それからしばらくして、教室であのアカウントの話を聞くことはなくなった。
あんなに騒いでいたくせに、消えるときはあっけなかった。消えたらしい、とか、通報されたんじゃないか、とか、そういう半端な言い方すら長く続かなかった。昼休みの輪は別の話題を囲むようになって、今は期末テストの範囲と、購買の焼きそばパンが何時に売り切れるかと、体育のシャトルランの話ばかりしている。
黒い画面に白い文字のことも、去年死んだ先輩という言い回しも、もう教室には残っていない。
それは助かった。
助かったのに、少しだけ変な感じもした。
俺たちの夜をあれほど長くしたものが、学校ではほんの数日の流行みたいに押し流されて終わったからだ。
昼休み、直人が席でパンの袋を開ける前に、机の端へ紙パックの牛乳が置かれた。
「余った」
見上げると、朔が立っていた。
「嘘つけ」
「ばれたか」
そう言いながらも引っ込めない。
直人が取る前提で置いている置き方だった。
「お前のだろ」
「半分もらうから、半分はお前の」
「意味分かんない」
それでも直人は牛乳を手に取った。
朔はそれを見てから、自分のパンの袋を鳴らす。
「廊下、行くか」
前みたいに「少しいいか」とは言わない。
もうそういう聞き方をしなくなっていた。
教室の後ろの窓際へ並ぶ。
パンの袋の音と、遠くのざわめきが混じる。誰かが笑って、誰かが机を引く。前と同じ昼休みのはずなのに、直人はもう、自分だけがその外にいる感じをあまり思い出さなかった。
朔が直人の席の近くに来ても、今は誰も珍しがらない。
最初のうちは何人かがからかうみたいに見てきたが、それもすぐなくなった。学校の中のことは、だいたいそうやってすぐ普通になる。
「英語、出した?」
「まだ」
「俺も」
「お前、朝から寝てただろ」
「一時間目は起きてた」
「一時間目だけだろ」
朔が小さく息を漏らす。
笑ったのか、呆れたのか、よく分からない音だった。
それでも、そのどうでもいいやりとりのほうが、直人には妙にありがたかった。
怪異でも、真相でも、責任でもない話を、朔とするのが初めてじゃなくなっていた。
郁子が退院したのは、一ヶ月前だった。
検査入院は長くならなかった。大きな異常はないこと、しばらく無理をしないこと、それだけ聞いて、昼前に二〇一号室へ戻ってきた。
空いていた椅子にまた人が座ると、家の音は少し変わった。
夕方の台所で包丁が鳴る。使われないままだった茶碗が流しに置かれる。背もたれに掛かったままだったエプロンが、また郁子の腰へ戻る。
それだけで、二〇一号室の形が少し元に戻った。
「重いもの持たないでよ」
帰ってきたその日のうちに、直人は二回そう言った。
「分かってるわよ」
「絶対分かってない」
「うるさいわねえ」
言い返す声が前より少し細い。
けれど、それでもちゃんと家の中にある声だった。
郁子の退院に合わせて、朔は自分の家へ戻ることになった。
洗面所で、黒い歯ブラシが一本抜かれる。
隅に置いていたバッグへ、充電器とTシャツがしまわれる。
「今までほんとにありがとうね」
郁子が玄関で言う。
「別に」
朔はいつも通り短く返した。
それから少しだけ間を置いて、「また来ます」と付け足す。
「うん。今度は普通に来てね」
郁子のその言い方に、朔は一瞬だけ目を細めた。
笑ったわけではない。けれど、嫌でもなさそうだった。
「分かってます」
朔が靴を履く。
直人は玄関まで見送りに出た。
「じゃあな」
「うん」
「明日、数学見せろよ」
「そこかよ」
「大事だろ」
いつも通りの調子だった。
だから直人も、「分かった」とだけ返した。
扉が閉まる。
足音が廊下を遠ざかっていく。
そのあとで洗面所を見ると、歯ブラシが一本減っていた。
それだけなのに、そこだけ妙に広かった。
その夜、夕飯のあとに郁子が茶碗を洗って、直人がそれを拭いているうちに、壁の時計は十九時五分を過ぎた。
気づいたのは、しばらくしてからだった。
