子どもの頃から、感情を表に出すのが苦手だった。
一人っ子で、父と母との三人暮らし。
同世代の輪には何となく馴染めず、ひとりでいる方が楽だった。
小学校五年に上がる前の春休み、両親が離婚した。
特別仲が良い夫婦ではなかったのかもしれない。それでも、どこかで「このまま続くもの」だと思っていた。
何が起きたのか、当時の俺には理解できなかった。子供だった俺には、ただ離婚するとだけ告げられた。
今になって思えば、俺には理解できない事情があったのだろう。
「隆也は、お父さんとお母さん、どっちと一緒に住みたい?」
母にそう聞かれた時、何と答えたのかはっきり覚えていない。
多分、その時の自分に言える、当たり障りのないことを言ったのだと思う。
結果として俺は、母について行くことになった。
家を出る時、父さんが背中を向けていたことだけが、やけに鮮明に残っている。
十歳の俺が強く思ったのは、本当の気持ちは言えないこと。言っても仕方ないこと。
本当は三人で一緒に住みたいなんて。
――俺が何も言わなければ、誰も傷つかない。
母の地元に引っ越して、新しい学校に通うことになった。
知らない場所、新しい学校。不安がなかったと言えば嘘になる。
それでもいつの間にか、感情を表に出さないことに慣れていった。
「……別にいいか、友達なんていなくても」
そう思っていた頃、樹と出会った。
樹は誰からも好かれる人気者で、俺とは違う世界にいる人間に見えた。
転校して一週間が経った頃。
体育の時間に、転んで膝を擦りむいた。痛みはあったが、授業が終わってから保健室に行けばいいと思っていた。
手を挙げて授業を止めるのも、注目されるのも嫌だった。
そんな俺に、樹は気付いた。
「お前、転んだの?」
返事する間もなく、樹は先生に向かって手を振り上げた。
「せんせー、鮫島くんが足痛そうなので保健室行ってきまーす!」
「……え」
声を上げても、思ったよりあっけなかった。
俺の傷に気付かなかったことに謝る先生。周りも、誰も笑ったりしなかった。
保健室へ向かう廊下で、俺はずっと俯いていた。
恥ずかしかったのか、恥ずかしいことを隠そうとしたのに知られたことが恥ずかしかったのか、自分でもよく分からない。
でも、樹は笑わなかった。馬鹿にもせず、ただ当然のように俺の手を引いて歩いた。
「痛い時は痛いって言っていいんだぞ。じゃないと誰にも伝わらないだろ」
繋いでいた手から伝わってくる、体温があたたかくて。
お前の言葉に、俺がどれだけ救われたか。きっと、お前は知らない。
恋心を自覚したのは、中一の夏だった。
熱中症で俺が倒れた時、樹がブレザーをかけてくれた。その温もりが嬉しくて、恋を自覚した。
何度も自問自答した。これは友情じゃないかって、自分に問い続けて、何度も否定して。それでも、最後に残った答えはひとつだった。
俺は、樹が好きだ。幼馴染としてじゃない。恋をしている。
中二の夏、同じ塾の女子に告白された。
その時、少しだけ思った。他の誰かを好きになれるかもしれない、と。付き合うことにしたのは、逃げたかったからだ。この気持ちから。
樹には言わなかったけど、明るくてよく笑う女子だった。今思えば、樹に彼女を重ねていたのかもしれない。
一か月経ったころ、「手もつないでこない彼氏なんてつまらない」と言われて、終わった。
当然だと思った。樹以外の人に触れたいとは思わなかったから。
俺は男が好きなのかもしれない。そう思って、雑誌やビデオを見てみたけど、何も感じなかった。
そして気付いてしまった。
俺は、男が好きなんじゃない。樹が、好きなんだって。
男だから樹を好きになったんじゃない。樹だから、好きになったんだと。
中三の夏。中学では野球部に入って、エースを任された。だけど最後の大会前にけがをした。
俺が何か頑張ろうとすると、何もうまくいかない。そう思っていた。落ち込んでいた俺に、樹は言った。
『じゃあ、音楽やれば?』
そのひと言でベースを始めた。
樹が飽きっぽいのは知っていたから、バンドを組めなかったのは残念だけど仕方ないと受け入れた。
想像以上にベースは面白かったし、何より、樹が俺の演奏を褒めてくれるのが嬉しかった。
それだけでいいと思えた。俺の夏には、隣にいつも樹がいた。
樹はモテる。誰からも好かれて、要領もよくて。何をしても中途半端な俺とは違う。
樹が告白されるたびに、どこか誇らしそうにしていたのは知っていた。正直、面白くはなかったけど。
でも、回数を数えているうちは安心できた。誰とも本気で付き合う気はないのだと。
俺はただ、幼馴染としてそばにいられればそれでよかった。
――たとえいつか、樹に本当に好きな人ができるとしても。
それでも、時々未来を想像しては、怖くなった。
樹が、誰かの告白を受け入れたら。結婚して、子どもが生まれて……。
教会で、白いタキシードを着ている樹を想像する。隣には、純白のウエディングドレス。
俺は、笑っておめでとうと言えるだろうか。
『このブレザー、しばらく借りていい?』
最近、樹が俺のブレザーをよく借りる。
正直、困る。可愛すぎてつらい。
ずっと蓋をしていた気持ちが、溢れそうになる。
だから、あの時。
「隆也ってさ……好きな奴とかいるの?」
「――いないよ」
咄嗟に嘘をついた。
「今は……いない」
もし、俺が樹に告白したら?
