蓮、という名前が、すぐには一人の顔にならなかった。
病室で郁子が言った、雨の夜に二〇一号室の前まで来た人。怪我をして、助けを求めて、五回叩いた相手。そこにようやく名前だけがついた。
「……蓮って」
直人が言うと、朔はスマホを持ったまま小さくうなずいた。
「たぶん、あの夜のやつだろ」
居間は静かだった。冷蔵庫の低い唸りと、壁の時計の秒針だけが動いている。郁子のいない椅子の背には、まだエプロンがかかったままだった。
朔が親指を動かす。
『お前は蓮なのか』
返事は待たせなかった。
ぶる。
薄い畳の上でスマホが一度だけ跳ねる。朔が画面を開く。直人も自然に肩を寄せた。少し動けば触れそうな距離だった。
『違う』
ぶる。
『死んだのは蓮だ』
喉の奥が、ひやりとした。
ぶる。
『あの夜、俺は蓮と通話していた』
二〇一号室の前にいたのは、一人だけだと思っていた。
けれど、あの雨の夜にはもうひとつの場所があって、通話の向こうにも耳がひとつあったのだ。
「……生きてる」
気づくと、直人はそう言っていた。
朔は返事をしなかった。ただ、画面から目を離さないまま、もう一度打つ。
『何を聞いた?』
返事はまた早かった。
ぶる。
『雨の音の向こうで五回ノックするのを聞いた』
ぶる。
『そのあと、蓮の声が切れた』
その言葉だけで、昼休みの教室がまた頭の中に戻ってくる。スマホを囲んだ輪。去年死んだ先輩。最後の声。怖い。釣り。そういう軽い言葉の上を、いま目の前の白い文字が踏み抜いていく。
決まった時間に五回だけ鳴るものより、今どこかで、こちらの返事に合わせてすぐ打ち返してくる人間のほうが、よほど生活に近かった。十九時五分を過ぎても終わらない。スマホが震えるたび、この家の中へ別の誰かの気配が入り込んでくる。
朔が低く言った。
「……これ、もう怪談じゃねえ」
直人はうなずいた。
怪談なら、まだ距離があった。
今は違う。画面の向こうに、眠っていない相手がいる。
『なんで俺に返す』
少し間があってから、返事が来る。
『前にお前からDMが来た』
朔の喉が目に見えるほど小さく動いた。
ぶる。
『あの家の人をこれ以上怯えさせるなって』
ぶる。
『家主に近いやつにしか、あんな言い方はできない』
ぶる。
『だから返してる』
直人は、画面を見たまま息を吐いた。
やめろって送った、と朔は言っていた。
あのとき、ただ止めたいだけで打った短い文まで、相手はちゃんと読んで、覚えて、今返している。
それが気味悪かった。
五回のノックよりも、むしろそっちのほうが嫌だった。決まった時刻に来るものではなく、こちらの文字の癖や、言い方や、守ろうとしたものまで見ている誰かがいる。
直人が言った。
「聞け」
朔がわずかに顔を向ける。
直人は画面を指した。
『蓮の何なんだ』
送る。
今度は、すぐには返ってこなかった。
壁の時計が二つ、三つと進む。
廊下の向こうで誰かが階段を下りていく音がして、それも遠くなる。
居間の空気だけが、返事待ちの形のまま止まっている。
朔が小さく息を吐いたとき、ようやくスマホが震えた。
『あいつを一人で終わらせる気はない』
それだけだった。
友達だとも、何者だとも書いていない。
けれど、その短い一文の中にあるものは、恨みより先に喪失だった。
直人はしばらく、何も言えなかった。
怒りでここまで来ているのは分かる。けれど、その怒りが、ふざけて人を怖がらせる楽しさから来ていないことも、もう分かった。
「……飲め」
自分でも驚くくらい、唐突にそう言っていた。
台所へ行って、水を二つ持ってくる。
一つを朔の前に置くと、朔は少しだけ目を見開いてから受け取った。
「ありがと」
「別に」
直人もコップを持つ。
冷たい水が喉を落ちていくのに、胸の奥はまだざらついたままだった。
空いた椅子の背にかかったエプロンが、視界の端に白く見える。
郁子がいない家で、郁子の知らないところから届く文字が、今日の夜だけで二〇一号室の意味をまた少し変えていた。
「ノックのほうが、まだましだったな」
直人が言うと、朔は笑いもしないで言った。
「分かる」
「ノックなら、十九時五分だけ待てばよかった」
「こっちは違う」
「うん」
