ようやくバイトが終わった。
バックヤードでエプロンを外して、軽く伸びをする。
今日はいちだんと疲れた。
いつもの倍くらい働いた気がする。
身体的な疲れよりも、あの席を、糸井を意識しすぎて精神的にすり減った気がする。
裏口から外に出ると、すっかり夜だった。
昼間の熱気がわずかに残るアスファルトを踏みしめ、駐輪場へと向かう。
ポケットから鍵を取り出し、チャリに手をかけた、
その時だった。
「おつかれさま」
——聞き慣れた低い声。
心臓が大きく跳ねた。
慌てて振り返ると、
フェンスにもたれて、糸井が立っていた。
街灯オレンジ色の光の下で、ぼんやりと輪郭が浮かんでいる。
それだけで、やけに目立つ。
……なんでいるんだよ。
言葉にする前に、糸井が嬉しそうな顔で笑った。
「一緒に帰りたくて、待ってた」
軽く言って、
「迷惑なら、帰るけど。……ダメ?」
付け足す。
冗談みたいな言い方なのに、どこか、こちらの様子をうかがってるみたいで。
……ずるい。
「……いつからいたんだよ」
思わず、聞いていた。
「んー、ちょっと前」
曖昧に答える。
どのくらいかは、わからない。
糸井が着ている制服のシャツは、夜風にさらされてすっかり冷えているように見えた。
たぶん、結構待ってたんだろうな。
そう思ってしまうくらいには、こいつは、平然とそこにいた。
そう思った瞬間、口が勝手に動いていた。
「……寒くなかったのかよ」
言ってから、はっとする。
もうすぐ七月だ。僕だって夏服を着てる。
夜とはいえ、寒さを心配するような気温じゃない。
普通に今でもじっとりと蒸し暑いくらいなのに。
「……ごめん、今のなし。変なこと言った」
ぶっきらぼうに吐き捨てて、視線を逸らす。恥ずかしい。穴があったら入りたい。
「心配してくれた?」
糸井の声が、すぐ近くで弾んだ。
からかうような、でもひどく柔らかな響き。
「してねえよ」
「へえ」
糸井はクスクスと肩を揺らして笑うと、ぽつりと呟いた。
「優しいね、宇佐見は」
馬鹿にしている感じは一切なかった。
むしろ、宝物でも見つけたみたいに、心底嬉しそうな声。
「……別に」
短く返すのが精一杯だった。
やさしい、なんて。
そんなこと、生まれてから一度も言われたことがない気がする。
あいつが放つ言葉のひとつひとつが、僕の知らない心の領域に土足で踏み込んでくる。
別に、深い意味なんてなかったのに。
ただ、待ってたなら、少しはそう思っただけで。
それをわざわざ言葉にされるほどのことでもない。
でも、その一言が、妙に引っかかった。
糸井が自然に僕の隣に並んだ。
狭い駐輪場で、肩がかすかに触れ合う。
「一人で帰れる。子供じゃないんだから」
「うん、知ってる」
即答だった。
「でも、帰りたい。ダメかな」
聞いているようで、僕に拒否権なんて無いような言い方。
「なんで」
「宇佐見と帰りたいから」
間髪入れずに返ってくる答えに、頭が追いつかない。
さっきまで、あんな楽しそうに、女子に囲まれていたくせに。
「合コン、いいのかよ」
つい、棘のある言い方になってしまった。
「ん?」
「途中で抜けてきたんだろ」
古川達のことだから、きっとまだ解散していない。今頃カラオケにいるだろう。
「あー、うん。別に、いいかなって」
糸井は特に悪びれもせず、夜空を見上げて肩をすくめた。
胸の奥が、またざわつく。理由が、わからないまま。
「……もったいねえな」
「なにが」
「女」
自分でも、なんでそんなこと言ったのかわからない。糸井は一瞬だけ目を細めて、
「興味ないし」
あっさり言った。僕の方を見て続ける。
「古川にさ、『飯行こう』って言われて来ただけ。着いたらああだった」
少しだけ、肩をすくめる。
「騙されてんじゃねえか」
「でしょ。途中で帰ればいいやって思ってたのに、
いちばん奥の席座らされて逃げ道塞がれてさ。最悪だって思ってたんだけど」
被害者ですって顔して、眉をひそめる。
それから、少しだけ間を置いて、
「でも、宇佐見がいたから。来てよかったって思った」
「……は?」
「明日まで会えないと思ってたから。あそこで宇佐見の顔見た瞬間、正直、めちゃくちゃテンション上がった」
「……意味わかんね」
