四月になってから、直人はまだ一度も、この町の朝の匂いに慣れたと思えたことがなかった。
家から学校までの道も、校門の位置も、購買の混み方も、全部もう覚えたはずなのに、ふとした拍子に自分だけ地図の外にいるみたいな気分になる。前の家なら、曲がり角の先に何があるか、夜の風の冷たさがどこで変わるかまで知っていた。ここではまだ、夕方の空の色すら借り物じみて見えた。
高校進学を機に、祖母の家に移ったのは通学のためだった。実家から通えない距離ではないが、乗り換えが多くて朝が早すぎる。父と母がそう言って、春休みの終わりに荷物をまとめた。祖母の郁子は喜んでくれたし、直人も嫌だったわけではない。ただ、ひとりで前の生活から切り離されて、新しい場所に置かれたみたいな感じだけが、まだ体のどこかに残っている。
教室の後ろの窓際。自分の席に座って、直人は開いたままの英単語帳に目を落としていた。文字は見えているのに、頭には入ってこない。昼休みの教室はざわざわしていて、会話の切れ端だけがいくつも飛んでくる。
「それでさ、マジで聞こえるらしいって」
「なにが」
「最後の声。去年死んだ先輩の」
その言葉に、直人は顔を上げた。
教室の中央あたりで、何人かがスマホをのぞき込んでいる。輪の中心にいるのは朔だった。背が少し高くて、話すとき手振りが大きいから、離れていても目に入る。入学してすぐ、クラスの空気の真ん中にいるタイプだと分かった。誰にでも話しかけるが、だからといって直人みたいな端の人間と親しくなるわけではない。遠くから見える、賑やかな側の人だった。
「ほら、これこれ」
朔がスマホをかざす。周りの何人かが身を寄せて、笑いながらのぞき込んだ。
「うわ、怖」
「でもこういうの、絶対誰かの釣りだろ」
「アカウント名からしてそれっぽいしな」
直人は単語帳を閉じた。聞こえてくる言葉だけではよく分からないが、なぜか耳がそこから離れなかった。
「去年の三年の先輩だって。事故かなんかで死んだってやつ」
「事故じゃなくて、行方不明のあとに見つかったとかじゃなかった?」
「それもう話盛ってるだろ」
笑い声が混じる。たいしたことではない、教室によくある噂話の温度だった。けれど直人は、噂話は無責任な感じがして、あまり好きではなかった。
隣の席の男子が立ち上がるついでに、直人の机に肘をぶつけた。
「あ、ごめん」
「いや、大丈夫」
反射でそう答えたあと、直人は少し迷ってから席を立った。輪に入るつもりはなかったが、廊下に出ようとしたとき、ちょうど朔たちのそばを通る形になった。
「見る?」
不意に朔が言った。
直人は足を止めた。自分に向けられた言葉だと気づくまで、一拍かかった。
「え」
「これ。別に無理ならいいけど」
朔のスマホの画面には、黒っぽい背景に白い文字だけのアカウントが表示されていた。アイコンも初期設定のままらしく、妙に空っぽで、かえって目につく。
『去年死んだ先輩の最後の声を、知りたい人へ。
十九時五分、二〇一号室を五回ノックしてみてください。』
その下に、短い音声データの波形が貼られていた。
直人は、そこで文字を読むのをやめた。
「……二〇一号室?」
自分でも情けないくらい、声が薄くなった。
「ん?」
朔が画面から顔を上げる。
「どうした」
「いや、その……」
喉が急に狭くなった気がした。言わなくてもいいことのはずだった。けれど、見間違いではないか確かめたくて、もう一度画面を見る。数字は変わらない。二〇一号室。
祖母の家の、表札の横にあるプレートと同じ数字だった。
「それ、住所も書いてあるのか?」
「いや、部屋番号だけ。でも、このへんの団地だってコメント欄で騒がれてる」
