数分後部屋に戻ってきた深町は何とも表現し難い表情をしていた。部屋着に着替えてPC画面に向かっていた俺はおざなりに手を振る。
「おつー。抜いた?」
「いや。人んちでそんなんする勇気無いから、ひたすら鎮まるの待ってた」
「へぇ。そういう時ってやっぱ素数数えたりすんの?」
「素数? ええと……世界平和とか、地球温暖化とか、宇宙の起源とか……」
「ああ。とりあえず壮大だな」
「それよりさ。聞いておきたいんだけど、野田ってその……いわゆるLGBTとかって奴?」
「は?」
「あ、ごめん。プライバシーの問題だから、言いたくないなら無理に言う必要は無いんだけど……」
「ああ。違う違う。さっき提供したおかず動画のラインナップ見ただろ? 俺が興味あるのはCカップ以上の女の子」
「だ……だったら、さっきのは何で……?」
「んー。なんて説明したらわかってもらえるかな。とりまこれ読んでくれる?」
表紙が肌色多めの薄っぺらい本を差し出す。
「え? う、うん」
受け取ろうとした深町の手から一旦すっと本を退く。
「ちょい待ち! ちゃんと手ぇ洗ったか?」
「洗ったわ!」
「んじゃ、はい」
本を受け取った深町が恐る恐るといった様子でページを捲り始めたのを確認し、PC画面に向き直る。
そんなに分厚い本じゃないからすぐに読み終わるだろ。
描きかけだった液タブにペンを滑らせる。煽情的な微笑を浮かべるキャラクターの瞳と鼻先、唇にハイライトを描き込んでより艶っぽく。遠近感を出すために炎を浮かべた手を投げ縄ツールで囲んでフィルタでぼかしを入れたところで背後から声がかかった。
「あの、全部読んだ、けどさ。ええと、これって……」
「そ。BL。読んだことある?」
「……なんかスマホでサイト開いた時に広告でちらっと見たことくらいは……」
「無料試し読みの漫画サイトとかでは? ○○とか××とか結構一話丸ごと試し読みとかさせてくれる奴あるけど普段そういうの使わない?」
「肩壊すまでは部活忙しくてスマホって連絡用以外はほとんど使うこと無かったし、今もティックトックとかSNSチェックするくらいで……」
「あー……。じゃ、まずそこから説明しなきゃいけない感じか。ちょっとこれ見てくれる?」
俺の肩越しにPC画面を見た深町はきょとんとした表情を浮かべる。
「漫画? いや、アニメ? あー……ごめん。俺こういうの疎くて。あ、でも映画の宣伝で見たかも。えーと、なんてタイトルだったっけ。確か妖怪とか一杯出てくる奴……」
「『燼ノ盟約』の燐火の主。で、これは俺が描いてる二次創作漫画の表紙イラスト」
「え、描いたって、これを!? 野田が!? うわ……すっご……!! これ、本当に野田が描いたのか?」
ふふん。なかなか良い反応するじゃん。
「知らなかった……。野田って漫画家だったんだな。俺でも知ってるくらい有名なの、こんな身近な奴が描いてたなんて……」
「いやいやいや、ちょい待ち。原作者じゃなくて、俺はあくまで同人誌。二次創作の方」
「二次……?」
「んー。やっぱそこから説明しなきゃだよな」
PCの検索窓に『燼ノ盟約』と入力し、無料試し読みができる人気漫画サイトを開いて表紙の画像を表示させた。
俺は物分かりの悪い生徒に教える先生よろしく、画面を爪の先でコンコンと弾きながら説明する。
「こっちが原作。で、俺が描いてるのはこの漫画を元にオマージュした派生作品」
「あー、えと、野田じゃない人が描いてるのが原作? で? 野田も同じ漫画を描いてる……??」
「ほら、原作とは絵のタッチが違うだろ」
PC画面を二分割して原作表紙と俺が描いたイラストを並べて見せる。
「ああ。そう言われてみれば髪型とか服装は一緒だけど、ちょっと顔の雰囲気が違うな」
「俺はこういう原作のキャラやエピソードを踏襲しつつ、実はこのキャラとこのキャラがこんな関係だったら面白いな、とか、こういう隠しエピソードがあると面白いんじゃない? っていう妄想を詰め込んで漫画にしてるの」
「え? あ、じゃあ、さっき読んだ漫画って野田が描いた奴!?」
「そう。いわゆる『薄い本』」
「やっぱすごいじゃん!! 野田にこんな才能があったなんて知らなかった!! なんて雑誌に載ってるんだ!?」
興奮気味の深町の前で手を横に振り、軽くいなす。
「雑誌に掲載されるような有名作家もいるけど、俺のはあくまで自費出版」
「自費……ええと、自分で本にしてるって意味? え、でも本屋とかには?」
「そういうの取り扱いしてる本屋もあるらしいけど、俺のは基本ネット配信か即売会ね」
「へぇ……! すごいな、こんなの作れるなんて……!」
キラキラした眼差しで薄い本を見つめる深町に俺の自尊心は満たされてゆく。
「さっきの質問の答えはそれ。俺自身はLGBTではないけど、描いてる漫画のジャンルはBL。つまり男同士の恋愛物。お前に頼んだのは漫画のストーリーや作画の参考にするための材料集めってわけ。もちろん"コレ"も」
手にした大人の玩具を振って見せると深町は視線を逸らし、顔を赤らめる。
わかりやすく初心な反応。
「留守中うっかり親が部屋に乱入した時に備えて本棚の上に布テープで貼り付けて隠しておいてたんだけど、粘着が弱ってまさかのタイミングで落ちてきたみたいだな」
「ざ……材料集めで、あんなことするのか?」
「もちろんしない人もいっぱいいるとは思うよ。でも感想に『喘ぎ声が「あんあん」しか言ってなくて薄っぺらい』とか『作者の経験値が知れるレベル』とか書かれんの癪だろ? そこで、だ」
びし、と玩具で深町を指して言う。
「経験者のテクでリアリティ有る濡れ場を体感して作品に昇華させるためにお前を利用……んんっ! とかではなく、協力を願い出たんだ」
