壁の時計が、小さく鳴った。
その一拍あとだった。
コン。
朔の指の下で、チェーンの金具がかすかに揺れる。
コン。
秒針が二つ進む。
コン。
直人はドアノブから手を離さなかった。
ひやりとした金属の冷たさが、手のひらの奥まで入ってくる。
コン。
隣で、朔の袖が腕に触れた。
どちらも避けない。
コン。
五回目が終わる。
きっちり、そこで終わる。
六回目は来ない。
廊下の蛍光灯が、じ、と低く鳴っていた。
直人は扉を見たまま、言った。
「真壁か」
少しの間があってから、向こうで声がした。
「……ああ」
昨夜と同じ、掠れた声だった。
怒鳴らない。ただ、長く眠れていない人間の乾きだけが、その一音にあった。
直人は隣を見る。
朔も同じようにこちらを見た。
「行くぞ」
「うん」
言葉が重なるより先に、二人は動いた。
直人がノブを回し、朔がチェーンを外す。
金属の擦れる音が、玄関の狭い空気の中で短く鳴る。
扉を押すと、冷たい夜気がまっすぐ入り込んできた。
廊下の蛍光灯の下に、真壁がいた。
扉一枚ぶんだけ下がった位置で立っている。
肩は少し落ち、目の下に濃い影がある。怒っている顔ではないのに、何日もまともに寝ていない人間の荒れ方だけが、顔に残っていた。
真壁は、開いた扉と、並んで立つ二人を見た。
その視線が、直人の手から、朔の外したチェーンへ移る。
「……ほんとに開けるんだな」
直人は敷居から出なかった。
朔も同じだった。
肩が触れるか触れないかの位置で、二人とも真壁を見る。
「二人で開けるって決めた」
すぐ隣で、朔が低く言う。
「一人にはしない」
そのあとも、朔の手は扉の端に残ったままだった。
直人が少しでも引けば、すぐ閉められる位置だった。
開けるのも、閉めるのも、一人だけにはしないための手だった。
廊下の向こうでは、どこかの部屋のテレビが薄く笑っている。
そのありふれた音が、かえってこの場所だけを静かにした。
直人は息をひとつ整えてから、言った。
「聞いた。おばあちゃんから」
真壁の目が、わずかに細くなる。
「去年の雨の夜、十九時五分ごろ、ここで五回ノックが鳴った。誰かが来てた。おばあちゃんは中にいて、それを聞いてた」
言葉はそこで一度切れた。
言い訳の形にしたくなくて、直人は唇を結び直す。
「でも、開けられなかった」
真壁は何も言わない。
直人も、目を逸らさないまま続けた。
「なかったことにはしない」
すぐ隣で、朔が言った。
「俺も聞いた。五回、ちゃんと」
真壁の視線が少しだけ落ちる。
直人は続けた。
「今日、病院でもう一回話した。おばあちゃんは逃げないって言ってた」
朔がポケットからスマホを出す。
けれど足は動かない。
直人の隣から、一歩も離れないまま画面だけを起こす。
「必要なら、今、電話する」
直人は言った。
「今、病院にいるけど、それでもつなげる。おばあちゃんは、自分の口で話すって。謝るって言ってた」
真壁はすぐに首を振った。
「いい」
短い声だった。
拒むというより、それは自分の中で前から決めていた返事みたいだった。
「謝らせたいわけじゃない」
蛍光灯が、じ、と鳴る。
真壁は手すりの向こうの暗い階段を一度だけ見て、それからまた扉のほうへ戻した。
「あの頃、この辺で不審者の話が出てた」
直人は黙って聞く。
「知らないやつが夜に来ても、開けるなって。身に覚えのない訪問者には出るなって」
その言い方で、直人は初めて、真壁がずっとこの町のほうを見ていたのだと分かった。
「だから、開けなくて当然だって、俺も分かってた」
真壁は言う。
「……でも、それでもやるせなかった」
そこで一度、言葉が切れた。
声の継ぎ目が、どこかうまく噛み合っていないみたいだった。
「蓮と、一緒に高校を卒業したかった」
その一言に、怒りより先に、長く抱えた疲れが滲んだ。
「俺は通話の向こうで聞いてた。雨の音の向こうで、ここで五回鳴るのを。蓮が、もう助かるところまで来てるのに、そこで切れたのを」
廊下の空気が、少しだけ冷たくなる。
直人の手の中のノブも、まだ冷たいままだった。
「通話が切れたあとも、五回だけがずっと耳に残った。俺だけが聞いたみたいで、無理だった」
真壁は顔を上げた。
目の下の影が、蛍光灯の白さでなおさら濃く見える。
「謝れって思わなかったわけじゃない。でも、ほんとはそこだけじゃなかった」