直人は濡れた茶碗を受け取る手を止めて、丸い時計を見た。
もう五分以上過ぎている。
玄関は静かなままだった。
「どうしたの」
郁子に聞かれて、直人は首を振る。
「別に」
それからまた、茶碗を拭いて棚へ戻した。
朔が自分の家へ戻ってからも、学校では前より近かった。
朝、教室へ入ると、後ろから「英語の小テスト、範囲どこまでだっけ」と声が飛んでくる。
昼になると、「購買、行くか」と来る。
帰りは教室の後ろの扉で、鞄を肩に掛けたまま「帰るぞ」と言う。
そういうことが続くうちに、直人もいちいち驚かなくなった。
この町の朝の匂いも、前より少しだけ借り物じゃなくなっていた。
校門の位置や、信号の待ち時間や、購買の混み方だけじゃなく、教室のどこにいれば朔の声が飛んでくるかまで、もう体が覚えている。
金曜の放課後、チャイムが鳴って、教室の空気が一気に緩んだ。
誰かが部活だと叫び、誰かがテスト勉強しろよと笑う。
朔はいつも通り、鞄を肩に掛けて直人の机の横へ来た。
「じゃ、今日は帰る」
その言い方ももういつものはずだったのに、直人はそこで先に口を開いていた。
「今日、泊まる?」
朔が止まる。
「……は?」
「明日休みだし」
それだけ言ってから、直人は自分で少しだけ眉を寄せた。
理由として弱すぎると思った。
朔はまじまじと直人を見た。
ふざけている顔ではなかった。
「なんかあんの」
「別に」
「ほんとに?」
「ほんとに」
直人は机の上の消しゴムを指で転がした。
朔を見ないまま、続ける。
「怪異とか、そういうのじゃなくて」
「知ってる」
短い返事だった。
「課題、まだ終わってないし」
「お前もだろ」
「うん」
「それ、泊まる理由になるのか」
「なるだろ」
ようやく顔を上げると、朔は少しだけ口の端を歪めていた。
笑いそうで、ちゃんと笑ってはいない顔だった。
「……行く」
それだけだった。
それで十分だった。
家に帰ると、郁子が台所で味噌汁を温めていた。
「今日は朔くん来るの?」
靴を脱ぐ音で察したみたいに、振り返らないまま聞いてくる。
「うん。泊まる」
「そう」
郁子はそれだけ言って、炊飯器の蓋を開けた。
「お米、これで足りるかしら」
その言い方があまりに普通で、直人は少しだけ力を抜いた。
「……うん」
自分の部屋へ鞄を置いてから、直人は押し入れを開けた。
客用の布団を一組引っ張り出す。
居間へ運びかけて、やめた。
そのまま向きを変えて、自分の部屋へ持っていく。
「居間じゃないの?」
台所から郁子の声がする。
「俺の部屋で一緒に寝ることにする」
「そう」
郁子はそれ以上何も言わなかった。
七時少し前、玄関で音がした。
コン、コン。
短く、いつもの二回だった。
今ではもう、その二回を聞き間違えることはない。
直人はのぞき穴も見ずに鍵を開けた。
扉の向こうに、朔が立っている。
肩には小さなスポーツバッグ。片手にはコンビニの袋。髪は少しだけ風で乱れていた。
「早」
直人が言うと、朔は靴を脱ぎながら答える。
「近いから」
「知ってる」
「それと」
朔がコンビニ袋を少し持ち上げた。
「アイス」
「なんで」
「普通の泊まりって、なんか買ってくるもんだろ」
「その基準どこからだよ」
「知らん」
郁子が台所から顔を出した。
「いらっしゃい、朔くん」
「どうも」
言い方だけはぶっきらぼうなのに、返事はちゃんとしていた。
「先に食べちゃいなさい。味噌汁、冷めるから」
三人で食卓につく。
空いていた椅子にはもう郁子がいて、その向かいに朔が座る。
直人は二人のあいだで茶碗を持った。
夕飯はごく普通だった。
味噌汁と、ご飯と、焼いた魚と、冷ややっこ。
郁子が「病院のご飯より美味しいわ」と言って、朔が「それはそうです」と返す。
直人は箸を動かしながら、そのやりとりを聞いていた。
怖い話は誰もしなかった。
真壁の名前も、蓮の名前も出なかった。
食べ終わると、朔が当たり前みたいに自分の茶碗を流しへ持っていく。