『樹へ』
例えばラブレター。 角張った字で、男だって気付くだろうか。
『お前、そんな目で俺を見てたの? ないわ』
そんなことを樹が言うはずないって、分かっている。
だけど、樹のそばにいられなくなると考えただけで、怖くて堪らなかった。
失いたくない。友達でいい。一番近くにいたい。
この関係性が変わってしまうくらいなら、一生、胸に秘めたままでいい。
そう、思っていたのに。
『……本当にただの幼馴染だと思ってる?』
『幼馴染だと思ってるの、隆也だけだよ。俺はもう……お前のこと幼馴染だなんて思ってない』
一週間前、樹に言われたことが、ずっと胸に刺さっている。
俺だって、ずっと、ただの幼馴染だと思っていなかった。
お前は俺のーー。
ベースをチューニングする。
「隆也、次だぞ」
バンドメンバーの声がかかる。
視線を上げると、スポットライトの明かりがステージの向こうに見えた。
あそこに立てば、もう逃げられない。
――お前に、伝える。
そう心の中でだけ言って、俺は立ち上がった。
スポットライトの中へ、歩き出す。
一人っ子で、父と母との三人暮らし。
同世代の輪には何となく馴染めず、ひとりでいる方が楽だった。
小学校五年に上がる前の春休み、両親が離婚した。
特別仲が良い夫婦ではなかったのかもしれない。それでも、どこかで「このまま続くもの」だと思っていた。
何が起きたのか、当時の俺には理解できなかった。子供だった俺には、ただ離婚するとだけ告げられた。
今になって思えば、俺には理解できない事情があったのだろう。
「隆也は、お父さんとお母さん、どっちと一緒に住みたい?」
母にそう聞かれた時、何と答えたのかはっきり覚えていない。
多分、その時の自分に言える、当たり障りのないことを言ったのだと思う。
結果として俺は、母について行くことになった。
家を出る時、父さんが背中を向けていたことだけが、やけに鮮明に残っている。
十歳の俺が強く思ったのは、本当の気持ちは言えないこと。言っても仕方ないこと。
本当は三人で一緒に住みたいなんて。
――俺が何も言わなければ、誰も傷つかない。
母の地元に引っ越して、新しい学校に通うことになった。
知らない場所、新しい学校。不安がなかったと言えば嘘になる。
それでもいつの間にか、感情を表に出さないことに慣れていった。
「……別にいいか、友達なんていなくても」
そう思っていた頃、樹と出会った。
樹は誰からも好かれる人気者で、俺とは違う世界にいる人間に見えた。
転校して一週間が経った頃。
体育の時間に、転んで膝を擦りむいた。痛みはあったが、授業が終わってから保健室に行けばいいと思っていた。
手を挙げて授業を止めるのも、注目されるのも嫌だった。
そんな俺に、樹は気付いた。
「お前、転んだの?」
返事する間もなく、樹は先生に向かって手を振り上げた。
「せんせー、鮫島くんが足痛そうなので保健室行ってきまーす!」
「……え」
声を上げても、思ったよりあっけなかった。
俺の傷に気付かなかったことに謝る先生。周りも、誰も笑ったりしなかった。
保健室へ向かう廊下で、俺はずっと俯いていた。
恥ずかしかったのか、恥ずかしいことを隠そうとしたのに知られたことが恥ずかしかったのか、自分でもよく分からない。
でも、樹は笑わなかった。馬鹿にもせず、ただ当然のように俺の手を引いて歩いた。
「痛い時は痛いって言っていいんだぞ。じゃないと誰にも伝わらないだろ」
繋いでいた手から伝わってくる、体温があたたかくて。
お前の言葉に、俺がどれだけ救われたか。きっと、お前は知らない。
恋心を自覚したのは、中一の夏だった。
熱中症で俺が倒れた時、樹がブレザーをかけてくれた。その温もりが嬉しくて、恋を自覚した。
