十九時五分、二〇一号室を五回ノックしてみてください

そう言ってから、直人は自分の声の低さに少し驚いた。

二〇一号室は静かだった。炊飯器の保温の小さな音も、冷蔵庫の低い唸りも、その一言のあとでは急に遠くなる。壁の時計は十八時五十二分を指していた。

朔はすぐには何も言わなかった。

扉のほうを見たまま、一度だけ息を吐く。それから、いつもの調子より少し低い声で言った。

「分かった」

短い返事だった。
軽くも、勢いづいてもいない。

その声を聞いた瞬間、直人は自分が本当に言ってしまったのだと分かった。今夜は開ける。五回が鳴ったあと、扉の向こうにいるものへ、ちゃんと手を伸ばす。

朔は端へ寄せてあった自分のバッグを少し奥へずらした。そして、脱ぎっぱなしだったスニーカーの向きを揃え、廊下へ出るまでの細い動線を空ける。居間と玄関のあいだに敷いてあった薄いマットの端も、足に引っかからないように折り返した。

「何してるの?」

直人が聞くと、朔はしゃがんだまま答えた。

「慌てたとき、転ぶの嫌だから」

その言い方がいかにも朔だった。
怖いとも、緊張してるとも言わないで、ただ実際に困ることだけを先に片づける。

次に朔は、居間のローテーブルへ戻って、自分のスマホと直人のスマホを並べた。どちらも画面を上にして、音量を確かめる。病院から連絡来たら分かるくらいには残し、それ以外の通知音は切った。

「病院から連絡来たら、すぐ取れるようにしとく」

「うん」

それだけでいいやりとりだった。

朔はもう、どこに何があるかをいちいち聞かない。延長コードは押し入れの横。小さい卓上ライトのスイッチは台所の入口。コップは上の棚。洗面所のタオルは二段目。二〇一号室の夜を越すのに必要なことを、いつの間にか体が覚えている。

さっきまで朔は、流しに掛けてあったふきんの向きを直し、洗面所のタオルの端をそろえ、使ったコップを自分のぶんだけでなく直人のぶんも手の届く位置へ戻していた。頼んだわけではない。なのに手つきに遠慮がない。勝手というのとも違う。この家の夜の進み方を、もう自分の体に混ぜている動きだった。

泊まりに来ている、という感じではなかった。
もうそこにいる、という感じだった。

郁子のいない家は、朝からずっと広かった。
空いた椅子も、使われない茶碗も、背もたれにかかったままのエプロンも、その広さを何度も目立たせた。

それでも今は、別のものも増えている。

布団も二組。
洗面所の歯ブラシも二本ではなく三本になった。
玄関に揃った靴も、今夜は一足ぶん多い。
そういう生活のほうが、いつの間にか直人の呼吸を楽にしていた。

「なあ」

朔が玄関の前に立ったまま言う。

「ドアノブとチェーン、どっちがやる」

直人はそちらを見た。
その問いは、さっきの「開けよう」より具体的で、よほど心臓に近かった。

「……何それ」

「決めといたほうがいいだろ。本番でごちゃごちゃすんの嫌だ」

反論できなかった。
たしかに、五回が鳴ってから慌てて決めるよりましだ。

直人は扉を見る。
去年の雨の夜、郁子が手をかけて、外せなかったチェーン。
ここ数日、何度も郁子が触れていた金具。
古い塗装のドアノブ。
どちらも見慣れているはずなのに、今は触れれば別の夜へ繋がるものに見えた。

「ドアノブは俺が持つ」

口にしてから、自分で少しだけ息を呑んだ。

朔が振り向く。

「……いいのか」

「ここ、俺の家だから」

その言い方をした瞬間、胸の奥が少しだけ痛んだ。
郁子の家に世話になっているだけだと思っていた場所が、いつの間にか「俺の家」という言葉を使う場所になっている。

朔は何も茶化さなかった。
ただ小さくうなずいてから言う。

「じゃあ、チェーンは俺」

「外せるか」

「外すだけなら」

「外したあと、勝手に開けるなよ」

「分かってる。だからドアノブはお前」

それで、少しだけ肩の力が抜けた。

「逆でもいい」

「どっちでもいい」

朔はそう言って、扉の前まで来た。

「でも、一人で全部やるのはなし」

直人は返事をしなかった。
できなかった、のほうが近い。

一人で全部やるのはなし。

その言葉は、段取りの確認みたいに聞こえるのに、それだけではなかった。
ここ数日ずっと、朔はそういう言い方しかしなかった。
大きな約束でも、優しい慰めでもなく、やることを示しながら隣に残る。