視線を逸らす。
そのまま、自転車の鍵をいじる。
街灯に照らされた糸井の瞳が、熱を帯びて僕を射抜く。
「気に入ってる」なんて言葉じゃ足りないくらいの、もっと濃度の高い何かが
その視線には混じっているように見えた。
心臓が、またうるさく鳴り始める。
さっきまで他の誰かに向けられていたはずのその熱が、今は僕一人に注がれている。
その事実が、恐ろしいほどに僕を揺さぶっていた。
「バイト、けっこうシフトはいってる?」
ふいに、隣を歩き出した糸井が問いかけてきた。
「さっきも、ずっと忙しそうに動いてたし。手際いいよね」
「ああ」
「週どんくらい?」
「……まあ、そこそこ」
「そっか」
それ以上、糸井は深くは踏み込んでこなかった。
本当はもっと、週何日だとか何時までだとか、具体的な数字を答えればいいんだろう。
でも、自分のことをあまり詳しくさらけ出すのは、なんとなく落ち着かない。
いつも授業中は死んだように寝ているし、
休み時間だって、あいつが話しかけてくるようになるまでは、誰とも喋らずに眠りについていた。
放課後のチャイムが鳴れば、寄り道もせず真っ先に教室を出る。
山岸が「宇佐見、遊びに行こうぜ!」と何度誘っても、一度も首を縦に振ったことはない。
それは糸井も見ていた。
そんな『鉄壁』だったはずの僕の放課後に、糸井が当たり前のような顔をして入り込んでいる。
「お前こそ、いいのかよ。いつも誰かと帰ってるだろ」
「今日は、宇佐見と帰りたい気分だったから。宇佐見って、いつもすぐ帰っちゃうし。
山岸の誘いも全部断ってるの、知ってたからさ」
やっぱり、見ていたのか。
何度も誘おうとして、僕が隙を見せないから諦めていた。
……そんなニュアンスが言葉の端々に混じっていて、喉の奥が熱くなる。
「帰んないの」
誤魔化すみたいに言うと、糸井はまた即答した。
「帰る。宇佐見と一緒に」
まただ。
まるでそれが、最初から決まっていた約束であるかのように言う。
断ればいい。
自転車なんだから先に行くと言えばいいし
一人で帰りたいって突き放す理由なんて、いくらでもあったはずだ。
「……好きにすれば」
結局、口から出たのは情けないほど妥協した一言だった。
糸井は、夜の闇に溶けてしまいそうなほど柔らかく笑って、「うん」とだけ返した。
――なんで、断らなかったんだろう。
考えても、明確な答えは出ない。
ただ、さっきまで僕を支配していた『合コンを見ていた時のあの苛立ち』が
夜風に吹かれる糸井の隣にいるだけで、少しずつ凪いでいくのを感じていた。
「家、どっち?」
歩き出そうとして、糸井が聞いた。
「こっち」
駅とは反対方向の、住宅街へと続く道を顎で示す。
すると、糸井の表情がパッと明るくなった。
「あ、俺も」
「は?」
「方向、一緒。そっか、そっちだったんだ」
一人で勝手に納得して、糸井は僕のペースに合わせるようにゆっくりと歩き出す。
……ほんと、なんなんだよ。
夜の住宅街は静まり返っていて、僕が引く自転車のチェーンが鳴る音と、二人の足音だけがやけに大きく響く。
街灯の届かない暗がりに差し掛かるたび、隣にいる糸井の気配が近くなり、
すれ違う肩の距離に意識が集中してしまって、歩きにくい。
そのとき、短く、着信音が鳴った。
糸井のスマホ。
歩きながらスマホを取り出し、画面をちらっと見てから
あからさまに顔をしかめた。
「出なくていいの」
「んー、古川」
小さくため息をつき、出る気はないと言わんばかりに親指で通知を消す。
「今出たら、戻ってこいってうるさいから」
「ああ」
「めんどいし、いいや。今はこっちの方が大事だし」
さらっと、聞き捨てならないことを付け加える。
糸井はスマホを仕舞おうとしたけれど、
その指先がスマホケースの背面に触れたのを見て、僕は思わず口を開いていた。
「お前さ、まだそれ貼ってんの」
「ん?」
「それ」
指で示すと、糸井はスマホを裏返して、僕の顔の前に持ってきた。
街灯の青白い光に照らされて浮かび上がったのは、見覚えのあるあのピンク色の点数シール。
剥がす時に僕が少し破いてしまった端っこが、無惨にめくれかけている。
「学校であれだけ流行らせておいて、自分はまだそれなんだ?
