元カレ先輩と、もう一度恋をする ──友だちからやり直すはずだった再会愛

おれは、中学受験をして、今の学校に入った。

 クラスで仲よくなったやつがたまたまサッカー部員で、誘われるまま、深い考えもなく、入部した。

 周りは、ほぼほぼサッカー経験者で、ど素人は、おれを含め、3、4人だけだった。

 選択をミスったかな、と不安を覚えるなかで、おれたちど素人組を気にかけて、頻繁に声かけしてくれる先輩がいた。

 それが、3年の山名先輩だった。

 上下関係が厳しい体育会、しかもサッカーのサの字も知らないような下手くそ組の人間にしてみれば、小学生の頃からずっとサッカーをやっている二学年上の先輩なんて、仰ぎ見るような存在だった。
 
 それなのに、山名先輩は、おれたちに対して少しも偉そうにしなかった。
 
 基礎練習で何度同じミスをしても、怒ったりはしなかったし、呆れた顔をすることもなかった。

「最初はみんなそんなもんだよ」
 
 そう言って、ボールの止め方から、体の向き、足の出し方まで、丁寧に教えてくれた。
 
 先輩の見本は、いつもきれいだった。
 
 ボールが足に吸いつくみたいで、同じことをやっているはずなのに、おれとはまるで別の動きに見えた。
 
 何度やってもうまくいかないおれに、

「焦らなくていいからさ。香名人、ちゃんと上手くなってるよ」
 
 そう言って笑ってくれたことを、今でも覚えている。
 
 名前を呼ばれただけで、胸の奥が熱くなった。
 
 その頃は、まだ、それが何なのか、よくわかっていなかったけれど。
 
 練習が終わると、先輩はよく、おれたち一年の片づけを手伝ってくれた。
 
 本当なら三年生はもう上がっていいはずなのに、ボールを集めたり、コーンを運んだりしながら、「今日どうだった?」「疲れたか?」「筋肉痛くるぞ、明日」そんな他愛ないことを話しかけてくれた。
 