「経験者?」
「いるんだろ? 彼女。クラスの奴らが話してんの聞いた。野球部のマネージャーだっけ」
急に深町の表情が曇り、視線を逸らされる。
「…………。もう結構前に別れたよ。俺が部活辞めた時」
「ああ、現在進行形でないならより好都合じゃん」
「好都合って……勝手なこと言うなよ。それが野田に何の関係があるっていうんだよ」
不貞腐れて俺を睨む深町。
ほんとこいつ感情が顔に出るタイプな。
「悪い悪い。確かに彼女とお前の交際事情なんて俺には関係無いけど、別に付き合ってる奴らに波風立てたいわけじゃないし。彼女と別れたんだったら尚のこと、俺とそういう事しても問題無いだろ?」
「なっ……なん、っでいきなりそんな話に飛ぶんだよ!!」
今度は良く日焼けした顔を一気に首まで赤く染め上げて視線を宙へとさまよわせる。
うーん。ほんとにわかりやすい。
「いきなり未経験の奴に相手されんのはケガさせられそうだし、かといってヤリちんは病気の心配があるし、オッサンは生理的に無理だし。程よく経験者で、でも経験人数は少な目、生理的に受け付けないってほどの顔でもないし、条件は揃ってるんだよな」
「けっ……経験とかってそういうの、お前一体どういう貞操観念してんだよ!! ほんと信じらんねーわ!!」
「はぁ? 逆にお前の貞操観念を疑うわ。バージンロード歩く花嫁が皆バージンだとかいう夢物語でも吹き込まれてんのか?」
「バっ……!! 声がでかいって!!」
慌てた深町に両手で口を塞がれる。
「だっ……大体っ、そういうのって女の方に負担がかかるっていうし、収入とか生活基盤とか、男としてきちんと責任取れるようになるまではするべきではないっていうか、その、まだ未成年だし、早すぎるんじゃないかって……」
しどろもどろに大量の汗をかく深町を見て、確信する。
「……深町。お前もしかして童貞か?」
「………………」
手持無沙汰に玩具でぺちぺちと手の平を叩きながら、俯いて真っ赤に染まった深町の耳を見下ろした。
沈黙は言葉よりも雄弁に真実を現すってか。
「ってか紛らわしい言い方すんなよ! 『男相手』どころか、まるっと初めましてだったんじゃねぇか!」
手に持っていた玩具を深町の頭に振り下ろす。手にはびょびょびょん、と程よい玩具の弾力が響いた。
「……だっ!!」
「……ったく。せっかく彼女がいたってのに何やってたんだよ! この根性無しが!」
「野田が言うみたいに爛れた付き合い方する奴ばかりじゃねーんだよ! この節操無しが!」
「じゃあ付き合うって何したんだよ」
「野田が言った以外にも、することくらいあるだろ!」
「ああ。押し倒すとか揉みしだくとか?」
「もっ……!? そっ……んなことっ……!」
再び赤面。
「おい。ほんとに何もやってないのか。ってか、そもそもそれって交際って言えんのかよ」
「……キス、くらい、は、した、けど」
度重なる追及に観念したのか途切れ途切れに絞り出した深町は、熟れた顔を横に向けて、もういいだろ、と小さく呟いた。
「深町。今時保育園児でももう少し進んでるぞ。キス、手つなぎ、ハグを卒園し損ねてたのか?」
「そりゃその年齢の時と意味合いが全く違うだろ……」
「大体さぁ、そんなんで彼女は満足したのか? いくら奥手でも、さすがに焦れたんじゃねーの? よくドラマとか漫画とかであるじゃん。『家に遊びに来て』『今日親帰って来ないの』みたいな展開とかさぁ」
マイク代わりに玩具を口元に寄せて伏し目がちにしなを作ってセリフを回すと、深町の動きが止まった。
「あー、それは……」
ふと言い淀んだ深町に一気に詰め寄る。
「え!? 言われたことあんの!? なぁんだ、持ってんじゃん王道エピソード!」
「え、あ、いや。でも、あれはそういう意味で言ったんじゃないかもしれないし……」
「いやいや絶対そういう意味だって。で? そこからどうなったんだよ? ここまで話したんだから包み隠さず全部吐けって!」
肩を組んでインタビューよろしく深町に玩具を突きつけた。
「ちょっ……! だからそれやめろって!」
「ああ、ごめんごめん」
適当に玩具をぽい、と放り投げ、改めて問い質す。
「で? 行ったの? どこまで?」
「どこまでって……普通に『家に遊びに来て』って言われたから、家に……」
「ここまで来て焦らすなよ! で、それから?」
「リビングに通されて、一緒に野球の試合の動画見て」
「あーもうそんなとこいいって! 端折れ! 『今日親帰って来ないの』って言われたとこから話せ!」
「あー、うん。今日親が帰らないって聞いたから、夕飯の準備があるか確認して、家中の戸締り確認して」
「ん? んん? 戸締り?」
「一部屋だけ電気が点いてると一人だと疑われるかもしれないから複数の部屋の電気を点けて、ガスの元栓閉めて。「男がいるって思わせた方が不審者が近づきにくいだろうからこれをベランダに干しておけば完璧」って俺のユニ貸して」
「いや、ちょっと展開おかしくなってきてないか?」
「俺が出たらすぐチェーンかけて鍵閉めて。インターホンが鳴っても絶対すぐに開けないように。何か困ったことがあったらラインしてって言って早めに帰った」
呆れて二の句も継げないとは、まさにこのことか。
「野田? どうした?」
目を閉じて眉間を揉みながら長い長いため息を吐く。
「……いや、無いわぁ。さすがに彼女できたことない俺でもわかるよ、誘われてる流れだって」
「いや、どこがだよ。親が帰ってこない一人で留守番の時は、戸締りと防犯対策最優先だろ。っていうか、そんな状況でどうこうなろうなんて、いくらなんでも不誠実すぎるって」
