あの日から、数日が経った。
気づけば、学校中で奇妙な流行が生まれていた。
パンの点数シールを剥がして、スマホケースに貼る
――ただそれだけのことだ。
もちろん、山岸も真似している。
最初こそ「やったら負けだ」と言っていたのに
気になる女子もやってたとかで、山岸も流行の波に乗ったらしい。
「流行に敏感な男はモテる!」
と、今朝、僕を昇降口で見つけるなりスマホを見せびらかし、騒いでいた。
あの時、糸井がやったことが
「センスがいい」
「シュールでかわいい」
と飛躍した解釈をされ、瞬く間に広がったらしい。
……意味がわからない。
ただの点数シールだぞ。
点数が溜まれば白い皿がもらえる
それだけの紙切れだ。
それを、みんなこぞって真似して騒いでいる。
結局のところ、何をするかではなく「誰がしたか」なのだ。
やっぱり、顔か。
授業が終わり、チャイムが鳴る。
10分の休み時間だ。
いつもなら、この音を聞くのと同時に僕は机に突っ伏して意識を飛ばす。
――それが、入学してからの僕のルーティンだった。
なのに。
……なんで僕は、頭を上げているんだ。
プリントを拾ってもらってからというもの
休み時間のたびに糸井が振り返って話しかけてくるのが
いつの間にか「当たり前」になっていた。
不味いジュースの話とか
昨日見たねこの話とか。
そんなくだらない話を聞く準備をして、僕は寝るのをやめて
あいつが振り返るのを待っていた。
それなのに。
「糸井くん、それ見せて!どこに貼ってるの?」
「あ、本当だ。なんか、糸井くんがやるとオシャレに見えるから不思議だよね」
「私も、おそろいにしていい?」
糸井の席の周りは、あっという間に女子たちの人だかりで埋まった。
あいつのスマホを覗き込んでいる。
今までなら「ああ、またか」で終わる光景だ。
あいつがモテるのなんて入学初日から知っていたし、
授業中、僕が寝るときに教師の視線をかいくぐるための『便利な壁』でしかなかったはずだ。
それなのに。
……なんだよ、このモヤモヤする感じ。
女子たちに囲まれた糸井は
特に気にした様子もなく「いいよ」と軽く笑ってスマホを見せている。
古川に話しかけられてもいつもテキトーな返事ばかりしてるくせに。
距離、近いな。
肩が触れそうなほどの近距離で、平然と笑っている糸井を見ていると
胸の奥がチリチリと焼けるような感覚がした。
――そのシール、元を正せば僕のものなんだけど。
……いや、そんなことじゃない。
あいつが僕にだけ向けていた(と思っていた)
あの『とりとめのない話』の時間が
こうもあっさりと他人に侵食されているのが、たまらなく不快だった。
――そして何より、
あいつが振り返るのを期待して待っていた自分自身が、最高に惨めで腹立たしかった。
「糸井くんってほんとセンスいいよね」
「てか、普通にかっこよすぎ」
……うるさい。
話しかけてくるやつがいないから静かなはずなのに。
寝る時間ができてラッキーだって思えばいいのに。
今日はやけにその声が耳につく。
不快なノイズが頭に響いて、居ても立ってもいられなくなった。
乱暴に椅子を引いて、立ち上がる。
「あ、宇佐見くん?」
女子の一人が驚いたように僕を見たが、無視して教室を飛び出した。
別に、あいつが誰と話していようが関係ない。
気にする理由もない。
それなのに、
視界に入るすべてが「うるさい」と感じた。
廊下の方が、まだ静かだ。
次の授業が始まる直前に戻ればいい。
廊下に出て、少し歩く。
冷たい廊下の壁にもたれ、肺に溜まった澱んだ空気を吐き出す。
逃げたわけじゃない。
ただ、期待していた自分が馬鹿みたいで、頭を冷やしたかっただけだ。
そう自分に言い聞かせて目を閉じた、
その時。
「宇佐見」
後ろから、聞き慣れた声がした。
心臓が跳ねる。
……なんで、来るんだよ。
振り返らなくてもわかる。
僕を追ってくる奴なんて、一人しかいない。
「なに」
ため息まじりに答えると、数歩の距離まで近づいてくる気配。
「どしたの。急に教室出ていくから。……体調悪い?」
「別に。……うるさかっただけ。あそこにいると、寝れないし」