直人も、朔も、何も言わない。
「あの五回が確かにあったって、誰かに認めさせたかった」
声は低いままだった。
「蓮がここまで来て、五回叩いて、それで終わったって。俺だけが知ってる音じゃなくしたかった」
直人は胸の奥が少し痛むのを感じた。
怖がらせられた夜の数だけじゃない。真壁はその前から、ずっと同じ時間に止まったままだったのだと分かる。
「だから、あんなアカウント作って、毎晩来てたのか」
朔が聞く。
真壁は小さくうなずく。
「止まれなかった」
それだけだった。
開き直りでも、言い逃れでもない。
壊れかけた人間が、自分でそれを認める声だった。
直人は扉の縁に触れていた左手に、少しだけ力を入れた。
「おばあちゃんは、聞いてたことを認めた」
真壁が顔を上げる。
「怖かったって言った。でも、聞かなかったことにしていいわけじゃないって。必要なら、自分で話すって」
そこで直人は一度だけ息を吸った。
「蓮さんはここまで来た。十九時五分に、五回叩いた」
言い切ると、喉の奥が少し熱くなった。
「忘れません」
すぐ隣で、朔が続ける。
「俺も忘れない」
それは大きな声ではなかった。
けれど、扉の向こうまでまっすぐ届く声だった。
真壁はしばらく何も言わなかった。
廊下の向こうで、誰かが階段を上がりかけて、途中で別の階へ曲がっていく足音がした。
この場所だけに止まっていた時間へ、ようやく別の夜の音が混じる。
やがて真壁は、ほんの少しだけ目を伏せた。
「……そうか」
昨夜、扉越しに聞いたのと同じ言葉だった。
けれど今度は、長く噛みしめていたものをようやく別の場所へ移すみたいな、小さい声だった。
「それが聞きたかった」
直人は何も返さない。
返せなかった。
真壁はポケットへ手を入れた。
スマホを出すのかと思ったが、結局そのまま握りしめただけだった。
「アカウントは消す」
視線は上がらないまま、真壁は言う。
「今夜で最後にする。もう来ない」
朔がわずかに眉を動かす。
「ほんとか」
真壁は顔を上げた。
「これ以上、やっても同じだから」
その声には、もう押しつけるものがなかった。
自分でも、ここが終わりなのだと分かっている声だった。
少しの沈黙のあと、真壁が低く続ける。
「……お前らまで巻き込んで、悪かった」
直人はすぐには答えない。
許す、と簡単に言えるものではなかった。
怖かった夜が消えるわけでもない。
それでも、目の前に立っているのが、派手な悪意で動いていた人間じゃないことだけは、もう分かっていた。
喪失と怒りで、止まる場所を見失っていただけの人間だ。
直人は扉の縁を持ったまま、言った。
「もう、一年前の夜にとらわれない方がいいと思います」
真壁の目が、ほんの少しだけ揺れる。
「……ああ」
真壁はそれに答えなかった。
答えないまま、小さくうなずく。
朔が、まだ直人の隣から動かないまま言う。
「今度は、もう俺らも覚えてる」
真壁は二人を見た。
開いた扉の中と外で、誰も一歩も踏み込まない。
それでも、その一言は十分だったみたいに、真壁はもう一度だけうなずいた。
「……じゃあ、いい」
それで会話は切れた。
真壁は踵を返す。
ゆっくりだった。
逃げるような足取りではない。
けれど、振り向きもしなかった。
乾いた廊下を、足音が三つ、四つと遠ざかる。
手すりの向こうの階段へ、その音が落ちていく。
一段、二段、三段。
それが下の階の気配に混じっていって、やがて聞こえなくなった。
直人はすぐには扉を閉めなかった。
朔も閉めようとしない。
開いたままの玄関から、夜の空気が静かに入ってくる。
蛍光灯の白さは相変わらずで、手すりの影も、隣の部屋のドアも、何ひとつ変わっていない。
なのに、さっきまでここに張っていたものだけが、すっと薄くなっていた。
じ、と鳴る蛍光灯の音が、初めてただの蛍光灯の音に戻っていた。
「朔」
直人が呼ぶ。
「ん」
「今日も、一緒にいてよ」
言ってから、少しだけ喉が熱くなる。
けれど今は、言い直さなかった。
朔は廊下を見たまま、すぐに答える。
「帰らねえよ」
それだけだった。
それで十分だった。
直人も同じように、開いた扉の向こうを見る。
もう五回を待つためではなく、ただそこに夜があるのを確かめるみたいに。
二〇一号室の前の廊下は、初めて、誰かを待っている静けさではなかった。
ただ夜があるだけの、待っていない静けさだった。