 部活が終わる頃には、先輩が来るのを待つようになっていた。
 
 話しかけられると、うれしかった。

 少しでも長く一緒にいたくて、わざと片づけをゆっくりやったこともあった。
 
 あの頃のおれは、それを、ただの憧れだと思っていた。
 
 尊敬している先輩だから、特別に思うのは当然なんだと、そう思い込んでいたのだ。

 サッカーはなかなかうまくなれなかったけど、山名先輩や仲間の励ましもあり、おれは、だんだんサッカー部になじんでいった。

 けれど、ひとつ問題があった。体力だった。

 虚弱というわけではないけれど、けっして頑強とはいえない身体が、サッカー部の練習の厳しさに、悲鳴をあげだしていた。

 疲労の蓄積が気になりだした初夏のある夜、突然おれは、喘息の発作をおこした。

 数年ぶりの発作だった。

 母親がめちゃくちゃ取り乱したことだけは、うすぼんやり覚えている。

 真夜中に病院に運ばれ、そのまま入院になった。

 そして、主治医から、サッカーの練習が身体への負担になっていることを告げられ、サッカーをやめざるを得なくなった。

 寂しくて、情けなくて、たまらなかった。

 ボールを追う楽しさに目覚め、仲間たちともなじみ、ようやく居場所ができたと思っていた矢先だった。
 
 チームを代表して、お見舞いに来てくれた山名先輩にそれを告げると、先輩は、提案をしてくれた。

 それなら、選手ではなく、マネージャーをやらないかと。

 思いがけない言葉だった。
 
「無理して走る必要もないしさ。おまえ、サッカー好きだろ?」
「……いいんですか」
 
 思わずそう訊いていた。
 
 先輩は笑った。

「むしろ助かるよ。な?」
 
 その笑顔に押されるみたいにして、おれはうなずいた。
 
 こうしておれは、部員としてではなく、マネージャーとしてサッカー部に戻ることになった。

 なればなったで、選手とは違う大変さはあったけれど、毎日楽しかった。

 勉強のためではなく、部活のために学校へ通っているようなものだった。

 やがて、山名先輩は中等部を卒業し、高等部に入ったけれど、部活は、中等部と高等部が合同でやるので、変わらずに山名先輩のそばにいることはできた。

 あの頃は、毎日がきらきらしていた。

 部活のあと、駅までの道のりを、山名先輩とよく一緒に歩いた。


時々、コンビニに寄っては、

「なんか食う?」
 
 そう言ってアイスを買ってくれたり、温かい飲み物を手渡してくれたりした。
 
 どうして自分にこんなによくしてくれるのか、わからなかった。

 ただ山名先輩と一緒にいるときは、本当に楽しかった。

 他の先輩の前では無理だったけれど、山名先輩の前では、心からリラックスできた。素直に笑えた。

 おれは、先輩が大好きだった。

 こんな毎日がずっとつづけばいい。

 そう願っていたある日の部活後だった。

 先輩に誘われて、ファストフード店でハンバーガーを食べていたら、

「これから映画観に行くけど、香名人も来る?」

 と、訊かれた。

 おれは、大喜びで、一も二もなく飛び付いた。

 先輩がおれを可愛がってくれること、特別扱いしてくれることが、うれしくてたまらなかった。

 映画は、ヨーロッパの歴史ものだった。

 アクションでもアニメでもなく、こういう映画を観るんだ、やっぱり大人っぽいな、なんて秘かに思ったのを覚えている。

 観客は1/3ほどの入りで、ふたりで、最後列の席に並んで座った。

 暗闇のなか、触れるようでいて触れられない距離が、もどかしくも、幸せだった。

 映画が始まって30分ほどした頃だろうか、先輩が、こちらに身を寄せて、吐息混じりにささやいた。

「嫌だったら、離して」

 なんのことかと思っていたら、ふいに、先輩に、片手を包まれた。

 その瞬間、時間が止まったような気がした。

 身体が固まって、何も考えられなくなった。

 映画なんて、一切頭に入ってこなくなった。

 急に、速く大きくなった胸の鼓動を感じながら、ただただ、先輩の手のひらのあたたかさに包まれていた。

 どのくらいたった頃だろう、先輩が、ちいさくおれの名前を呼ぶと、その手を、そっと離した。

 おれは、とまどった。

 そんなおれに、先輩は、ささやいた。

「……我慢するなよ」

 何も言えなかった。

 我慢なんて、していなかった。
 ちっとも嫌なんかじゃなかった。
 むしろ、あのままでいたかった。

 そんはことは言えず、でも、伝えたくて、おれは、身体をほんの少しだけ、先輩の方に寄せた。
 
 館内に、映画の音楽が反響する。

 先輩もおれも、どちらも何も言わない。

 ふたりで息をつめたようにじっとしていたけれど、少しすると、先輩がまたおれの片手をとってくれた。

 おれはそのまま、身じろぎもしなかった。

 映画が終わるまで、ふたりでずっと手をつないでいた。




結局、その夜は、映画館を出て、駅に向かいながらも、おれと先輩は何も話さなかった。

 付かず離れずの距離で歩いた。

 それだけで、胸がいっぱいだった。

 先輩から告白されたのは、その二日後だった。

 部活後の、みんな帰ったあとの部室だった。

 遊びとかじゃないから本気で考えてほしい、と言われた。

 おれは、どうすればいいのかまるでわからなくて、うつむきながらも、そのとき思っていることを、途切れ途切れに伝えた。

 先輩を好きなこと、大好きだけれど、これが恋愛感情なのかどうかわからないことを。

 心臓が、うるさいくらいに鳴っていた。
 
 夢でも見ているみたいだった。
 
 こんなことが現実に起こるなんて、考えたこともなかった。
 
 ずっと隠してきた気持ちが、一瞬で暴かれたような気がした。
 
 断らなきゃいけないんじゃないか、とは、正直思った。
 
 男同士なんて、おかしいんじゃないかと。           
 
 でも、もし、と考えた瞬間、胸の奥がきゅっと苦しくなった。
 
 もし、ここで断ったら、先輩が離れていってしまう気がした。
 
 もう今までみたいに話してくれなくなるかもしれない。
 
 一緒に帰ったり、コンビニに寄ったりすることも、なくなるかもしれない。
 
 それは、絶対にいやだった。
 
 おれは、その気持ちも伝えた。

 そうしたら、先輩に、はっきり言われた。

「そういうことは、できなくなるよ。おれが、辛いし」

 おれは、恨みがましい目で、先輩を見てしまったと思う。
 
「おれは……先輩と離れたくないのに、先輩は、おれから離れるんですか?」
「……そういうこと言うんだったら、付き合ってるくれる?」

 先輩は、冗談めかして言って、首を傾げた。

 顔が熱くなって、頬が上気したのがわかった。

「香名人さ……そんな真面目に考えなくてもいいよ。なんなら、友だちから始める?」
「……それで、いいんですか?」
「それでいいよ。いきなり今日から付き合えって言われても、無理だろ」
「……」
「まずは、友だちから」
「……それで、いいなら」

 おれがつぶやくと、満面笑顔の先輩に、

「やった!」

 と、軽く抱きしめられた。

 ほんの一瞬で、先輩はすぐに解放してくれたけれど、おれは、首まで熱くして、硬直してしまった。

「じゃ、今日から友だちな」
「……」
「返事は?」
「……ハイ」
 
 ぎこちなく頷いたら、先輩が、片手を差し出してきたから、その手を軽く包んだ。

「よし、成立な」

 部室を出ると、廊下はもう静まり返っていた。
 
 先輩と並んで歩きながら、さっきのことを何度も思い返した。
 
 抱きしめられたことも、手を握ったことも、現実じゃないみたいだった。
 
 外に出ると、夜の空気がひんやりしていた。
 
 先輩が隣を歩く。
   
 前と同じはずなのに、少しだけ距離を意識してしまう。
 
 しばらくして、先輩がぽつりと言った。

「香名人」
「はい」
「無理しなくていいからな」
 
 おれは少しだけ考えてから答えた。

「……してません」
 
 それからふたりで、ポツポツ話ながら、駅までの道のりを、ゆっくりゆっくり歩いたのだった。