「ふーん」
納得していない声。
それなのに糸井は帰る様子もなく、僕の正面に回ってきた。
「……戻れば?女子たちが待ってるぞ、王子様」
イラついて言葉に棘が混ざった。
「やだ。宇佐見がいないし」
糸井はその棘はスルーして、さらりと言われた言葉。
その意味が、一瞬、脳を素通りした。
「……関係ないだろ、そんなの」
「あるよ」
即答だった。
冗談っぽさも、いつもの余裕たっぷりな笑みもない、
真っ直ぐなトーン。
「……意味わかんね」
僕は逃げるように視線を逸らした。
その瞬間。
トン、と。
背後の壁に、何かが触れる振動が伝わった。
視界が影に覆われ、逃げ道が塞がれる。
糸井の手が、僕の顔のすぐ横の壁を突いていた。
「……なんだよ」
思わず顔を上げると、そこには驚くほど近くに、糸井の顔があった。
さっきまで教室で女子たちと話していた時とは、温度が全然違う。
「逃げたでしょ」
「逃げてねえよ」
「じゃあなんで出たの。俺のこと、見てたよね?」
「見てねえ。うるさかっただけだって、言ってるだろ」
言い返す声が、自分でもわかるくらいに上ずった。
糸井は納得いかないように目を細めたが、それ以上は追及してこない。
ただ、鼻先が触れそうな距離で
僕より高い背を少し屈めて、僕を閉じ込めたまま動かなかった。
「……戻れよ」
「やだ。もうちょっと、ここにいる」
「は……?」
「もうちょっとここいる」
わがままな子供みたいなセリフに絶句する。
けれど、視線を逸らすことができなかった。
逸らしたら、負けてしまう気がして、必死に彼の瞳を睨み返す。
「宇佐見」
不意に、声のトーンが落ちた。
「なに」
「……この前の告白。断ってくれて、よかった」
糸井は僕の瞳の奥を覗き込むように、静かに言葉を繋いだ。
「取られたくないし。……俺、宇佐見のこと、かなり気に入ってるから」
脳内が真っ白になった。
なに、って聞き返そうとした唇が、間の抜けた形で止まる。
その瞬間、予鈴のチャイムが響き渡った。
糸井は何事もなかったような顔で壁から手を離すと、僕の手首を掴んだ。
大きい。そして、無駄に温かい。
いつもなら、反射的に振りほどいていたはずだ。
他人にベタベタ触られるのは嫌いだ。
ましてや、さっきまで女子に囲まれて笑ってた男の手なんて、
振り払う理由はいくらでもあったはずだ。
なのに。
掴まれた場所から流れ込んでくる熱に、僕の身体は石のように固まって動けなかった。
振りほどくどころか、その熱が心臓へ逆流してくる感覚に、
どこかで「ああ、よかった」なんて、場違いな安堵を覚えている自分がいた。
自分でも驚くほど、あいつに触れられていることが嫌じゃない。
むしろ、さっき教室で感じていたあの「うるさい」ほどの苛立ちが、
掴まれた手首の熱だけで、嘘みたいに溶けて消えていくのがわかった。
それが情けなくて、でもどこか嬉しくて、僕はさらに深くうつむく。
「戻ろっか」
糸井の声に、僕は顔を上げられないまま小さく頷いた。
引かれるままに歩き出した僕の
さらに先を行く糸井が、今どんな顔をしていたのか。
僕には、見る勇気がなかった。
ただ、掴まれた手首から伝わる糸井の拍動が
僕の脈と重なって、頭の中がいつまでも熱かった。
その日の放課後。
バイト先のファミレスへ向かっていた。
チャリを必死に漕ぎながら、さっきの出来事を記憶の奥へ押し込もうとする。
「気に入ってる」だの、「取られたくない」だの。
そして何より、あの熱に安心感を覚えてしまった自分。
「……意味わかんねえよ、本当に」
どうせ、また気まぐれに決まってる。
そう自分に言い聞かせ、僕はバイト先の裏口を勢いよく開けた。
まさか数時間後、その「気まぐれ」が、僕の目の前で形を変えて現れるなんて。
この時の僕は、まだこれっぽっちも思っていなかった。
店に入って、バックヤードで着替える。
高校生になってから始めたファミレスのバイトにもずいぶん慣れてきた。
エプロンの紐をきつく結び、ホールに出る。
「いらっしゃいませ。一名様ですか?……はい、こちらの席へどうぞ」
接客モードのスイッチを入れる。