「だぁーかぁーらぁー! 小学生の初めてのお留守番じゃないんだからさぁ。せっかく勇気振り絞ったのに彼女可哀そうすぎ」
「えー……? あ、そう、なの、か……?」
困惑して凛々しい眉尻をしょぼんと下げ、叱られた子供のようにこちらを上目遣いで見つめる深町を鼻で笑う。
やめろよ。男の上目遣いなんて寒いだけ。それやって可愛いって思われるの女子供くらいだ。
「ま、それなら俺とも失敗して当たり前だってのがよくわかった。ってか、無理してケガさせられなくてむしろ良かったわ」
「あ、はい。えーと、それに関してはほんとにごめん、なさい? でいいのか?」
「じゃ、お疲れさん。解散で」
「えっ?」
「え?」
「あ、いや。俺、野田が嫌がるようなことしたのに、最初に野田に頼まれたことは失敗して、まだ何もそれらしい償いができてないから……」
「ああ、そういえばそうだったな」
「あの、ほんとに悪かったと思ってるんだ。俺の早とちりで野田に嫌な思いさせて。だから、その、……(聞こえるか聞こえないかの小さい声で)挿れる、とか以外の、何か、俺にできる償い方があれば……」
さっき言ってた『オトコのセキニン』って奴ね。
それのおかげで俺に童貞奪われかけたってのに、ずいぶんと誠実なことで。
姿勢を正して息を呑み、死刑宣告を待つような面持ちでこちらを見つめる深町。
ま、せっかく本人が望んでることだし、使えるものは利用させてもらうか。
「深町、絵描ける?」
「絵? うーん。美術の授業で描いたくらいしか……」
「あ、いーのいーの。一からお前に任せるっていうより、下絵のペン入れ手伝ってもらいたくて。ようするに、俺がパパっと雑に描いた絵をなぞってもらえるだけでいいんだけど」
「やったこと無いけど、俺ができることであれば」
イラストアプリの別ファイルから描きかけの漫画の下描き画像を開く。
「うわ……これ、野田が描いたの?」
食い入るようにPC画面を見つめる深町。
「そう。ここ座って、これ着けて」
俺は座っていた椅子を譲り、液タブ用の手袋を渡す。
「ええと、これ利き手の方に嵌めるのか? っていうか破れてないか? これ」
「そういう仕様なの。って、お前左利きか」
「あ、うん」
「じゃ、左手の親指人差し指中指が出るようにして、薬指と小指を覆うように嵌めて。キーボードは液タブと反対に置かなきゃいけないのか。ショートカットキーってわかるか?」
「Windowsのなら。CtrlとAとかCとかの組み合わせだろ」
「お。話が早いじゃん。大体使い方は同じようなもんだから。WindowsならCtrlの所がMacならCmdになんの。で、よく使うのがCmd+ZとCmd+Sね」
「あー……。ええと、元に戻す、と、セーブ?」
「ご名答!」
期待なんてしてなかったけど、PCの基礎知識が入ってるなら意外と戦力として有望かもな。
褒められて深町の表情がようやく緩んだ。
「じゃ、本題な。このペン持って、この画面の鉛筆画で描いてある複数の線の真ん中あたりを狙ってなぞってほしいんだ」
「なぞる」
「そう」
緊張しているのか、ペンを持つ深町の手が小刻みに震えている。
「別に失敗してもはみ出しても別レイヤーの描き込みだし、いくらでもやり直しきくから、気負わずちゃっちゃと描けよ」
「れ、レイヤーって?」
「目に見えない透明な紙みたいな物。ほら、俺が描いた下絵も、こうやって可視ボタンを押すと正中線やアタリが消えたり出たりするだろ」
マウス操作で不要な線を可視化したり不可視化したりして見せる。
「ほぉぉ。なんかよくわかんないけどこんな仕組みになってんだ」
「とりあえず試しに"しくじり線"をこのレイヤーでわざと作ってみた方がわかりやすいかな?」
深町の背後から手ごとペンを握り、登場人物にざっくりと鼻ヒゲを描く。
「せっかくの綺麗な絵に何やってんだよ! もったいない!」
慌ててペンを浮かせる深町の後頭部をぺしり! と軽く叩く。
「ほら。さっき言ってたキーボード操作。わかるんだろ? 『元に戻す』」
「え? あ、ああ」
深町はペンと違ってキーボードの方は手慣れた様子でCmdとZを探し当てた。キャラの鼻ヒゲだけが綺麗さっぱり消え失せる。
「上手上手。大体この描き込みと修正の繰り返し。で、切りが良いところでセーブな。結構修正は何度も入れるから、利き手の反対の手はずっとキーボード固定で」
「わかった」
深町は頷いて再び液タブへと向かい、ペンを構え直す。指先が白くなるほど強く握り込むペン先が震えるのを見て、俺は慌てて深町の手を両手で掬い上げた。
「ちょい待てぇ!!」
「なっ……なんだよ急に!!」
「ペンは、あくまで、軽く握れ。軽ぅーくだ。じゃないとペン先が潰れたり摩耗したり、保護フィルターはかけてあるけど液晶画面に傷が入ったりする。別に一回で完璧に描こうなんて意気込む必要は無い。さっきやったように何度でも描いた線を元に戻すことはできるし、描き込んだ後で消しゴムツールで消して修正だってかけられる」
「ああ、なるほど。わかった」
ふぅ、と小さく息を吐いた深町は、姿勢を正して再びペンを構える。先ほどまでとは違い、力んだ様子は見受けられない。
今度は大丈夫そうだな。
そう思ったのも束の間だった。キャラクターの輪郭線をなぞるペン先はガタガタと揺らぎ、外側も内側も鉛筆線からはみ出していく。しかも何をどう解釈したのか、一度描いたガタガタ線を折り返して新たなガタガタを上書きした状態でキャラクターの輪郭から服のラインに移動しながら更にペン先の震えがどんどん酷くなっていく。
……こいつ一筆書きか何かに挑戦しようとでもしてるのか?
