翌日の放課後、直人と朔は病室の前に並んで立っていた。
白い引き戸の向こうから、点滴の機械が小さく鳴る音がする。
壁の時計は、面会時間が始まってまだ十分も経っていないことを示していた。
直人はノックの代わりに、引き戸の縁へ指をかけた。
隣で、朔が小さくうなずく。
中へ入ると、郁子はこの前より少しだけ目の覚めた顔をしていた。
背を起こしたベッドの上で、膝に薄い毛布をかけている。点滴はまだ繋がっていたが、目の色だけは倒れた朝より戻っていた。
「来たのね」
郁子が言う。
「うん」
「学校の帰り?」
「そう」
直人は答えてから、ベッド脇の丸椅子を少し横へずらした。
一人分しかないそれを、自分だけのものにする気になれなかったからだ。
けれど二人とも座らず、結局そのまま同じ側に立った。
郁子の目が、その並び方を一度だけ見た。
何も言わなかったが、すぐにいつもの柔らかい顔へ戻ろうとする。
「顔色、少しまし」
直人が言うと、郁子はうっすら笑った。
「病院だからね。ちゃんと寝かされてるもの」
「寝てないだろ」
「少しは寝たわよ」
朔が病室の棚の上に、売店で買ったらしいペットボトルを一本置いた。
「よかったら、どうそ」
「ありがとう」
郁子は短く礼を言って、すぐ視線を直人へ戻した。
「それで。何かあったのね」
遠回りのいらない声だった。
直人は喉の奥をひとつ動かした。
ここへ来る道のあいだずっと考えていたはずなのに、いざ言うとなると、順番が分からなくなる。
「昨夜、また来た」
郁子の指先が、毛布の上で止まる。
「十九時五分に」
そこまでは、もう説明がいらなかった。
郁子は目を閉じもせず、ただ静かに聞いている。
「五回ノックしあと、名乗った」
郁子の肩が、ほんの少しだけ強張る。
「真壁って」
病室の空気が、そこで細く冷えた。
「あの夜、おばあちゃんの家の扉をノックした蓮っていう人の親友だって。あの夜、蓮と通話してたって。五回のノックも、そのあと声が切れたのも、自分も聞いてたって」
郁子はすぐには何も言わなかった。
窓のほうを見るでもなく、点滴を見るでもなく、ただ自分の手の上に視線を落としている。
「それで」と、直人は続けた。
「明日、開けろって言った」
言い終えたあと、病室がひどく静かになった。
空調の低い音と、どこか遠くで台車が動く音だけが、白い壁の向こうにある。
郁子は小さく息を吸った。
逃げるみたいな息じゃなかった。ようやくそこへ辿り着いた人の息だった。
「……そう」
それだけ言って、目を上げる。
「直人くん」
郁子はゆっくり言う。
「あの五回は本当にあった」
病室の白さが、その一言をまっすぐ立たせた。
郁子は膝の上で重ねていた手を解く。
細い指の節が、少し赤くなっていた。
直人は息を止めて聞いていた。
「私は聞いていたのに、開けられなかった」
言葉のひとつひとつが、前に聞いた告白より短いのに、もっと深く落ちてきた。
言い訳にしないために、短く言っているのだと分かる声だった。
「怖かったの。今も、怖いと思う。夜に知らない相手が来ることも、あの音を思い出すことも、どっちも怖い」
郁子は言う。
「でも、それで聞かなかったことにしていいわけじゃないのよね」
直人は口を開きかけて、閉じた。
病室へ来る前まで、自分はどこかでまだ、郁子がもう関わりたくないと言うのを待っていたのかもしれなかった。
そう言ってくれれば、守るための理由をまだ持っていられる気がしていた。
けれど郁子は、そこへ戻らない顔でこちらを見ていた。
「真壁くん、ずっとあの音を一人で抱えていたのね」
「……たぶん」
「なら、放っておけないわ」
その言い方に、直人は喉の奥が熱くなった。
一年前に目を背けたものを、今の言葉だけで取り返せるはずはない。
それでも郁子が、初めて自分から扉の外を見ている気がした。