十九時五分が終われば、その夜は終わった気がしていた。
けれど、今はもう違う。いつ震えるか分からないもののほうが、よほど生活に近くて厄介だった。
「……通話の向こうにいただけなのに」
直人がぽつりと言うと、朔は少し間を置いた。
「だけ、じゃねえだろ」
朔がコップを半分ほど空けてから、言った。
コップを置く音が小さく鳴る。
「最後まで聞いたんだ。きっと死ぬときの声まで」
直人は何も返せなかった。
雨の夜、濡れた息の向こうで、五回のノック音が電話越しに聞こえる。
そのあと、声が切れる。
見えていなくても、ずっと耳には残る。
そのことを想像すると、画面の向こうの執着の形が、少しだけ分かった気がした。
けれど分かることと、気味悪さが消えることは別だった。
電気を落とす。
台所の小さな明かりだけを残して、居間は半端な暗さになった。
布団に入る。
最初から近くに敷いてあった二組のあいだで、床のスマホだけが小さな見張りみたいに残っている。
布団の擦れる音。
時計の秒針。
冷蔵庫の低い音。
そのどれもが大きかった。
しばらくして、直人が言った。
「あのさ」
「なに」
「起きてる?」
「見れば分かるだろ」
その返しに、少しだけ息が抜ける。
真っ暗ならもっと怖かったかもしれない。半端な明るさの中で、隣の布団がちゃんとあることだけが、今は助かった。
「さっきの」
「うん」
「一緒に見てくれて、ありがと」
言ってから、胸の奥が少しだけ熱くなった。
こんなことを言うつもりはなかったのに、暗いときのほうが言葉は先に出る。
隣で、布団が小さく鳴る。
朔が少しだけこちらを向いた気配がした。
「……うん」
それだけだった。
でも、それでよかった。
直人は天井を見たまま続ける。
「まだ寝るなよ」
「無茶言うな」
「眠くなるまで」
短い沈黙のあと、朔が言う。
「分かった」
それで、また静かになった。
けれどさっきまでの静けさとは少し違う。何もない静けさじゃない。別の呼吸がひとつある静けさだった。
「お前、明日もいるのか」
気づけば、また聞いていた。
「いる」
返事は早かった。
「……そっか」
それ以上は言わない。
言わなくても、自分が何を確かめたかったのかは分かっていた。
時計はもう十時を回っているはずだった。
十九時五分だけを気にしていたころより、夜が長くなった気がする。
「寝てない?」
「まだ何かあるのか?」
「ある」
そう言うと、隣で小さく息が漏れた。
笑ったわけではない。ただ、少しだけ力が抜けたみたいな音だった。
「向こうは何がしたいんだと思う?」
「分かんねえ」
「恨みたいだけなら、もっと違うやり方あるだろ?」
「うん」
「なのに、ノックとか、メッセージとか」
直人はそこで口を閉じた。
空いた椅子の背にかかったエプロンが、暗がりの中で薄く浮いている。忘れたくてそのままにしているわけじゃないのに、動かせないものみたいに、そこにある。
朔が言った。
「聞くか」
直人は少しだけ目を閉じた。
聞きたい。怖い。でも、このまま眠れないまま朝までいるのも嫌だった。
「……送る」
二人とも半身を起こす。
床のスマホを取って、同じ画面をのぞき込む。暗い居間で、二人の肩が触れそうなほど近かった。けれどどちらも離れなかった。
直人が打つ。
『何がしたい?』
送信する。
画面はそのまま静かだった。
既読もつかない。白い吹き出しだけが、右側にぽつんと残る。
「来ないな」
朔が言う。
「かもな」
直人はスマホをまた二人のあいだに置いた。
充電の小さな光だけが、床で細く点いている。
二人とも、もう一度布団に戻る。
返事がないならないで、まだましだと思おうとした。
けれど、目は閉じても眠気は来なかった。
向かいの棟のどこかで窓が閉まる。
廊下で誰かの足音が一度だけ止まって、また離れる。
そのあと、部屋はひどく静かになった。
ぶる。
二人が同時に起き上がる。
床の上のスマホが短く震えていた。
白い画面が、二つの布団のあいだを下から照らす。
直人は手を伸ばした。
ほとんど同時に、朔の手も伸びる。
指先がかすかに触れて、それから二人で同じ画面を見る。
黒い画面に、白い文字が一行だけ浮かんでいた。