その一拍あとだった。
コン。
朔の指の下で、チェーンの金具がかすかに揺れる。
コン。
秒針が二つ進む。
コン。
直人はドアノブから手を離さなかった。
ひやりとした金属の冷たさが、手のひらの奥まで入ってくる。
コン。
隣で、朔の袖が腕に触れた。
どちらも避けない。
コン。
五回目が終わる。
きっちり、そこで終わる。
六回目は来ない。
廊下の蛍光灯が、じ、と低く鳴っていた。
直人は扉を見たまま、言った。
「真壁か」
少しの間があってから、向こうで声がした。
「……ああ」
昨夜と同じ、掠れた声だった。
怒鳴らない。ただ、長く眠れていない人間の乾きだけが、その一音にあった。
直人は隣を見る。
朔も同じようにこちらを見た。
「行くぞ」
「うん」
言葉が重なるより先に、二人は動いた。
直人がノブを回し、朔がチェーンを外す。
金属の擦れる音が、玄関の狭い空気の中で短く鳴る。
扉を押すと、冷たい夜気がまっすぐ入り込んできた。
廊下の蛍光灯の下に、真壁がいた。
扉一枚ぶんだけ下がった位置で立っている。
肩は少し落ち、目の下に濃い影がある。怒っている顔ではないのに、何日もまともに寝ていない人間の荒れ方だけが、顔に残っていた。
真壁は、開いた扉と、並んで立つ二人を見た。
その視線が、直人の手から、朔の外したチェーンへ移る。
「……ほんとに開けるんだな」
直人は敷居から出なかった。
朔も同じだった。
肩が触れるか触れないかの位置で、二人とも真壁を見る。
「二人で開けるって決めた」
すぐ隣で、朔が低く言う。
「一人にはしない」
そのあとも、朔の手は扉の端に残ったままだった。
直人が少しでも引けば、すぐ閉められる位置だった。
開けるのも、閉めるのも、一人だけにはしないための手だった。
廊下の向こうでは、どこかの部屋のテレビが薄く笑っている。
そのありふれた音が、かえってこの場所だけを静かにした。
直人は息をひとつ整えてから、言った。
「聞いた。おばあちゃんから」
真壁の目が、わずかに細くなる。
「去年の雨の夜、十九時五分ごろ、ここで五回ノックが鳴った。誰かが来てた。おばあちゃんは中にいて、それを聞いてた」
言葉はそこで一度切れた。
言い訳の形にしたくなくて、直人は唇を結び直す。
「でも、開けられなかった」
真壁は何も言わない。
直人も、目を逸らさないまま続けた。
「なかったことにはしない」
すぐ隣で、朔が言った。
「俺も聞いた。五回、ちゃんと」
真壁の視線が少しだけ落ちる。
直人は続けた。
「今日、病院でもう一回話した。おばあちゃんは逃げないって言ってた」
朔がポケットからスマホを出す。
けれど足は動かない。
直人の隣から、一歩も離れないまま画面だけを起こす。
「必要なら、今、電話する」
直人は言った。
「今、病院にいるけど、それでもつなげる。おばあちゃんは、自分の口で話すって。謝るって言ってた」
真壁はすぐに首を振った。
「いい」
短い声だった。
拒むというより、それは自分の中で前から決めていた返事みたいだった。
「謝らせたいわけじゃない」
蛍光灯が、じ、と鳴る。
真壁は手すりの向こうの暗い階段を一度だけ見て、それからまた扉のほうへ戻した。
「あの頃、この辺で不審者の話が出てた」
直人は黙って聞く。
「知らないやつが夜に来ても、開けるなって。身に覚えのない訪問者には出るなって」
その言い方で、直人は初めて、真壁がずっとこの町のほうを見ていたのだと分かった。
「だから、開けなくて当然だって、俺も分かってた」
真壁は言う。
「……でも、それでもやるせなかった」
そこで一度、言葉が切れた。
声の継ぎ目が、どこかうまく噛み合っていないみたいだった。
「蓮と、一緒に高校を卒業したかった」
その一言に、怒りより先に、長く抱えた疲れが滲んだ。
「俺は通話の向こうで聞いてた。雨の音の向こうで、ここで五回鳴るのを。蓮が、もう助かるところまで来てるのに、そこで切れたのを」
廊下の空気が、少しだけ冷たくなる。
直人の手の中のノブも、まだ冷たいままだった。
「通話が切れたあとも、五回だけがずっと耳に残った。俺だけが聞いたみたいで、無理だった」
真壁は顔を上げた。
目の下の影が、蛍光灯の白さでなおさら濃く見える。
「謝れって思わなかったわけじゃない。でも、ほんとはそこだけじゃなかった」
直人も、朔も、何も言わない。