「ちょっと止まれ。別に一筆書きしなきゃいけないルールなんて……」
幅広く筋肉のついた肩に手を置いた瞬間、深町の体がぐらりと傾いた。
「うわちょっ!? どうした!?」
派手に椅子から転げ落ちて床に転がった深町は、見たことも無い顔色で荒く呼吸を繰り返す。
「い……息っ……! どこでした、ら、いいか……わからなく、てっ……!」
…………。はい、確定。こいつ思った以上にとんでもなく不器用だったわ。
「息止めて絵描くバカがいるかよ。画家は皆エラ呼吸かっての。やっぱもういいや。帰って。邪魔だから」
「ちょっ、待っ……。ちゃんと、役に立つから……」
「どう役に立つつもりだよ。未経験、不器用、肺呼吸すらできないなら使い物にならないだろ」
「こっ……こうせい! とかなら協力できるかと!」
必死の面持ちで挙手をしながらアピールする深町を品定めするように睥睨する。
「こうせいぃ?」
構成、公正、後世、攻勢……脳内で思いつく限りの漢字変換を試みるが、どれも深町が協力できるというイメージが湧かない。
「さっき野田に見せてもらった本なんだけど、数か所誤字脱字や同じ意味の言葉の重複があったんだ。ああいうのの校正……っていうほどすげーことはできないかもしれないけど、修正提案とかはできると思う」
校正。ああ、なるほど。その校正ね。
「セリフとか読み返しチェックしたはずだけど」
「でも、ここ。ほら、これ『姑息』って使ってるけど、『卑怯な』って意味で使ってるだろ? 正しくは『姑息』は『その場しのぎ』って意味で用法が違ってるんだ。ここだって送り仮名の『れ』が抜けてる」
「……お前細かすぎ。国語の先生かよ」
「さっき読んでる時に、話の内容よりこっちが気になって……」
内容に入り込めなくなるレベルの誤字脱字か……。
頭の中の天秤が『クビ』と『採用』の2つでぐらぐらと揺れる。まぁ、使えなかったら今度こそ蹴り出せばいいか。
「あー。そんじゃその、校正とやらを頼むわ」
「わかった」
今度こそ得意分野を任されたとばかりに自信たっぷりの表情の深町は、鞄からペンケースとルーズリーフを引っ張り出し、教科書を膝に乗せて机代わりに薄い本の修正箇所頁と修正前、修正後のセリフを書き出していく。
「あ、それ本に直接書いていいぞ。販売用じゃなくて自宅保管用だから」
「でも、せっかく綺麗に描けてるのに、汚すの勿体ないから」
深町は何の気なしに言ったようだったが、俺が作った本を『綺麗』とか『汚すのがもったいない』と言われて、正直悪い気はしない。
「まぁ……好きにしてもらっていいけど」
「うん」
俺の言葉を聞いているのかいないのか、深町はスマホを取り出し、時折フリック入力しながらルーズリーフの書き込みを続ける。見ていて不安になるほどルーズリーフが埋まっていくので、気になってPC作業に戻れない。
「おい。そんなに修正箇所あんのかよ」
「誤字脱字以外にも、この人物だけど、最初と途中で一人称が変わってる。『俺』だったり『僕』だったり」
PCファイルから校正してもらっている本の印刷前データをチェックすると、確かに主要キャラのセリフの一人称が複数回『俺』になったり『僕』になったりしている。印刷前に確認したつもりになっていたが、徹夜明けで見落としたのかもしれない。
「……。深町。他の本の校正も頼めるか?」
「もちろん!」
間違いを指摘されまくってプライドがズタボロの俺に反して深町は水を得た魚のように笑顔で頷いた。
その後も作業が手につかず、黒豆麦茶のお代わりをついだり冷蔵庫に入っていたお中元のフルーツゼリーを出したりして校正の結果を待つ。結局三冊の既刊と印刷前のPCファイルデータ全ての校正を終えた深町は、仕事終わりを感じさせる爽やかな笑みを浮かべてびっしりと書き込まれたルーズリーフを俺に提出した。
「間違い探し楽しい。クイズとかパズルみたい」
受け取ったルーズリーフに目を通す俺の向かいでぺりぺりとゼリーの蓋を剥がしながら深町は言う。
「語彙力下がってんのなんでだよ。お前が言い出したんだから校正って言えよ」
「それにしても自費出版て大変なんだな。こういうのも全部自分でチェックしないといけないんだろ?」
「入稿までに余裕があれば、人に見てもらうこともあるけどな。ここ最近のは時間無くてバタついてたから、まぁ確かにチェックが甘くなってたわ」
ルーズリーフに書かれた箇所は確かに指摘通り誤字脱字や熟語や慣用句の用法間違い、キャラクターの言葉遣いに至るまで納得がいく修正が為されていた。
「……予想外。ってか予想以上だわ。何? お前国語の成績いいの?」
「悪くはないと思う。うち親が本好きでさ。塵川賞とか曲木賞とかの発表があると必ず買ってくんの。漫画も野球が忙しくなる前までは結構読んでたし。最近のはさっぱりわからないけど」
「PCもある程度使えるって言ってたよな?」
「WordとExcelの簡単な入力くらいなら」
「写植の打ち込み方教えるから、イラストアプリに入ってる原稿から直接データ修正って頼める?」
「もちろん! あ、でも野田も漫画描くのにPC使うだろ? データ送ってもらうか共有できるなら俺の家のPCで作業するけど」
「マ!? そうしてもらえるとほんと助かる!」
「じゃ、ラインから俺のPCの方のアド送るわ」
「俺もイラストアプリのURL送る」
嬉々としてアドレスを交換することに気を取られ、俺は深町が届けてくれた封筒の存在を完全に忘れ去っていた。まさかそれが後に騒動の引き金になるなどと、疑うことも無しに。
「おつー。抜いた?」