「でも、おばあちゃん」
ようやく出た声は、思ったより幼くなった。
「今さら何言っても、消えないだろ」
「ええ」
郁子はうなずく。
「消えないわ」
否定しない返事だった。
だからこそ、その先を聞かなければいけない気がした。
「じゃあ、どうすんだよ」
「受け取るしかないのよ」
郁子は少しだけ息を整えてから言った。
「謝って済むことじゃないし、怖くなかったことにもできない。でも、聞いていたのに開けられなかったのは、私がしたことだから」
直人は目を伏せる。
シーツの白さが、やけに明るい。
「俺、家でずっと考えてた」
気づくと、そんなことを言っていた。
「怖くて開けないのは普通だって。俺だってそう思うし、今もそう思ってる。なのに、話を聞いたあとだと、それで全部終わらせるのも違う気がして」
郁子は黙って聞いている。
「守るつもりでいたんだよ。おばあちゃんのこと。だから、俺が前に立って、俺が聞けばいいって」
そこまで言ってから、自分の言葉の幼さが分かった。
守る、という言い方はきれいすぎる。
実際は、直人自身も、郁子の代わりに扉を見ていれば済むと思っていたところがあった。
郁子が小さく首を振る。
「直人くん」
声はやわらかいのに、そこだけははっきりしていた。
「あなたが代わりに背負わなくていいのよ」
直人は顔を上げた。
「でも」
「でもじゃないの」
郁子は言う。
「あなたは何も知らずにこの家へ来たの。春から、通学のためにここへ来て、いきなりこんなものを聞かされて、それでも私の前に立ってくれた。十分よ」
直人は返せない。
十分だと言われても、自分ではまだ全然そう思えなかった。
郁子は続ける。
「守ろうとしてくれたことは分かってる。うれしかった。けど、私の罪まで抱えなくていい。私が怖くて開けられなかったことまで、あなたのせいみたいな顔をしなくていいの」
直人は喉の奥を噛むみたいに息を飲んだ。
あの夜のことは、郁子の夜だ。
その言い方は冷たくも聞こえるのに、今は逆だった。
ようやく自分の場所へ戻してもらった気がした。
「……分かった、とはまだ言えない」
正直にそう言うと、郁子は少しだけ目を細めた。
「うん。それでいいの」
朔がそこで初めて口を開いた。
「でも、聞いたことはもう、記憶から消せないです」
低い声だった。
病室で大きくならないように抑えているのに、言葉だけはまっすぐだった。
郁子は朔を見る。
それから、ごく小さくうなずいた。
「そう」
「俺たち、今夜、扉を開けると思います」
直人は横を見た。
朔は郁子だけを見ている。
勝手に決めるような言い方ではなかった。もうそうなると分かっている人間の声だった。
郁子はしばらく黙ってから言った。
「二人だけにさせるのは、本当は嫌よ」
それは止める言い方ではなかった。
嫌だと認めたうえで、そこから逃げない声だった。
「でも、私は今夜ここを出られない」
病室の白い壁と、腕に伸びる点滴の管が、その事実を静かに示している。
「必要なら、電話をつないで」
直人は目を上げた。
「電話?」
「ええ。真壁くんが私と話したいなら」
郁子は言う。
「逃げるためじゃなくて、ちゃんと聞くために。ちゃんと、私の口で言うために」
直人の胸の奥で、何かが小さく動いた。
病院にいる郁子は、二〇一号室の外にいる。
それでも今は、去年よりずっと扉の近くにいる気がした。
「無理すんなよ」と、直人は言った。
「倒れたばっかだろ」
「無理はしないわ」
「そういうやつに限ってする」
そこまで言うと、郁子は少しだけ困った顔をした。
その顔がいつもに近くて、直人はようやく少しだけ息をした。
「じゃあ、無理しない範囲で、ね」
「……うん」
郁子の視線が、直人から朔へ移る。
「朔くん」
「はい」
「何度も来てもらって、ごめんね」
「別に」
「ありがとう」