朔が画面を少しスクロールさせる。見覚えのある団地名が、何人かの投稿の中に混じっていた。略称だったが、間違えようがない。校舎から歩いて十五分ほどの、古い四階建ての団地。直人が郁子と暮らしている場所だ。
背中に、冷たいものが這った。
教室のざわめきはそのままだ。誰かがパンの袋を鳴らして、遠くで椅子が引かれる音がした。全部さっきと同じなのに、自分の周りの空気だけが薄くなる。
「おい、直人?」
朔の声が、少し近くなる。
直人はようやく顔を上げた。いつの間にか、輪の何人かがこちらを見ていた。
「……なんでもない」
そう言うしかなかった。
「顔色、悪いけど?」
「平気」
平気なわけがないと、自分でも分かる言い方だった。けれど、それ以外の答え方を知らない。
一人が興味本位の顔で言った。
「もしかして知ってるの?その部屋」
直人はそちらを見なかった。見たら、変な間ができる気がした。
「知らない」
嘘をついた瞬間、胸の奥がさらに冷えた。
朔は少し黙ってから、スマホを引っ込めた。
「まあ、ただの悪趣味なアカウントだろ。昨日も別のクラスでこの話してたし」
軽い口調だったが、周りに向けて言ったのか、直人に向けて言ったのか分からなかった。
「音声、聞いたのか?」
気づけば、直人はそう聞いていた。
「まだ。つーか昼に聞くもんでもないだろ。こういうのは夜中にこっそり聞いたほうがおもしろいじゃん!」
誰かが笑って、「確かに」と言う。朔も口の端だけで笑った。
「でもまあ、こういう都市伝説系の噂、広がるの早いよな。俺もちょっと回しちゃったし」
その言い方は、本当に軽かった。噂を面白がって回すことに、深い意味なんてないような。
だからこそ、直人は何も言えなかった。
チャイムが鳴って、輪がほどける。直人は自分の席に戻ったが、もう授業どころではなかった。二〇一号室という数字だけが、頭の中で無音のまま点滅している。
放課後、団地に向かう道は、朝より狭く感じた。
校門を出てすぐの商店街を抜け、信号を二つ渡る。夕方の買い物帰りの人たちが行き交い、自転車のベルが鳴る。ありふれた町の音が続いているのに、直人は何度も後ろを振り返りそうになった。誰かに見られている気がする、というほどはっきりしたものではない。ただ、住所を知られているかもしれないという事実が、道の幅を少しずつ削っていく。
団地は古く、二階に上がる外階段は踏むたびに乾いた音がした。薄い灰色の廊下に、夕方の光が斜めに差している。等間隔に並んだドアの中で、二〇一号室だけが急に浮いて見えた。
直人は立ち止まった。
見慣れているはずの玄関扉。擦れた塗装。小さな郵便受け。表札には郁子の名字が出たままで、その下に白い数字のプレートがある。二〇一。
なんでもない。昨日までだってそうだった。
なのに今日は、その数字が不気味なものに見える。
鍵を差し込む手が少し滑った。
「直人くん?」
中から声がして、扉が開いた。郁子がエプロン姿で立っている。買い物袋を片手に持ったままの直人を見て、目元をやわらげた。
「おかえり。早かったね」
「……うん」
家の中に入ると、だしの匂いがした。いつもと同じはずの匂いに、少しだけ息が戻る。郁子は台所へ向かいながら言った。
「今日は授業、どうだった?」
「普通」
「お友達はできた?」
その問いに、直人は少しだけ間を置いた。
「まだ、そんなに」
「そう」
郁子は責めるでもなく、ただ相槌のように言った。直人はそれがありがたかった。無理に励まされるより、ずっと楽だ。
鞄を置いて手を洗い、食卓につく。窓の外はもう薄暗い。団地の向かいの棟に、ぽつぽつと明かりがともり始めていた。