「いや。人んちでそんなんする勇気無いから、ひたすら鎮まるの待ってた」
「へぇ。そういう時ってやっぱ素数数えたりすんの?」
「素数? ええと……世界平和とか、地球温暖化とか、宇宙の起源とか……」
「ああ。とりあえず壮大だな」
「それよりさ。聞いておきたいんだけど、野田ってその……いわゆるLGBTとかって奴?」
「は?」
「あ、ごめん。プライバシーの問題だから、言いたくないなら無理に言う必要は無いんだけど……」
「ああ。違う違う。さっき提供したおかず動画のラインナップ見ただろ? 俺が興味あるのはCカップ以上の女の子」
「だ……だったら、さっきのは何で……?」
「んー。なんて説明したらわかってもらえるかな。とりまこれ読んでくれる?」
表紙が肌色多めの薄っぺらい本を差し出す。
「え? う、うん」
受け取ろうとした深町の手から一旦すっと本を退く。
「ちょい待ち! ちゃんと手ぇ洗ったか?」
「洗ったわ!」
「んじゃ、はい」
本を受け取った深町が恐る恐るといった様子でページを捲り始めたのを確認し、PC画面に向き直る。
そんなに分厚い本じゃないからすぐに読み終わるだろ。
描きかけだった液タブにペンを滑らせる。煽情的な微笑を浮かべるキャラクターの瞳と鼻先、唇にハイライトを描き込んでより艶っぽく。遠近感を出すために炎を浮かべた手を投げ縄ツールで囲んでフィルタでぼかしを入れたところで背後から声がかかった。
「あの、全部読んだ、けどさ。ええと、これって……」
「そ。BL。読んだことある?」
「……なんかスマホでサイト開いた時に広告でちらっと見たことくらいは……」
「無料試し読みの漫画サイトとかでは? ○○とか××とか結構一話丸ごと試し読みとかさせてくれる奴あるけど普段そういうの使わない?」
「肩壊すまでは部活忙しくてスマホって連絡用以外はほとんど使うこと無かったし、今もティックトックとかSNSチェックするくらいで……」
「あー……。じゃ、まずそこから説明しなきゃいけない感じか。ちょっとこれ見てくれる?」
俺の肩越しにPC画面を見た深町はきょとんとした表情を浮かべる。
「漫画? いや、アニメ? あー……ごめん。俺こういうの疎くて。あ、でも映画の宣伝で見たかも。えーと、なんてタイトルだったっけ。確か妖怪とか一杯出てくる奴……」
「『燼ノ盟約』の燐火の主。で、これは俺が描いてる二次創作漫画の表紙イラスト」
「え、描いたって、これを!? 野田が!? うわ……すっご……!! これ、本当に野田が描いたのか?」
ふふん。なかなか良い反応するじゃん。
「知らなかった……。野田って漫画家だったんだな。俺でも知ってるくらい有名なの、こんな身近な奴が描いてたなんて……」
「いやいやいや、ちょい待ち。原作者じゃなくて、俺はあくまで同人誌。二次創作の方」
「二次……?」
「んー。やっぱそこから説明しなきゃだよな」
PCの検索窓に『燼ノ盟約』と入力し、無料試し読みができる人気漫画サイトを開いて表紙の画像を表示させた。
俺は物分かりの悪い生徒に教える先生よろしく、画面を爪の先でコンコンと弾きながら説明する。
「こっちが原作。で、俺が描いてるのはこの漫画を元にオマージュした派生作品」
「あー、えと、野田じゃない人が描いてるのが原作? で? 野田も同じ漫画を描いてる……??」
「ほら、原作とは絵のタッチが違うだろ」
PC画面を二分割して原作表紙と俺が描いたイラストを並べて見せる。
「ああ。そう言われてみれば髪型とか服装は一緒だけど、ちょっと顔の雰囲気が違うな」
「俺はこういう原作のキャラやエピソードを踏襲しつつ、実はこのキャラとこのキャラがこんな関係だったら面白いな、とか、こういう隠しエピソードがあると面白いんじゃない? っていう妄想を詰め込んで漫画にしてるの」
「え? あ、じゃあ、さっき読んだ漫画って野田が描いた奴!?」
「そう。いわゆる『薄い本』」
「やっぱすごいじゃん!! 野田にこんな才能があったなんて知らなかった!! なんて雑誌に載ってるんだ!?」
興奮気味の深町の前で手を横に振り、軽くいなす。
「雑誌に掲載されるような有名作家もいるけど、俺のはあくまで自費出版」
「自費……ええと、自分で本にしてるって意味? え、でも本屋とかには?」
「そういうの取り扱いしてる本屋もあるらしいけど、俺のは基本ネット配信か即売会ね」
「へぇ……! すごいな、こんなの作れるなんて……!」
キラキラした眼差しで薄い本を見つめる深町に俺の自尊心は満たされてゆく。
「さっきの質問の答えはそれ。俺自身はLGBTではないけど、描いてる漫画のジャンルはBL。つまり男同士の恋愛物。お前に頼んだのは漫画のストーリーや作画の参考にするための材料集めってわけ。もちろん"コレ"も」
手にした大人の玩具を振って見せると深町は視線を逸らし、顔を赤らめる。
わかりやすく初心な反応。
「留守中うっかり親が部屋に乱入した時に備えて本棚の上に布テープで貼り付けて隠しておいてたんだけど、粘着が弱ってまさかのタイミングで落ちてきたみたいだな」
「ざ……材料集めで、あんなことするのか?」
「もちろんしない人もいっぱいいるとは思うよ。でも感想に『喘ぎ声が「あんあん」しか言ってなくて薄っぺらい』とか『作者の経験値が知れるレベル』とか書かれんの癪だろ? そこで、だ」
びし、と玩具で深町を指して言う。
「経験者のテクでリアリティ有る濡れ場を体感して作品に昇華させるためにお前を利用……んんっ! とかではなく、協力を願い出たんだ」
「経験者?」
「いるんだろ? 彼女。クラスの奴らが話してんの聞いた。野球部のマネージャーだっけ」