お冷を運び、空いた皿を片付け、合間に補充作業をこなす。
無心で動いている時間が、今の僕には必要だった。
ピンポーン
今日何度目かの呼び鈴が、一番奥のボックス席から鳴った。
「ただいまお伺いします」
伝票を手に、営業用の笑みを微かに浮かべて振り返る。
……けれど。
「……げ」
顔を上げた瞬間、喉の奥から変な声が漏れた。
そこにいたのは、山岸と古川。
そして、いちばん奥の窓側に、こちらをじっと見据えている糸井。
向かいの席には、女子が三人。
制服が違うから、他校か。どこの学校かは分からない。
山岸と古川って、そんなに仲良かったっけ。
……ああ、前に山岸が言っていた。中学が同じだとか。
どうでもいいか。
男三人に、女三人。
――間違いなく、合コンだ。
糸井って、こういうの参加するタイプなんだ。
いや、違うか。
どうせ古川あたりに「お前がいないと女の子が集まらない」とでも泣きつかれ、
無理やり連れてこられたんだろう。
糸井がいれば、女は来る。
『客寄せパンダ』みたいなものだ。
……ほんと、顔って便利だな。
内心で毒づく。
中身なんてどうでもよくて、ただそこに座っているだけで場が成立する。
あいつの顔は、そういう理不尽なまでの価値を持っている。
それが、今の僕にはたまらなく鼻についた。
それよりも、自分自身への苛立ちが勝った。
いつもの僕なら、彼らが入店してきた瞬間に気づいていたはずだ。
そしたら、他のバイトの先輩にでも「知り合いがいるので」と代わってもらえた。
なのに、今日は気づかなかった。
廊下での壁ドン。
あのとき言われた「気に入ってる」なんて言葉が、まだ頭の片隅にこびりついて離れなかったせいだ。
あいつのせいで、僕のセンサーは完全に狂っている。
「宇佐見!」
山岸が、嬉しそうに手を上げた。
最悪だ。
学校の連中に会いたくなくて、わざわざ学校から少し離れたこの店を選んだのに。
でも、もう遅い。
興奮気味の山岸を無視して、機械的に伝票を開いた。
「ご注文、お伺いします」
「なあ宇佐見、お前ここでバイトしてんのかよ!似合ってんじゃんエプロン!」
「見たらわかるだろ。早く注文しろ」
あー、もう新しいバイト探すか。
……そんな逃避じみた考えが脳裏をよぎる。
「いやテンション低っ!」
横から古川も口を挟んでくる。
山岸一人でもうるさいのに、そこに古川まで加わると面倒くささは倍増どころじゃない。
適当にいなして、さっさと注文取って帰ろうとしたのに。
「え、店員さんイケメンじゃない?」
女子の一人が、僕の方を見て言った。
「わかる、糸井くんとどっちがタイプ?」
「いや迷う」
——は?
なんで僕が、糸井との二択に引きずり出されなきゃならないんだ。
僕はこの場に参加してないし、山岸と古川もいるだろ。
……めんどくせぇな。
「ねえ、どっちがタイプ?」
古川が面白がって余計なことを言う。
さっさと終わらせたいのに、会話が終わらない。
山岸は「俺は断トツ宇佐見!」って僕にからみついてくる。
「やめろって」
山岸を振りほどいた、そのとき。
「注文、いい?」
低くて、落ち着いた声が割り込んだ。
糸井だった。
さっきまで何も言ってなかったくせに、いつの間にか会話の流れを切っている。
「ポテトと、ドリンクバー六つ。あとこれと、これ」
糸井は迷いのない手つきでメニューを指し、全員分のオーダーを淀みなく伝えた。
山岸が「あ、俺デザートも」と贅沢を言おうとするのも、「これも追加で」とさらっと拾って封じる。
「……以上でいい?」
全員の顔を軽く見て、確認してから、
「お願いします」
最後に、僕の目をまっすぐ見て、微かに口角を上げた。
「他のお客さん、待ってるでしょ」
完全に、助けられた。
「……ありがと」
それだけ言って、僕は逃げるようにその場を離れた。
一瞬だけ、糸井の顔を見た。
やっぱり、無駄に整ってる。
……こういうとこも、モテるんだろうな。
仕事に戻る。オーダーを通して、料理を運んで、また別の席へ。
いつもと同じことをしているはずなのに、意識の半分がどうしてもあの席に引っ張られる。
気が付けば無意識に、あの席を見ている。