朔は少しだけ視線を落とした。
「勝手にいるだけです」
その返しに、直人は横でほんの少しだけ肩の力を抜いた。
郁子も、かすかに笑う。
病室を出る前、直人は棚の上のペットボトルの蓋を少しゆるめて、郁子の手元へ寄せた。
「飲みなよ」
「はいはい」
「あと、夜になっても一人で考え込まないでね」
「病院だもの。そうそう一人にはならないわ」
「そういう意味じゃなくて」
言いかけたところで、郁子がまた笑った。
今度は少しだけ、ちゃんとした笑い方だった。
病室を出ると、廊下は夕方の色になりかけていた。
窓の向こうの空はまだ明るいのに、病院の中だけ先に夜の匂いがする。
直人はしばらく何も言わずに歩いた。
自販機の前を過ぎ、面会スペースの椅子の脇を通って、ようやく足が少し緩む。
「飲むか」
朔が言う。
「何を」
「水」
「いらない」
「じゃあ俺が飲む」
そう言って自販機でボタンを押す。
機械の低い音がして、ペットボトルが落ちた。
その普通の音で、病室の中の言葉が少しだけ遠くなる。
朔は一本だけ買って、蓋を開けた。
自分で一口飲んでから、直人のほうへ差し出す。
「半分」
「なんで半分なんだよ」
「一本は多いだろ」
直人は文句を言いながら受け取った。
冷たい水が喉を通る。
さっきまで言葉でいっぱいだった胸の中に、ようやく別のものが少し入る。
「……おばあちゃん、逃げなかったな」
ぽつりとそう言うと、朔は真正面を見たままうなずいた。
「うん」
「やめてって言うかと思ってた」
「俺も」
短いやりとりだった。
「電話してもいいって」
「言ったな」
「言うだけじゃなくて、たぶんほんとに出る」
「うん」
直人は自販機の横の壁にもたれた。
冷たいペットボトルを額に当てると、少しだけ頭が静かになる。
「……俺、勝手に決めてたのかも」
「何を」
「守るなら、隠すしかないって」
朔はすぐには返さなかった。
急かさない沈黙だった。
「でも、おばあちゃん、隠れるのやめたそうだった」
「うん」
「なのに俺だけまだそのつもりでいたら、たぶん違う」
病院を出たころには、空がかなり低くなっていた。
団地へ戻る道の電柱に、蛍光灯が白くついている。
二〇一号室の鍵を開ける。
金属の乾いた音がして、直人は一瞬だけ立ち止まった。
けれど今日は、その音が一年前の夜に直結する感じが少し弱かった。
郁子が病室で「本当にあった」と口にしたぶんだけ、隠れていたものが家の中の別の場所へ移ったのかもしれなかった。
居間へ入る。
空いた椅子。
背もたれのエプロン。
棚の中の使われない茶碗。
何も変わっていないのに、見え方だけが少し違う。
不在の形ではあるけれど、もうそれを見ないふりはできない、という見え方だった。
朔は鞄を置く前に言った。
「米、あるよな」
「ある」
「じゃあ炊く」
「味噌汁、俺やる」
口に出してから、直人は少しだけ自分で驚いた。
いつもなら台所へ向かうのは先に朔のほうだったのに、今日は自分の手が先に動いた。
戸棚を開ける。
味噌の場所も、鍋の場所も、もう体が覚えている。
そのついでみたいに、コップを二つ出す。箸も二膳。どちらがどちらの分か、いちいち考えない。
朔は何も言わず、炊飯器の釜を洗っていた。
水の音が狭い台所に返る。
直人は豆腐を切る。
包丁の刃先がまな板に当たる乾いた音がした。
「朔」
「なに」
「ネギ、そこ」
「ああ」
味噌汁の湯気が上がる。
炊飯器の蓋が小さく鳴る。
直人は茶碗によそったご飯を二つ並べた。
向かいの席に置く手が、もう止まらない。
朔の席が自然に決まっていることに、自分でも少しだけ呆れる。
けれど不快ではなかった。
食べ始めてしばらくは、二人とも黙っていた。
味噌汁の熱さと、時計の針の進む音だけが近い。
やがて朔が言う。
「今夜、どうする」
直人は箸を止めた。
「分かってるだろ」
