無関心な僕が、お前だけは例外

 ペンを走らせる僕の横で、糸井が満足そうに僕の指をいじっている。

 不便で、不自由で、でも心地いいこの温度。

 ふとした沈黙が流れた。

 そのとき。

 「ねえ、斗亜」

 聞き慣れない響きに、心臓が跳ねた。

 顔を上げると、糸井が当たり前のような顔をして僕を見ている。

 「……何で、下の名前知ってるんだよ」

 「当たり前でしょ。好きな人の名前くらい、知ってるよ」

 糸井はそう言って、僕の反応を楽しむように目を細めた。

 「名前までかわいいんだな、斗亜って」

 「……かわいくない。普通の名前だろ」

 僕は呆気に取られていた。こいつはいつだって僕の想像の斜め上を行く。

 糸井は当然のように笑うけれど、苗字ではなく名前で呼ばれることが、これほどまでに心臓を直接掴まれるような感覚だとは思わなかった。

 「……宇佐見でいいだろ」

 「やだ」

 糸井は机に肘をつき、期待に満ちた瞳で僕を見つめる。

 「ほら、呼んで。俺の名前」

 付き合ってから、あんなに何度も「好き」と伝えてきたのに。
 あんなに熱いキスを交わしたはずなのに。

 たった三文字の名前を呼ぶことが、こんなに恐ろしくて、恥ずかしいことだなんて知らなかった。

 いざ名前を呼ぼうとすると、喉の奥がキュッと締まるような感覚。

 「……穂高」

 初めて呼んだ、あいつの名前。
 その瞬間、自分でも驚くほど声が震えて、語尾が小さく上ずった。

 「……っ、お前、斗亜だって俺の下の名前知ってるんじゃん」

 糸井が、してやったりという顔でニヤリと笑う。

 「……お前は有名人だから、嫌でも耳に入るんだよ。それに……出席番号も僕の一個前なんだから、知ってて当然だろ」

 僕は顔が熱くなるのを感じて、ごにょごにょと言い訳を並べた。本当は、ずっと前からその三文字を、心の中で何度もなぞっていたなんて口が裂けても言えない。

 「ふーん?生意気」

 そう囁いた穂高の顔が、一瞬で近づいた。

 「あ……」と声を漏らす間もなく、僕の唇は、熱を帯びた糸井のそれに吸い寄せられるように塞がれた。

 オレンジ色の光に包まれた教室。重なり合う吐息。
 名前を呼んだだけで、こんなにも深く、熱く、溶けてしまいそうなキスをされるなんて。

 「……無理。逮捕。可愛すぎて死ぬ」

 唇を離した糸井は、バッと片手で顔を覆って、深いため息をついた。耳の先まで真っ赤になっているのが、指の間から見える。

 「……何だよそれ。お前が呼べって言ったんだろ。もう二度と呼ばない」

 「嫌だ、呼んで。お願い、斗亜」

 付き合ってから分かったけれど、糸井は案外、子供っぽいところがある。学校ではいつも余裕たっぷりで偉そうに振る舞っているくせに、二人きりになると、すぐこうして僕に甘えてくる。
 こうして末っ子気質というか、わがままな一面を見せてくるのだ。

 「……もう一回」

 わがままモードに入った糸井の瞳は、まるで宝物をねだる子供みたいで。
 そんな糸井を、僕は「かわいい」と思ってしまった。

 「穂高」

 「ん?聞こえない」

 わざと聞こえないフリをして、僕にもう一度呼ばせようとする。

 僕の彼氏は、本当に意地悪だ。

 けれど、それ以上に優しくて、底なしの愛を僕に注いでくれる。

 「斗亜、大好きだよ」

 糸井が、今度は真剣な声で僕の名前を呼んだ。

 その真っ直ぐな瞳に、僕も嘘偽りのない、本当の気持ちを返す。

 「……僕も。穂高が、一番大好き」

 一瞬、時が止まったような気がした。

 「メロい。反則……」

 糸井は絞り出すようにそう呟くと、僕の手を、壊れ物を包むような強さで握り締めた。
 決して離れることがないように、指の隙間を埋めるように。

 無関心だったはずの世界は、いつの間にか、穂高という色彩で満ちていた。