いや、違う。
気になるのは、あの席じゃない。
糸井だ。なんでかは、わかってる。
あいつが、あまりにも——
モテてるから。
女子三人とも、完全に糸井しか見てない。
山岸と古川が何か話しても、視線は全部、糸井に向いてる。
あいつは、スマホを触りながら、
ときどき女子たちに愛想よく笑いかけている。
――僕には、ああいう『社交的な顔』なんて、一度もしたことがないくせに。
普段、古川に話しかけられても興味なさそうにしてるのに。
なんで、他のやつにはするんだよ。
胸の奥が、ざわつく。
山岸と古川が誰と何を話していても何も思わないのに。
どんな表情をしているかなんて気にしたことだってなかったのに。
「ねえ、糸井くん」
女子の一人が、勇気を振り絞るように身を乗り出した。
「私と、付き合ってよ」
軽いノリを装っているけれど、目は真剣だ。
糸井は一瞬だけ間を置いて、
「ごめんね」
と、いつもの『王子様』の顔で、完璧に、そして残酷に断った。
——断るなら、合コンなんて来るなよ。
思わず、心の中で吐き捨てる。
……そこで
ふと自分に矛盾を感じて、さらにイライラが募った。
なんで、ただのクラスメイトが合コンをしていようが
告白を断っていようが、僕には関係ないはずだ。
なのに、あいつが他の女子に微笑みかけるたび
心臓の奥がじりじりと焼けるような、嫌な熱を帯びる。
つい先日、僕だって同じように告白を断ったばかりだ。
あのときは、何も感じなかった。「知らないやつと付き合う理由がない」
――それだけで終わった話。断って、それで終わり。
それだけのことだったのに。
なんで、あいつのは、こんなに引っかかるんだ。
断ってくれたことに安堵しているのか、
それとも、そんな場面に遭遇してしまったこと自体に腹を立てているのか。
自分の感情なのに、正体がさっぱりわからない。
ただ一つ確かなのは、あいつが他の女子に微笑みかけるたび、
心臓の奥がじりじりと焼けるような、嫌な熱を帯びるということだけだ。
——なんでだよ。
少しだけ強く、客のテーブルに皿を置いてしまった。
「失礼いたしました」
謝りながら、頭の中では別のことを考えている。
嫉妬?
思わず、小さく笑いそうになる。
……僕、あいつのこと好きなの?
いや、男だぞ。
ない。ありえない。
……違う。
こんなの、ただの勘違いだ。
あいつに日常をかき乱されていることへの、単なるストレスだ。
そのとき。
「なあ糸井、お前マジで彼女作らんの?そんだけモテたら選びたい放題だろ」
別の席にデザートを運び終えて立ち去ろうとした背中に
古川の声が飛んできた。
足が、一瞬だけ止まる。
「なんで?」
糸井の、感情の読めない声。
「質問を質問で返すなよ!普通に欲しくないのかって聞いてんの」
「んー……」
気のない、曖昧な返事。
そのやり取りが、やけに鮮明に耳に残った。
……聞きたくない。
それ以上、聞きたくなくて、僕は逃げるようにその場を離れた。
それからは、自分でも引くくらいの熱量で働いた。
呼び鈴が鳴れば誰よりも早く駆けつけ、ホールの端から端まで動き回る。
バッシングも、溜まっていた洗い場の食器も、無心で、ほとんど一人で片付けた。
動き回っていれば、さっきの会話の続きを想像しなくて済む気がした。
そうやって必死に動き続けて――。
ふと、店内の喧騒が少しだけ和らいだことに気づき、顔を上げた。
……いない。
あのボックス席は、いつの間にか空になっていた。
あれだけ騒がしかった山岸も古川も、
そして、糸井も、もうそこにはいなかった。
あいつらがいなくなれば、胸の奥のざわつきは収まるはずだった。
なのに、
がらんとした座席に残された、飲みかけのコップを見ていると
さっきよりもずっと強い苛立ちがこみ上げてきた。
結局、あいつは何も言わずに帰った。
女子たちを連れて、どこへ行ったのか。
さっきの会話の続きを、どこかでしているのか。
空になったコップを乱暴にトレイに乗せる。
ガチャン、と派手な音が鳴ったけど、構わなかった。
「……何なんだよ、本当に」
理由のわからないイライラは、バイトを終えるまで消えてはくれなかった。