「あの五回が確かにあったって、誰かに認めさせたかった」
声は低いままだった。
「蓮がここまで来て、五回叩いて、それで終わったって。俺だけが知ってる音じゃなくしたかった」
直人は胸の奥が少し痛むのを感じた。
怖がらせられた夜の数だけじゃない。真壁はその前から、ずっと同じ時間に止まったままだったのだと分かる。
「だから、あんなアカウント作って、毎晩来てたのか」
朔が聞く。
真壁は小さくうなずく。
「止まれなかった」
それだけだった。
開き直りでも、言い逃れでもない。
壊れかけた人間が、自分でそれを認める声だった。
直人は扉の縁に触れていた左手に、少しだけ力を入れた。
「おばあちゃんは、聞いてたことを認めた」
真壁が顔を上げる。
「怖かったって言った。でも、聞かなかったことにしていいわけじゃないって。必要なら、自分で話すって」
そこで直人は一度だけ息を吸った。
「蓮さんはここまで来た。十九時五分に、五回叩いた」
言い切ると、喉の奥が少し熱くなった。
「忘れません」
すぐ隣で、朔が続ける。
「俺も忘れない」
それは大きな声ではなかった。
けれど、扉の向こうまでまっすぐ届く声だった。
真壁はしばらく何も言わなかった。
廊下の向こうで、誰かが階段を上がりかけて、途中で別の階へ曲がっていく足音がした。
この場所だけに止まっていた時間へ、ようやく別の夜の音が混じる。
やがて真壁は、ほんの少しだけ目を伏せた。
「……そうか」
昨夜、扉越しに聞いたのと同じ言葉だった。
けれど今度は、長く噛みしめていたものをようやく別の場所へ移すみたいな、小さい声だった。
「それが聞きたかった」
直人は何も返さない。
返せなかった。
真壁はポケットへ手を入れた。
スマホを出すのかと思ったが、結局そのまま握りしめただけだった。
「アカウントは消す」
視線は上がらないまま、真壁は言う。
「今夜で最後にする。もう来ない」
朔がわずかに眉を動かす。
「ほんとか」
真壁は顔を上げた。
「これ以上、やっても同じだから」
その声には、もう押しつけるものがなかった。
自分でも、ここが終わりなのだと分かっている声だった。
少しの沈黙のあと、真壁が低く続ける。
「……お前らまで巻き込んで、悪かった」
直人はすぐには答えない。
許す、と簡単に言えるものではなかった。
怖かった夜が消えるわけでもない。
それでも、目の前に立っているのが、派手な悪意で動いていた人間じゃないことだけは、もう分かっていた。
喪失と怒りで、止まる場所を見失っていただけの人間だ。
直人は扉の縁を持ったまま、言った。
「もう、一年前の夜にとらわれない方がいいと思います」
真壁の目が、ほんの少しだけ揺れる。
「……ああ」
真壁はそれに答えなかった。
答えないまま、小さくうなずく。
朔が、まだ直人の隣から動かないまま言う。
「今度は、もう俺らも覚えてる」
真壁は二人を見た。
開いた扉の中と外で、誰も一歩も踏み込まない。
それでも、その一言は十分だったみたいに、真壁はもう一度だけうなずいた。
「……じゃあ、いい」
それで会話は切れた。
真壁は踵を返す。
ゆっくりだった。
逃げるような足取りではない。
けれど、振り向きもしなかった。
乾いた廊下を、足音が三つ、四つと遠ざかる。
手すりの向こうの階段へ、その音が落ちていく。
一段、二段、三段。
それが下の階の気配に混じっていって、やがて聞こえなくなった。
直人はすぐには扉を閉めなかった。
朔も閉めようとしない。
開いたままの玄関から、夜の空気が静かに入ってくる。
蛍光灯の白さは相変わらずで、手すりの影も、隣の部屋のドアも、何ひとつ変わっていない。
なのに、さっきまでここに張っていたものだけが、すっと薄くなっていた。
じ、と鳴る蛍光灯の音が、初めてただの蛍光灯の音に戻っていた。
「朔」
直人が呼ぶ。
「ん」
「今日も、一緒にいてよ」
言ってから、少しだけ喉が熱くなる。
けれど今は、言い直さなかった。
朔は廊下を見たまま、すぐに答える。
「帰らねえよ」
それだけだった。
それで十分だった。
直人も同じように、開いた扉の向こうを見る。
もう五回を待つためではなく、ただそこに夜があるのを確かめるみたいに。
二〇一号室の前の廊下は、初めて、誰かを待っている静けさではなかった。
ただ夜があるだけの、待っていない静けさだった。



