十九時五分、二〇一号室を五回ノックしてみてください

四月になってから、直人はまだ一度も、この町の朝の匂いに慣れたと思えたことがなかった。

家から学校までの道も、校門の位置も、購買の混み方も、全部もう覚えたはずなのに、ふとした拍子に自分だけ地図の外にいるみたいな気分になる。前の家なら、曲がり角の先に何があるか、夜の風の冷たさがどこで変わるかまで知っていた。ここではまだ、夕方の空の色すら借り物じみて見えた。

高校進学を機に、祖母の家に移ったのは通学のためだった。実家から通えない距離ではないが、乗り換えが多くて朝が早すぎる。父と母がそう言って、春休みの終わりに荷物をまとめた。祖母の郁子は喜んでくれたし、直人も嫌だったわけではない。ただ、ひとりで前の生活から切り離されて、新しい場所に置かれたみたいな感じだけが、まだ体のどこかに残っている。

教室の後ろの窓際。自分の席に座って、直人は開いたままの英単語帳に目を落としていた。文字は見えているのに、頭には入ってこない。昼休みの教室はざわざわしていて、会話の切れ端だけがいくつも飛んでくる。

「それでさ、マジで聞こえるらしいって」

「なにが」

「最後の声。去年死んだ先輩の」

その言葉に、直人は顔を上げた。

教室の中央あたりで、何人かがスマホをのぞき込んでいる。輪の中心にいるのは朔だった。背が少し高くて、話すとき手振りが大きいから、離れていても目に入る。入学してすぐ、クラスの空気の真ん中にいるタイプだと分かった。誰にでも話しかけるが、だからといって直人みたいな端の人間と親しくなるわけではない。遠くから見える、賑やかな側の人だった。

「ほら、これこれ」

朔がスマホをかざす。周りの何人かが身を寄せて、笑いながらのぞき込んだ。

「うわ、怖」

「でもこういうの、絶対誰かの釣りだろ」

「アカウント名からしてそれっぽいしな」

直人は単語帳を閉じた。聞こえてくる言葉だけではよく分からないが、なぜか耳がそこから離れなかった。

「去年の三年の先輩だって。事故かなんかで死んだってやつ」

「事故じゃなくて、行方不明のあとに見つかったとかじゃなかった?」

「それもう話盛ってるだろ」

笑い声が混じる。たいしたことではない、教室によくある噂話の温度だった。けれど直人は、噂話は無責任な感じがして、あまり好きではなかった。

隣の席の男子が立ち上がるついでに、直人の机に肘をぶつけた。

「あ、ごめん」

「いや、大丈夫」

反射でそう答えたあと、直人は少し迷ってから席を立った。輪に入るつもりはなかったが、廊下に出ようとしたとき、ちょうど朔たちのそばを通る形になった。

「見る?」

不意に朔が言った。

直人は足を止めた。自分に向けられた言葉だと気づくまで、一拍かかった。

「え」

「これ。別に無理ならいいけど」

朔のスマホの画面には、黒っぽい背景に白い文字だけのアカウントが表示されていた。アイコンも初期設定のままらしく、妙に空っぽで、かえって目につく。

『去年死んだ先輩の最後の声を、知りたい人へ。
十九時五分、二〇一号室を五回ノックしてみてください。』

その下に、短い音声データの波形が貼られていた。

直人は、そこで文字を読むのをやめた。

「……二〇一号室?」

自分でも情けないくらい、声が薄くなった。

「ん?」

朔が画面から顔を上げる。

「どうした」

「いや、その……」

喉が急に狭くなった気がした。言わなくてもいいことのはずだった。けれど、見間違いではないか確かめたくて、もう一度画面を見る。数字は変わらない。二〇一号室。

祖母の家の、表札の横にあるプレートと同じ数字だった。

「それ、住所も書いてあるのか?」

「いや、部屋番号だけ。でも、このへんの団地だってコメント欄で騒がれてる」

朔が画面を少しスクロールさせる。見覚えのある団地名が、何人かの投稿の中に混じっていた。略称だったが、間違えようがない。校舎から歩いて十五分ほどの、古い四階建ての団地。直人が郁子と暮らしている場所だ。