急に深町の表情が曇り、視線を逸らされる。
「…………。もう結構前に別れたよ。俺が部活辞めた時」
「ああ、現在進行形でないならより好都合じゃん」
「好都合って……勝手なこと言うなよ。それが野田に何の関係があるっていうんだよ」
不貞腐れて俺を睨む深町。
ほんとこいつ感情が顔に出るタイプな。
「悪い悪い。確かに彼女とお前の交際事情なんて俺には関係無いけど、別に付き合ってる奴らに波風立てたいわけじゃないし。彼女と別れたんだったら尚のこと、俺とそういう事しても問題無いだろ?」
「なっ……なん、っでいきなりそんな話に飛ぶんだよ!!」
今度は良く日焼けした顔を一気に首まで赤く染め上げて視線を宙へとさまよわせる。
うーん。ほんとにわかりやすい。
「いきなり未経験の奴に相手されんのはケガさせられそうだし、かといってヤリちんは病気の心配があるし、オッサンは生理的に無理だし。程よく経験者で、でも経験人数は少な目、生理的に受け付けないってほどの顔でもないし、条件は揃ってるんだよな」
「けっ……経験とかってそういうの、お前一体どういう貞操観念してんだよ!! ほんと信じらんねーわ!!」
「はぁ? 逆にお前の貞操観念を疑うわ。バージンロード歩く花嫁が皆バージンだとかいう夢物語でも吹き込まれてんのか?」
「バっ……!! 声がでかいって!!」
慌てた深町に両手で口を塞がれる。
「だっ……大体っ、そういうのって女の方に負担がかかるっていうし、収入とか生活基盤とか、男としてきちんと責任取れるようになるまではするべきではないっていうか、その、まだ未成年だし、早すぎるんじゃないかって……」
しどろもどろに大量の汗をかく深町を見て、確信する。
「……深町。お前もしかして童貞か?」
「………………」
手持無沙汰に玩具でぺちぺちと手の平を叩きながら、俯いて真っ赤に染まった深町の耳を見下ろした。
沈黙は言葉よりも雄弁に真実を現すってか。
「ってか紛らわしい言い方すんなよ! 『男相手』どころか、まるっと初めましてだったんじゃねぇか!」
手に持っていた玩具を深町の頭に振り下ろす。手にはびょびょびょん、と程よい玩具の弾力が響いた。
「……だっ!!」
「……ったく。せっかく彼女がいたってのに何やってたんだよ! この根性無しが!」
「野田が言うみたいに爛れた付き合い方する奴ばかりじゃねーんだよ! この節操無しが!」
「じゃあ付き合うって何したんだよ」
「野田が言った以外にも、することくらいあるだろ!」
「ああ。押し倒すとか揉みしだくとか?」
「もっ……!? そっ……んなことっ……!」
再び赤面。
「おい。ほんとに何もやってないのか。ってか、そもそもそれって交際って言えんのかよ」
「……キス、くらい、は、した、けど」
度重なる追及に観念したのか途切れ途切れに絞り出した深町は、熟れた顔を横に向けて、もういいだろ、と小さく呟いた。
「深町。今時保育園児でももう少し進んでるぞ。キス、手つなぎ、ハグを卒園し損ねてたのか?」
「そりゃその年齢の時と意味合いが全く違うだろ……」
「大体さぁ、そんなんで彼女は満足したのか? いくら奥手でも、さすがに焦れたんじゃねーの? よくドラマとか漫画とかであるじゃん。『家に遊びに来て』『今日親帰って来ないの』みたいな展開とかさぁ」
マイク代わりに玩具を口元に寄せて伏し目がちにしなを作ってセリフを回すと、深町の動きが止まった。
「あー、それは……」
ふと言い淀んだ深町に一気に詰め寄る。
「え!? 言われたことあんの!? なぁんだ、持ってんじゃん王道エピソード!」
「え、あ、いや。でも、あれはそういう意味で言ったんじゃないかもしれないし……」
「いやいや絶対そういう意味だって。で? そこからどうなったんだよ? ここまで話したんだから包み隠さず全部吐けって!」
肩を組んでインタビューよろしく深町に玩具を突きつけた。
「ちょっ……! だからそれやめろって!」
「ああ、ごめんごめん」
適当に玩具をぽい、と放り投げ、改めて問い質す。
「で? 行ったの? どこまで?」
「どこまでって……普通に『家に遊びに来て』って言われたから、家に……」
「ここまで来て焦らすなよ! で、それから?」
「リビングに通されて、一緒に野球の試合の動画見て」
「あーもうそんなとこいいって! 端折れ! 『今日親帰って来ないの』って言われたとこから話せ!」
「あー、うん。今日親が帰らないって聞いたから、夕飯の準備があるか確認して、家中の戸締り確認して」
「ん? んん? 戸締り?」
「一部屋だけ電気が点いてると一人だと疑われるかもしれないから複数の部屋の電気を点けて、ガスの元栓閉めて。「男がいるって思わせた方が不審者が近づきにくいだろうからこれをベランダに干しておけば完璧」って俺のユニ貸して」
「いや、ちょっと展開おかしくなってきてないか?」
「俺が出たらすぐチェーンかけて鍵閉めて。インターホンが鳴っても絶対すぐに開けないように。何か困ったことがあったらラインしてって言って早めに帰った」
呆れて二の句も継げないとは、まさにこのことか。
「野田? どうした?」
目を閉じて眉間を揉みながら長い長いため息を吐く。
「……いや、無いわぁ。さすがに彼女できたことない俺でもわかるよ、誘われてる流れだって」
「いや、どこがだよ。親が帰ってこない一人で留守番の時は、戸締りと防犯対策最優先だろ。っていうか、そんな状況でどうこうなろうなんて、いくらなんでも不誠実すぎるって」