気づけば、学校中で奇妙な流行が生まれていた。
パンの点数シールを剥がして、スマホケースに貼る
――ただそれだけのことだ。
もちろん、山岸も真似している。
最初こそ「やったら負けだ」と言っていたのに
気になる女子もやってたとかで、山岸も流行の波に乗ったらしい。
「流行に敏感な男はモテる!」
と、今朝、僕を昇降口で見つけるなりスマホを見せびらかし、騒いでいた。
あの時、糸井がやったことが
「センスがいい」
「シュールでかわいい」
と飛躍した解釈をされ、瞬く間に広がったらしい。
……意味がわからない。
ただの点数シールだぞ。
点数が溜まれば白い皿がもらえる
それだけの紙切れだ。
それを、みんなこぞって真似して騒いでいる。
結局のところ、何をするかではなく「誰がしたか」なのだ。
やっぱり、顔か。
授業が終わり、チャイムが鳴る。
10分の休み時間だ。
いつもなら、この音を聞くのと同時に僕は机に突っ伏して意識を飛ばす。
――それが、入学してからの僕のルーティンだった。
なのに。
……なんで僕は、頭を上げているんだ。
プリントを拾ってもらってからというもの
休み時間のたびに糸井が振り返って話しかけてくるのが
いつの間にか「当たり前」になっていた。
不味いジュースの話とか
昨日見たねこの話とか。
そんなくだらない話を聞く準備をして、僕は寝るのをやめて
あいつが振り返るのを待っていた。
それなのに。
「糸井くん、それ見せて!どこに貼ってるの?」
「あ、本当だ。なんか、糸井くんがやるとオシャレに見えるから不思議だよね」
「私も、おそろいにしていい?」
糸井の席の周りは、あっという間に女子たちの人だかりで埋まった。
あいつのスマホを覗き込んでいる。
今までなら「ああ、またか」で終わる光景だ。
あいつがモテるのなんて入学初日から知っていたし、
授業中、僕が寝るときに教師の視線をかいくぐるための『便利な壁』でしかなかったはずだ。
それなのに。
……なんだよ、このモヤモヤする感じ。
女子たちに囲まれた糸井は
特に気にした様子もなく「いいよ」と軽く笑ってスマホを見せている。
古川に話しかけられてもいつもテキトーな返事ばかりしてるくせに。
距離、近いな。
肩が触れそうなほどの近距離で、平然と笑っている糸井を見ていると
胸の奥がチリチリと焼けるような感覚がした。
――そのシール、元を正せば僕のものなんだけど。
……いや、そんなことじゃない。
あいつが僕にだけ向けていた(と思っていた)
あの『とりとめのない話』の時間が
こうもあっさりと他人に侵食されているのが、たまらなく不快だった。
――そして何より、
あいつが振り返るのを期待して待っていた自分自身が、最高に惨めで腹立たしかった。
「糸井くんってほんとセンスいいよね」
「てか、普通にかっこよすぎ」
……うるさい。
話しかけてくるやつがいないから静かなはずなのに。
寝る時間ができてラッキーだって思えばいいのに。
今日はやけにその声が耳につく。
不快なノイズが頭に響いて、居ても立ってもいられなくなった。
乱暴に椅子を引いて、立ち上がる。
「あ、宇佐見くん?」
女子の一人が驚いたように僕を見たが、無視して教室を飛び出した。
別に、あいつが誰と話していようが関係ない。
気にする理由もない。
それなのに、
視界に入るすべてが「うるさい」と感じた。
廊下の方が、まだ静かだ。
次の授業が始まる直前に戻ればいい。
廊下に出て、少し歩く。
冷たい廊下の壁にもたれ、肺に溜まった澱んだ空気を吐き出す。
逃げたわけじゃない。
ただ、期待していた自分が馬鹿みたいで、頭を冷やしたかっただけだ。
そう自分に言い聞かせて目を閉じた、
その時。
「宇佐見」
後ろから、聞き慣れた声がした。
心臓が跳ねる。
……なんで、来るんだよ。
振り返らなくてもわかる。
僕を追ってくる奴なんて、一人しかいない。
「なに」
ため息まじりに答えると、数歩の距離まで近づいてくる気配。
「どしたの。急に教室出ていくから。……体調悪い?」
「別に。……うるさかっただけ。あそこにいると、寝れないし」
「ふーん」