直人も立つ。
郁子が「今日はいいわよ」と言ったが、二人とも聞かないふりをした。
蛇口をひねる音。
皿の触れ合う音。
拭いた器を棚へ戻す音。
そういう音のほうが、今はよほど家に馴染んでいた。
風呂の順番を決めて、郁子が先に寝室へ引っ込むころには、部屋の中はもうすっかり夜だった。
「夜更かししすぎないのよ」
廊下の向こうから声だけがする。
「はーい」
直人が返すと、隣で朔も小さく「はーい」と重ねた。
郁子が向こうで少しだけ笑った気配がした。
二人で布団へ入る。
前みたいに、十九時五分を気にしない。
机の上に二人のスマホを並べる。
朔が自分のイヤホンを一本だけ抜いて、直人のほうへ投げた。
「何」
「音、小さくするから」
「だから何」
「クラスのグループに来てた動画」
「見せんな」
そう言いながら、直人はイヤホンを受け取っていた。
片方ずつ耳に入れて、同じスマホの画面を見る。
映っていたのは、誰かが昼休みに撮った、どうでもいい失敗動画だった。
声を殺して笑うと、イヤホン越しに朔の息も少し揺れる。
「くだらな」
「ほんとにな」
それで十分だった。
動画が終わる。
朔がスマホを伏せる。
スタンドの灯りだけが、布団の端を薄く照らしていた。
「直人」
朔が言う。
「何」
「こういうの、前からやってるみたいだな」
直人は天井を見たまま答える。
「前はやってない」
「そうだけど、なんか」
言葉を探すみたいに、朔が少し黙る。
「変じゃない」
直人はそれに、すぐ返事ができなかった。
でも、胸の中ではもう答えは出ていた。
「うん」
ようやくそう言うと、隣の布団が少しだけ鳴った。
「また泊まり来る」
「ああ」
暗い部屋で、朔が小さく笑う。
直人も少しだけ口元をゆるめた。
「明日、何時に起きる」
「九時」
「遅」
「お前もだろ」
「まあ」
それきり、会話はゆっくり薄くなっていった。
隣の布団が一度だけ鳴る。
直人はその音を聞きながら、目を閉じる。
二人はもう、何も待たなくてよくなっていた。
あんなに騒いでいたくせに、消えるときはあっけなかった。消えたらしい、とか、通報されたんじゃないか、とか、そういう半端な言い方すら長く続かなかった。昼休みの輪は別の話題を囲むようになって、今は期末テストの範囲と、購買の焼きそばパンが何時に売り切れるかと、体育のシャトルランの話ばかりしている。
黒い画面に白い文字のことも、去年死んだ先輩という言い回しも、もう教室には残っていない。
それは助かった。
助かったのに、少しだけ変な感じもした。
俺たちの夜をあれほど長くしたものが、学校ではほんの数日の流行みたいに押し流されて終わったからだ。
昼休み、直人が席でパンの袋を開ける前に、机の端へ紙パックの牛乳が置かれた。
「余った」
見上げると、朔が立っていた。
「嘘つけ」
「ばれたか」
そう言いながらも引っ込めない。
直人が取る前提で置いている置き方だった。
「お前のだろ」
「半分もらうから、半分はお前の」
「意味分かんない」
それでも直人は牛乳を手に取った。
朔はそれを見てから、自分のパンの袋を鳴らす。
「廊下、行くか」
前みたいに「少しいいか」とは言わない。
もうそういう聞き方をしなくなっていた。
教室の後ろの窓際へ並ぶ。
パンの袋の音と、遠くのざわめきが混じる。誰かが笑って、誰かが机を引く。前と同じ昼休みのはずなのに、直人はもう、自分だけがその外にいる感じをあまり思い出さなかった。
朔が直人の席の近くに来ても、今は誰も珍しがらない。
最初のうちは何人かがからかうみたいに見てきたが、それもすぐなくなった。学校の中のことは、だいたいそうやってすぐ普通になる。
「英語、出した?」
「まだ」
「俺も」
「お前、朝から寝てただろ」
「一時間目は起きてた」
「一時間目だけだろ」
朔が小さく息を漏らす。
笑ったのか、呆れたのか、よく分からない音だった。
それでも、そのどうでもいいやりとりのほうが、直人には妙にありがたかった。
