返信は、朝になっても来なかった。
『忘れたままにさせない』の下に、昨夜の白い吹き出しが一つ残っているだけだった。学校にいるあいだ、直人は何度か朔のスマホをのぞいたが、黒い画面は変わらない。変わらないままなのに、いつ震えるか分からない感じだけが、一日じゅう背中に張りついていた。
二〇一号室へ戻ると、家はやけに静かだった。
空いた椅子。
使われない茶碗。
背もたれにかかったままのエプロン。
直人は鞄を置いて、台所へ行った。戸棚を開け、マグを二つ出す。二つ目を取ったところで、手が先に動いていたのだと気づいたが、戻さなかった。
やかんに水を入れる。
冷蔵庫を開ける。
小さな生活の音をいくつか立てても、家の広さはあまり変わらない。
そのとき、玄関で音がした。
コン、コン。
三回目を待たなくていい音だと、もう体が覚えていた。
のぞき穴を覗くと、朔がいた。今日は小さなスーパーの袋を提げている。白い袋の口から、卵のパックの角が少し見えた。
鍵を開ける。
扉を開ける。
朔はいつものみたいに「おつかれ」とは言わず、先に言った。
「来てない」
「そっか」
それだけだった。
朔は靴を脱ぎ、洗面所のほうを顎で示した。
「手、洗う」
「タオル、そこ」
言ってから、直人は自分でも少しだけ変な気がした。聞かれる前に場所を言っている。もうこの家の中で、朔がどこへ向かうか分かるようになっていた。
朔は何も言わずに頷いた。
袋の中身は、豆腐と刻みねぎと、見切り品らしい油揚げだった。
「味噌汁、作ろうと思って」
「ご飯炊くね」
「OK」
直人は茶碗を二つ出した。箸も二膳。片方を自分の前に、もう片方を向かいへ置く。それが自然になっていることを、今さら隠す気にもなれなかった。
朔が鍋に水を入れる。
直人が炊飯器を開ける。
冷蔵庫の低い唸りの中で、包丁がまな板に当たる乾いた音がした。
誰も、昨夜の『忘れたままにさせない』についてすぐには話さなかった。
けれど話さないままでも、二人とも同じことを考えているのは分かった。
味噌汁の湯気が立つころ、ようやく朔が言った。
「今日、来ると思うか」
直人は茶碗によそったご飯を置きながら答える。
「分かんない」
「うん」
「でも、来たら」
そこまで言って、直人は少しだけ口を閉じた。
朔が鍋の火を止める。
「聞くか」
「……聞く」
短いやりとりだった。
それで十分だった。
二人で食べた夕飯は、いつもより静かだった。
味噌汁の湯気が目にしみる。向かいの棟のどこかで窓が閉まる。誰もテレビをつけない家では、そういう小さな音がすぐ入ってきた。
食べ終えると、朔が黙ってどんぶりを流しへ運ぶ。
直人はふきんを取った。
「俺もやる。一緒のほうが早いから」
朔は何も言い返さなかった。
水を出す音。
器に触れる指の音。
拭いた皿を重ねる音。
言葉よりそういう音のほうが、今の二人には馴染んでいた。
最後のどんぶりを伏せたところで、二人とも同時に時計を見た。
十八時五十九分。
朔が蛇口を閉める。
直人がふきんを畳む。
「行くか」
「うん」
玄関の前へ行く。
朔が鍵を見る。
直人がチェーンを見る。
確認する場所が違うだけで、やっていることは同じだった。
扉の前で、二人は横に並んだ。
どちらかが前に出て、どちらかが後ろにいる形ではなかった。
ここ数日で、それがいちばん自然な立ち方になっていた。
壁の時計の秒針が進む。
廊下の蛍光灯がつく前の、じ、とした低い音が向こうで鳴る。
古い団地の夜が、いつもの顔で十九時五分へ近づいていく。
十九時になった。
直人は息を浅くする。
隣でも、朔の呼吸が少しだけ浅くなったのが分かった。
十九時二分。
向かいの棟で、誰かが笑う声。
十九時三分。
下の階で、水道管が鳴る。
十九時四分。
廊下の蛍光灯がついて、じ、と細い唸りが続く。
そして、十九時五分。
壁の時計が小さく鳴った。
その一拍あとだった。
コン。
扉のすぐ向こうで鳴る。
短くはない。重すぎもしない。けれど、木目の奥までまっすぐ入ってくる。
コン。
同じ強さ。
同じ高さ。
同じ間。
ためらいも気まずさもない。ただ五回と決まっているものが、その通りに置かれていく音だった。
コン。
三回目で、直人は喉の奥がひどく乾く。
それでも、隣から離れなかった。
コン。
四回目で、朔の肘がかすかに触れた。
どちらも避けなかった。
コン。
五回目が終わる。