郁子が味噌汁をよそいながら、学校のことをもう少し聞いてくる。担任はどんな先生か、部活は見たか、教科書は重いか。直人も短く答えた。会話は途切れがちだったが、気まずくはなかった。祖母と孫というより、今は同居人同士が少しずつ間合いを測っている感じに近い。
「この町、慣れそう?」
湯気の向こうから、郁子が聞く。
直人は味噌汁の椀を持ったまま、少し考えた。
「……まだあんまり」
「そうよねえ。急に来たんだものね」
「学校の近くなのは助かるけど」
「それだけでも違うと思ってね。朝、あんまり早く出るのはかわいそうだし」
かわいそう、と言われると、少しだけ居心地が悪い。自分で決めたことではないにせよ、守られる側のままいるのは落ち着かなかった。
それをごまかすように、直人は別の話をした。
「学校で、変な噂が回ってた」
「噂?」
「うん。去年死んだ先輩の最後の声が聞けるって」
郁子の手が止まった。
ほんの一瞬だった。だが、直人は見逃さなかった。味噌汁の鍋のふたを持つ指先に、力が入る。
「そういう、よくあるやつだよ。匿名アカウントで」
できるだけ軽く言ったつもりだった。郁子を怖がらせるような話ではないと思ったからだ。だが、郁子はふたを戻さないまま、じっとこちらを見た。
「……なんて?」
「だから、都市伝説みたいな。音声が上がってて、十九時五分に」
そこで、直人も言葉を止めた。
郁子の顔色が変わっていた。青ざめる、というほど大げさではない。けれど、血の気が静かに引いていくのが分かる顔だった。
「どこの、話なの?」
声が掠れていた。
直人の背筋が伸びる。
「二〇一号室、って」
箸が落ちた。
小さな音だったのに、ひどく大きく響いた。郁子はそれを拾おうともせず、呼吸の仕方を忘れたように胸元が浅く上下している。
「おばあちゃん?」
「誰が、そんなことを?」
「分からない。学校で回ってて」
直人はポケットからスマホを出した。自分ではそのアカウントを開いていなかったが、教室で見えた名前の断片を思い出しながら検索する。すぐに出てきた。
黒い画面。白い文字。簡素すぎる投稿。
郁子はその画面を見た瞬間、息を呑んだ。
「おばあちゃん、知ってるの?」
返事はなかった。
代わりに、郁子は立ち上がって玄関の方を見た。そこで初めて、直人はその視線の異様さに気づいた。何かを思い出した人の目だった。ただ驚いているのではない。恐怖に触れた顔だ。
「鍵、閉めてる?」
「え」
「チェーンも」
「今、閉めてるけど」
「ほんとに?」
語尾が少し上ずっていた。郁子は自分で玄関まで行き、確認しに行った。金属の擦れる音がして、ドアチェーンがかけ直される。がちゃん、と固い音が鳴る。
その背中を見て、直人は椅子から立てなかった。
ただの噂じゃない。
そう思ったのは、根拠があったからではない。郁子が何を知っているのか、まだ何も分からない。けれど、知らない人の怖がり方ではなかった。
郁子は玄関の前にしばらく立ち尽くし、それから振り返った。表情を戻そうとしているのが分かるのに、戻りきっていない。
「直人くん」
「なに」
「その話、学校で……あまり、しないほうがいいわ」
「なんで」
問い返すと、郁子はすぐには答えなかった。
廊下の蛍光灯がついたのか、玄関の向こうから、じ、と低い音がした。古い団地によくある、頼りない点灯音だった。それだけのはずなのに、郁子の肩がわずかに跳ねる。
直人は喉の奥が冷えるのを感じた。
夕食の湯気は消えていない。味噌汁も、ご飯も、いつもの家の匂いのままそこにある。なのに部屋の空気だけが、少し前までとは別のものになっていた。
郁子は結局、理由を言わなかった。ただ、唇を結んで、玄関のほうから目を離せずにいる。
直人はテーブルの上の自分のスマホを見た。画面には黒い投稿が開いたまま、白い文字だけが静かに光っていた。