「だぁーかぁーらぁー! 小学生の初めてのお留守番じゃないんだからさぁ。せっかく勇気振り絞ったのに彼女可哀そうすぎ」
「えー……? あ、そう、なの、か……?」
困惑して凛々しい眉尻をしょぼんと下げ、叱られた子供のようにこちらを上目遣いで見つめる深町を鼻で笑う。
やめろよ。男の上目遣いなんて寒いだけ。それやって可愛いって思われるの女子供くらいだ。
「ま、それなら俺とも失敗して当たり前だってのがよくわかった。ってか、無理してケガさせられなくてむしろ良かったわ」
「あ、はい。えーと、それに関してはほんとにごめん、なさい? でいいのか?」
「じゃ、お疲れさん。解散で」
「えっ?」
「え?」
「あ、いや。俺、野田が嫌がるようなことしたのに、最初に野田に頼まれたことは失敗して、まだ何もそれらしい償いができてないから……」
「ああ、そういえばそうだったな」
「あの、ほんとに悪かったと思ってるんだ。俺の早とちりで野田に嫌な思いさせて。だから、その、……(聞こえるか聞こえないかの小さい声で)挿れる、とか以外の、何か、俺にできる償い方があれば……」
さっき言ってた『オトコのセキニン』って奴ね。
それのおかげで俺に童貞奪われかけたってのに、ずいぶんと誠実なことで。
姿勢を正して息を呑み、死刑宣告を待つような面持ちでこちらを見つめる深町。
ま、せっかく本人が望んでることだし、使えるものは利用させてもらうか。
「深町、絵描ける?」
「絵? うーん。美術の授業で描いたくらいしか……」
「あ、いーのいーの。一からお前に任せるっていうより、下絵のペン入れ手伝ってもらいたくて。ようするに、俺がパパっと雑に描いた絵をなぞってもらえるだけでいいんだけど」
「やったこと無いけど、俺ができることであれば」
イラストアプリの別ファイルから描きかけの漫画の下描き画像を開く。
「うわ……これ、野田が描いたの?」
食い入るようにPC画面を見つめる深町。
「そう。ここ座って、これ着けて」
俺は座っていた椅子を譲り、液タブ用の手袋を渡す。
「ええと、これ利き手の方に嵌めるのか? っていうか破れてないか? これ」
「そういう仕様なの。って、お前左利きか」
「あ、うん」
「じゃ、左手の親指人差し指中指が出るようにして、薬指と小指を覆うように嵌めて。キーボードは液タブと反対に置かなきゃいけないのか。ショートカットキーってわかるか?」
「Windowsのなら。CtrlとAとかCとかの組み合わせだろ」
「お。話が早いじゃん。大体使い方は同じようなもんだから。WindowsならCtrlの所がMacならCmdになんの。で、よく使うのがCmd+ZとCmd+Sね」
「あー……。ええと、元に戻す、と、セーブ?」
「ご名答!」
期待なんてしてなかったけど、PCの基礎知識が入ってるなら意外と戦力として有望かもな。
褒められて深町の表情がようやく緩んだ。
「じゃ、本題な。このペン持って、この画面の鉛筆画で描いてある複数の線の真ん中あたりを狙ってなぞってほしいんだ」
「なぞる」
「そう」
緊張しているのか、ペンを持つ深町の手が小刻みに震えている。
「別に失敗してもはみ出しても別レイヤーの描き込みだし、いくらでもやり直しきくから、気負わずちゃっちゃと描けよ」
「れ、レイヤーって?」
「目に見えない透明な紙みたいな物。ほら、俺が描いた下絵も、こうやって可視ボタンを押すと正中線やアタリが消えたり出たりするだろ」
マウス操作で不要な線を可視化したり不可視化したりして見せる。
「ほぉぉ。なんかよくわかんないけどこんな仕組みになってんだ」
「とりあえず試しに"しくじり線"をこのレイヤーでわざと作ってみた方がわかりやすいかな?」
深町の背後から手ごとペンを握り、登場人物にざっくりと鼻ヒゲを描く。
「せっかくの綺麗な絵に何やってんだよ! もったいない!」
慌ててペンを浮かせる深町の後頭部をぺしり! と軽く叩く。
「ほら。さっき言ってたキーボード操作。わかるんだろ? 『元に戻す』」
「え? あ、ああ」
深町はペンと違ってキーボードの方は手慣れた様子でCmdとZを探し当てた。キャラの鼻ヒゲだけが綺麗さっぱり消え失せる。
「上手上手。大体この描き込みと修正の繰り返し。で、切りが良いところでセーブな。結構修正は何度も入れるから、利き手の反対の手はずっとキーボード固定で」
「わかった」
深町は頷いて再び液タブへと向かい、ペンを構え直す。指先が白くなるほど強く握り込むペン先が震えるのを見て、俺は慌てて深町の手を両手で掬い上げた。
「ちょい待てぇ!!」
「なっ……なんだよ急に!!」
「ペンは、あくまで、軽く握れ。軽ぅーくだ。じゃないとペン先が潰れたり摩耗したり、保護フィルターはかけてあるけど液晶画面に傷が入ったりする。別に一回で完璧に描こうなんて意気込む必要は無い。さっきやったように何度でも描いた線を元に戻すことはできるし、描き込んだ後で消しゴムツールで消して修正だってかけられる」
「ああ、なるほど。わかった」
ふぅ、と小さく息を吐いた深町は、姿勢を正して再びペンを構える。先ほどまでとは違い、力んだ様子は見受けられない。
今度は大丈夫そうだな。
そう思ったのも束の間だった。キャラクターの輪郭線をなぞるペン先はガタガタと揺らぎ、外側も内側も鉛筆線からはみ出していく。しかも何をどう解釈したのか、一度描いたガタガタ線を折り返して新たなガタガタを上書きした状態でキャラクターの輪郭から服のラインに移動しながら更にペン先の震えがどんどん酷くなっていく。
……こいつ一筆書きか何かに挑戦しようとでもしてるのか?