そこで、きっちり終わる。
六回目は来ない。
廊下の蛍光灯の低い唸りだけが、扉の向こうに残った。
直人が一歩だけ前へ出る。
朔も同じだけ前へ出た。
前後じゃなく、横だった。
「誰なんだ」
自分でも驚くくらい、声は低かった。
すぐ隣で、朔が続ける。
「聞こえてるだろ。誰だ」
返事まで、一拍あった。
扉の向こうから返ってきた声は、思っていたより若かった。
怒鳴らない。
掠れていて、何日もちゃんと眠っていないみたいな声だった。
「……俺は真壁だ。蓮の親友だ」
直人は瞬きをした。
怪異の名乗りじゃない。
人の名前だった。
それでも、その名が扉一枚ぶんの向こうから返ってきた瞬間、五回の音は少しも軽くならなかった。
朔が先に聞く。
「アカウントも、お前か」
「そうだ」
「今まで来てたのも」
「そうだ」
短い返事だった。
開き直った調子ではなかった。ただ隠すのをやめただけの声だった。
直人は扉を見たまま言う。
「何がしたい」
外の気配が、少しだけ動いた。
靴が廊下の床を擦る、ごく小さな音がする。
「……謝れって思ったことはある」
真壁の声は低いままだった。
「何度も」
そこで切れる。
続きが出るまで、蛍光灯のじ、という音だけが細く伸びた。
「でも、それ以上に」
掠れた息が、木の向こうでひとつ擦れる。
「あの五回があったって、認めさせたかった」
直人は何も言わない。
朔も言わない。
真壁が、自分で言葉を継いだ。
「あの夜、俺は蓮と通話してた。雨の音の向こうで、ここで五回鳴るのを聞いた。はっきり聞いた。あいつが、助けを求められるところまで来てるって、それで分かった」
扉の向こうの声は、怒りより先に疲れていた。
長く抱えすぎたものを、やっと口に出しているような声だった。
「そのあと、声が切れた」
それは確認じゃなく、直人の口から出た事実だった。
「……ああ」
真壁はすぐに答えた。
「切れたまま、戻らなかった」
直人の背中に冷たいものが這う。
病室で聞いた雨の夜が、扉の向こうの声で、また少し形を持つ。
朔が言う。
「だから、毎日十九時五分に来たのか」
「同じ時間に、同じ間で鳴らせば、誰か一人くらいは残すと思った」
「残す?」
真壁は少し間を置いた。
「俺だけが、あの音を覚えてるみたいで無理だった」
その一言に、直人は息を詰めた。
怒りの声ではなかった。
一人で聞いた音を、一人のまま持ち続けてきたやつの声だった。
「蓮がここまで来たことも、五回叩いたことも、なかったみたいにされるのが耐えられなかった」
真壁は言う。
「死んだ先輩、最後の声、そんな言葉だけが勝手に回る。けど、俺が残したかったのはそこじゃない。十九時五分に、ここで五回鳴った音だ」
朔の喉が動く。
昼休みにその画面を回した自分のことを、たぶん今も思い出している顔だった。
けれど、言い訳はしなかった。
直人は扉に向かって言った。
「聞いたよ」
外の気配が止まる。
「この家の家主から。去年の雨の夜、十九時五分に、ここで五回鳴ったって」
言い終えたとき、自分の声が少しだけ震えているのが分かった。
それでも、目は扉から逸らさなかった。
「なかったことにはしない」
すぐ隣で、朔が低く言う。
「俺も聞いた。忘れない」
その言葉のあと、廊下がひどく静かになった。
蛍光灯の唸り。
どこか遠くのテレビの音。
それだけが、木の向こうとこちらを細く繋いでいる。
真壁はしばらく返事をしなかった。
名前を呼ばれたわけでもないのに、そこで初めて、扉の向こうにちゃんと人が立っている感じがした。
やがて、掠れた声が落ちてくる。
「……そうか」
それは安堵でも納得でもなかった。
長く噛みしめていたものが、ほんの少しだけ別の場所へ移ったみたいな、小さい声だった。
直人は聞く。
「これで終わりか」
外で、靴の裏がまたかすかに鳴る。
「終わりにしたい」
真壁は言った。
「もう引き延ばすつもりはない」
朔が扉のそばで、わずかに姿勢を固くする。
「なら、もう来るな」
「今日は、そのために名乗った」
真壁の声は変わらない。
静かで、疲れていて、でもそこで折れはしない声だった。
「明日で最後にする。アカウントも完全に消す」
直人の喉が動く。
「……それで」
聞き返した声に、少しだけ乾きが混じる。
廊下の蛍光灯が、じ、と鳴った。
扉の向こうで真壁が一度だけ息を吸う気配がして、それから、低く言った。
