十九時五分、二〇一号室を五回ノックしてみてください

壁の時計が、小さく鳴った。

その一拍あとだった。

コン。

朔の指の下で、チェーンの金具がかすかに揺れる。

コン。

秒針が二つ進む。

コン。

直人はドアノブから手を離さなかった。
ひやりとした金属の冷たさが、手のひらの奥まで入ってくる。

コン。

隣で、朔の袖が腕に触れた。
どちらも避けない。

コン。

五回目が終わる。
きっちり、そこで終わる。
六回目は来ない。

廊下の蛍光灯が、じ、と低く鳴っていた。

直人は扉を見たまま、言った。

「真壁か」

少しの間があってから、向こうで声がした。

「……ああ」

昨夜と同じ、掠れた声だった。
怒鳴らない。ただ、長く眠れていない人間の乾きだけが、その一音にあった。

直人は隣を見る。
朔も同じようにこちらを見た。

「行くぞ」

「うん」

言葉が重なるより先に、二人は動いた。
直人がノブを回し、朔がチェーンを外す。
金属の擦れる音が、玄関の狭い空気の中で短く鳴る。
扉を押すと、冷たい夜気がまっすぐ入り込んできた。

廊下の蛍光灯の下に、真壁がいた。

扉一枚ぶんだけ下がった位置で立っている。
肩は少し落ち、目の下に濃い影がある。怒っている顔ではないのに、何日もまともに寝ていない人間の荒れ方だけが、顔に残っていた。

