カフェは俺の想像と違って、落ち着いた雰囲気のアンティーク感が漂う店だった。最近八ツ屋を引き連れて行った、ケーキがメインのキラキラしたカフェとは全然様相が違う。
お客さんも若い女性客ばっかりかと思ったらそうじゃないし、むしろどちらかと言えば年齢層は高めだ。店内にはゆったりとしたピアノっぽい音楽が流れていて、時間すらも緩やかに流れているような感じがした。
「柳くんはどれにする?」
「俺は……」
柔らかいソファに座りながら、向かい合った美甘がメニューをこっちに向けてくれる。
「プレーン……イチゴ……バナナ……マスカット……」
種類こそ多くはないけど、写真を見るとどれも魅力的に思えて迷ってしまう。
「俺は一通り食べたことあるんだけど、柳くんにはやっぱりイチゴが合うんじゃないかな」
「え、制覇してんの?」
「う、うん。一応ね」
「やっぱすげえな」
俺以上に甘党の美甘は行動力も違うらしい。
「いつもは誰と来てるんだ?」
「……えっ? ひ、一人でしか来たことないよ? もっ、もももしかして浮気とか疑って――」
「一人かあ。俺も今度ソロで行ってみようかな」
正直一人で行くことにためらいは全然ないけど、それにハマったら1ヶ月分の小遣いなんて一気に掻き消えそう。たまーに八ツ屋からうまそうなスイーツの店教えてもらって、その時二人で一緒に行く方がちょうどいいんだよな。
「っ、一人で行くくらいならオレを誘ってよ。オレが柳くんと一緒に食べに行きたい」
「ん? ああたしかに、これからは美甘と行けるよな」
「うんっ、オレならいつでもどこでも行けるから!」
やっぱ美甘も甘いものに飢えてるんだな。さすが、ソロ活するくらい普段は甘党隠してるだけのことはある。
「よし、じゃあ俺イチゴのパンケーキにする。美甘は?」
「あ、オレは……サンドウィッチにしようかな」
「え、パンケーキじゃねえの?」
「……? うん。ここのはもう全部食べたから」
なるほど。同じのは食わねえタイプなのか。
「じゃああとは飲み物だけど――」
***
「――ご注文の品、以上ですべてお揃いでしょうか?」
「はい、ありがとうございます」
女性の店員さんが丁寧なお辞儀をして離れていった。
俺の目の前にはホイップが山を作ってるイチゴのパンケーキと、美甘にこれまたおすすめしてもらったオレンジジュース。そしてその向かい側にはレタスとハムのサンドウィッチとホットコーヒー。
パシャッ、と今日何回目になるか分からないシャッター音が俺の耳に入ってきた。
「あっ、柳くんのことは撮ってないから安心して……!」
「まだなんも言ってねえじゃん」
焦って首を振る美甘は、たぶん運ばれてきた料理を撮ったんだろうな。俺は碌にSNSをやってなければ思い出を写真にして残すという頭もないので、さっそく食べようとナイフとフォークを掴む。
「や、柳くんは撮らないの……?」
「ん? うん、俺は別にいいかな」
「あ、そう……そう、だよね」
なんだ? なんか歯切れ悪いな。もしかしてコイツも八ツ屋タイプか?