納得していない声。
それなのに糸井は帰る様子もなく、僕の正面に回ってきた。
「……戻れば?女子たちが待ってるぞ、王子様」
イラついて言葉に棘が混ざった。
「やだ。宇佐見がいないし」
糸井はその棘はスルーして、さらりと言われた言葉。
その意味が、一瞬、脳を素通りした。
「……関係ないだろ、そんなの」
「あるよ」
即答だった。
冗談っぽさも、いつもの余裕たっぷりな笑みもない、
真っ直ぐなトーン。
「……意味わかんね」
僕は逃げるように視線を逸らした。
その瞬間。
トン、と。
背後の壁に、何かが触れる振動が伝わった。
視界が影に覆われ、逃げ道が塞がれる。
糸井の手が、僕の顔のすぐ横の壁を突いていた。
「……なんだよ」
思わず顔を上げると、そこには驚くほど近くに、糸井の顔があった。
さっきまで教室で女子たちと話していた時とは、温度が全然違う。
「逃げたでしょ」
「逃げてねえよ」
「じゃあなんで出たの。俺のこと、見てたよね?」
「見てねえ。うるさかっただけだって、言ってるだろ」
言い返す声が、自分でもわかるくらいに上ずった。
糸井は納得いかないように目を細めたが、それ以上は追及してこない。
ただ、鼻先が触れそうな距離で
僕より高い背を少し屈めて、僕を閉じ込めたまま動かなかった。
「……戻れよ」
「やだ。もうちょっと、ここにいる」
「は……?」
「もうちょっとここいる」
わがままな子供みたいなセリフに絶句する。
けれど、視線を逸らすことができなかった。
逸らしたら、負けてしまう気がして、必死に彼の瞳を睨み返す。
「宇佐見」
不意に、声のトーンが落ちた。
「なに」
「……この前の告白。断ってくれて、よかった」
糸井は僕の瞳の奥を覗き込むように、静かに言葉を繋いだ。
「取られたくないし。……俺、宇佐見のこと、かなり気に入ってるから」
脳内が真っ白になった。
なに、って聞き返そうとした唇が、間の抜けた形で止まる。
その瞬間、予鈴のチャイムが響き渡った。
糸井は何事もなかったような顔で壁から手を離すと、僕の手首を掴んだ。
大きい。そして、無駄に温かい。
いつもなら、反射的に振りほどいていたはずだ。
他人にベタベタ触られるのは嫌いだ。
ましてや、さっきまで女子に囲まれて笑ってた男の手なんて、
振り払う理由はいくらでもあったはずだ。
なのに。
掴まれた場所から流れ込んでくる熱に、僕の身体は石のように固まって動けなかった。
振りほどくどころか、その熱が心臓へ逆流してくる感覚に、
どこかで「ああ、よかった」なんて、場違いな安堵を覚えている自分がいた。
自分でも驚くほど、あいつに触れられていることが嫌じゃない。
むしろ、さっき教室で感じていたあの「うるさい」ほどの苛立ちが、
掴まれた手首の熱だけで、嘘みたいに溶けて消えていくのがわかった。
それが情けなくて、でもどこか嬉しくて、僕はさらに深くうつむく。
「戻ろっか」
糸井の声に、僕は顔を上げられないまま小さく頷いた。
引かれるままに歩き出した僕の
さらに先を行く糸井が、今どんな顔をしていたのか。
僕には、見る勇気がなかった。
ただ、掴まれた手首から伝わる糸井の拍動が
僕の脈と重なって、頭の中がいつまでも熱かった。
その日の放課後。
バイト先のファミレスへ向かっていた。
チャリを必死に漕ぎながら、さっきの出来事を記憶の奥へ押し込もうとする。
「気に入ってる」だの、「取られたくない」だの。
そして何より、あの熱に安心感を覚えてしまった自分。
「……意味わかんねえよ、本当に」
どうせ、また気まぐれに決まってる。
そう自分に言い聞かせ、僕はバイト先の裏口を勢いよく開けた。
まさか数時間後、その「気まぐれ」が、僕の目の前で形を変えて現れるなんて。
この時の僕は、まだこれっぽっちも思っていなかった。
店に入って、バックヤードで着替える。
高校生になってから始めたファミレスのバイトにもずいぶん慣れてきた。
エプロンの紐をきつく結び、ホールに出る。
「いらっしゃいませ。一名様ですか?……はい、こちらの席へどうぞ」
接客モードのスイッチを入れる。