背中に、冷たいものが這った。

教室のざわめきはそのままだ。誰かがパンの袋を鳴らして、遠くで椅子が引かれる音がした。全部さっきと同じなのに、自分の周りの空気だけが薄くなる。

「おい、直人?」

朔の声が、少し近くなる。

直人はようやく顔を上げた。いつの間にか、輪の何人かがこちらを見ていた。

「……なんでもない」

そう言うしかなかった。

「顔色、悪いけど?」

「平気」

平気なわけがないと、自分でも分かる言い方だった。けれど、それ以外の答え方を知らない。

一人が興味本位の顔で言った。

「もしかして知ってるの?その部屋」

直人はそちらを見なかった。見たら、変な間ができる気がした。

「知らない」

嘘をついた瞬間、胸の奥がさらに冷えた。

朔は少し黙ってから、スマホを引っ込めた。

「まあ、ただの悪趣味なアカウントだろ。昨日も別のクラスでこの話してたし」

軽い口調だったが、周りに向けて言ったのか、直人に向けて言ったのか分からなかった。

「音声、聞いたのか?」

気づけば、直人はそう聞いていた。

「まだ。つーか昼に聞くもんでもないだろ。こういうのは夜中にこっそり聞いたほうがおもしろいじゃん!」

誰かが笑って、「確かに」と言う。朔も口の端だけで笑った。

「でもまあ、こういう都市伝説系の噂、広がるの早いよな。俺もちょっと回しちゃったし」

その言い方は、本当に軽かった。噂を面白がって回すことに、深い意味なんてないような。
だからこそ、直人は何も言えなかった。

チャイムが鳴って、輪がほどける。直人は自分の席に戻ったが、もう授業どころではなかった。二〇一号室という数字だけが、頭の中で無音のまま点滅している。



放課後、団地に向かう道は、朝より狭く感じた。

校門を出てすぐの商店街を抜け、信号を二つ渡る。夕方の買い物帰りの人たちが行き交い、自転車のベルが鳴る。ありふれた町の音が続いているのに、直人は何度も後ろを振り返りそうになった。誰かに見られている気がする、というほどはっきりしたものではない。ただ、住所を知られているかもしれないという事実が、道の幅を少しずつ削っていく。

団地は古く、二階に上がる外階段は踏むたびに乾いた音がした。薄い灰色の廊下に、夕方の光が斜めに差している。等間隔に並んだドアの中で、二〇一号室だけが急に浮いて見えた。

直人は立ち止まった。

見慣れているはずの玄関扉。擦れた塗装。小さな郵便受け。表札には郁子の名字が出たままで、その下に白い数字のプレートがある。二〇一。

なんでもない。昨日までだってそうだった。

なのに今日は、その数字が不気味なものに見える。

鍵を差し込む手が少し滑った。

「直人くん?」

中から声がして、扉が開いた。郁子がエプロン姿で立っている。買い物袋を片手に持ったままの直人を見て、目元をやわらげた。

「おかえり。早かったね」

「……うん」

家の中に入ると、だしの匂いがした。いつもと同じはずの匂いに、少しだけ息が戻る。郁子は台所へ向かいながら言った。

「今日は授業、どうだった?」

「普通」

「お友達はできた?」

その問いに、直人は少しだけ間を置いた。

「まだ、そんなに」

「そう」

郁子は責めるでもなく、ただ相槌のように言った。直人はそれがありがたかった。無理に励まされるより、ずっと楽だ。

鞄を置いて手を洗い、食卓につく。窓の外はもう薄暗い。団地の向かいの棟に、ぽつぽつと明かりがともり始めていた。

郁子が味噌汁をよそいながら、学校のことをもう少し聞いてくる。担任はどんな先生か、部活は見たか、教科書は重いか。直人も短く答えた。会話は途切れがちだったが、気まずくはなかった。祖母と孫というより、今は同居人同士が少しずつ間合いを測っている感じに近い。