何度も自問自答した。これは友情じゃないかって、自分に問い続けて、何度も否定して。それでも、最後に残った答えはひとつだった。
俺は、樹が好きだ。幼馴染としてじゃない。恋をしている。
中二の夏、同じ塾の女子に告白された。
その時、少しだけ思った。他の誰かを好きになれるかもしれない、と。付き合うことにしたのは、逃げたかったからだ。この気持ちから。
樹には言わなかったけど、明るくてよく笑う女子だった。今思えば、樹に彼女を重ねていたのかもしれない。
一か月経ったころ、「手もつないでこない彼氏なんてつまらない」と言われて、終わった。
当然だと思った。樹以外の人に触れたいとは思わなかったから。
俺は男が好きなのかもしれない。そう思って、雑誌やビデオを見てみたけど、何も感じなかった。
そして気付いてしまった。
俺は、男が好きなんじゃない。樹が、好きなんだって。
男だから樹を好きになったんじゃない。樹だから、好きになったんだと。
中三の夏。中学では野球部に入って、エースを任された。だけど最後の大会前にけがをした。
俺が何か頑張ろうとすると、何もうまくいかない。そう思っていた。落ち込んでいた俺に、樹は言った。
『じゃあ、音楽やれば?』
そのひと言でベースを始めた。
樹が飽きっぽいのは知っていたから、バンドを組めなかったのは残念だけど仕方ないと受け入れた。
想像以上にベースは面白かったし、何より、樹が俺の演奏を褒めてくれるのが嬉しかった。
それだけでいいと思えた。俺の夏には、隣にいつも樹がいた。
樹はモテる。誰からも好かれて、要領もよくて。何をしても中途半端な俺とは違う。
樹が告白されるたびに、どこか誇らしそうにしていたのは知っていた。正直、面白くはなかったけど。
でも、回数を数えているうちは安心できた。誰とも本気で付き合う気はないのだと。
俺はただ、幼馴染としてそばにいられればそれでよかった。
――たとえいつか、樹に本当に好きな人ができるとしても。
それでも、時々未来を想像しては、怖くなった。
樹が、誰かの告白を受け入れたら。結婚して、子どもが生まれて……。
教会で、白いタキシードを着ている樹を想像する。隣には、純白のウエディングドレス。
俺は、笑っておめでとうと言えるだろうか。
『このブレザー、しばらく借りていい?』
最近、樹が俺のブレザーをよく借りる。
正直、困る。可愛すぎてつらい。
ずっと蓋をしていた気持ちが、溢れそうになる。
だから、あの時。
「隆也ってさ……好きな奴とかいるの?」
「――いないよ」
咄嗟に嘘をついた。
「今は……いない」
もし、俺が樹に告白したら?
『樹へ』
例えばラブレター。 角張った字で、男だって気付くだろうか。
『お前、そんな目で俺を見てたの? ないわ』
そんなことを樹が言うはずないって、分かっている。
だけど、樹のそばにいられなくなると考えただけで、怖くて堪らなかった。
失いたくない。友達でいい。一番近くにいたい。
この関係性が変わってしまうくらいなら、一生、胸に秘めたままでいい。
そう、思っていたのに。
『……本当にただの幼馴染だと思ってる?』
『幼馴染だと思ってるの、隆也だけだよ。俺はもう……お前のこと幼馴染だなんて思ってない』
一週間前、樹に言われたことが、ずっと胸に刺さっている。
俺だって、ずっと、ただの幼馴染だと思っていなかった。
お前は俺のーー。
ベースをチューニングする。
「隆也、次だぞ」
バンドメンバーの声がかかる。
視線を上げると、スポットライトの明かりがステージの向こうに見えた。
あそこに立てば、もう逃げられない。
――お前に、伝える。
そう心の中でだけ言って、俺は立ち上がった。
スポットライトの中へ、歩き出す。