怪異でも、真相でも、責任でもない話を、朔とするのが初めてじゃなくなっていた。
郁子が退院したのは、一ヶ月前だった。
検査入院は長くならなかった。大きな異常はないこと、しばらく無理をしないこと、それだけ聞いて、昼前に二〇一号室へ戻ってきた。
空いていた椅子にまた人が座ると、家の音は少し変わった。
夕方の台所で包丁が鳴る。使われないままだった茶碗が流しに置かれる。背もたれに掛かったままだったエプロンが、また郁子の腰へ戻る。
それだけで、二〇一号室の形が少し元に戻った。
「重いもの持たないでよ」
帰ってきたその日のうちに、直人は二回そう言った。
「分かってるわよ」
「絶対分かってない」
「うるさいわねえ」
言い返す声が前より少し細い。
けれど、それでもちゃんと家の中にある声だった。
郁子の退院に合わせて、朔は自分の家へ戻ることになった。
洗面所で、黒い歯ブラシが一本抜かれる。
隅に置いていたバッグへ、充電器とTシャツがしまわれる。
「今までほんとにありがとうね」
郁子が玄関で言う。
「別に」
朔はいつも通り短く返した。
それから少しだけ間を置いて、「また来ます」と付け足す。
「うん。今度は普通に来てね」
郁子のその言い方に、朔は一瞬だけ目を細めた。
笑ったわけではない。けれど、嫌でもなさそうだった。
「分かってます」
朔が靴を履く。
直人は玄関まで見送りに出た。
「じゃあな」
「うん」
「明日、数学見せろよ」
「そこかよ」
「大事だろ」
いつも通りの調子だった。
だから直人も、「分かった」とだけ返した。
扉が閉まる。
足音が廊下を遠ざかっていく。
そのあとで洗面所を見ると、歯ブラシが一本減っていた。
それだけなのに、そこだけ妙に広かった。
その夜、夕飯のあとに郁子が茶碗を洗って、直人がそれを拭いているうちに、壁の時計は十九時五分を過ぎた。
気づいたのは、しばらくしてからだった。
直人は濡れた茶碗を受け取る手を止めて、丸い時計を見た。
もう五分以上過ぎている。
玄関は静かなままだった。
「どうしたの」
郁子に聞かれて、直人は首を振る。
「別に」
それからまた、茶碗を拭いて棚へ戻した。
朔が自分の家へ戻ってからも、学校では前より近かった。
朝、教室へ入ると、後ろから「英語の小テスト、範囲どこまでだっけ」と声が飛んでくる。
昼になると、「購買、行くか」と来る。
帰りは教室の後ろの扉で、鞄を肩に掛けたまま「帰るぞ」と言う。
そういうことが続くうちに、直人もいちいち驚かなくなった。
この町の朝の匂いも、前より少しだけ借り物じゃなくなっていた。
校門の位置や、信号の待ち時間や、購買の混み方だけじゃなく、教室のどこにいれば朔の声が飛んでくるかまで、もう体が覚えている。
金曜の放課後、チャイムが鳴って、教室の空気が一気に緩んだ。
誰かが部活だと叫び、誰かがテスト勉強しろよと笑う。
朔はいつも通り、鞄を肩に掛けて直人の机の横へ来た。
「じゃ、今日は帰る」
その言い方ももういつものはずだったのに、直人はそこで先に口を開いていた。
「今日、泊まる?」
朔が止まる。
「……は?」
「明日休みだし」
それだけ言ってから、直人は自分で少しだけ眉を寄せた。
理由として弱すぎると思った。
朔はまじまじと直人を見た。
ふざけている顔ではなかった。
「なんかあんの」
「別に」
「ほんとに?」
「ほんとに」
直人は机の上の消しゴムを指で転がした。
朔を見ないまま、続ける。
「怪異とか、そういうのじゃなくて」
「知ってる」
短い返事だった。
「課題、まだ終わってないし」
「お前もだろ」
「うん」
「それ、泊まる理由になるのか」
「なるだろ」
ようやく顔を上げると、朔は少しだけ口の端を歪めていた。
笑いそうで、ちゃんと笑ってはいない顔だった。
「……行く」
それだけだった。
それで十分だった。
家に帰ると、郁子が台所で味噌汁を温めていた。
「今日は朔くん来るの?」
