次の日の朝、教室の空気はいつも以上に騒がしかった。
入り口のドアを開けた瞬間、真っ先に聞こえてきたのは古川の不満げな声だ。
「――だからさ、糸井! お前が急に帰るから、女子たちのテンションだだ下がりだったんだぞ!」
古川は不満げに糸井の机を叩く。
「悪いって。ちょっと用事思い出したから」
そんな古川の剣幕を、糸井はいつものように適当に受け流している。
その横顔は、
昨日駐輪場で僕を見て笑った時のあの柔らかい表情とはまるで別物で
どこか冷めていて、隙がない。
……昨日のあれは、やっぱり僕の夢か何かなんじゃないか。
そう思って、自分の席に向かおうとした時だった。
「宇佐見。おはよう」
僕が視界に入った瞬間、糸井の顔がぱっと和らいだ。
古川の話なんて、最初から聞いていなかったみたいに僕だけを見ている。
さっきまで古川に向けていた、あの『適当な返事』とは明らかに熱量が違う声。
「……はよ」
短く返して椅子に座ると、すかさず古川が僕の方に身を乗り出してきた。
「なあ宇佐見、お前あそこでバイトしてるなら教えとけよ!あー、また今度遊びに行こうかな」
「……やめろ。営業妨害だ」
「冷てーな!なあ山岸、またみんなで行こうぜ」
後ろからやってきた山岸は僕に絡みついてくる。
「絶対行く!宇佐見のエプロン姿似合ってたし!」
今日もうるさい。離してほしい。ベタベタ触るな。
山岸の言動に、僕は思わず顔をしかめた。
新しいバイト先を探そうかと本気で検討しかけた、
その時だ。
「行かないよ、みんなでは」
糸井が、低く、でも有無を言わせないトーンで口を挟んだ。
心なしか僕に抱き着いて離れない山岸を睨んでいる。
「あそこ、けっこう混むし。宇佐見の仕事、邪魔しちゃダメでしょ」
「えー、糸井がそういうこと言う?」
「それより古川、さっき四組の子が呼んでたよ」
糸井は鮮やかな手際で話題をすり替え、古川たちの意識を僕から逸らした。
古川は「告白⁉」って嬉しそうにスキップしながら教室を出て行き
山岸が「おもしろそう!俺も行く!」と僕から手を放して古川の後を追っていった。
助けられた。
……昨日と同じように。
僕が何も言えずに座ると、糸井は背中越しに少しだけこちらを振り返り
僕だけにわかるように小さく笑った。
――なんなんだよ、本当に。
昨夜の「送らせて」という強引な声と、今の軽やかな表情。
どちらが本当のあいつなのか、考えれば考えるほど僕の頭はかき乱される。
そのあとの休み時間も、糸井の「侵食」は止まらなかった。
チャイムが鳴るたび、あいつは当たり前のように後ろを向く。
「ねえ、宇佐見」
糸井はいつも通り後ろを向く。
そのまま、糸井が僕に向かって少しだけ身を乗り出す。
「宇佐見。昨日、ちゃんと寝れた?」
「別に、普通」
「ふーん、ならいいけど。……あ、宇佐見ってさ」
糸井が不意に僕の左手を覗き込む。
「やっぱり、手。綺麗だよね。指が長くて、爪の形も整ってる」
「……なんだよ、急に」
昨日、手首を掴まれた感覚がフラッシュバックする。
慌てて手を引こうとしたけど
糸井の指が僕の関節をなぞる動きが妙に丁寧で、呼吸を忘れる。
「ちょっと細すぎて心配だけど。……でも、俺は好きだな、こういう手」
周りには山岸も古川もいる。
ほかのクラスメイトや、女子たちの視線だってある。なのに、
糸井は僕との距離を測り間違えているかのように、ぐいぐいと踏み込んでくる。
さっきより、ずっと。
廊下での壁ドンの時よりも、手首を掴まれた時よりも。
今の僕とこいつの間の空気は、
他人には見えない膜で覆われているみたいに、濃密で、逃げ場のない熱を孕んでいた。
でも、糸井は授業が始まるチャイムが鳴れば何事もなかったかのように手を離して前を向く。
次の休み時間。
昨日からのあまりの情報の多さに疲れて、次の授業の準備もそこそこに、机に突っ伏して目を閉じた。
……寝てしまえば、このざわつきも消える。
そう思っていたのに、心臓がまだうるさく鳴り止まない。
瞼の裏には、昨夜見た街灯の下の糸井の笑顔が、焼き付いたように残っている。
「宇佐見」
また……。