『十九時五分、二〇一号室を五回ノックしてみてください。』
家から学校までの道も、校門の位置も、購買の混み方も、全部もう覚えたはずなのに、ふとした拍子に自分だけ地図の外にいるみたいな気分になる。前の家なら、曲がり角の先に何があるか、夜の風の冷たさがどこで変わるかまで知っていた。ここではまだ、夕方の空の色すら借り物じみて見えた。
高校進学を機に、祖母の家に移ったのは通学のためだった。実家から通えない距離ではないが、乗り換えが多くて朝が早すぎる。父と母がそう言って、春休みの終わりに荷物をまとめた。祖母の郁子は喜んでくれたし、直人も嫌だったわけではない。ただ、ひとりで前の生活から切り離されて、新しい場所に置かれたみたいな感じだけが、まだ体のどこかに残っている。
教室の後ろの窓際。自分の席に座って、直人は開いたままの英単語帳に目を落としていた。文字は見えているのに、頭には入ってこない。昼休みの教室はざわざわしていて、会話の切れ端だけがいくつも飛んでくる。
「それでさ、マジで聞こえるらしいって」
「なにが」
「最後の声。去年死んだ先輩の」
その言葉に、直人は顔を上げた。
教室の中央あたりで、何人かがスマホをのぞき込んでいる。輪の中心にいるのは朔だった。背が少し高くて、話すとき手振りが大きいから、離れていても目に入る。入学してすぐ、クラスの空気の真ん中にいるタイプだと分かった。誰にでも話しかけるが、だからといって直人みたいな端の人間と親しくなるわけではない。遠くから見える、賑やかな側の人だった。
「ほら、これこれ」
朔がスマホをかざす。周りの何人かが身を寄せて、笑いながらのぞき込んだ。
「うわ、怖」
「でもこういうの、絶対誰かの釣りだろ」
「アカウント名からしてそれっぽいしな」
直人は単語帳を閉じた。聞こえてくる言葉だけではよく分からないが、なぜか耳がそこから離れなかった。
「去年の三年の先輩だって。事故かなんかで死んだってやつ」
「事故じゃなくて、行方不明のあとに見つかったとかじゃなかった?」
「それもう話盛ってるだろ」
笑い声が混じる。たいしたことではない、教室によくある噂話の温度だった。けれど直人は、噂話は無責任な感じがして、あまり好きではなかった。
隣の席の男子が立ち上がるついでに、直人の机に肘をぶつけた。
「あ、ごめん」
「いや、大丈夫」
反射でそう答えたあと、直人は少し迷ってから席を立った。輪に入るつもりはなかったが、廊下に出ようとしたとき、ちょうど朔たちのそばを通る形になった。
「見る?」
不意に朔が言った。
直人は足を止めた。自分に向けられた言葉だと気づくまで、一拍かかった。
「え」
「これ。別に無理ならいいけど」
朔のスマホの画面には、黒っぽい背景に白い文字だけのアカウントが表示されていた。アイコンも初期設定のままらしく、妙に空っぽで、かえって目につく。
『去年死んだ先輩の最後の声を、知りたい人へ。
十九時五分、二〇一号室を五回ノックしてみてください。』
その下に、短い音声データの波形が貼られていた。
直人は、そこで文字を読むのをやめた。
「……二〇一号室?」
自分でも情けないくらい、声が薄くなった。
「ん?」
朔が画面から顔を上げる。
「どうした」
「いや、その……」
喉が急に狭くなった気がした。言わなくてもいいことのはずだった。けれど、見間違いではないか確かめたくて、もう一度画面を見る。数字は変わらない。二〇一号室。
祖母の家の、表札の横にあるプレートと同じ数字だった。
「それ、住所も書いてあるのか?」
「いや、部屋番号だけ。でも、このへんの団地だってコメント欄で騒がれてる」