流行りを作った本人がそんなボロいの貼ってるなんて、変だろ。
新しいきれいなやつ、貼ればいいじゃん」
また言葉に棘が混ざる。
女子たちに囲まれていた時の光景が、まだ胸のどこかでチクチクしているせいだ。
けれど、糸井は僕の皮肉を気にする風でもなく、長い指でシールの表面を優しくなぞった。
「んー……。でもこれ、気に入ってるんだよね」
「気に入る要素なんてないだろ。ただのゴミだぞ、それ」
「ゴミじゃないよ。宇佐見にもらったやつだし」
なんでもないことのように言って、スマホをポケットに滑り込ませた。
「破れてても、これがいい。かわいいと思うよ、俺は」
「…………」
言葉に詰まる。
かわいい、なんて。
剥がし損ねて端がやぶれたシールをそんな風に呼ぶ、こいつの感性がやっぱり理解できない。
でも。
「宇佐見にもらったやつだから」という言葉が、
夜の冷たい空気の中にいつまでも溶けずに残って、僕の耳の奥を熱くし続ける。
少し歩いたところで、僕は自分のハンドルを握る手に視線を落とした。
……歩かせてるの、なんか悪い気がする。
自転車があるのに、なんでふたりで律儀に歩いてるんだろ。
「乗る?」
「ん?」
「後ろ。乗れば、早く着くだろ」
短く言うと、
糸井は一瞬だけきょとんとして、それから、困ったような愛おしそうな、不思議な笑い方をした。
「いいの?」
「歩かせるの悪いから」
深い意味なんてない。
ただ、このまま歩かせるのも、なんか違う気がしただけだ。
けれど糸井は、僕のチャリの荷台に視線を落とし、それから僕の手首に目をやった。
「やめとく」
意外にも、返ってきたのは拒絶だった。
「は?なんでだよ」
「宇佐見、細いし。
バイト終わりで疲れてるのに、俺みたいなデカいの乗せて漕がせるわけにいかないでしょ」
糸井はそう言って、僕の頭に手を置こうとして
――思いとどまったように空中で手を止めた。
「それに、今は……まだいい。歩きたい気分なんだ。宇佐見の隣」
軽く言って、糸井はまた前を向いて歩き出す。
……意味がわからない。
楽をすればいいのに、なんでわざわざ夜道を歩く方を選ぶんだ。
細くたって僕も男だ。糸井一人くらい乗せてチャリを漕ぐくらいの力はある。
それに、「今はいい」ってなんだ。じゃあいつならいいっていうんだ。
「……変なの」
「そう?宇佐見が優しすぎるだけじゃない?」
「優しくねえよ。効率の話だ」
「はいはい、そういうことにしておくよ」
また並んで歩き出す。
二人乗りを提案する前よりも、心なしか肩と肩の距離が近づいている。
同じ歩幅で進む夜道は、さっきよりもずっと静かで、それでいて、お互いの体温が伝わってくるような熱を帯びていた。
住宅街の入り口にある、Y字型の分かれ道に差し掛かった。
錆びついた街灯がひとつ、心許ない光をアスファルトに落としている。
ここを曲がれば、僕の家まではあと数分だ。
「僕、こっち」
自転車を止めて、右側の細い道を示す。
「ん」
糸井も隣で足を止めた。
当然、ここで「じゃあね」と手を振って別れるものだと思っていた。
あいつの家がどっちかは知らないけれど、中学の学区の境目だ。
糸井とは中学が違うから、こっちではないだろう。
「ここでいい」
そう言ってチャリにまたがろうとした。
なのに。
「もうちょい」
糸井はあっさりと言って、止まっていた足を再び踏み出した。
僕の家の方向へ。
「いや、大丈夫だって。すぐそこだから」
「送らせて」
間髪入れずに言う。
冗談めかした雰囲気はなくて、その瞳はまっすぐに僕を捉えていた。
夜の静寂の中で、その声だけがやけに低く、強引に僕の領域へ踏み込んでくる。
断ろうとした。
一人で平気だ、過保護すぎる、お前の帰りが遅くなるだろ。
いくらでも正論は浮かんだはずなのに、なぜか言葉が喉の奥でつっかえて、出てこない。