「一応聞いた」
「そういうとこ、性格悪い」
「知ってる」
直人は少しだけ目を伏せた。
湯気の向こうに、空いた椅子の背が見える。
「昨日までの俺なら、たぶんまた同じこと言ってた」
「開けるなって?」
「うん。おばあちゃんのために」
朔は否定しない。
直人も、自分のその気持ちが間違いだったとはまだ言えない。
「でも」
味噌汁の表面に、湯気がまた薄く立つ。
「俺も、もう隠れたくない」
朔はご飯を飲み込んでから言った。
「じゃあ、隠すな」
あまりに短くて、直人は一瞬だけ顔を上げた。
朔はこっちを見ていない。茶碗を持ったまま、ただ当たり前のことみたいに言っただけだった。
食べ終わると、二人で食器を流しへ運ぶ。
朔が洗って、直人が拭く。
その順番も、いつの間にか決まっている。
「タオル、替えるぞ」
朔が言う。
「上の棚」
「分かった」
直人は最後の皿を棚へ戻し、押し入れを開けた。
客用の布団を一組、迷いなく引っ張り出す。
後ろで朔が振り向く気配がした。
「まだ早くない?」
「帰ってほしくないから」
言ってから、直人は自分で少しだけ眉を寄せた。
もっと別の言い方もあったはずなのに、出てきたのはそれだった。
けれど朔は笑わなかった。
「帰らねえよ」
低い声が、すぐ返ってくる。
布団を畳の上に置く。
そのすぐ隣へ、自分のぶんも引く。
壁の時計を見る。
十八時五十二分だった。
まだ十三分ある。
もう十三分しかない、とも思う。
直人は立ち上がって、玄関のほうへ目をやった。
扉の向こうはまだ静かだ。
けれど今夜は、何が鳴っても、何を言われても、昨夜までと同じ顔ではいられない気がした。
朔が隣に来る。
何も言わず、同じように玄関を見る。
前に立つでもなく、背中を押すでもなく、横だ。
それがいちばんしっくりくるところまで、もう俺たちの仲は進んでいた。
「朔」
「ん」
直人は扉を見たまま言った。
「今夜は、開けよう」
白い引き戸の向こうから、点滴の機械が小さく鳴る音がする。
壁の時計は、面会時間が始まってまだ十分も経っていないことを示していた。
直人はノックの代わりに、引き戸の縁へ指をかけた。
隣で、朔が小さくうなずく。
中へ入ると、郁子はこの前より少しだけ目の覚めた顔をしていた。
背を起こしたベッドの上で、膝に薄い毛布をかけている。点滴はまだ繋がっていたが、目の色だけは倒れた朝より戻っていた。
「来たのね」
郁子が言う。
「うん」
「学校の帰り?」
「そう」
直人は答えてから、ベッド脇の丸椅子を少し横へずらした。
一人分しかないそれを、自分だけのものにする気になれなかったからだ。
けれど二人とも座らず、結局そのまま同じ側に立った。
郁子の目が、その並び方を一度だけ見た。
何も言わなかったが、すぐにいつもの柔らかい顔へ戻ろうとする。
「顔色、少しまし」
直人が言うと、郁子はうっすら笑った。
「病院だからね。ちゃんと寝かされてるもの」
「寝てないだろ」
「少しは寝たわよ」
朔が病室の棚の上に、売店で買ったらしいペットボトルを一本置いた。
「よかったら、どうそ」
「ありがとう」
郁子は短く礼を言って、すぐ視線を直人へ戻した。
「それで。何かあったのね」
遠回りのいらない声だった。
直人は喉の奥をひとつ動かした。
ここへ来る道のあいだずっと考えていたはずなのに、いざ言うとなると、順番が分からなくなる。
「昨夜、また来た」
郁子の指先が、毛布の上で止まる。
「十九時五分に」
そこまでは、もう説明がいらなかった。
郁子は目を閉じもせず、ただ静かに聞いている。
「五回ノックしあと、名乗った」
郁子の肩が、ほんの少しだけ強張る。
「真壁って」
病室の空気が、そこで細く冷えた。
「あの夜、おばあちゃんの家の扉をノックした蓮っていう人の親友だって。あの夜、蓮と通話してたって。五回のノックも、そのあと声が切れたのも、自分も聞いてたって」