朔が画面を少しスクロールさせる。見覚えのある団地名が、何人かの投稿の中に混じっていた。略称だったが、間違えようがない。校舎から歩いて十五分ほどの、古い四階建ての団地。直人が郁子と暮らしている場所だ。
背中に、冷たいものが這った。
教室のざわめきはそのままだ。誰かがパンの袋を鳴らして、遠くで椅子が引かれる音がした。全部さっきと同じなのに、自分の周りの空気だけが薄くなる。
「おい、直人?」
朔の声が、少し近くなる。
直人はようやく顔を上げた。いつの間にか、輪の何人かがこちらを見ていた。
「……なんでもない」
そう言うしかなかった。
「顔色、悪いけど?」
「平気」
平気なわけがないと、自分でも分かる言い方だった。けれど、それ以外の答え方を知らない。
一人が興味本位の顔で言った。
「もしかして知ってるの?その部屋」
直人はそちらを見なかった。見たら、変な間ができる気がした。
「知らない」
嘘をついた瞬間、胸の奥がさらに冷えた。
朔は少し黙ってから、スマホを引っ込めた。
「まあ、ただの悪趣味なアカウントだろ。昨日も別のクラスでこの話してたし」
軽い口調だったが、周りに向けて言ったのか、直人に向けて言ったのか分からなかった。
「音声、聞いたのか?」
気づけば、直人はそう聞いていた。
「まだ。つーか昼に聞くもんでもないだろ。こういうのは夜中にこっそり聞いたほうがおもしろいじゃん!」
誰かが笑って、「確かに」と言う。朔も口の端だけで笑った。
「でもまあ、こういう都市伝説系の噂、広がるの早いよな。俺もちょっと回しちゃったし」
その言い方は、本当に軽かった。噂を面白がって回すことに、深い意味なんてないような。
だからこそ、直人は何も言えなかった。
チャイムが鳴って、輪がほどける。直人は自分の席に戻ったが、もう授業どころではなかった。二〇一号室という数字だけが、頭の中で無音のまま点滅している。
放課後、団地に向かう道は、朝より狭く感じた。
校門を出てすぐの商店街を抜け、信号を二つ渡る。夕方の買い物帰りの人たちが行き交い、自転車のベルが鳴る。ありふれた町の音が続いているのに、直人は何度も後ろを振り返りそうになった。誰かに見られている気がする、というほどはっきりしたものではない。ただ、住所を知られているかもしれないという事実が、道の幅を少しずつ削っていく。
団地は古く、二階に上がる外階段は踏むたびに乾いた音がした。薄い灰色の廊下に、夕方の光が斜めに差している。等間隔に並んだドアの中で、二〇一号室だけが急に浮いて見えた。
直人は立ち止まった。
見慣れているはずの玄関扉。擦れた塗装。小さな郵便受け。表札には郁子の名字が出たままで、その下に白い数字のプレートがある。二〇一。
なんでもない。昨日までだってそうだった。
なのに今日は、その数字が不気味なものに見える。
鍵を差し込む手が少し滑った。
「直人くん?」
中から声がして、扉が開いた。郁子がエプロン姿で立っている。買い物袋を片手に持ったままの直人を見て、目元をやわらげた。
「おかえり。早かったね」
「……うん」
家の中に入ると、だしの匂いがした。いつもと同じはずの匂いに、少しだけ息が戻る。郁子は台所へ向かいながら言った。
「今日は授業、どうだった?」
「普通」
「お友達はできた?」
その問いに、直人は少しだけ間を置いた。
「まだ、そんなに」
「そう」
郁子は責めるでもなく、ただ相槌のように言った。直人はそれがありがたかった。無理に励まされるより、ずっと楽だ。
鞄を置いて手を洗い、食卓につく。窓の外はもう薄暗い。団地の向かいの棟に、ぽつぽつと明かりがともり始めていた。
郁子が味噌汁をよそいながら、学校のことをもう少し聞いてくる。担任はどんな先生か、部活は見たか、教科書は重いか。直人も短く答えた。会話は途切れがちだったが、気まずくはなかった。祖母と孫というより、今は同居人同士が少しずつ間合いを測っている感じに近い。