この声に何度心臓を跳ね上げさせられたか分からない。
もう、いっそのこと徹底的に無視してやろうと決め込んで、腕の中に顔を深く埋めた。
その、瞬間。
糸井の温かい指先が、僕の耳たぶに触れた。
ハッとして顔を上げると、僕の右耳に、白い有線のイヤホンがねじ込まれていた。
「な、に」
「前に俺が好きって言ってたバンド、覚えてる?宇佐見にも聴いてほしい」
糸井はそう言って、もう片方のイヤホンを迷いなく自分の左耳に装着し、スマホを机の上に置いた。
再生ボタンを押すと、
少しノイズの混じった、でも心地よい重低音が、僕の耳の奥へ流れ込んでくる。
右耳からは、知らないバンドの激しくも切ないメロディ。
左耳からは、遠くの方で聞こえる教室のざわめきと、糸井の微かな衣擦れの音。
「別に、今じゃなくていいだろ。曲名教えてくれれば、後で自分で聴くし」
「ダメ。今、一緒に聴きたいから」
糸井はそう言って、僕の机に肘をついて、自分の頭を僕の方へ寄せた。
有線のイヤホン。
そのコードの長さは、僕とあいつの距離を決定的に縛り付ける。
少しでも動けばイヤホンが外れてしまう。
それを言い訳にするように、糸井は僕のパーソナルスペースをやすやすと突破してくる。
その距離、わずか数十センチ。
「いい曲でしょ」
そう言って、糸井は自分の頭を僕の頭に触れさせる。
絶対にわざとだ。
重なり合った髪の感触と、そこから伝わってくるあいつの体温。
――曲なんて、まったく頭に入ってこない。
イヤホンから流れる重低音よりも、自分の中で暴れる心臓の音の方がずっとうるさい。
この鼓動が、触れている頭部や、コードを伝って糸井に聞こえてしまうんじゃないか。
そんな馬鹿げた恐怖で机の上に置いた指先が震える。
それなのに。
糸井は満足そうに目を細めて、僕の手に自分の手を重ねた。
大きな手が僕の手を優しく包み込み、指先でかすかに、曲に合わせるようにリズムを取る。
僕は鳴りやまない鼓動がバレないように
スマホで再生されているMVに無理やり意識を集中させた。
曲が終わるまでの数分間。
それが、永遠のように長く感じられた。
入り口のドアを開けた瞬間、真っ先に聞こえてきたのは古川の不満げな声だ。
「――だからさ、糸井! お前が急に帰るから、女子たちのテンションだだ下がりだったんだぞ!」
古川は不満げに糸井の机を叩く。
「悪いって。ちょっと用事思い出したから」
そんな古川の剣幕を、糸井はいつものように適当に受け流している。
その横顔は、
昨日駐輪場で僕を見て笑った時のあの柔らかい表情とはまるで別物で
どこか冷めていて、隙がない。
……昨日のあれは、やっぱり僕の夢か何かなんじゃないか。
そう思って、自分の席に向かおうとした時だった。
「宇佐見。おはよう」
僕が視界に入った瞬間、糸井の顔がぱっと和らいだ。
古川の話なんて、最初から聞いていなかったみたいに僕だけを見ている。
さっきまで古川に向けていた、あの『適当な返事』とは明らかに熱量が違う声。
「……はよ」
短く返して椅子に座ると、すかさず古川が僕の方に身を乗り出してきた。
「なあ宇佐見、お前あそこでバイトしてるなら教えとけよ!あー、また今度遊びに行こうかな」
「……やめろ。営業妨害だ」
「冷てーな!なあ山岸、またみんなで行こうぜ」
後ろからやってきた山岸は僕に絡みついてくる。
「絶対行く!宇佐見のエプロン姿似合ってたし!」
今日もうるさい。離してほしい。ベタベタ触るな。
山岸の言動に、僕は思わず顔をしかめた。
新しいバイト先を探そうかと本気で検討しかけた、
その時だ。
「行かないよ、みんなでは」
糸井が、低く、でも有無を言わせないトーンで口を挟んだ。
心なしか僕に抱き着いて離れない山岸を睨んでいる。
「あそこ、けっこう混むし。宇佐見の仕事、邪魔しちゃダメでしょ」
「えー、糸井がそういうこと言う?」
「それより古川、さっき四組の子が呼んでたよ」
糸井は鮮やかな手際で話題をすり替え、古川たちの意識を僕から逸らした。
古川は「告白⁉」って嬉しそうにスキップしながら教室を出て行き
山岸が「おもしろそう!俺も行く!」と僕から手を放して古川の後を追っていった。