お冷を運び、空いた皿を片付け、合間に補充作業をこなす。
無心で動いている時間が、今の僕には必要だった。
ピンポーン
今日何度目かの呼び鈴が、一番奥のボックス席から鳴った。
「ただいまお伺いします」
伝票を手に、営業用の笑みを微かに浮かべて振り返る。
……けれど。
「……げ」
顔を上げた瞬間、喉の奥から変な声が漏れた。
そこにいたのは、山岸と古川。
そして、いちばん奥の窓側に、こちらをじっと見据えている糸井。
向かいの席には、女子が三人。
制服が違うから、他校か。どこの学校かは分からない。
山岸と古川って、そんなに仲良かったっけ。
……ああ、前に山岸が言っていた。中学が同じだとか。
どうでもいいか。
男三人に、女三人。
――間違いなく、合コンだ。
糸井って、こういうの参加するタイプなんだ。
いや、違うか。
どうせ古川あたりに「お前がいないと女の子が集まらない」とでも泣きつかれ、
無理やり連れてこられたんだろう。
糸井がいれば、女は来る。
『客寄せパンダ』みたいなものだ。
……ほんと、顔って便利だな。
内心で毒づく。
中身なんてどうでもよくて、ただそこに座っているだけで場が成立する。
あいつの顔は、そういう理不尽なまでの価値を持っている。
それが、今の僕にはたまらなく鼻についた。
それよりも、自分自身への苛立ちが勝った。
いつもの僕なら、彼らが入店してきた瞬間に気づいていたはずだ。
そしたら、他のバイトの先輩にでも「知り合いがいるので」と代わってもらえた。
なのに、今日は気づかなかった。
廊下での壁ドン。
あのとき言われた「気に入ってる」なんて言葉が、まだ頭の片隅にこびりついて離れなかったせいだ。
あいつのせいで、僕のセンサーは完全に狂っている。
「宇佐見!」
山岸が、嬉しそうに手を上げた。
最悪だ。
学校の連中に会いたくなくて、わざわざ学校から少し離れたこの店を選んだのに。
でも、もう遅い。
興奮気味の山岸を無視して、機械的に伝票を開いた。
「ご注文、お伺いします」
「なあ宇佐見、お前ここでバイトしてんのかよ!似合ってんじゃんエプロン!」
「見たらわかるだろ。早く注文しろ」
あー、もう新しいバイト探すか。
……そんな逃避じみた考えが脳裏をよぎる。
「いやテンション低っ!」
横から古川も口を挟んでくる。
山岸一人でもうるさいのに、そこに古川まで加わると面倒くささは倍増どころじゃない。
適当にいなして、さっさと注文取って帰ろうとしたのに。
「え、店員さんイケメンじゃない?」
女子の一人が、僕の方を見て言った。
「わかる、糸井くんとどっちがタイプ?」
「いや迷う」
——は?
なんで僕が、糸井との二択に引きずり出されなきゃならないんだ。
僕はこの場に参加してないし、山岸と古川もいるだろ。
……めんどくせぇな。
「ねえ、どっちがタイプ?」
古川が面白がって余計なことを言う。
さっさと終わらせたいのに、会話が終わらない。
山岸は「俺は断トツ宇佐見!」って僕にからみついてくる。
「やめろって」
山岸を振りほどいた、そのとき。
「注文、いい?」
低くて、落ち着いた声が割り込んだ。
糸井だった。
さっきまで何も言ってなかったくせに、いつの間にか会話の流れを切っている。
「ポテトと、ドリンクバー六つ。あとこれと、これ」
糸井は迷いのない手つきでメニューを指し、全員分のオーダーを淀みなく伝えた。
山岸が「あ、俺デザートも」と贅沢を言おうとするのも、「これも追加で」とさらっと拾って封じる。
「……以上でいい?」
全員の顔を軽く見て、確認してから、
「お願いします」
最後に、僕の目をまっすぐ見て、微かに口角を上げた。
「他のお客さん、待ってるでしょ」
完全に、助けられた。
「……ありがと」
それだけ言って、僕は逃げるようにその場を離れた。
一瞬だけ、糸井の顔を見た。
やっぱり、無駄に整ってる。
……こういうとこも、モテるんだろうな。
仕事に戻る。オーダーを通して、料理を運んで、また別の席へ。
いつもと同じことをしているはずなのに、意識の半分がどうしてもあの席に引っ張られる。
気が付けば無意識に、あの席を見ている。
いや、違う。