――「取られたくない」
廊下で言われたあの言葉が、呪文みたいに頭をよぎる。
今、ここで断ってしまったら、何かが終わってしまうような
――あるいは、始まってしまうような、そんな妙な緊張感に気圧されていた。
「……っ、好きにしろ」
結局、絞り出すようにそれだけ言うのが精一杯だった。
「うん」
糸井は満足そうに、少しだけ嬉しそうに目を細めて笑った。
そこからは、本当にすぐだった。
街灯の少ない、入り組んだ路地の突き当たり。
築年数の重みを感じさせる、二階建ての古い木造アパート。
塗装の剥げた鉄製の階段が、夜の闇にひっそりと佇んでいる。
あいかわらずボロいなって自分の家ながら、毎回思う。
「……ここ」
アパートの前に自転車を止める。
自分の生活圏の、それもいちばん無防備な場所をさらけ出すのは、思っていた以上に心臓に悪い。
同じ学校の人間に誰一人教えていない家。
背後にある建物の古さや、暗い共用廊下が、今の自分そのものを見られているようで落ち着かなかった。
「そっか。ここなんだね」
糸井はアパートを見上げるわけでもなく、ただ僕だけを見ていた。
「ごめん。わざわざ、遠回りさせた」
「ううん。俺がそうしたかっただけだし」
糸井は僕の自転車のハンドルを握る手の上に、自分の手を重ねようとして――
また、わずかに触れるか触れないかの距離で止めた。
糸井はその場から動こうとはしない。
「……なに」
「宇佐見が入るまで、見てる」
「は……? 子供かよ」
「いいでしょ。最後まで送るって決めたから」
呆れてため息をつきながらも、僕は自転車を駐輪スペースに押し込み、階段を上がり始めた。
背中に、あいつの視線を痛いほど感じる。
自分の部屋のドアの前で立ち止まり、鍵を差し込む。
ふと、下を振り返ると。
街灯のオレンジ色の光の下、糸井がまだそこにいた。
僕が振り返るのを待っていたかのように、「また明日、学校でね」と軽く手を挙げて、また少しだけ笑った。
夜の冷たい空気と一緒に部屋の中までついてきそうになる。
僕は小さく手を振ったあと、慌ててドアを開け、滑り込むように中に入って、すぐに鍵を閉めた。
カチリ、と硬質な音が部屋に響く。
狭い玄関。消えたままの電灯。
静かすぎる部屋の中で、僕は靴を脱ぐのも忘れて、ドアに背中を預けた。
ドクッ、ドクッ、と。
さっきからずっと、耳の奥で心臓の音がうるさい。
バイトの疲れなんて、どこかへ吹き飛んでいた。
「……なんなんだよ、あいつ」
熱を持ったままの手首を、もう片方の手で強く握りしめる。
昼間、あいつに掴まれた場所の体温が、まだそこにあるような気がした。
あいつが「気に入ってる」って言ったのは、ゴミみたいなシールじゃなくて。
あいつが「取られたくない」って言ったのは……。
認めてしまったら、もう二度と『便利な壁』の向こう側で眠ることはできない。
その確信だけが、僕の体温をいつまでも下げさせてくれなかった。
バックヤードでエプロンを外して、軽く伸びをする。
今日はいちだんと疲れた。
いつもの倍くらい働いた気がする。
身体的な疲れよりも、あの席を、糸井を意識しすぎて精神的にすり減った気がする。
裏口から外に出ると、すっかり夜だった。
昼間の熱気がわずかに残るアスファルトを踏みしめ、駐輪場へと向かう。
ポケットから鍵を取り出し、チャリに手をかけた、
その時だった。
「おつかれさま」
——聞き慣れた低い声。
心臓が大きく跳ねた。
慌てて振り返ると、
フェンスにもたれて、糸井が立っていた。
街灯オレンジ色の光の下で、ぼんやりと輪郭が浮かんでいる。
それだけで、やけに目立つ。
……なんでいるんだよ。
言葉にする前に、糸井が嬉しそうな顔で笑った。
「一緒に帰りたくて、待ってた」