真壁は、開いた扉と、並んで立つ二人を見た。
その視線が、直人の手から、朔の外したチェーンへ移る。

「……ほんとに開けるんだな」

直人は敷居から出なかった。
朔も同じだった。
肩が触れるか触れないかの位置で、二人とも真壁を見る。

「二人で開けるって決めた」

すぐ隣で、朔が低く言う。

「一人にはしない」

そのあとも、朔の手は扉の端に残ったままだった。
直人が少しでも引けば、すぐ閉められる位置だった。
開けるのも、閉めるのも、一人だけにはしないための手だった。

廊下の向こうでは、どこかの部屋のテレビが薄く笑っている。
そのありふれた音が、かえってこの場所だけを静かにした。

直人は息をひとつ整えてから、言った。

「聞いた。おばあちゃんから」

真壁の目が、わずかに細くなる。

「去年の雨の夜、十九時五分ごろ、ここで五回ノックが鳴った。誰かが来てた。おばあちゃんは中にいて、それを聞いてた」

言葉はそこで一度切れた。
言い訳の形にしたくなくて、直人は唇を結び直す。

「でも、開けられなかった」

真壁は何も言わない。
直人も、目を逸らさないまま続けた。

「なかったことにはしない」

すぐ隣で、朔が言った。

「俺も聞いた。五回、ちゃんと」

真壁の視線が少しだけ落ちる。
直人は続けた。

「今日、病院でもう一回話した。おばあちゃんは逃げないって言ってた」

朔がポケットからスマホを出す。
けれど足は動かない。
直人の隣から、一歩も離れないまま画面だけを起こす。

「必要なら、今、電話する」

直人は言った。

「今、病院にいるけど、それでもつなげる。おばあちゃんは、自分の口で話すって。謝るって言ってた」

真壁はすぐに首を振った。

「いい」

短い声だった。
拒むというより、それは自分の中で前から決めていた返事みたいだった。

「謝らせたいわけじゃない」

蛍光灯が、じ、と鳴る。
真壁は手すりの向こうの暗い階段を一度だけ見て、それからまた扉のほうへ戻した。

「あの頃、この辺で不審者の話が出てた」

直人は黙って聞く。

「知らないやつが夜に来ても、開けるなって。身に覚えのない訪問者には出るなって」

その言い方で、直人は初めて、真壁がずっとこの町のほうを見ていたのだと分かった。

「だから、開けなくて当然だって、俺も分かってた」

真壁は言う。

「……でも、それでもやるせなかった」

そこで一度、言葉が切れた。
声の継ぎ目が、どこかうまく噛み合っていないみたいだった。

「蓮と、一緒に高校を卒業したかった」

その一言に、怒りより先に、長く抱えた疲れが滲んだ。

「俺は通話の向こうで聞いてた。雨の音の向こうで、ここで五回鳴るのを。蓮が、もう助かるところまで来てるのに、そこで切れたのを」

廊下の空気が、少しだけ冷たくなる。
直人の手の中のノブも、まだ冷たいままだった。

「通話が切れたあとも、五回だけがずっと耳に残った。俺だけが聞いたみたいで、無理だった」

真壁は顔を上げた。
目の下の影が、蛍光灯の白さでなおさら濃く見える。

「謝れって思わなかったわけじゃない。でも、ほんとはそこだけじゃなかった」

直人も、朔も、何も言わない。

「あの五回が確かにあったって、誰かに認めさせたかった」

声は低いままだった。

「蓮がここまで来て、五回叩いて、それで終わったって。俺だけが知ってる音じゃなくしたかった」

直人は胸の奥が少し痛むのを感じた。
怖がらせられた夜の数だけじゃない。真壁はその前から、ずっと同じ時間に止まったままだったのだと分かる。

「だから、あんなアカウント作って、毎晩来てたのか」

朔が聞く。

真壁は小さくうなずく。

「止まれなかった」

それだけだった。
開き直りでも、言い逃れでもない。
壊れかけた人間が、自分でそれを認める声だった。

直人は扉の縁に触れていた左手に、少しだけ力を入れた。

「おばあちゃんは、聞いてたことを認めた」

真壁が顔を上げる。

「怖かったって言った。でも、聞かなかったことにしていいわけじゃないって。必要なら、自分で話すって」

そこで直人は一度だけ息を吸った。

「蓮さんはここまで来た。十九時五分に、五回叩いた」

言い切ると、喉の奥が少し熱くなった。

「忘れません」

すぐ隣で、朔が続ける。

「俺も忘れない」

それは大きな声ではなかった。
けれど、扉の向こうまでまっすぐ届く声だった。

真壁はしばらく何も言わなかった。
廊下の向こうで、誰かが階段を上がりかけて、途中で別の階へ曲がっていく足音がした。
この場所だけに止まっていた時間へ、ようやく別の夜の音が混じる。

やがて真壁は、ほんの少しだけ目を伏せた。

「……そうか」

昨夜、扉越しに聞いたのと同じ言葉だった。
けれど今度は、長く噛みしめていたものをようやく別の場所へ移すみたいな、小さい声だった。

「それが聞きたかった」

直人は何も返さない。
返せなかった。

真壁はポケットへ手を入れた。
スマホを出すのかと思ったが、結局そのまま握りしめただけだった。

「アカウントは消す」

視線は上がらないまま、真壁は言う。

「今夜で最後にする。もう来ない」

朔がわずかに眉を動かす。

「ほんとか」

真壁は顔を上げた。

「これ以上、やっても同じだから」

その声には、もう押しつけるものがなかった。
自分でも、ここが終わりなのだと分かっている声だった。

少しの沈黙のあと、真壁が低く続ける。

「……お前らまで巻き込んで、悪かった」

直人はすぐには答えない。
許す、と簡単に言えるものではなかった。
怖かった夜が消えるわけでもない。

それでも、目の前に立っているのが、派手な悪意で動いていた人間じゃないことだけは、もう分かっていた。
喪失と怒りで、止まる場所を見失っていただけの人間だ。

直人は扉の縁を持ったまま、言った。

「もう、一年前の夜にとらわれない方がいいと思います」

真壁の目が、ほんの少しだけ揺れる。

「……ああ」

真壁はそれに答えなかった。
答えないまま、小さくうなずく。

朔が、まだ直人の隣から動かないまま言う。

「今度は、もう俺らも覚えてる」

真壁は二人を見た。
開いた扉の中と外で、誰も一歩も踏み込まない。
それでも、その一言は十分だったみたいに、真壁はもう一度だけうなずいた。

「……じゃあ、いい」

それで会話は切れた。

真壁は踵を返す。
ゆっくりだった。
逃げるような足取りではない。
けれど、振り向きもしなかった。

乾いた廊下を、足音が三つ、四つと遠ざかる。
手すりの向こうの階段へ、その音が落ちていく。
一段、二段、三段。
それが下の階の気配に混じっていって、やがて聞こえなくなった。

直人はすぐには扉を閉めなかった。
朔も閉めようとしない。

開いたままの玄関から、夜の空気が静かに入ってくる。
蛍光灯の白さは相変わらずで、手すりの影も、隣の部屋のドアも、何ひとつ変わっていない。
なのに、さっきまでここに張っていたものだけが、すっと薄くなっていた。

じ、と鳴る蛍光灯の音が、初めてただの蛍光灯の音に戻っていた。

「朔」

直人が呼ぶ。

「ん」

「今日も、一緒にいてよ」

言ってから、少しだけ喉が熱くなる。
けれど今は、言い直さなかった。

朔は廊下を見たまま、すぐに答える。

「帰らねえよ」

それだけだった。
それで十分だった。

直人も同じように、開いた扉の向こうを見る。
もう五回を待つためではなく、ただそこに夜があるのを確かめるみたいに。

二〇一号室の前の廊下は、初めて、誰かを待っている静けさではなかった。

ただ夜があるだけの、待っていない静けさだった。