そのあとの授業なんて、一文字も頭に入らなかった。
昼休みの教室は、笑い声や、誰かがスマホで流す動画の音で溢れかえっている。
――もう、何も考えたくない。
耳に残った糸井の指の温度。
重なった手の重み。
触れ合った髪の感触。
全部、あいつが僕を面白がってかき乱しているだけだ。
それらすべてを忘れたくて、限界まで張り詰めた神経を緩めるために
僕は昼休みの喧騒の中、机に突っ伏した。
……今度こそ本当に、眠ってしまおう。
意識を手放して、あいつのいない世界へ逃げ込みたい。
意識が微睡みの中に溶け込み始めた、
そのとき。
「好きだよ、宇佐見」
鼓膜を直接震わせるような、囁き。
周りの喧騒は変わらない。椅子を引く音も、遠くの爆笑も続いている。
なのに、その「好き」という二文字だけが、
まるでこの教室に僕たち二人しかいないみたいに鮮明に鼓膜に張り付いた。
「っ……!」
心臓が跳ね上がり、弾かれたように、僕は顔を上げた。
勢いよく起き上がったせいで、視界がわずかに揺れる。
目の前には、椅子を逆向きに座って僕を覗き込んでいた糸井がいた。
「あ、おっきしたんだ。おはよう」
糸井は、まるで小さな子供をあやすようなおどけた口調で言った。
余裕のある態度を装っているけれど、その目元はわずかに見開かれ、驚いたように揺れている。
僕が今の言葉を聞いていたなんて、思っていなかったんだろう。
「……お前、いま」
何て言ったんだ。
問い詰めようとして、唇が震える。
糸井は一瞬だけ、戸惑うように視線を泳がせたが、
すぐに覚悟を決めたような、見たこともない真剣な眼差しで僕を見据えた。
僕の耳元に顔を寄せる。
古川や山岸、誰にも向けたことのない、蜂蜜のように甘く、それでいてひどく切実なトーン。
「好きだよ」
もう一度。
返答なんて求めていない。
ただ、自分の心の一部を無理やり僕の中に押し込めるような、一方的な告白。
糸井はそれだけ言うと、僕が言葉を発する前に、ひらりと手を振って教室から出ていってしまった。
一人、取り残された席。
耳に残った糸井の声だけが、熱を持って僕の身体中に巡っていく。
――なんなんだよ、本当に。
顔が火照る。知らないやつに告白されたときはこんな風にならなかったのに。
嘘だろ。
なんで、今、あんな言い方で。
心臓が今までにないくらい早鐘を打つ。
けれど、本当の『異常事態』は、その後に待っていた。
五限が終わった後の休み時間、僕はあいつが話しかけてくるのを待っていた。
あんな告白をされたんだ。
どんな顔をして話せばいいかわからない。
でも、あいつならまた、あの余裕たっぷりな顔で「びっくりした?」なんて言ってくるはずだ。
そう、思い込んでいたのに。
――糸井は、話しかけてこなかった。
プリントが前から配られる時。
いつもならわざと指先を触れさせてくるのに、
今日の糸井は、僕を見ようともせず、ただ後ろに手だけを回して紙を置いただけだった。
プリントを拾ってもらったあの日よりも前の、ただの席が前後のクラスメイトの戻ったみたいだった。
……なんなんだよ、本当に。
勝手にかき回して、勝手に「好き」だなんて言って、それで終わりか?
いくら何でも勝手すぎるだろ。
六限が終わって、帰りのホームルーム前。
いつもならそのわずかな時間さえ、僕の方を向いて話かけてきたのに、
今日はポケットからスマホを取り出してゲームに勤しんでいる。
僕はその背中を、ただ眺めることしかできなかった。
悶々とした気持ちを抱えながら帰りのホームルームを終え
僕は逃げるようにバイトへ向かった。
バイト中もあいつのことばかり考えてしまう。
「好き」って言ったのはクラスメイトとして?
深い意味なんて何もなかったんじゃないか?