軽く言って、
「迷惑なら、帰るけど。……ダメ?」
付け足す。
冗談みたいな言い方なのに、どこか、こちらの様子をうかがってるみたいで。
……ずるい。
「……いつからいたんだよ」
思わず、聞いていた。
「んー、ちょっと前」
曖昧に答える。
どのくらいかは、わからない。
糸井が着ている制服のシャツは、夜風にさらされてすっかり冷えているように見えた。
たぶん、結構待ってたんだろうな。
そう思ってしまうくらいには、こいつは、平然とそこにいた。
そう思った瞬間、口が勝手に動いていた。
「……寒くなかったのかよ」
言ってから、はっとする。
もうすぐ七月だ。僕だって夏服を着てる。
夜とはいえ、寒さを心配するような気温じゃない。
普通に今でもじっとりと蒸し暑いくらいなのに。
「……ごめん、今のなし。変なこと言った」
ぶっきらぼうに吐き捨てて、視線を逸らす。恥ずかしい。穴があったら入りたい。
「心配してくれた?」
糸井の声が、すぐ近くで弾んだ。
からかうような、でもひどく柔らかな響き。
「してねえよ」
「へえ」
糸井はクスクスと肩を揺らして笑うと、ぽつりと呟いた。
「優しいね、宇佐見は」
馬鹿にしている感じは一切なかった。
むしろ、宝物でも見つけたみたいに、心底嬉しそうな声。
「……別に」
短く返すのが精一杯だった。
やさしい、なんて。
そんなこと、生まれてから一度も言われたことがない気がする。
あいつが放つ言葉のひとつひとつが、僕の知らない心の領域に土足で踏み込んでくる。
別に、深い意味なんてなかったのに。
ただ、待ってたなら、少しはそう思っただけで。
それをわざわざ言葉にされるほどのことでもない。
でも、その一言が、妙に引っかかった。
糸井が自然に僕の隣に並んだ。
狭い駐輪場で、肩がかすかに触れ合う。
「一人で帰れる。子供じゃないんだから」
「うん、知ってる」
即答だった。
「でも、帰りたい。ダメかな」
聞いているようで、僕に拒否権なんて無いような言い方。
「なんで」
「宇佐見と帰りたいから」
間髪入れずに返ってくる答えに、頭が追いつかない。
さっきまで、あんな楽しそうに、女子に囲まれていたくせに。
「合コン、いいのかよ」
つい、棘のある言い方になってしまった。
「ん?」
「途中で抜けてきたんだろ」
古川達のことだから、きっとまだ解散していない。今頃カラオケにいるだろう。
「あー、うん。別に、いいかなって」
糸井は特に悪びれもせず、夜空を見上げて肩をすくめた。
胸の奥が、またざわつく。理由が、わからないまま。
「……もったいねえな」
「なにが」
「女」
自分でも、なんでそんなこと言ったのかわからない。糸井は一瞬だけ目を細めて、
「興味ないし」
あっさり言った。僕の方を見て続ける。
「古川にさ、『飯行こう』って言われて来ただけ。着いたらああだった」
少しだけ、肩をすくめる。
「騙されてんじゃねえか」
「でしょ。途中で帰ればいいやって思ってたのに、
いちばん奥の席座らされて逃げ道塞がれてさ。最悪だって思ってたんだけど」
被害者ですって顔して、眉をひそめる。
それから、少しだけ間を置いて、
「でも、宇佐見がいたから。来てよかったって思った」
「……は?」
「明日まで会えないと思ってたから。あそこで宇佐見の顔見た瞬間、正直、めちゃくちゃテンション上がった」
「……意味わかんね」
視線を逸らす。
そのまま、自転車の鍵をいじる。
街灯に照らされた糸井の瞳が、熱を帯びて僕を射抜く。
「気に入ってる」なんて言葉じゃ足りないくらいの、もっと濃度の高い何かが
その視線には混じっているように見えた。
心臓が、またうるさく鳴り始める。
さっきまで他の誰かに向けられていたはずのその熱が、今は僕一人に注がれている。
その事実が、恐ろしいほどに僕を揺さぶっていた。