「俺のパンケーキも撮りたい?」
「えっ!? やっ、そういうわけじゃないよ!」
「じゃあなに? はっきり言ってくれないと分かんないんだけど」
「あ……えっと……」
美甘が手元のおしぼりを指でいじりながら視線を揺らす。
「その、柳くんの……チャットのアイコン……」
「ああ、あれ? 八ツ屋に撮れって強制されたやつ」
「うん……って、え? 強制?」
大きくなった美甘の瞳がパチパチと瞬きを繰り返す。
「そうだけど、それがなに?」
「あ……その、め、女々しいかもしれないんだけど、八ツ屋くんと行った時のは撮って、アイコンにまでしたのに、オレのは写しもしないんだって思ったら、その」
美甘の顔が段々と俯いて、つばの深いハットに隠れていく。
「なんだ、そんなこと?」
「うっ……」
たしかにどうでも良すぎて、待った自分が馬鹿らしく思えてきた。
「あの時のあれは、八ツ屋が俺のパンケーキまで写真に撮りたいっていうから、皿交換すんのが面倒かった俺が代わりに撮ってやったんだよ。でも写真送ったら送ったでブレてるとかキレやがって……。アイコンも初期アイコンのまま使ってたら味気ないってアイツがうるせえからアレに変えたんだ」
「そっそうだったの?」
「ああ、なんか思い出したらムカついてきた。こっちの撮って写真も変えようかな」
「えっ! そうしてそうして! オレも今撮ったのにする!」
元気になった美甘が体を乗り上げる勢いで何度も頷いた。机に置いてあるオレンジジュースがゆらゆらと波打つ。
「分かったから、一回落ち着けって」
「はっ……ご、ごめん」
落ち込んだり調子に乗ったりまた落ち込んだり……忙しない奴だな。
でも俺も写真撮るのをやめる気は全然なかったから、横に置いたサコッシュからスマホを取り出した。今度はブレないように気を付けながらイチゴのパンケーキをカメラに収める。
うん。俺にしちゃいい出来だ。アイコンも家に帰ったら変えてやろう。
「よし、じゃあもう食べていいよな?」
「っもちろん……!」
俺は両手を合わせた後、今度こそナイフとフォークを持ってパンケーキに向かった。
サイドにバニラアイスもトッピングされてるけど、まずはイチゴとクリームからだ。二枚重ねのパンケーキを一口サイズにカットし、上にこれでもかとホイップを乗せながら俺は頬張った。
「っ!!」
クリームのすっきりした甘さと、イチゴの程よい酸味。そしてこのふわふわの生地――。
鼻からすっと甘酸っぱい風味が抜ける。噛めば噛むほど口の中が素晴らしい調和で満たされていく。分厚い生地なのに口当たりが良すぎてすぐになくなってしまう。
今度はアイスを付け足して俺はかぶりつくように頬張った。
「っんん……!!」
これだ。これこそがまさに幸せの味。俺はいま、このパンケーキの間に挟まって溺れたい。
「かっ、かっ、かわっ」
「……ん?」
なんだいまの鳴き声。
前を向くと、口を半開きにしてイチゴみたいな顔色をした美甘が、じっと俺のことを凝視していた。
「なにしてんの?」
「しゃ、写真撮れないからッ! オレの頭の中に柳くんを保存してる!!」
……ああ、俺がさっき撮られるの嫌がったからか?
「別に一枚くらいだったらいいけど」
「ほんとに!?」
「うん。だからお前も早く食べようぜ」
「わ、わか、わかった!」
手元のスマホを素早く取った美甘が、俺にレンズを向ける。
そうしてる間にも俺は目の前のクリームが溶けてしまっているような気がして、気にせずまた食事を再開させた。
「うっうううっ……夢みたい……」
でも今日は一段とうるさいな。いつもみんなで食う昼ご飯の時は静かなのに。
ようやく美甘がサンドウィッチを食べ始めて、俺もパンケーキの残りが半分を切った時だった。
「――あの、もしかして美甘くんですか……?」
そう言う女の子の声が横から聞こえて顔を上げる。
「……あ……はい、そうですけど……」
「はあっ、やっぱり! さっき通りかかったときに顔が見えて、もしかしたらと思ったんですけど……ヤバい、本物だっ」
どうやら美甘を知ってるらしい。
その子は隣にいるもう一人の友達らしき女の子と顔を見合わせると、嬉しそうに手を合わせてはしゃぐ。
「あ、あの、よかったら今って少し時間ありますか?」
そして俺の方をチラッと横目で確認しながら、彼女は美甘に尋ねた。たぶん、ちょっとは俺に悪いと思ってるんだろうな。
俺も気にしないでくれって言おうと思ったけど、美甘が先に頷くほうが早かった。笑みをうっすら作って、口を軽く開く。
「……少しだけでいいなら」
「きゃあっ、やったあ! じゃああの、これにサインくれませんか!? 美甘くんがデザインしたキャップ、私超気に入ってて!」
「ああ……ありがとう。ペン貸してくれたら、君の好きなところに書くよ」
「わあっ、ありがとうございます!」
「あっじゃあ私もいいですか!? まさか会えると思ってなくて、今メモ帳しかないんですけど……!」
お洒落なロゴ入りの白キャップと、ノート型の手帳を渡された美甘が、すらすらとそれにペンを走らせる。