もう、考えるのはやめよう。
明日の朝教室に入ればまた「おはよう」って言ってくるはずだ。
自分に言い聞かせ、僕はいつもの倍のスピードでオーダーを捌き、皿を洗った。
身体が悲鳴を上げるほど忙しくしていれば、耳元に残った「好きだよ」という残響を消せると思ったからだ。
そう、思っていたのに。
その日から、糸井は嘘みたいに僕に話しかけてこなくなった。
僕が教室に入った時、古川が熱心に糸井に話しかけている。
古川が「放課後、飯行こうぜ」と誘っているのに糸井はスマホに視線を落としたままシカト。
そこまではいつもの光景だ。
でも、その先が今日は違った。
いつもなら僕が教室に入った途端に顔を上げて「おはよう」と笑顔を向けてくるのに
糸井はスマホに向けた視線を上げようとしない。
休み時間も同じだった。
チャイムが鳴っても一向に後ろを振り返る気配はない。
糸井の周りには、いつものように古川や女子たちが群がっている。
中心にいる糸井は、机に肘をついて気だるげにスマホゲームに没頭していた。
「なあ糸井、この動画見た?」
「ああ、おめでと」
古川の問いかけに、糸井は画面から目を逸らしもせず
まったく関係のない返事を返す。
誰に対しても興味がなさそうで、それでいて誰からも求められる
僕が知っている、あの日までの糸井だった。
次の休み時間も、その次の休み時間も、
どんなに糸井の背中を睨みつけても、糸井は振り返らなかった。
あんなに敏感に僕の気配を察していたはずの背中は、
今は授業中寝るときに便利なただの、『壁』に戻っている。
……なんなんだよ、本当に。
胸の奥が、昨日よりもずっと激しく、嫌な音を立てて波打っている。
どうしてこんなに、視界に映るあいつの背中が癪に障るんだろう。
僕だけが昨日の出来事に囚われて、
僕だけが「好き」という言葉の重みに押し潰されている。
その事実が、たまらなく惨めで、滑稽で――。
「……もっと、シフト増やそう」
考えたくない。
一分一秒でもいいから、この静まり返った絶望から逃げ出したかった。
僕は震える指で、
バイトの店長に「明日も入れますか」とメッセージを送った。
昼休みの教室は、笑い声や、誰かがスマホで流す動画の音で溢れかえっている。
――もう、何も考えたくない。
耳に残った糸井の指の温度。
重なった手の重み。
触れ合った髪の感触。
全部、あいつが僕を面白がってかき乱しているだけだ。
それらすべてを忘れたくて、限界まで張り詰めた神経を緩めるために
僕は昼休みの喧騒の中、机に突っ伏した。
……今度こそ本当に、眠ってしまおう。
意識を手放して、あいつのいない世界へ逃げ込みたい。
意識が微睡みの中に溶け込み始めた、
そのとき。
「好きだよ、宇佐見」
鼓膜を直接震わせるような、囁き。
周りの喧騒は変わらない。椅子を引く音も、遠くの爆笑も続いている。
なのに、その「好き」という二文字だけが、
まるでこの教室に僕たち二人しかいないみたいに鮮明に鼓膜に張り付いた。
「っ……!」
心臓が跳ね上がり、弾かれたように、僕は顔を上げた。
勢いよく起き上がったせいで、視界がわずかに揺れる。
目の前には、椅子を逆向きに座って僕を覗き込んでいた糸井がいた。
「あ、おっきしたんだ。おはよう」
糸井は、まるで小さな子供をあやすようなおどけた口調で言った。
余裕のある態度を装っているけれど、その目元はわずかに見開かれ、驚いたように揺れている。
僕が今の言葉を聞いていたなんて、思っていなかったんだろう。
「……お前、いま」
何て言ったんだ。
問い詰めようとして、唇が震える。
糸井は一瞬だけ、戸惑うように視線を泳がせたが、
すぐに覚悟を決めたような、見たこともない真剣な眼差しで僕を見据えた。
僕の耳元に顔を寄せる。
古川や山岸、誰にも向けたことのない、蜂蜜のように甘く、それでいてひどく切実なトーン。
「好きだよ」
もう一度。
返答なんて求めていない。
ただ、自分の心の一部を無理やり僕の中に押し込めるような、一方的な告白。