「この町、慣れそう?」

湯気の向こうから、郁子が聞く。

直人は味噌汁の椀を持ったまま、少し考えた。

「……まだあんまり」

「そうよねえ。急に来たんだものね」

「学校の近くなのは助かるけど」

「それだけでも違うと思ってね。朝、あんまり早く出るのはかわいそうだし」

かわいそう、と言われると、少しだけ居心地が悪い。自分で決めたことではないにせよ、守られる側のままいるのは落ち着かなかった。

それをごまかすように、直人は別の話をした。

「学校で、変な噂が回ってた」

「噂?」

「うん。去年死んだ先輩の最後の声が聞けるって」

郁子の手が止まった。

ほんの一瞬だった。だが、直人は見逃さなかった。味噌汁の鍋のふたを持つ指先に、力が入る。

「そういう、よくあるやつだよ。匿名アカウントで」

できるだけ軽く言ったつもりだった。郁子を怖がらせるような話ではないと思ったからだ。だが、郁子はふたを戻さないまま、じっとこちらを見た。

「……なんて?」

「だから、都市伝説みたいな。音声が上がってて、十九時五分に」

そこで、直人も言葉を止めた。

郁子の顔色が変わっていた。青ざめる、というほど大げさではない。けれど、血の気が静かに引いていくのが分かる顔だった。

「どこの、話なの?」

声が掠れていた。

直人の背筋が伸びる。

「二〇一号室、って」

箸が落ちた。

小さな音だったのに、ひどく大きく響いた。郁子はそれを拾おうともせず、呼吸の仕方を忘れたように胸元が浅く上下している。

「おばあちゃん?」

「誰が、そんなことを?」

「分からない。学校で回ってて」

直人はポケットからスマホを出した。自分ではそのアカウントを開いていなかったが、教室で見えた名前の断片を思い出しながら検索する。すぐに出てきた。

黒い画面。白い文字。簡素すぎる投稿。

郁子はその画面を見た瞬間、息を呑んだ。

「おばあちゃん、知ってるの?」

返事はなかった。

代わりに、郁子は立ち上がって玄関の方を見た。そこで初めて、直人はその視線の異様さに気づいた。何かを思い出した人の目だった。ただ驚いているのではない。恐怖に触れた顔だ。

「鍵、閉めてる?」

「え」

「チェーンも」

「今、閉めてるけど」

「ほんとに?」

語尾が少し上ずっていた。郁子は自分で玄関まで行き、確認しに行った。金属の擦れる音がして、ドアチェーンがかけ直される。がちゃん、と固い音が鳴る。

その背中を見て、直人は椅子から立てなかった。

ただの噂じゃない。

そう思ったのは、根拠があったからではない。郁子が何を知っているのか、まだ何も分からない。けれど、知らない人の怖がり方ではなかった。

郁子は玄関の前にしばらく立ち尽くし、それから振り返った。表情を戻そうとしているのが分かるのに、戻りきっていない。

「直人くん」

「なに」

「その話、学校で……あまり、しないほうがいいわ」

「なんで」

問い返すと、郁子はすぐには答えなかった。

廊下の蛍光灯がついたのか、玄関の向こうから、じ、と低い音がした。古い団地によくある、頼りない点灯音だった。それだけのはずなのに、郁子の肩がわずかに跳ねる。

直人は喉の奥が冷えるのを感じた。

夕食の湯気は消えていない。味噌汁も、ご飯も、いつもの家の匂いのままそこにある。なのに部屋の空気だけが、少し前までとは別のものになっていた。

郁子は結局、理由を言わなかった。ただ、唇を結んで、玄関のほうから目を離せずにいる。

直人はテーブルの上の自分のスマホを見た。画面には黒い投稿が開いたまま、白い文字だけが静かに光っていた。

『十九時五分、二〇一号室を五回ノックしてみてください。』