あんなに赤かった頬は色をなくしたように消え失せていた。放射線状に広がる睫毛を伏せながら、作り物のように微笑む美甘は、俺がまだ一度も見たことのない表情をしていた。
「これでいいかな」
「はいっ! あと握手もお願いしていいですか!?」
「うん。いつもありがとう」
「こちらこそありがとうございます! やっぱ噂通り、優しいっていうのは本当だったんですね……っ」
「……え、いや……オレは普通だと思うけど」
「いやいやそんなことないですよ! だって突然声掛けたら、嫌な顔する人もいるし!」
あ、なんか今一瞬、美甘の顔が陰ったような――。
「ファンの子たちには感謝してるからね。他にはもうないかな?」
「はい大丈夫です! 本当にありがとうございました!」
「うん。キャップ大事にしてね」
「もちろんです! ずっと応援してるので頑張ってください!」
女の子たちは何度も頭を下げながらカフェを出ていった。
店内には若い子あんまりいないと思ったけど、俺が気づいてないだけで普通にいたみたいだった。
「すごいな、美甘ってやっぱ人気あるんだ」
俺はオレンジジュースを飲みながらしみじみと呟く。
「……ごめんね、柳くん」
「え、なんで謝んの」
美甘は目だけで周りを見渡した後、顔を隠すように被ったハットの端を握りしめて俯いた。
そういえば店に入ってからも、コイツは一度も頭から外さなかったな。俺はずっとお洒落のためにつけてるものだと思ってたけど……。
「もしかして、身バレしないように被ってたのか?」
「……うん。だって柳くんとの時間、誰にも邪魔されたくなかったから」
さっきの爽やかな好青年はどこにいったんだ――ってくらい、押しつぶした小さな小さな声。
「別に俺は気にしないけど」
「柳くんはよくてもオレが嫌だった。絶対絶対邪魔されたくなかった」
「じゃあさっさと断ればよかったのに」
「──ッ!!」
息をヒュッと細く吸う音がした。顔を青ざめさせて、何かを恐れるように小さく肩を震わせる美甘と目が合う。
「美甘?」
「……っあ、ごめ……オ、オレちょっと顔洗ってくるね」
「え、急にどうし――」
美甘は俺の返事も聞き終える前に席を立つと、トイレのある方へ早足で歩いていった。
店内に流れるピアノの軽やかな音階が、やけに俺の耳にはっきり届く。美甘の表情が、脳裏に焼きついたまましばらく消えなかった。
お客さんも若い女性客ばっかりかと思ったらそうじゃないし、むしろどちらかと言えば年齢層は高めだ。店内にはゆったりとしたピアノっぽい音楽が流れていて、時間すらも緩やかに流れているような感じがした。
「柳くんはどれにする?」
「俺は……」
柔らかいソファに座りながら、向かい合った美甘がメニューをこっちに向けてくれる。
「プレーン……イチゴ……バナナ……マスカット……」
種類こそ多くはないけど、写真を見るとどれも魅力的に思えて迷ってしまう。
「俺は一通り食べたことあるんだけど、柳くんにはやっぱりイチゴが合うんじゃないかな」
「え、制覇してんの?」
「う、うん。一応ね」
「やっぱすげえな」
俺以上に甘党の美甘は行動力も違うらしい。
「いつもは誰と来てるんだ?」
「……えっ? ひ、一人でしか来たことないよ? もっ、もももしかして浮気とか疑って――」
「一人かあ。俺も今度ソロで行ってみようかな」
正直一人で行くことにためらいは全然ないけど、それにハマったら1ヶ月分の小遣いなんて一気に掻き消えそう。たまーに八ツ屋からうまそうなスイーツの店教えてもらって、その時二人で一緒に行く方がちょうどいいんだよな。
「っ、一人で行くくらいならオレを誘ってよ。オレが柳くんと一緒に食べに行きたい」
「ん? ああたしかに、これからは美甘と行けるよな」
「うんっ、オレならいつでもどこでも行けるから!」
やっぱ美甘も甘いものに飢えてるんだな。さすが、ソロ活するくらい普段は甘党隠してるだけのことはある。
「よし、じゃあ俺イチゴのパンケーキにする。美甘は?」
「あ、オレは……サンドウィッチにしようかな」
「え、パンケーキじゃねえの?」
「……? うん。ここのはもう全部食べたから」
なるほど。同じのは食わねえタイプなのか。
「じゃああとは飲み物だけど――」
***
「――ご注文の品、以上ですべてお揃いでしょうか?」
「はい、ありがとうございます」
女性の店員さんが丁寧なお辞儀をして離れていった。
俺の目の前にはホイップが山を作ってるイチゴのパンケーキと、美甘にこれまたおすすめしてもらったオレンジジュース。そしてその向かい側にはレタスとハムのサンドウィッチとホットコーヒー。
パシャッ、と今日何回目になるか分からないシャッター音が俺の耳に入ってきた。
「あっ、柳くんのことは撮ってないから安心して……!」
「まだなんも言ってねえじゃん」
焦って首を振る美甘は、たぶん運ばれてきた料理を撮ったんだろうな。俺は碌にSNSをやってなければ思い出を写真にして残すという頭もないので、さっそく食べようとナイフとフォークを掴む。
「や、柳くんは撮らないの……?」
「ん? うん、俺は別にいいかな」
「あ、そう……そう、だよね」
なんだ? なんか歯切れ悪いな。もしかしてコイツも八ツ屋タイプか?