郁子はすぐには何も言わなかった。
窓のほうを見るでもなく、点滴を見るでもなく、ただ自分の手の上に視線を落としている。
「それで」と、直人は続けた。
「明日、開けろって言った」
言い終えたあと、病室がひどく静かになった。
空調の低い音と、どこか遠くで台車が動く音だけが、白い壁の向こうにある。
郁子は小さく息を吸った。
逃げるみたいな息じゃなかった。ようやくそこへ辿り着いた人の息だった。
「……そう」
それだけ言って、目を上げる。
「直人くん」
郁子はゆっくり言う。
「あの五回は本当にあった」
病室の白さが、その一言をまっすぐ立たせた。
郁子は膝の上で重ねていた手を解く。
細い指の節が、少し赤くなっていた。
直人は息を止めて聞いていた。
「私は聞いていたのに、開けられなかった」
言葉のひとつひとつが、前に聞いた告白より短いのに、もっと深く落ちてきた。
言い訳にしないために、短く言っているのだと分かる声だった。
「怖かったの。今も、怖いと思う。夜に知らない相手が来ることも、あの音を思い出すことも、どっちも怖い」
郁子は言う。
「でも、それで聞かなかったことにしていいわけじゃないのよね」
直人は口を開きかけて、閉じた。
病室へ来る前まで、自分はどこかでまだ、郁子がもう関わりたくないと言うのを待っていたのかもしれなかった。
そう言ってくれれば、守るための理由をまだ持っていられる気がしていた。
けれど郁子は、そこへ戻らない顔でこちらを見ていた。
「真壁くん、ずっとあの音を一人で抱えていたのね」
「……たぶん」
「なら、放っておけないわ」
その言い方に、直人は喉の奥が熱くなった。
一年前に目を背けたものを、今の言葉だけで取り返せるはずはない。
それでも郁子が、初めて自分から扉の外を見ている気がした。
「でも、おばあちゃん」
ようやく出た声は、思ったより幼くなった。
「今さら何言っても、消えないだろ」
「ええ」
郁子はうなずく。
「消えないわ」
否定しない返事だった。
だからこそ、その先を聞かなければいけない気がした。
「じゃあ、どうすんだよ」
「受け取るしかないのよ」
郁子は少しだけ息を整えてから言った。
「謝って済むことじゃないし、怖くなかったことにもできない。でも、聞いていたのに開けられなかったのは、私がしたことだから」
直人は目を伏せる。
シーツの白さが、やけに明るい。
「俺、家でずっと考えてた」
気づくと、そんなことを言っていた。
「怖くて開けないのは普通だって。俺だってそう思うし、今もそう思ってる。なのに、話を聞いたあとだと、それで全部終わらせるのも違う気がして」
郁子は黙って聞いている。
「守るつもりでいたんだよ。おばあちゃんのこと。だから、俺が前に立って、俺が聞けばいいって」
そこまで言ってから、自分の言葉の幼さが分かった。
守る、という言い方はきれいすぎる。
実際は、直人自身も、郁子の代わりに扉を見ていれば済むと思っていたところがあった。
郁子が小さく首を振る。
「直人くん」
声はやわらかいのに、そこだけははっきりしていた。
「あなたが代わりに背負わなくていいのよ」
直人は顔を上げた。
「でも」
「でもじゃないの」
郁子は言う。
「あなたは何も知らずにこの家へ来たの。春から、通学のためにここへ来て、いきなりこんなものを聞かされて、それでも私の前に立ってくれた。十分よ」
直人は返せない。
十分だと言われても、自分ではまだ全然そう思えなかった。
郁子は続ける。
「守ろうとしてくれたことは分かってる。うれしかった。けど、私の罪まで抱えなくていい。私が怖くて開けられなかったことまで、あなたのせいみたいな顔をしなくていいの」
直人は喉の奥を噛むみたいに息を飲んだ。
あの夜のことは、郁子の夜だ。