気になるのは、あの席じゃない。
糸井だ。なんでかは、わかってる。
あいつが、あまりにも——
モテてるから。
女子三人とも、完全に糸井しか見てない。
山岸と古川が何か話しても、視線は全部、糸井に向いてる。
あいつは、スマホを触りながら、
ときどき女子たちに愛想よく笑いかけている。
――僕には、ああいう『社交的な顔』なんて、一度もしたことがないくせに。
普段、古川に話しかけられても興味なさそうにしてるのに。
なんで、他のやつにはするんだよ。
胸の奥が、ざわつく。
山岸と古川が誰と何を話していても何も思わないのに。
どんな表情をしているかなんて気にしたことだってなかったのに。
「ねえ、糸井くん」
女子の一人が、勇気を振り絞るように身を乗り出した。
「私と、付き合ってよ」
軽いノリを装っているけれど、目は真剣だ。
糸井は一瞬だけ間を置いて、
「ごめんね」
と、いつもの『王子様』の顔で、完璧に、そして残酷に断った。
——断るなら、合コンなんて来るなよ。
思わず、心の中で吐き捨てる。
……そこで
ふと自分に矛盾を感じて、さらにイライラが募った。
なんで、ただのクラスメイトが合コンをしていようが
告白を断っていようが、僕には関係ないはずだ。
なのに、あいつが他の女子に微笑みかけるたび
心臓の奥がじりじりと焼けるような、嫌な熱を帯びる。
つい先日、僕だって同じように告白を断ったばかりだ。
あのときは、何も感じなかった。「知らないやつと付き合う理由がない」
――それだけで終わった話。断って、それで終わり。
それだけのことだったのに。
なんで、あいつのは、こんなに引っかかるんだ。
断ってくれたことに安堵しているのか、
それとも、そんな場面に遭遇してしまったこと自体に腹を立てているのか。
自分の感情なのに、正体がさっぱりわからない。
ただ一つ確かなのは、あいつが他の女子に微笑みかけるたび、
心臓の奥がじりじりと焼けるような、嫌な熱を帯びるということだけだ。
——なんでだよ。
少しだけ強く、客のテーブルに皿を置いてしまった。
「失礼いたしました」
謝りながら、頭の中では別のことを考えている。
嫉妬?
思わず、小さく笑いそうになる。
……僕、あいつのこと好きなの?
いや、男だぞ。
ない。ありえない。
……違う。
こんなの、ただの勘違いだ。
あいつに日常をかき乱されていることへの、単なるストレスだ。
そのとき。
「なあ糸井、お前マジで彼女作らんの?そんだけモテたら選びたい放題だろ」
別の席にデザートを運び終えて立ち去ろうとした背中に
古川の声が飛んできた。
足が、一瞬だけ止まる。
「なんで?」
糸井の、感情の読めない声。
「質問を質問で返すなよ!普通に欲しくないのかって聞いてんの」
「んー……」
気のない、曖昧な返事。
そのやり取りが、やけに鮮明に耳に残った。
……聞きたくない。
それ以上、聞きたくなくて、僕は逃げるようにその場を離れた。
それからは、自分でも引くくらいの熱量で働いた。
呼び鈴が鳴れば誰よりも早く駆けつけ、ホールの端から端まで動き回る。
バッシングも、溜まっていた洗い場の食器も、無心で、ほとんど一人で片付けた。
動き回っていれば、さっきの会話の続きを想像しなくて済む気がした。
そうやって必死に動き続けて――。
ふと、店内の喧騒が少しだけ和らいだことに気づき、顔を上げた。
……いない。
あのボックス席は、いつの間にか空になっていた。
あれだけ騒がしかった山岸も古川も、
そして、糸井も、もうそこにはいなかった。
あいつらがいなくなれば、胸の奥のざわつきは収まるはずだった。
なのに、
がらんとした座席に残された、飲みかけのコップを見ていると
さっきよりもずっと強い苛立ちがこみ上げてきた。
結局、あいつは何も言わずに帰った。
女子たちを連れて、どこへ行ったのか。
さっきの会話の続きを、どこかでしているのか。
空になったコップを乱暴にトレイに乗せる。
ガチャン、と派手な音が鳴ったけど、構わなかった。
「……何なんだよ、本当に」
理由のわからないイライラは、バイトを終えるまで消えてはくれなかった。