『忘れたままにさせない』
病室で郁子が言った、雨の夜に二〇一号室の前まで来た人。怪我をして、助けを求めて、五回叩いた相手。そこにようやく名前だけがついた。
「……蓮って」
直人が言うと、朔はスマホを持ったまま小さくうなずいた。
「たぶん、あの夜のやつだろ」
居間は静かだった。冷蔵庫の低い唸りと、壁の時計の秒針だけが動いている。郁子のいない椅子の背には、まだエプロンがかかったままだった。
朔が親指を動かす。
『お前は蓮なのか』
返事は待たせなかった。
ぶる。
薄い畳の上でスマホが一度だけ跳ねる。朔が画面を開く。直人も自然に肩を寄せた。少し動けば触れそうな距離だった。
『違う』
ぶる。
『死んだのは蓮だ』
喉の奥が、ひやりとした。
ぶる。
『あの夜、俺は蓮と通話していた』
二〇一号室の前にいたのは、一人だけだと思っていた。
けれど、あの雨の夜にはもうひとつの場所があって、通話の向こうにも耳がひとつあったのだ。
「……生きてる」
気づくと、直人はそう言っていた。
朔は返事をしなかった。ただ、画面から目を離さないまま、もう一度打つ。
『何を聞いた?』
返事はまた早かった。
ぶる。
『雨の音の向こうで五回ノックするのを聞いた』
ぶる。
『そのあと、蓮の声が切れた』
その言葉だけで、昼休みの教室がまた頭の中に戻ってくる。スマホを囲んだ輪。去年死んだ先輩。最後の声。怖い。釣り。そういう軽い言葉の上を、いま目の前の白い文字が踏み抜いていく。
決まった時間に五回だけ鳴るものより、今どこかで、こちらの返事に合わせてすぐ打ち返してくる人間のほうが、よほど生活に近かった。十九時五分を過ぎても終わらない。スマホが震えるたび、この家の中へ別の誰かの気配が入り込んでくる。
朔が低く言った。
「……これ、もう怪談じゃねえ」
直人はうなずいた。
怪談なら、まだ距離があった。
今は違う。画面の向こうに、眠っていない相手がいる。
『なんで俺に返す』
少し間があってから、返事が来る。
『前にお前からDMが来た』
朔の喉が目に見えるほど小さく動いた。
ぶる。
『あの家の人をこれ以上怯えさせるなって』
ぶる。
『家主に近いやつにしか、あんな言い方はできない』
ぶる。
『だから返してる』
直人は、画面を見たまま息を吐いた。
やめろって送った、と朔は言っていた。
あのとき、ただ止めたいだけで打った短い文まで、相手はちゃんと読んで、覚えて、今返している。
それが気味悪かった。
五回のノックよりも、むしろそっちのほうが嫌だった。決まった時刻に来るものではなく、こちらの文字の癖や、言い方や、守ろうとしたものまで見ている誰かがいる。
直人が言った。
「聞け」
朔がわずかに顔を向ける。
直人は画面を指した。
『蓮の何なんだ』
送る。
今度は、すぐには返ってこなかった。
壁の時計が二つ、三つと進む。
廊下の向こうで誰かが階段を下りていく音がして、それも遠くなる。
居間の空気だけが、返事待ちの形のまま止まっている。
朔が小さく息を吐いたとき、ようやくスマホが震えた。
『あいつを一人で終わらせる気はない』
それだけだった。
友達だとも、何者だとも書いていない。
けれど、その短い一文の中にあるものは、恨みより先に喪失だった。
直人はしばらく、何も言えなかった。
怒りでここまで来ているのは分かる。けれど、その怒りが、ふざけて人を怖がらせる楽しさから来ていないことも、もう分かった。
「……飲め」
自分でも驚くくらい、唐突にそう言っていた。
台所へ行って、水を二つ持ってくる。
一つを朔の前に置くと、朔は少しだけ目を見開いてから受け取った。
「ありがと」
「別に」
直人もコップを持つ。
冷たい水が喉を落ちていくのに、胸の奥はまだざらついたままだった。
空いた椅子の背にかかったエプロンが、視界の端に白く見える。
郁子がいない家で、郁子の知らないところから届く文字が、今日の夜だけで二〇一号室の意味をまた少し変えていた。
「ノックのほうが、まだましだったな」
直人が言うと、朔は笑いもしないで言った。
「分かる」
「ノックなら、十九時五分だけ待てばよかった」
「こっちは違う」
「うん」
十九時五分が終われば、その夜は終わった気がしていた。