「明日、開けろ」
『忘れたままにさせない』の下に、昨夜の白い吹き出しが一つ残っているだけだった。学校にいるあいだ、直人は何度か朔のスマホをのぞいたが、黒い画面は変わらない。変わらないままなのに、いつ震えるか分からない感じだけが、一日じゅう背中に張りついていた。
二〇一号室へ戻ると、家はやけに静かだった。
空いた椅子。
使われない茶碗。
背もたれにかかったままのエプロン。
直人は鞄を置いて、台所へ行った。戸棚を開け、マグを二つ出す。二つ目を取ったところで、手が先に動いていたのだと気づいたが、戻さなかった。
やかんに水を入れる。
冷蔵庫を開ける。
小さな生活の音をいくつか立てても、家の広さはあまり変わらない。
そのとき、玄関で音がした。
コン、コン。
三回目を待たなくていい音だと、もう体が覚えていた。
のぞき穴を覗くと、朔がいた。今日は小さなスーパーの袋を提げている。白い袋の口から、卵のパックの角が少し見えた。
鍵を開ける。
扉を開ける。
朔はいつものみたいに「おつかれ」とは言わず、先に言った。
「来てない」
「そっか」
それだけだった。
朔は靴を脱ぎ、洗面所のほうを顎で示した。
「手、洗う」
「タオル、そこ」
言ってから、直人は自分でも少しだけ変な気がした。聞かれる前に場所を言っている。もうこの家の中で、朔がどこへ向かうか分かるようになっていた。
朔は何も言わずに頷いた。
袋の中身は、豆腐と刻みねぎと、見切り品らしい油揚げだった。
「味噌汁、作ろうと思って」
「ご飯炊くね」
「OK」
直人は茶碗を二つ出した。箸も二膳。片方を自分の前に、もう片方を向かいへ置く。それが自然になっていることを、今さら隠す気にもなれなかった。
朔が鍋に水を入れる。
直人が炊飯器を開ける。
冷蔵庫の低い唸りの中で、包丁がまな板に当たる乾いた音がした。
誰も、昨夜の『忘れたままにさせない』についてすぐには話さなかった。
けれど話さないままでも、二人とも同じことを考えているのは分かった。
味噌汁の湯気が立つころ、ようやく朔が言った。
「今日、来ると思うか」
直人は茶碗によそったご飯を置きながら答える。
「分かんない」
「うん」
「でも、来たら」
そこまで言って、直人は少しだけ口を閉じた。
朔が鍋の火を止める。
「聞くか」
「……聞く」
短いやりとりだった。
それで十分だった。
二人で食べた夕飯は、いつもより静かだった。
味噌汁の湯気が目にしみる。向かいの棟のどこかで窓が閉まる。誰もテレビをつけない家では、そういう小さな音がすぐ入ってきた。
食べ終えると、朔が黙ってどんぶりを流しへ運ぶ。
直人はふきんを取った。
「俺もやる。一緒のほうが早いから」
朔は何も言い返さなかった。
水を出す音。
器に触れる指の音。
拭いた皿を重ねる音。
言葉よりそういう音のほうが、今の二人には馴染んでいた。
最後のどんぶりを伏せたところで、二人とも同時に時計を見た。
十八時五十九分。
朔が蛇口を閉める。
直人がふきんを畳む。
「行くか」
「うん」
玄関の前へ行く。
朔が鍵を見る。
直人がチェーンを見る。
確認する場所が違うだけで、やっていることは同じだった。
扉の前で、二人は横に並んだ。
どちらかが前に出て、どちらかが後ろにいる形ではなかった。
ここ数日で、それがいちばん自然な立ち方になっていた。
壁の時計の秒針が進む。
廊下の蛍光灯がつく前の、じ、とした低い音が向こうで鳴る。
古い団地の夜が、いつもの顔で十九時五分へ近づいていく。
十九時になった。
直人は息を浅くする。
隣でも、朔の呼吸が少しだけ浅くなったのが分かった。
十九時二分。
向かいの棟で、誰かが笑う声。
十九時三分。
下の階で、水道管が鳴る。
十九時四分。
廊下の蛍光灯がついて、じ、と細い唸りが続く。
そして、十九時五分。
壁の時計が小さく鳴った。
その一拍あとだった。
コン。
扉のすぐ向こうで鳴る。
短くはない。重すぎもしない。けれど、木目の奥までまっすぐ入ってくる。
コン。
同じ強さ。
同じ高さ。
同じ間。
ためらいも気まずさもない。ただ五回と決まっているものが、その通りに置かれていく音だった。
コン。
三回目で、直人は喉の奥がひどく乾く。
それでも、隣から離れなかった。
コン。
四回目で、朔の肘がかすかに触れた。
どちらも避けなかった。
コン。
五回目が終わる。
そこで、きっちり終わる。