「俺のパンケーキも撮りたい?」
「えっ!? やっ、そういうわけじゃないよ!」
「じゃあなに? はっきり言ってくれないと分かんないんだけど」
「あ……えっと……」
美甘が手元のおしぼりを指でいじりながら視線を揺らす。
「その、柳くんの……チャットのアイコン……」
「ああ、あれ? 八ツ屋に撮れって強制されたやつ」
「うん……って、え? 強制?」
大きくなった美甘の瞳がパチパチと瞬きを繰り返す。
「そうだけど、それがなに?」
「あ……その、め、女々しいかもしれないんだけど、八ツ屋くんと行った時のは撮って、アイコンにまでしたのに、オレのは写しもしないんだって思ったら、その」
美甘の顔が段々と俯いて、つばの深いハットに隠れていく。
「なんだ、そんなこと?」
「うっ……」
たしかにどうでも良すぎて、待った自分が馬鹿らしく思えてきた。
「あの時のあれは、八ツ屋が俺のパンケーキまで写真に撮りたいっていうから、皿交換すんのが面倒かった俺が代わりに撮ってやったんだよ。でも写真送ったら送ったでブレてるとかキレやがって……。アイコンも初期アイコンのまま使ってたら味気ないってアイツがうるせえからアレに変えたんだ」
「そっそうだったの?」
「ああ、なんか思い出したらムカついてきた。こっちの撮って写真も変えようかな」
「えっ! そうしてそうして! オレも今撮ったのにする!」
元気になった美甘が体を乗り上げる勢いで何度も頷いた。机に置いてあるオレンジジュースがゆらゆらと波打つ。
「分かったから、一回落ち着けって」
「はっ……ご、ごめん」
落ち込んだり調子に乗ったりまた落ち込んだり……忙しない奴だな。
でも俺も写真撮るのをやめる気は全然なかったから、横に置いたサコッシュからスマホを取り出した。今度はブレないように気を付けながらイチゴのパンケーキをカメラに収める。
うん。俺にしちゃいい出来だ。アイコンも家に帰ったら変えてやろう。
「よし、じゃあもう食べていいよな?」
「っもちろん……!」
俺は両手を合わせた後、今度こそナイフとフォークを持ってパンケーキに向かった。
サイドにバニラアイスもトッピングされてるけど、まずはイチゴとクリームからだ。二枚重ねのパンケーキを一口サイズにカットし、上にこれでもかとホイップを乗せながら俺は頬張った。
「っ!!」
クリームのすっきりした甘さと、イチゴの程よい酸味。そしてこのふわふわの生地――。
鼻からすっと甘酸っぱい風味が抜ける。噛めば噛むほど口の中が素晴らしい調和で満たされていく。分厚い生地なのに口当たりが良すぎてすぐになくなってしまう。
今度はアイスを付け足して俺はかぶりつくように頬張った。
「っんん……!!」
これだ。これこそがまさに幸せの味。俺はいま、このパンケーキの間に挟まって溺れたい。
「かっ、かっ、かわっ」
「……ん?」
なんだいまの鳴き声。
前を向くと、口を半開きにしてイチゴみたいな顔色をした美甘が、じっと俺のことを凝視していた。
「なにしてんの?」
「しゃ、写真撮れないからッ! オレの頭の中に柳くんを保存してる!!」
……ああ、俺がさっき撮られるの嫌がったからか?