その言い方は冷たくも聞こえるのに、今は逆だった。
ようやく自分の場所へ戻してもらった気がした。
「……分かった、とはまだ言えない」
正直にそう言うと、郁子は少しだけ目を細めた。
「うん。それでいいの」
朔がそこで初めて口を開いた。
「でも、聞いたことはもう、記憶から消せないです」
低い声だった。
病室で大きくならないように抑えているのに、言葉だけはまっすぐだった。
郁子は朔を見る。
それから、ごく小さくうなずいた。
「そう」
「俺たち、今夜、扉を開けると思います」
直人は横を見た。
朔は郁子だけを見ている。
勝手に決めるような言い方ではなかった。もうそうなると分かっている人間の声だった。
郁子はしばらく黙ってから言った。
「二人だけにさせるのは、本当は嫌よ」
それは止める言い方ではなかった。
嫌だと認めたうえで、そこから逃げない声だった。
「でも、私は今夜ここを出られない」
病室の白い壁と、腕に伸びる点滴の管が、その事実を静かに示している。
「必要なら、電話をつないで」
直人は目を上げた。
「電話?」
「ええ。真壁くんが私と話したいなら」
郁子は言う。
「逃げるためじゃなくて、ちゃんと聞くために。ちゃんと、私の口で言うために」
直人の胸の奥で、何かが小さく動いた。
病院にいる郁子は、二〇一号室の外にいる。
それでも今は、去年よりずっと扉の近くにいる気がした。
「無理すんなよ」と、直人は言った。
「倒れたばっかだろ」
「無理はしないわ」
「そういうやつに限ってする」
そこまで言うと、郁子は少しだけ困った顔をした。
その顔がいつもに近くて、直人はようやく少しだけ息をした。
「じゃあ、無理しない範囲で、ね」
「……うん」
郁子の視線が、直人から朔へ移る。
「朔くん」
「はい」
「何度も来てもらって、ごめんね」
「別に」
「ありがとう」
朔は少しだけ視線を落とした。
「勝手にいるだけです」
その返しに、直人は横でほんの少しだけ肩の力を抜いた。
郁子も、かすかに笑う。
病室を出る前、直人は棚の上のペットボトルの蓋を少しゆるめて、郁子の手元へ寄せた。
「飲みなよ」
「はいはい」
「あと、夜になっても一人で考え込まないでね」
「病院だもの。そうそう一人にはならないわ」
「そういう意味じゃなくて」
言いかけたところで、郁子がまた笑った。
今度は少しだけ、ちゃんとした笑い方だった。
病室を出ると、廊下は夕方の色になりかけていた。
窓の向こうの空はまだ明るいのに、病院の中だけ先に夜の匂いがする。
直人はしばらく何も言わずに歩いた。
自販機の前を過ぎ、面会スペースの椅子の脇を通って、ようやく足が少し緩む。
「飲むか」
朔が言う。
「何を」
「水」
「いらない」
「じゃあ俺が飲む」
そう言って自販機でボタンを押す。
機械の低い音がして、ペットボトルが落ちた。
その普通の音で、病室の中の言葉が少しだけ遠くなる。
朔は一本だけ買って、蓋を開けた。
自分で一口飲んでから、直人のほうへ差し出す。
「半分」
「なんで半分なんだよ」
「一本は多いだろ」
直人は文句を言いながら受け取った。
冷たい水が喉を通る。
さっきまで言葉でいっぱいだった胸の中に、ようやく別のものが少し入る。
「……おばあちゃん、逃げなかったな」
ぽつりとそう言うと、朔は真正面を見たままうなずいた。
「うん」
「やめてって言うかと思ってた」
「俺も」
短いやりとりだった。
「電話してもいいって」
「言ったな」
「言うだけじゃなくて、たぶんほんとに出る」
「うん」
直人は自販機の横の壁にもたれた。
冷たいペットボトルを額に当てると、少しだけ頭が静かになる。
「……俺、勝手に決めてたのかも」
「何を」
「守るなら、隠すしかないって」
朔はすぐには返さなかった。
急かさない沈黙だった。