けれど、今はもう違う。いつ震えるか分からないもののほうが、よほど生活に近くて厄介だった。
「……通話の向こうにいただけなのに」
直人がぽつりと言うと、朔は少し間を置いた。
「だけ、じゃねえだろ」
朔がコップを半分ほど空けてから、言った。
コップを置く音が小さく鳴る。
「最後まで聞いたんだ。きっと死ぬときの声まで」
直人は何も返せなかった。
雨の夜、濡れた息の向こうで、五回のノック音が電話越しに聞こえる。
そのあと、声が切れる。
見えていなくても、ずっと耳には残る。
そのことを想像すると、画面の向こうの執着の形が、少しだけ分かった気がした。
けれど分かることと、気味悪さが消えることは別だった。
電気を落とす。
台所の小さな明かりだけを残して、居間は半端な暗さになった。
布団に入る。
最初から近くに敷いてあった二組のあいだで、床のスマホだけが小さな見張りみたいに残っている。
布団の擦れる音。
時計の秒針。
冷蔵庫の低い音。
そのどれもが大きかった。
しばらくして、直人が言った。
「あのさ」
「なに」
「起きてる?」
「見れば分かるだろ」
その返しに、少しだけ息が抜ける。
真っ暗ならもっと怖かったかもしれない。半端な明るさの中で、隣の布団がちゃんとあることだけが、今は助かった。
「さっきの」
「うん」
「一緒に見てくれて、ありがと」
言ってから、胸の奥が少しだけ熱くなった。
こんなことを言うつもりはなかったのに、暗いときのほうが言葉は先に出る。
隣で、布団が小さく鳴る。
朔が少しだけこちらを向いた気配がした。
「……うん」
それだけだった。
でも、それでよかった。
直人は天井を見たまま続ける。
「まだ寝るなよ」
「無茶言うな」
「眠くなるまで」
短い沈黙のあと、朔が言う。
「分かった」
それで、また静かになった。
けれどさっきまでの静けさとは少し違う。何もない静けさじゃない。別の呼吸がひとつある静けさだった。
「お前、明日もいるのか」
気づけば、また聞いていた。
「いる」
返事は早かった。
「……そっか」
それ以上は言わない。
言わなくても、自分が何を確かめたかったのかは分かっていた。
時計はもう十時を回っているはずだった。
十九時五分だけを気にしていたころより、夜が長くなった気がする。
「寝てない?」
「まだ何かあるのか?」
「ある」
そう言うと、隣で小さく息が漏れた。
笑ったわけではない。ただ、少しだけ力が抜けたみたいな音だった。
「向こうは何がしたいんだと思う?」
「分かんねえ」
「恨みたいだけなら、もっと違うやり方あるだろ?」
「うん」
「なのに、ノックとか、メッセージとか」
直人はそこで口を閉じた。
空いた椅子の背にかかったエプロンが、暗がりの中で薄く浮いている。忘れたくてそのままにしているわけじゃないのに、動かせないものみたいに、そこにある。
朔が言った。
「聞くか」
直人は少しだけ目を閉じた。
聞きたい。怖い。でも、このまま眠れないまま朝までいるのも嫌だった。
「……送る」
二人とも半身を起こす。
床のスマホを取って、同じ画面をのぞき込む。暗い居間で、二人の肩が触れそうなほど近かった。けれどどちらも離れなかった。
直人が打つ。
『何がしたい?』
送信する。
画面はそのまま静かだった。
既読もつかない。白い吹き出しだけが、右側にぽつんと残る。
「来ないな」
朔が言う。
「かもな」
直人はスマホをまた二人のあいだに置いた。
充電の小さな光だけが、床で細く点いている。
二人とも、もう一度布団に戻る。
返事がないならないで、まだましだと思おうとした。
けれど、目は閉じても眠気は来なかった。
向かいの棟のどこかで窓が閉まる。
廊下で誰かの足音が一度だけ止まって、また離れる。
そのあと、部屋はひどく静かになった。
ぶる。
二人が同時に起き上がる。
床の上のスマホが短く震えていた。
白い画面が、二つの布団のあいだを下から照らす。
直人は手を伸ばした。
ほとんど同時に、朔の手も伸びる。
指先がかすかに触れて、それから二人で同じ画面を見る。
黒い画面に、白い文字が一行だけ浮かんでいた。
『忘れたままにさせない』