「一回、位置だけやるか」

「今?」

「今」

朔はもうチェーンの下へ手を伸ばしていた。
外しはしない。ただ指先を近づけて、どの角度なら引っかからないかを見るだけだ。

直人もドアノブの前に立つ。
手のひらを近づけると、金属は思ったより冷たかった。

二人で並ぶと、玄関は狭い。
肩がぶつかるほどではないが、片方が少し動けばすぐ袖が触れる距離だった。

「そこで止めるなよ」

「何を」

「触るとき」

「お前もだろ」

朔が短く息を吐く。
笑ったわけではないのに、少しだけ力の抜けた音だった。

「……うん。まあ、そう」

それきり、二人とも一度だけ位置を確かめて手を離した。

金具は鳴らなかった。
ノブも回さない。
ただ、それだけで十分だった。
今夜、自分たちがどんな形で扉の前に立つのか、体のほうに先に覚えさせるみたいな時間だった。

居間へ戻ると、朔が台所へ入った。
何も聞かず、棚からコップを二つ出し、水を入れる。
一つを直人の前へ置き、自分の分はその向かいへ置いた。

「飲め」

「さっき飲んだ」

「今も飲め」

ぶっきらぼうな声だった。
直人は文句を言わずにコップを持った。
冷たい水が喉を通る。

朔も向かいに腰を下ろす。

しばらく誰も喋らなかった。
時計の針だけが進む。
けれど、その沈黙は前みたいに扉の向こうへ全部持っていかれる感じではなかった。
同じ部屋に、同じ時間を待っている呼吸がもう一つあるだけで、静けさの質が少し変わる。

「お前さ」

気づくと、直人はそう言っていた。

「ん」

「最初は、責任感で来たんだろ」

朔はすぐには答えなかった。
コップの縁に触れていた指を一度だけ離して、また戻す。

「たぶん」

曖昧な返事だった。
でも嘘ではないと分かる声だった。

「たぶんって」

「最初は、それが一番でかかったと思う」

朔は真正面ではなく、壁の時計を見ながら言う。

「俺が広めた。面白半分で。それが誰かの迷惑になるかも、とか考えずに」

「今は?」

直人は自分でそう聞いてから、少しだけ後悔した。
聞くつもりではなかった。
けれどもう引っ込められない。

朔はやはり、すぐには答えない。

台所のほうで冷蔵庫が低く唸る。
向かいの棟のどこかで窓が閉まる。
その二つの音のあいだに、朔の低い声が落ちた。

「責任感だけなら、俺が一人で開けるって言う」

直人は顔を上げた。

「お前は後ろにいろって。俺がやるって」

朔はそこで初めて、まっすぐ直人を見た。

「でも、それは違うだろ」

「……何が」

「お前を一人にするの」

直人は何も返せなかった。

それは、ばらまいた張本人の義務みたいな言い方ではなかった。
責任を果たしたいなら、自分だけが前に出れば済む。
そうじゃなく、隣にいることを選んだやつの声だった。

朔は視線を少し落として続ける。

「ここで飯食って、風呂借りて、布団敷いて、朝になったら学校行って、また戻ってきてるだろ」

「うん」

「そこまでしてんの、もう責任感だけじゃねえよ」

言い切ったあと、朔は自分で少しだけ言い過ぎたと思ったのか、コップへ目を落とした。
耳のあたりがほんの少しだけ赤く見える。
たぶん気のせいではなかった。

直人は床の木目を見た。
見ているふりをしながら、心臓の音ばかり聞いていた。

教室の真ん中で、面白半分にスマホを掲げていたやつがいる。
昼休みに輪の中心で笑っていたやつがいた。
それと同じ人間が、今は二〇一号室で音を立てないようにマットを折り、病院からの連絡音だけ残して、ドアノブとチェーンの役を決めている。

その変わり方を、もう責任の一言だけでは片づけられなかった。

帰れと言えば帰らない。
いると言ったら、本当にいる。
朔はこの家の中で、いつもそうだった。

直人はふと、洗面所に並んだ歯ブラシを思い出した。
自分の隣に増えた黒い一本。
客だから置いている、という感じではもうなかった。
明日の朝も使うつもりで、当然みたいにそこにある。