「でも、おばあちゃん、隠れるのやめたそうだった」
「うん」
「なのに俺だけまだそのつもりでいたら、たぶん違う」
病院を出たころには、空がかなり低くなっていた。
団地へ戻る道の電柱に、蛍光灯が白くついている。
二〇一号室の鍵を開ける。
金属の乾いた音がして、直人は一瞬だけ立ち止まった。
けれど今日は、その音が一年前の夜に直結する感じが少し弱かった。
郁子が病室で「本当にあった」と口にしたぶんだけ、隠れていたものが家の中の別の場所へ移ったのかもしれなかった。
居間へ入る。
空いた椅子。
背もたれのエプロン。
棚の中の使われない茶碗。
何も変わっていないのに、見え方だけが少し違う。
不在の形ではあるけれど、もうそれを見ないふりはできない、という見え方だった。
朔は鞄を置く前に言った。
「米、あるよな」
「ある」
「じゃあ炊く」
「味噌汁、俺やる」
口に出してから、直人は少しだけ自分で驚いた。
いつもなら台所へ向かうのは先に朔のほうだったのに、今日は自分の手が先に動いた。
戸棚を開ける。
味噌の場所も、鍋の場所も、もう体が覚えている。
そのついでみたいに、コップを二つ出す。箸も二膳。どちらがどちらの分か、いちいち考えない。
朔は何も言わず、炊飯器の釜を洗っていた。
水の音が狭い台所に返る。
直人は豆腐を切る。
包丁の刃先がまな板に当たる乾いた音がした。
「朔」
「なに」
「ネギ、そこ」
「ああ」
味噌汁の湯気が上がる。
炊飯器の蓋が小さく鳴る。
直人は茶碗によそったご飯を二つ並べた。
向かいの席に置く手が、もう止まらない。
朔の席が自然に決まっていることに、自分でも少しだけ呆れる。
けれど不快ではなかった。
食べ始めてしばらくは、二人とも黙っていた。
味噌汁の熱さと、時計の針の進む音だけが近い。
やがて朔が言う。
「今夜、どうする」
直人は箸を止めた。
「分かってるだろ」
「一応聞いた」
「そういうとこ、性格悪い」
「知ってる」
直人は少しだけ目を伏せた。
湯気の向こうに、空いた椅子の背が見える。
「昨日までの俺なら、たぶんまた同じこと言ってた」
「開けるなって?」
「うん。おばあちゃんのために」
朔は否定しない。
直人も、自分のその気持ちが間違いだったとはまだ言えない。
「でも」
味噌汁の表面に、湯気がまた薄く立つ。
「俺も、もう隠れたくない」
朔はご飯を飲み込んでから言った。
「じゃあ、隠すな」
あまりに短くて、直人は一瞬だけ顔を上げた。
朔はこっちを見ていない。茶碗を持ったまま、ただ当たり前のことみたいに言っただけだった。
食べ終わると、二人で食器を流しへ運ぶ。
朔が洗って、直人が拭く。
その順番も、いつの間にか決まっている。
「タオル、替えるぞ」
朔が言う。
「上の棚」
「分かった」
直人は最後の皿を棚へ戻し、押し入れを開けた。
客用の布団を一組、迷いなく引っ張り出す。
後ろで朔が振り向く気配がした。
「まだ早くない?」
「帰ってほしくないから」
言ってから、直人は自分で少しだけ眉を寄せた。
もっと別の言い方もあったはずなのに、出てきたのはそれだった。
けれど朔は笑わなかった。
「帰らねえよ」
低い声が、すぐ返ってくる。
布団を畳の上に置く。
そのすぐ隣へ、自分のぶんも引く。
壁の時計を見る。
十八時五十二分だった。
まだ十三分ある。
もう十三分しかない、とも思う。
直人は立ち上がって、玄関のほうへ目をやった。
扉の向こうはまだ静かだ。
けれど今夜は、何が鳴っても、何を言われても、昨夜までと同じ顔ではいられない気がした。
朔が隣に来る。
何も言わず、同じように玄関を見る。
前に立つでもなく、背中を押すでもなく、横だ。
それがいちばんしっくりくるところまで、もう俺たちの仲は進んでいた。
「朔」
「ん」
直人は扉を見たまま言った。
「今夜は、開けよう」