六回目は来ない。
廊下の蛍光灯の低い唸りだけが、扉の向こうに残った。
直人が一歩だけ前へ出る。
朔も同じだけ前へ出た。
前後じゃなく、横だった。
「誰なんだ」
自分でも驚くくらい、声は低かった。
すぐ隣で、朔が続ける。
「聞こえてるだろ。誰だ」
返事まで、一拍あった。
扉の向こうから返ってきた声は、思っていたより若かった。
怒鳴らない。
掠れていて、何日もちゃんと眠っていないみたいな声だった。
「……俺は真壁だ。蓮の親友だ」
直人は瞬きをした。
怪異の名乗りじゃない。
人の名前だった。
それでも、その名が扉一枚ぶんの向こうから返ってきた瞬間、五回の音は少しも軽くならなかった。
朔が先に聞く。
「アカウントも、お前か」
「そうだ」
「今まで来てたのも」
「そうだ」
短い返事だった。
開き直った調子ではなかった。ただ隠すのをやめただけの声だった。
直人は扉を見たまま言う。
「何がしたい」
外の気配が、少しだけ動いた。
靴が廊下の床を擦る、ごく小さな音がする。
「……謝れって思ったことはある」
真壁の声は低いままだった。
「何度も」
そこで切れる。
続きが出るまで、蛍光灯のじ、という音だけが細く伸びた。
「でも、それ以上に」
掠れた息が、木の向こうでひとつ擦れる。
「あの五回があったって、認めさせたかった」
直人は何も言わない。
朔も言わない。
真壁が、自分で言葉を継いだ。
「あの夜、俺は蓮と通話してた。雨の音の向こうで、ここで五回鳴るのを聞いた。はっきり聞いた。あいつが、助けを求められるところまで来てるって、それで分かった」
扉の向こうの声は、怒りより先に疲れていた。
長く抱えすぎたものを、やっと口に出しているような声だった。
「そのあと、声が切れた」
それは確認じゃなく、直人の口から出た事実だった。
「……ああ」
真壁はすぐに答えた。
「切れたまま、戻らなかった」
直人の背中に冷たいものが這う。
病室で聞いた雨の夜が、扉の向こうの声で、また少し形を持つ。
朔が言う。
「だから、毎日十九時五分に来たのか」
「同じ時間に、同じ間で鳴らせば、誰か一人くらいは残すと思った」
「残す?」
真壁は少し間を置いた。
「俺だけが、あの音を覚えてるみたいで無理だった」
その一言に、直人は息を詰めた。
怒りの声ではなかった。
一人で聞いた音を、一人のまま持ち続けてきたやつの声だった。
「蓮がここまで来たことも、五回叩いたことも、なかったみたいにされるのが耐えられなかった」
真壁は言う。
「死んだ先輩、最後の声、そんな言葉だけが勝手に回る。けど、俺が残したかったのはそこじゃない。十九時五分に、ここで五回鳴った音だ」
朔の喉が動く。
昼休みにその画面を回した自分のことを、たぶん今も思い出している顔だった。
けれど、言い訳はしなかった。
直人は扉に向かって言った。
「聞いたよ」
外の気配が止まる。
「この家の家主から。去年の雨の夜、十九時五分に、ここで五回鳴ったって」
言い終えたとき、自分の声が少しだけ震えているのが分かった。
それでも、目は扉から逸らさなかった。
「なかったことにはしない」
すぐ隣で、朔が低く言う。
「俺も聞いた。忘れない」
その言葉のあと、廊下がひどく静かになった。
蛍光灯の唸り。
どこか遠くのテレビの音。
それだけが、木の向こうとこちらを細く繋いでいる。
真壁はしばらく返事をしなかった。
名前を呼ばれたわけでもないのに、そこで初めて、扉の向こうにちゃんと人が立っている感じがした。
やがて、掠れた声が落ちてくる。
「……そうか」
それは安堵でも納得でもなかった。
長く噛みしめていたものが、ほんの少しだけ別の場所へ移ったみたいな、小さい声だった。
直人は聞く。
「これで終わりか」
外で、靴の裏がまたかすかに鳴る。
「終わりにしたい」
真壁は言った。
「もう引き延ばすつもりはない」
朔が扉のそばで、わずかに姿勢を固くする。
「なら、もう来るな」
「今日は、そのために名乗った」
真壁の声は変わらない。
静かで、疲れていて、でもそこで折れはしない声だった。
「明日で最後にする。アカウントも完全に消す」
直人の喉が動く。
「……それで」
聞き返した声に、少しだけ乾きが混じる。
廊下の蛍光灯が、じ、と鳴った。
扉の向こうで真壁が一度だけ息を吸う気配がして、それから、低く言った。
「明日、開けろ」