「この町、慣れそう?」
湯気の向こうから、郁子が聞く。
直人は味噌汁の椀を持ったまま、少し考えた。
「……まだあんまり」
「そうよねえ。急に来たんだものね」
「学校の近くなのは助かるけど」
「それだけでも違うと思ってね。朝、あんまり早く出るのはかわいそうだし」
かわいそう、と言われると、少しだけ居心地が悪い。自分で決めたことではないにせよ、守られる側のままいるのは落ち着かなかった。
それをごまかすように、直人は別の話をした。
「学校で、変な噂が回ってた」
「噂?」
「うん。去年死んだ先輩の最後の声が聞けるって」
郁子の手が止まった。
ほんの一瞬だった。だが、直人は見逃さなかった。味噌汁の鍋のふたを持つ指先に、力が入る。
「そういう、よくあるやつだよ。匿名アカウントで」
できるだけ軽く言ったつもりだった。郁子を怖がらせるような話ではないと思ったからだ。だが、郁子はふたを戻さないまま、じっとこちらを見た。
「……なんて?」
「だから、都市伝説みたいな。音声が上がってて、十九時五分に」
そこで、直人も言葉を止めた。
郁子の顔色が変わっていた。青ざめる、というほど大げさではない。けれど、血の気が静かに引いていくのが分かる顔だった。
「どこの、話なの?」
声が掠れていた。
直人の背筋が伸びる。
「二〇一号室、って」
箸が落ちた。
小さな音だったのに、ひどく大きく響いた。郁子はそれを拾おうともせず、呼吸の仕方を忘れたように胸元が浅く上下している。
「おばあちゃん?」
「誰が、そんなことを?」
「分からない。学校で回ってて」
直人はポケットからスマホを出した。自分ではそのアカウントを開いていなかったが、教室で見えた名前の断片を思い出しながら検索する。すぐに出てきた。
黒い画面。白い文字。簡素すぎる投稿。
郁子はその画面を見た瞬間、息を呑んだ。
「おばあちゃん、知ってるの?」
返事はなかった。
代わりに、郁子は立ち上がって玄関の方を見た。そこで初めて、直人はその視線の異様さに気づいた。何かを思い出した人の目だった。ただ驚いているのではない。恐怖に触れた顔だ。
「鍵、閉めてる?」
「え」
「チェーンも」
「今、閉めてるけど」
「ほんとに?」
語尾が少し上ずっていた。郁子は自分で玄関まで行き、確認しに行った。金属の擦れる音がして、ドアチェーンがかけ直される。がちゃん、と固い音が鳴る。
その背中を見て、直人は椅子から立てなかった。
ただの噂じゃない。
そう思ったのは、根拠があったからではない。郁子が何を知っているのか、まだ何も分からない。けれど、知らない人の怖がり方ではなかった。
郁子は玄関の前にしばらく立ち尽くし、それから振り返った。表情を戻そうとしているのが分かるのに、戻りきっていない。
「直人くん」
「なに」
「その話、学校で……あまり、しないほうがいいわ」
「なんで」
問い返すと、郁子はすぐには答えなかった。
廊下の蛍光灯がついたのか、玄関の向こうから、じ、と低い音がした。古い団地によくある、頼りない点灯音だった。それだけのはずなのに、郁子の肩がわずかに跳ねる。
直人は喉の奥が冷えるのを感じた。
夕食の湯気は消えていない。味噌汁も、ご飯も、いつもの家の匂いのままそこにある。なのに部屋の空気だけが、少し前までとは別のものになっていた。
郁子は結局、理由を言わなかった。ただ、唇を結んで、玄関のほうから目を離せずにいる。
直人はテーブルの上の自分のスマホを見た。画面には黒い投稿が開いたまま、白い文字だけが静かに光っていた。
『十九時五分、二〇一号室を五回ノックしてみてください。』