「バイト、けっこうシフトはいってる?」
ふいに、隣を歩き出した糸井が問いかけてきた。
「さっきも、ずっと忙しそうに動いてたし。手際いいよね」
「ああ」
「週どんくらい?」
「……まあ、そこそこ」
「そっか」
それ以上、糸井は深くは踏み込んでこなかった。
本当はもっと、週何日だとか何時までだとか、具体的な数字を答えればいいんだろう。
でも、自分のことをあまり詳しくさらけ出すのは、なんとなく落ち着かない。
いつも授業中は死んだように寝ているし、
休み時間だって、あいつが話しかけてくるようになるまでは、誰とも喋らずに眠りについていた。
放課後のチャイムが鳴れば、寄り道もせず真っ先に教室を出る。
山岸が「宇佐見、遊びに行こうぜ!」と何度誘っても、一度も首を縦に振ったことはない。
それは糸井も見ていた。
そんな『鉄壁』だったはずの僕の放課後に、糸井が当たり前のような顔をして入り込んでいる。
「お前こそ、いいのかよ。いつも誰かと帰ってるだろ」
「今日は、宇佐見と帰りたい気分だったから。宇佐見って、いつもすぐ帰っちゃうし。
山岸の誘いも全部断ってるの、知ってたからさ」
やっぱり、見ていたのか。
何度も誘おうとして、僕が隙を見せないから諦めていた。
……そんなニュアンスが言葉の端々に混じっていて、喉の奥が熱くなる。
「帰んないの」
誤魔化すみたいに言うと、糸井はまた即答した。
「帰る。宇佐見と一緒に」
まただ。
まるでそれが、最初から決まっていた約束であるかのように言う。
断ればいい。
自転車なんだから先に行くと言えばいいし
一人で帰りたいって突き放す理由なんて、いくらでもあったはずだ。
「……好きにすれば」
結局、口から出たのは情けないほど妥協した一言だった。
糸井は、夜の闇に溶けてしまいそうなほど柔らかく笑って、「うん」とだけ返した。
――なんで、断らなかったんだろう。
考えても、明確な答えは出ない。
ただ、さっきまで僕を支配していた『合コンを見ていた時のあの苛立ち』が
夜風に吹かれる糸井の隣にいるだけで、少しずつ凪いでいくのを感じていた。
「家、どっち?」
歩き出そうとして、糸井が聞いた。
「こっち」
駅とは反対方向の、住宅街へと続く道を顎で示す。
すると、糸井の表情がパッと明るくなった。
「あ、俺も」
「は?」
「方向、一緒。そっか、そっちだったんだ」
一人で勝手に納得して、糸井は僕のペースに合わせるようにゆっくりと歩き出す。
……ほんと、なんなんだよ。
夜の住宅街は静まり返っていて、僕が引く自転車のチェーンが鳴る音と、二人の足音だけがやけに大きく響く。
街灯の届かない暗がりに差し掛かるたび、隣にいる糸井の気配が近くなり、
すれ違う肩の距離に意識が集中してしまって、歩きにくい。
そのとき、短く、着信音が鳴った。
糸井のスマホ。
歩きながらスマホを取り出し、画面をちらっと見てから
あからさまに顔をしかめた。
「出なくていいの」
「んー、古川」
小さくため息をつき、出る気はないと言わんばかりに親指で通知を消す。
「今出たら、戻ってこいってうるさいから」
「ああ」
「めんどいし、いいや。今はこっちの方が大事だし」
さらっと、聞き捨てならないことを付け加える。
糸井はスマホを仕舞おうとしたけれど、
その指先がスマホケースの背面に触れたのを見て、僕は思わず口を開いていた。
「お前さ、まだそれ貼ってんの」
「ん?」
「それ」
指で示すと、糸井はスマホを裏返して、僕の顔の前に持ってきた。
街灯の青白い光に照らされて浮かび上がったのは、見覚えのあるあのピンク色の点数シール。
剥がす時に僕が少し破いてしまった端っこが、無惨にめくれかけている。
「学校であれだけ流行らせておいて、自分はまだそれなんだ?