糸井はそれだけ言うと、僕が言葉を発する前に、ひらりと手を振って教室から出ていってしまった。
一人、取り残された席。
耳に残った糸井の声だけが、熱を持って僕の身体中に巡っていく。
――なんなんだよ、本当に。
顔が火照る。知らないやつに告白されたときはこんな風にならなかったのに。
嘘だろ。
なんで、今、あんな言い方で。
心臓が今までにないくらい早鐘を打つ。
けれど、本当の『異常事態』は、その後に待っていた。
五限が終わった後の休み時間、僕はあいつが話しかけてくるのを待っていた。
あんな告白をされたんだ。
どんな顔をして話せばいいかわからない。
でも、あいつならまた、あの余裕たっぷりな顔で「びっくりした?」なんて言ってくるはずだ。
そう、思い込んでいたのに。
――糸井は、話しかけてこなかった。
プリントが前から配られる時。
いつもならわざと指先を触れさせてくるのに、
今日の糸井は、僕を見ようともせず、ただ後ろに手だけを回して紙を置いただけだった。
プリントを拾ってもらったあの日よりも前の、ただの席が前後のクラスメイトの戻ったみたいだった。
……なんなんだよ、本当に。
勝手にかき回して、勝手に「好き」だなんて言って、それで終わりか?
いくら何でも勝手すぎるだろ。
六限が終わって、帰りのホームルーム前。
いつもならそのわずかな時間さえ、僕の方を向いて話かけてきたのに、
今日はポケットからスマホを取り出してゲームに勤しんでいる。
僕はその背中を、ただ眺めることしかできなかった。
悶々とした気持ちを抱えながら帰りのホームルームを終え
僕は逃げるようにバイトへ向かった。
バイト中もあいつのことばかり考えてしまう。
「好き」って言ったのはクラスメイトとして?
深い意味なんて何もなかったんじゃないか?
もう、考えるのはやめよう。
明日の朝教室に入ればまた「おはよう」って言ってくるはずだ。
自分に言い聞かせ、僕はいつもの倍のスピードでオーダーを捌き、皿を洗った。
身体が悲鳴を上げるほど忙しくしていれば、耳元に残った「好きだよ」という残響を消せると思ったからだ。
そう、思っていたのに。
その日から、糸井は嘘みたいに僕に話しかけてこなくなった。
僕が教室に入った時、古川が熱心に糸井に話しかけている。
古川が「放課後、飯行こうぜ」と誘っているのに糸井はスマホに視線を落としたままシカト。
そこまではいつもの光景だ。
でも、その先が今日は違った。
いつもなら僕が教室に入った途端に顔を上げて「おはよう」と笑顔を向けてくるのに
糸井はスマホに向けた視線を上げようとしない。
休み時間も同じだった。
チャイムが鳴っても一向に後ろを振り返る気配はない。
糸井の周りには、いつものように古川や女子たちが群がっている。
中心にいる糸井は、机に肘をついて気だるげにスマホゲームに没頭していた。
「なあ糸井、この動画見た?」
「ああ、おめでと」
古川の問いかけに、糸井は画面から目を逸らしもせず
まったく関係のない返事を返す。
誰に対しても興味がなさそうで、それでいて誰からも求められる
僕が知っている、あの日までの糸井だった。
次の休み時間も、その次の休み時間も、
どんなに糸井の背中を睨みつけても、糸井は振り返らなかった。
あんなに敏感に僕の気配を察していたはずの背中は、
今は授業中寝るときに便利なただの、『壁』に戻っている。
……なんなんだよ、本当に。
胸の奥が、昨日よりもずっと激しく、嫌な音を立てて波打っている。
どうしてこんなに、視界に映るあいつの背中が癪に障るんだろう。
僕だけが昨日の出来事に囚われて、
僕だけが「好き」という言葉の重みに押し潰されている。
その事実が、たまらなく惨めで、滑稽で――。
「……もっと、シフト増やそう」
考えたくない。
一分一秒でもいいから、この静まり返った絶望から逃げ出したかった。
僕は震える指で、
バイトの店長に「明日も入れますか」とメッセージを送った。