「……俺も」

喉が少し引っかかる。

「何」

「最初は、それでいいと思ってた」

朔が黙る。

「責任で来てるなら、それでいいって。お前が勝手に残る理由として、分かりやすかったし」

そこまで言ってから、直人はコップを置いた。
底がテーブルに当たって、コト、と小さく鳴る。

「でも、今はそれだけじゃ困る」

言い終えたあと、顔を上げるまでに少し時間がかかった。

朔は何も言わなかった。
ただ、さっきより少しだけ真面目な顔でこっちを見ている。

直人は視線を逸らし、玄関のほうを見た。
薄い扉。
チェーン。
夜になるたび、そこで音が鳴る場所。

「一人だったら、たぶん今日も理由つけてやめてた」

「うん」

朔は否定しない。

「でも、お前がいるから」

直人はそこで一度だけ息を止めた。
その先は、口に出した瞬間に何かが変わる気がした。

それでも、もう隠すほうが違うと思った。

「……お前となら、開けられる」

部屋が静かになった。

冷蔵庫の音も、時計の秒針も、全部聞こえているのに、その一言のあとだけ少し遠くなる。

直人は朔を見なかった。
見たらたぶん、途中で言えなくなっていた。

朔もすぐには何も返さなかった。
やがて、布団の上を視線でなぞるみたいに少しだけ目を逸らしてから、低く言う。

「じゃあ、一人でやるな」

その言い方に、直人はようやく小さくうなずけた。

「やらない」

時計を見る。
十九時二分だった。

あと三分しかない。

それなのに不思議と、さっきより呼吸は楽だった。
怖さが消えたわけではない。
むしろ、これから本当に扉へ触れるのだと思うと、指先はじっとしていられないくらい落ち着かなかった。
それでも、やめたいとは思わなかった。

朔が立ち上がる。

「名乗らせる」

「うん」

「違ったら、開けない」

「うん」

「途中で嫌になったら、言え」

「お前も」

「分かった」

直人も立ち上がりかけて、ふと足を止めた。

「長くなったら、病院に電話する」

朔が振り向く。

「おばあちゃんに?」

「うん。聞くって言ってたから」

逃げるためじゃない。
ちゃんと受け取るために、郁子もそこに繋いでおく。
そう決めると、去年から閉じたままだった夜の続きを、少しだけ正しい形でやり直せる気がした。

朔は短くうなずく。

「分かった。すぐかけられるようにしとく」

それだけ決めて、二人とも玄関の前へ行った。

居間の灯りは落とさず、台所の小さな灯りだけを残したままにしてある。
完全な暗さにしないのは、もう習慣みたいになっていた。
畳の上には二組の布団が並び、その少し向こうに二つのコップが残っている。
空いた椅子の背にはエプロンがかかったままだった。

郁子のいない広さはまだ消えない。
でも、今夜の二〇一号室には、それとは別に、二人で開けるための気配がちゃんとある。

直人はドアノブの前に立った。
朔はその少し上でチェーンの位置を目で確かめる。

「ドアノブ、冷たいぞ」

「知ってる」

「まだ触ってないだろ」

「見れば分かる」

短い言い合いだった。
そのくだらなさに、少しだけ喉の力が抜ける。

十九時三分。

外の廊下では、蛍光灯がじ、と低く鳴っている。
誰かの足音はまだしない。
下の階で水道管が鳴り、向かいの棟のどこかでテレビの笑い声が漏れ、それもすぐ遠くなる。

十九時四分。

直人は自分の右手を見た。
少しだけ震えている。
隠す間もなく、それを朔に見られた気がした。

けれど朔は何も言わない。
代わりに、自分の左手を一度だけ握って開き、同じように指先を整えた。

そっちもか、と直人は思う。
それで少しだけ、ひとりで怖がっている感じが薄くなる。

「直人」

「なに」

「さっきの、もう一回言えとかは言わねえから」

思わず顔を上げる。
朔は扉のほうを見たままだった。

「でも、忘れねえ」

直人は何も返せなかった。
返事の代わりに、視線を前へ戻す。

十九時四分三十秒。

壁の時計は見えていないのに、それくらいだと分かった。
秒針の音が、さっきより大きい。
布団の擦れる音も、二人の呼吸も、全部そこへ集まってくる。

「朔」

「ん」

「お前がいるから、開ける勇気がでたんだと思う」

それは考えて出した言葉ではなかった。
喉のいちばん近いところから、そのまま落ちた。

朔は一拍遅れて言う。

「なら、よかった」

十九時四分四十五秒。

直人はノブへ手を伸ばした。
ひやりとした金属が、手のひらへ触れる。
すぐ隣で、朔がチェーンへ指をかける。
金具がごく小さく鳴った。

袖がかすかに触れる。
その距離のまま、どちらも離れない。

扉の向こうはまだ静かだった。
五回は、まだ来ていない。

長針が五へ触れる直前、直人はノブに、朔はチェーンに手をかけた。