「ちょっと止まれ。別に一筆書きしなきゃいけないルールなんて……」
幅広く筋肉のついた肩に手を置いた瞬間、深町の体がぐらりと傾いた。
「うわちょっ!? どうした!?」
派手に椅子から転げ落ちて床に転がった深町は、見たことも無い顔色で荒く呼吸を繰り返す。
「い……息っ……! どこでした、ら、いいか……わからなく、てっ……!」
…………。はい、確定。こいつ思った以上にとんでもなく不器用だったわ。
「息止めて絵描くバカがいるかよ。画家は皆エラ呼吸かっての。やっぱもういいや。帰って。邪魔だから」
「ちょっ、待っ……。ちゃんと、役に立つから……」
「どう役に立つつもりだよ。未経験、不器用、肺呼吸すらできないなら使い物にならないだろ」
「こっ……こうせい! とかなら協力できるかと!」
必死の面持ちで挙手をしながらアピールする深町を品定めするように睥睨する。
「こうせいぃ?」
構成、公正、後世、攻勢……脳内で思いつく限りの漢字変換を試みるが、どれも深町が協力できるというイメージが湧かない。
「さっき野田に見せてもらった本なんだけど、数か所誤字脱字や同じ意味の言葉の重複があったんだ。ああいうのの校正……っていうほどすげーことはできないかもしれないけど、修正提案とかはできると思う」
校正。ああ、なるほど。その校正ね。
「セリフとか読み返しチェックしたはずだけど」
「でも、ここ。ほら、これ『姑息』って使ってるけど、『卑怯な』って意味で使ってるだろ? 正しくは『姑息』は『その場しのぎ』って意味で用法が違ってるんだ。ここだって送り仮名の『れ』が抜けてる」
「……お前細かすぎ。国語の先生かよ」
「さっき読んでる時に、話の内容よりこっちが気になって……」
内容に入り込めなくなるレベルの誤字脱字か……。
頭の中の天秤が『クビ』と『採用』の2つでぐらぐらと揺れる。まぁ、使えなかったら今度こそ蹴り出せばいいか。
「あー。そんじゃその、校正とやらを頼むわ」
「わかった」
今度こそ得意分野を任されたとばかりに自信たっぷりの表情の深町は、鞄からペンケースとルーズリーフを引っ張り出し、教科書を膝に乗せて机代わりに薄い本の修正箇所頁と修正前、修正後のセリフを書き出していく。
「あ、それ本に直接書いていいぞ。販売用じゃなくて自宅保管用だから」
「でも、せっかく綺麗に描けてるのに、汚すの勿体ないから」
深町は何の気なしに言ったようだったが、俺が作った本を『綺麗』とか『汚すのがもったいない』と言われて、正直悪い気はしない。
「まぁ……好きにしてもらっていいけど」
「うん」
俺の言葉を聞いているのかいないのか、深町はスマホを取り出し、時折フリック入力しながらルーズリーフの書き込みを続ける。見ていて不安になるほどルーズリーフが埋まっていくので、気になってPC作業に戻れない。
「おい。そんなに修正箇所あんのかよ」
「誤字脱字以外にも、この人物だけど、最初と途中で一人称が変わってる。『俺』だったり『僕』だったり」
PCファイルから校正してもらっている本の印刷前データをチェックすると、確かに主要キャラのセリフの一人称が複数回『俺』になったり『僕』になったりしている。印刷前に確認したつもりになっていたが、徹夜明けで見落としたのかもしれない。
「……。深町。他の本の校正も頼めるか?」
「もちろん!」
間違いを指摘されまくってプライドがズタボロの俺に反して深町は水を得た魚のように笑顔で頷いた。
その後も作業が手につかず、黒豆麦茶のお代わりをついだり冷蔵庫に入っていたお中元のフルーツゼリーを出したりして校正の結果を待つ。結局三冊の既刊と印刷前のPCファイルデータ全ての校正を終えた深町は、仕事終わりを感じさせる爽やかな笑みを浮かべてびっしりと書き込まれたルーズリーフを俺に提出した。
「間違い探し楽しい。クイズとかパズルみたい」
受け取ったルーズリーフに目を通す俺の向かいでぺりぺりとゼリーの蓋を剥がしながら深町は言う。
「語彙力下がってんのなんでだよ。お前が言い出したんだから校正って言えよ」
「それにしても自費出版て大変なんだな。こういうのも全部自分でチェックしないといけないんだろ?」
「入稿までに余裕があれば、人に見てもらうこともあるけどな。ここ最近のは時間無くてバタついてたから、まぁ確かにチェックが甘くなってたわ」
ルーズリーフに書かれた箇所は確かに指摘通り誤字脱字や熟語や慣用句の用法間違い、キャラクターの言葉遣いに至るまで納得がいく修正が為されていた。
「……予想外。ってか予想以上だわ。何? お前国語の成績いいの?」
「悪くはないと思う。うち親が本好きでさ。塵川賞とか曲木賞とかの発表があると必ず買ってくんの。漫画も野球が忙しくなる前までは結構読んでたし。最近のはさっぱりわからないけど」
「PCもある程度使えるって言ってたよな?」
「WordとExcelの簡単な入力くらいなら」
「写植の打ち込み方教えるから、イラストアプリに入ってる原稿から直接データ修正って頼める?」
「もちろん! あ、でも野田も漫画描くのにPC使うだろ? データ送ってもらうか共有できるなら俺の家のPCで作業するけど」
「マ!? そうしてもらえるとほんと助かる!」
「じゃ、ラインから俺のPCの方のアド送るわ」
「俺もイラストアプリのURL送る」
嬉々としてアドレスを交換することに気を取られ、俺は深町が届けてくれた封筒の存在を完全に忘れ去っていた。まさかそれが後に騒動の引き金になるなどと、疑うことも無しに。