「別に一枚くらいだったらいいけど」
「ほんとに!?」
「うん。だからお前も早く食べようぜ」
「わ、わか、わかった!」
手元のスマホを素早く取った美甘が、俺にレンズを向ける。
そうしてる間にも俺は目の前のクリームが溶けてしまっているような気がして、気にせずまた食事を再開させた。
「うっうううっ……夢みたい……」
でも今日は一段とうるさいな。いつもみんなで食う昼ご飯の時は静かなのに。
ようやく美甘がサンドウィッチを食べ始めて、俺もパンケーキの残りが半分を切った時だった。
「――あの、もしかして美甘くんですか……?」
そう言う女の子の声が横から聞こえて顔を上げる。
「……あ……はい、そうですけど……」
「はあっ、やっぱり! さっき通りかかったときに顔が見えて、もしかしたらと思ったんですけど……ヤバい、本物だっ」
どうやら美甘を知ってるらしい。
その子は隣にいるもう一人の友達らしき女の子と顔を見合わせると、嬉しそうに手を合わせてはしゃぐ。
「あ、あの、よかったら今って少し時間ありますか?」
そして俺の方をチラッと横目で確認しながら、彼女は美甘に尋ねた。たぶん、ちょっとは俺に悪いと思ってるんだろうな。
俺も気にしないでくれって言おうと思ったけど、美甘が先に頷くほうが早かった。笑みをうっすら作って、口を軽く開く。
「……少しだけでいいなら」
「きゃあっ、やったあ! じゃああの、これにサインくれませんか!? 美甘くんがデザインしたキャップ、私超気に入ってて!」
「ああ……ありがとう。ペン貸してくれたら、君の好きなところに書くよ」
「わあっ、ありがとうございます!」
「あっじゃあ私もいいですか!? まさか会えると思ってなくて、今メモ帳しかないんですけど……!」
お洒落なロゴ入りの白キャップと、ノート型の手帳を渡された美甘が、すらすらとそれにペンを走らせる。
あんなに赤かった頬は色をなくしたように消え失せていた。放射線状に広がる睫毛を伏せながら、作り物のように微笑む美甘は、俺がまだ一度も見たことのない表情をしていた。
「これでいいかな」
「はいっ! あと握手もお願いしていいですか!?」
「うん。いつもありがとう」
「こちらこそありがとうございます! やっぱ噂通り、優しいっていうのは本当だったんですね……っ」
「……え、いや……オレは普通だと思うけど」
「いやいやそんなことないですよ! だって突然声掛けたら、嫌な顔する人もいるし!」
あ、なんか今一瞬、美甘の顔が陰ったような――。
「ファンの子たちには感謝してるからね。他にはもうないかな?」
「はい大丈夫です! 本当にありがとうございました!」
「うん。キャップ大事にしてね」
「もちろんです! ずっと応援してるので頑張ってください!」
女の子たちは何度も頭を下げながらカフェを出ていった。
店内には若い子あんまりいないと思ったけど、俺が気づいてないだけで普通にいたみたいだった。
「すごいな、美甘ってやっぱ人気あるんだ」
俺はオレンジジュースを飲みながらしみじみと呟く。
「……ごめんね、柳くん」
「え、なんで謝んの」
美甘は目だけで周りを見渡した後、顔を隠すように被ったハットの端を握りしめて俯いた。
そういえば店に入ってからも、コイツは一度も頭から外さなかったな。俺はずっとお洒落のためにつけてるものだと思ってたけど……。
「もしかして、身バレしないように被ってたのか?」
「……うん。だって柳くんとの時間、誰にも邪魔されたくなかったから」
さっきの爽やかな好青年はどこにいったんだ――ってくらい、押しつぶした小さな小さな声。
「別に俺は気にしないけど」
「柳くんはよくてもオレが嫌だった。絶対絶対邪魔されたくなかった」
「じゃあさっさと断ればよかったのに」
「──ッ!!」
息をヒュッと細く吸う音がした。顔を青ざめさせて、何かを恐れるように小さく肩を震わせる美甘と目が合う。
「美甘?」
「……っあ、ごめ……オ、オレちょっと顔洗ってくるね」
「え、急にどうし――」
美甘は俺の返事も聞き終える前に席を立つと、トイレのある方へ早足で歩いていった。
店内に流れるピアノの軽やかな音階が、やけに俺の耳にはっきり届く。美甘の表情が、脳裏に焼きついたまましばらく消えなかった。