靴を脱ぐ音で察したみたいに、振り返らないまま聞いてくる。
「うん。泊まる」
「そう」
郁子はそれだけ言って、炊飯器の蓋を開けた。
「お米、これで足りるかしら」
その言い方があまりに普通で、直人は少しだけ力を抜いた。
「……うん」
自分の部屋へ鞄を置いてから、直人は押し入れを開けた。
客用の布団を一組引っ張り出す。
居間へ運びかけて、やめた。
そのまま向きを変えて、自分の部屋へ持っていく。
「居間じゃないの?」
台所から郁子の声がする。
「俺の部屋で一緒に寝ることにする」
「そう」
郁子はそれ以上何も言わなかった。
七時少し前、玄関で音がした。
コン、コン。
短く、いつもの二回だった。
今ではもう、その二回を聞き間違えることはない。
直人はのぞき穴も見ずに鍵を開けた。
扉の向こうに、朔が立っている。
肩には小さなスポーツバッグ。片手にはコンビニの袋。髪は少しだけ風で乱れていた。
「早」
直人が言うと、朔は靴を脱ぎながら答える。
「近いから」
「知ってる」
「それと」
朔がコンビニ袋を少し持ち上げた。
「アイス」
「なんで」
「普通の泊まりって、なんか買ってくるもんだろ」
「その基準どこからだよ」
「知らん」
郁子が台所から顔を出した。
「いらっしゃい、朔くん」
「どうも」
言い方だけはぶっきらぼうなのに、返事はちゃんとしていた。
「先に食べちゃいなさい。味噌汁、冷めるから」
三人で食卓につく。
空いていた椅子にはもう郁子がいて、その向かいに朔が座る。
直人は二人のあいだで茶碗を持った。
夕飯はごく普通だった。
味噌汁と、ご飯と、焼いた魚と、冷ややっこ。
郁子が「病院のご飯より美味しいわ」と言って、朔が「それはそうです」と返す。
直人は箸を動かしながら、そのやりとりを聞いていた。
怖い話は誰もしなかった。
真壁の名前も、蓮の名前も出なかった。
食べ終わると、朔が当たり前みたいに自分の茶碗を流しへ持っていく。
直人も立つ。
郁子が「今日はいいわよ」と言ったが、二人とも聞かないふりをした。
蛇口をひねる音。
皿の触れ合う音。
拭いた器を棚へ戻す音。
そういう音のほうが、今はよほど家に馴染んでいた。
風呂の順番を決めて、郁子が先に寝室へ引っ込むころには、部屋の中はもうすっかり夜だった。
「夜更かししすぎないのよ」
廊下の向こうから声だけがする。
「はーい」
直人が返すと、隣で朔も小さく「はーい」と重ねた。
郁子が向こうで少しだけ笑った気配がした。
二人で布団へ入る。
前みたいに、十九時五分を気にしない。
机の上に二人のスマホを並べる。
朔が自分のイヤホンを一本だけ抜いて、直人のほうへ投げた。
「何」
「音、小さくするから」
「だから何」
「クラスのグループに来てた動画」
「見せんな」
そう言いながら、直人はイヤホンを受け取っていた。
片方ずつ耳に入れて、同じスマホの画面を見る。
映っていたのは、誰かが昼休みに撮った、どうでもいい失敗動画だった。
声を殺して笑うと、イヤホン越しに朔の息も少し揺れる。
「くだらな」
「ほんとにな」
それで十分だった。
動画が終わる。
朔がスマホを伏せる。
スタンドの灯りだけが、布団の端を薄く照らしていた。
「直人」
朔が言う。
「何」
「こういうの、前からやってるみたいだな」
直人は天井を見たまま答える。
「前はやってない」
「そうだけど、なんか」
言葉を探すみたいに、朔が少し黙る。
「変じゃない」
直人はそれに、すぐ返事ができなかった。
でも、胸の中ではもう答えは出ていた。
「うん」
ようやくそう言うと、隣の布団が少しだけ鳴った。
「また泊まり来る」
「ああ」
暗い部屋で、朔が小さく笑う。
直人も少しだけ口元をゆるめた。
「明日、何時に起きる」
「九時」
「遅」
「お前もだろ」
「まあ」
それきり、会話はゆっくり薄くなっていった。
隣の布団が一度だけ鳴る。
直人はその音を聞きながら、目を閉じる。
二人はもう、何も待たなくてよくなっていた。