流行りを作った本人がそんなボロいの貼ってるなんて、変だろ。
新しいきれいなやつ、貼ればいいじゃん」
また言葉に棘が混ざる。
女子たちに囲まれていた時の光景が、まだ胸のどこかでチクチクしているせいだ。
けれど、糸井は僕の皮肉を気にする風でもなく、長い指でシールの表面を優しくなぞった。
「んー……。でもこれ、気に入ってるんだよね」
「気に入る要素なんてないだろ。ただのゴミだぞ、それ」
「ゴミじゃないよ。宇佐見にもらったやつだし」
なんでもないことのように言って、スマホをポケットに滑り込ませた。
「破れてても、これがいい。かわいいと思うよ、俺は」
「…………」
言葉に詰まる。
かわいい、なんて。
剥がし損ねて端がやぶれたシールをそんな風に呼ぶ、こいつの感性がやっぱり理解できない。
でも。
「宇佐見にもらったやつだから」という言葉が、
夜の冷たい空気の中にいつまでも溶けずに残って、僕の耳の奥を熱くし続ける。
少し歩いたところで、僕は自分のハンドルを握る手に視線を落とした。
……歩かせてるの、なんか悪い気がする。
自転車があるのに、なんでふたりで律儀に歩いてるんだろ。
「乗る?」
「ん?」
「後ろ。乗れば、早く着くだろ」
短く言うと、
糸井は一瞬だけきょとんとして、それから、困ったような愛おしそうな、不思議な笑い方をした。
「いいの?」
「歩かせるの悪いから」
深い意味なんてない。
ただ、このまま歩かせるのも、なんか違う気がしただけだ。
けれど糸井は、僕のチャリの荷台に視線を落とし、それから僕の手首に目をやった。
「やめとく」
意外にも、返ってきたのは拒絶だった。
「は?なんでだよ」
「宇佐見、細いし。
バイト終わりで疲れてるのに、俺みたいなデカいの乗せて漕がせるわけにいかないでしょ」
糸井はそう言って、僕の頭に手を置こうとして
――思いとどまったように空中で手を止めた。
「それに、今は……まだいい。歩きたい気分なんだ。宇佐見の隣」
軽く言って、糸井はまた前を向いて歩き出す。
……意味がわからない。
楽をすればいいのに、なんでわざわざ夜道を歩く方を選ぶんだ。
細くたって僕も男だ。糸井一人くらい乗せてチャリを漕ぐくらいの力はある。
それに、「今はいい」ってなんだ。じゃあいつならいいっていうんだ。
「……変なの」
「そう?宇佐見が優しすぎるだけじゃない?」
「優しくねえよ。効率の話だ」
「はいはい、そういうことにしておくよ」
また並んで歩き出す。
二人乗りを提案する前よりも、心なしか肩と肩の距離が近づいている。
同じ歩幅で進む夜道は、さっきよりもずっと静かで、それでいて、お互いの体温が伝わってくるような熱を帯びていた。
住宅街の入り口にある、Y字型の分かれ道に差し掛かった。
錆びついた街灯がひとつ、心許ない光をアスファルトに落としている。
ここを曲がれば、僕の家まではあと数分だ。
「僕、こっち」
自転車を止めて、右側の細い道を示す。
「ん」
糸井も隣で足を止めた。
当然、ここで「じゃあね」と手を振って別れるものだと思っていた。
あいつの家がどっちかは知らないけれど、中学の学区の境目だ。
糸井とは中学が違うから、こっちではないだろう。
「ここでいい」
そう言ってチャリにまたがろうとした。
なのに。
「もうちょい」
糸井はあっさりと言って、止まっていた足を再び踏み出した。
僕の家の方向へ。
