔は麦茶のコップを取りながら、小さく首を振った。
「いや、気にします」
それだけ言って、手をつけないままコップの水滴を指でなぞった。
直人はようやく椅子に座った。膝の力が、怒ったぶんだけ抜けていた。
向かいに座る朔は、教室で見ていたのと同じ制服なのに、なぜか別の人間みたいに見える。昼は輪の真ん中で、ふざけた調子でスマホを掲げていたやつが、今は祖母の家の食卓で、神妙な顔で、玄関にいちばん近い席を選んで座っている。その姿の違いがまだ、うまく飲み込めない。
椅子の背もたれの向こうには扉がある。朔は無意識なのか意識的なのか、その位置を一度も譲らない。帰るための場所ではなく、そこに残るための場所みたいに見えた。
「家、連絡しなくていいの?」と、郁子が聞いた。
「大丈夫です」
朔は即答した。いつも直人が口にしている言葉と同じなのに、聞こえ方が違った。安心させるための「大丈夫」ではなく、自分で決めたことを変えないための声だった。
郁子はそれ以上は言わなかった。ただ、「そう」と小さく言って、台所へ戻る。
しばらく、誰も喋らなかった。
冷蔵庫の低い唸りと、壁時計の秒針だけが音を持つ。向かいの棟のどこかで、窓が閉まる音がした。玄関の向こうでは、廊下の蛍光灯がじ、と鳴ってつく。古い団地に毎晩あるはずの音が、今日はひとつずつ名前を持って耳に届く。
郁子は台所でふきんを折り直し、また折り直した。同じ皿を二度拭いているのに気づいていないみたいだった。直人はそれを見ないふりをした。
朔のスマホが一度だけ震えた。
画面を見た朔は、すぐ裏返した。
直人はその動きを見ていた。
「まだ回ってんのか」
朔は短く息を吐いた。
「……止めろって送った」
「止まると思う?」
「思ってねえ」
正直すぎる答えだった。
「だから来た」
また沈黙が落ちる。
無理に言葉を継ぎ足されない沈黙は、気まずいはずなのに、どこかましだった。気を遣った慰めや、安い励ましを今聞かされるよりずっといい。
教室で目立つやつほど、こういうときうるさいものだと思っていた。何か言って場を埋めるか、気まずさに耐えられず帰るかのどちらかだと。朔はそのどちらもしない。ただ、この家に残っている。
直人はテーブルの上のスマホに目を落とした。黒い画面の下に、あの投稿がまだ開いたまま残っている。十九時五分。二〇一号室。五回。文字にするとそれだけなのに、その一文だけで部屋の空気が変わる。
「……お前、そういうの信じるの?」
ぽつりと聞くと、朔は少しだけ眉を動かした。
「幽霊とか?」
「この噂のこと」
「分かんねえ」
言ってから、朔は扉を見た。
「信じてるっていうか、信じて面白がるやつはいる」
それは怪異の話じゃなく、人の話だった。
直人は返す言葉が見つからなかった。
台所で食器を拭いていた郁子の手が、また止まる。時間が近づくにつれ、その止まる回数が増えているのが分かった。
壁の時計は、十八時四十七分を指していた。
まだ十八分ある、と思った直後に、もう十八分しかない、という感覚が重なった。
朔は麦茶を一口だけ飲んだ。
グラスがコト、と鳴る。
「なあ」
「なに」
「その……もし、誰か来ても」
朔はそこまで言ってから、言葉を選び直すみたいに口を閉じた。
「勝手に開けんなよ」
直人は少しだけ目を見開いた。
昼の朔なら、こういうときも冗談を混ぜそうだと思っていた。けれど今の声は驚くほど真面目だった。
「お前の考えに従うよ」
「ならいい」
そう言ったくせに、朔自身が玄関に近い席から一度も動いていない。逃げ道を確かめているというより、扉とのあいだに自分を置いているみたいだった。
それに気づいてしまって、直人は視線を逸らした。
「朔くん」
郁子が急に呼んだ。
「はい」
「……ありがとう」
ほんの少し、ためらいの混じった声だった。ありがとうと言う相手がこの場で正しいのか、自分でも決めきれていないような。
朔はまっすぐ返す。
「まだ何もしてないです」
「それでも。心配で来てくれたんでしょ?」
郁子はそこで言葉を切った。続きは出てこなかった。言いかけたことごと飲み込んでしまう癖が、直人だけじゃなくこの部屋全体にあるみたいだった。
遠くで子どもの声がして、それもすぐ聞こえなくなった。団地全体が、昼の名残を少しずつ引っ込めていく。カーテンの隙間から見える空は、もう青より灰色に近い。
壁の時計が、十八時五十三分を過ぎる。
誰もその数字を口にしないのに、全員が見ていた。
朔の指先が、膝の上で一度だけ強く握られる。怖がっていないわけじゃないのだと、その小さな動きで分かった。
それでも立たない。
「帰れって言っても、帰んないんだな」
直人が言うと、「うん」と朔は答えた。
「悪かった」
もう三度目だった。
「でも、このまま帰れない」
最初からそこだけは変わらなかった。
時計の秒針がひとつ進むたび、部屋のどこかが少しずつ静かになる。
台所の水気の音も、廊下の人の気配も、向かいの棟の生活音も、全部遠くへ薄まっていって、最後に残るのは壁の丸い時計と、扉の向こうにあるはずの暗い廊下だけだった。
短針が七に近づく。
二〇一号室の空気は、目に見えない膜を張るみたいに、じわじわと硬くなっていった。