助けられた。
……昨日と同じように。
僕が何も言えずに座ると、糸井は背中越しに少しだけこちらを振り返り
僕だけにわかるように小さく笑った。
――なんなんだよ、本当に。
昨夜の「送らせて」という強引な声と、今の軽やかな表情。
どちらが本当のあいつなのか、考えれば考えるほど僕の頭はかき乱される。
そのあとの休み時間も、糸井の「侵食」は止まらなかった。
チャイムが鳴るたび、あいつは当たり前のように後ろを向く。
「ねえ、宇佐見」
糸井はいつも通り後ろを向く。
そのまま、糸井が僕に向かって少しだけ身を乗り出す。
「宇佐見。昨日、ちゃんと寝れた?」
「別に、普通」
「ふーん、ならいいけど。……あ、宇佐見ってさ」
糸井が不意に僕の左手を覗き込む。
「やっぱり、手。綺麗だよね。指が長くて、爪の形も整ってる」
「……なんだよ、急に」
昨日、手首を掴まれた感覚がフラッシュバックする。
慌てて手を引こうとしたけど
糸井の指が僕の関節をなぞる動きが妙に丁寧で、呼吸を忘れる。
「ちょっと細すぎて心配だけど。……でも、俺は好きだな、こういう手」
周りには山岸も古川もいる。
ほかのクラスメイトや、女子たちの視線だってある。なのに、
糸井は僕との距離を測り間違えているかのように、ぐいぐいと踏み込んでくる。
さっきより、ずっと。
廊下での壁ドンの時よりも、手首を掴まれた時よりも。
今の僕とこいつの間の空気は、
他人には見えない膜で覆われているみたいに、濃密で、逃げ場のない熱を孕んでいた。
でも、糸井は授業が始まるチャイムが鳴れば何事もなかったかのように手を離して前を向く。
次の休み時間。
昨日からのあまりの情報の多さに疲れて、次の授業の準備もそこそこに、机に突っ伏して目を閉じた。
……寝てしまえば、このざわつきも消える。
そう思っていたのに、心臓がまだうるさく鳴り止まない。
瞼の裏には、昨夜見た街灯の下の糸井の笑顔が、焼き付いたように残っている。
「宇佐見」
また……。
この声に何度心臓を跳ね上げさせられたか分からない。
もう、いっそのこと徹底的に無視してやろうと決め込んで、腕の中に顔を深く埋めた。
その、瞬間。
糸井の温かい指先が、僕の耳たぶに触れた。
ハッとして顔を上げると、僕の右耳に、白い有線のイヤホンがねじ込まれていた。
「な、に」
「前に俺が好きって言ってたバンド、覚えてる?宇佐見にも聴いてほしい」
糸井はそう言って、もう片方のイヤホンを迷いなく自分の左耳に装着し、スマホを机の上に置いた。
再生ボタンを押すと、
少しノイズの混じった、でも心地よい重低音が、僕の耳の奥へ流れ込んでくる。
右耳からは、知らないバンドの激しくも切ないメロディ。
左耳からは、遠くの方で聞こえる教室のざわめきと、糸井の微かな衣擦れの音。
「別に、今じゃなくていいだろ。曲名教えてくれれば、後で自分で聴くし」
「ダメ。今、一緒に聴きたいから」
糸井はそう言って、僕の机に肘をついて、自分の頭を僕の方へ寄せた。
有線のイヤホン。
そのコードの長さは、僕とあいつの距離を決定的に縛り付ける。
少しでも動けばイヤホンが外れてしまう。
それを言い訳にするように、糸井は僕のパーソナルスペースをやすやすと突破してくる。
その距離、わずか数十センチ。
「いい曲でしょ」
そう言って、糸井は自分の頭を僕の頭に触れさせる。
絶対にわざとだ。
重なり合った髪の感触と、そこから伝わってくるあいつの体温。
――曲なんて、まったく頭に入ってこない。
イヤホンから流れる重低音よりも、自分の中で暴れる心臓の音の方がずっとうるさい。
この鼓動が、触れている頭部や、コードを伝って糸井に聞こえてしまうんじゃないか。
そんな馬鹿げた恐怖で机の上に置いた指先が震える。
それなのに。
糸井は満足そうに目を細めて、僕の手に自分の手を重ねた。
大きな手が僕の手を優しく包み込み、指先でかすかに、曲に合わせるようにリズムを取る。
僕は鳴りやまない鼓動がバレないように
スマホで再生されているMVに無理やり意識を集中させた。
曲が終わるまでの数分間。
それが、永遠のように長く感じられた。