「いや、大丈夫だって。すぐそこだから」
「送らせて」
間髪入れずに言う。
冗談めかした雰囲気はなくて、その瞳はまっすぐに僕を捉えていた。
夜の静寂の中で、その声だけがやけに低く、強引に僕の領域へ踏み込んでくる。
断ろうとした。
一人で平気だ、過保護すぎる、お前の帰りが遅くなるだろ。
いくらでも正論は浮かんだはずなのに、なぜか言葉が喉の奥でつっかえて、出てこない。
――「取られたくない」
廊下で言われたあの言葉が、呪文みたいに頭をよぎる。
今、ここで断ってしまったら、何かが終わってしまうような
――あるいは、始まってしまうような、そんな妙な緊張感に気圧されていた。
「……っ、好きにしろ」
結局、絞り出すようにそれだけ言うのが精一杯だった。
「うん」
糸井は満足そうに、少しだけ嬉しそうに目を細めて笑った。
そこからは、本当にすぐだった。
街灯の少ない、入り組んだ路地の突き当たり。
築年数の重みを感じさせる、二階建ての古い木造アパート。
塗装の剥げた鉄製の階段が、夜の闇にひっそりと佇んでいる。
あいかわらずボロいなって自分の家ながら、毎回思う。
「……ここ」
アパートの前に自転車を止める。
自分の生活圏の、それもいちばん無防備な場所をさらけ出すのは、思っていた以上に心臓に悪い。
同じ学校の人間に誰一人教えていない家。
背後にある建物の古さや、暗い共用廊下が、今の自分そのものを見られているようで落ち着かなかった。
「そっか。ここなんだね」
糸井はアパートを見上げるわけでもなく、ただ僕だけを見ていた。
「ごめん。わざわざ、遠回りさせた」
「ううん。俺がそうしたかっただけだし」
糸井は僕の自転車のハンドルを握る手の上に、自分の手を重ねようとして――
また、わずかに触れるか触れないかの距離で止めた。
糸井はその場から動こうとはしない。
「……なに」
「宇佐見が入るまで、見てる」
「は……? 子供かよ」
「いいでしょ。最後まで送るって決めたから」
呆れてため息をつきながらも、僕は自転車を駐輪スペースに押し込み、階段を上がり始めた。
背中に、あいつの視線を痛いほど感じる。
自分の部屋のドアの前で立ち止まり、鍵を差し込む。
ふと、下を振り返ると。
街灯のオレンジ色の光の下、糸井がまだそこにいた。
僕が振り返るのを待っていたかのように、「また明日、学校でね」と軽く手を挙げて、また少しだけ笑った。
夜の冷たい空気と一緒に部屋の中までついてきそうになる。
僕は小さく手を振ったあと、慌ててドアを開け、滑り込むように中に入って、すぐに鍵を閉めた。
カチリ、と硬質な音が部屋に響く。
狭い玄関。消えたままの電灯。
静かすぎる部屋の中で、僕は靴を脱ぐのも忘れて、ドアに背中を預けた。
ドクッ、ドクッ、と。
さっきからずっと、耳の奥で心臓の音がうるさい。
バイトの疲れなんて、どこかへ吹き飛んでいた。
「……なんなんだよ、あいつ」
熱を持ったままの手首を、もう片方の手で強く握りしめる。
昼間、あいつに掴まれた場所の体温が、まだそこにあるような気がした。
あいつが「気に入ってる」って言ったのは、ゴミみたいなシールじゃなくて。
あいつが「取られたくない」って言ったのは……。
認めてしまったら、もう二度と『便利な壁』の向こう側で眠ることはできない。
その確信だけが、僕の体温をいつまでも下げさせてくれなかった。
