「宇佐見!遊びに来たぞー!!」
反射的に頭痛がした。
そこには、以前『合コン会場』としてこの店を訪れた古川と山岸。
「……はあ、また来た」
僕は思わず深くため息をついた。
自動ドアから入ってきたのは、相変わらず騒がしい山岸と、それを後ろで面白そうに眺めている古川だ。
「宇佐見ー! 宇佐見がそろそろ俺に会いたがってると思って、強制バ先凸しにきた!」
「……一ミリも会いたくない。山岸、前にもう来るなって言っただろ。出禁だ、出禁」
「そんなこと言うなよ宇佐見。俺も、そろそろほとぼりが冷めたかなと思ってさ。なあ、とりあえず四人席いい?」
古川が慣れた手つきで空席を指差す。
こいつはいつもそうだ。
山岸の暴走を止めるどころか、自分も便乗して楽しんでいる節がある。
僕のバイト先がたまたま判明した翌日に糸井に「宇佐見の邪魔になるからもう行かないよ」と釘を刺されていたのに。
なにが「ほとぼりが冷めた」だ。
僕がげんなりしながら案内しようとしたその時、後ろで控えていた新人
――糸井が、スッと前に出た。
「いらっしゃいませ。二名様ですね。こちらへどうぞ」
完璧な接客スマイル。
目が一ミリも笑っていない。
けれど、その声を聞いた山岸と古川は、まるで呪文をかけられたかのようにその場で静止した。
「……え、いと、え?」
「は? 糸井? なんでお前がここにいんの!?」
山岸が今日一番のデカい声を出して指を差す。古川も流石に驚いたのか、少し目を見開いて糸井と僕を交互に見た。
「新人。今日からここでバイトすることになったから。宇佐見先輩、案内は俺がやるよ」
「えっ、ちょ、待てよ! お前ら、なんで……」
山岸の混乱を無視して、糸井は鮮やかな手つきで二人を席へ誘導した。
注文を取り終えたあとも、山岸の追求は止まらない。
「おかしい! 絶対おかしいだろ! 最近、糸井と宇佐見、いつも一緒にいすぎじゃね⁉この前なんてさ、休み時間に糸井の膝の上に宇佐見が乗ってたの、俺、見ちゃったんだからな!」
山岸の叫び声が店内に響き渡り、僕は思わずお盆で顔を隠した。
周囲の客がチラチラとこちらを見ているのがわかる。
「もうお前じゃ興奮しなくなったんだろ」
古川はニヤニヤしながら意味不明なことを言ってくる。
けれど、当の糸井は全く動じる様子がなかった。
いつもどおり、涼しい顔をしている。
「……ああ、あれ。隠すつもりもないし、別にいいよ」
糸井はそう言うと、僕の肩をごく自然に抱き寄せた。シャツ越しに、糸井の体温が伝わってくる。
「俺たち、付き合ってるんだよね。宇佐見」
「……っ、お前、ここで言うか普通!」
「ええええええええ!? ほんとに⁉マジで⁉」
山岸が椅子から転げ落ちそうになる勢いで騒ぎ出す。
一方で、古川は「やっぱり?」と呟きながら、ストローをくわえてさっきよりもニヤニヤしている。
「あー、やっぱりね。なんかそんな空気してたわ。糸井、俺が話かけてるのにずっと宇佐見見てたもんな」
「流石、古川は察しがいいね。彼女が絶えないだけあるわ」
「おい!古川、お前知ってたのかよ!仲間外れか⁉俺も彼女欲しい!なんで宇佐見に先越されてんだよ!」
一人で絶望して机を叩く山岸。
察しのいい古川と、恋愛に関してはからっきしで騒ぐだけの山岸。
この対比が、今の僕には少しだけ滑稽で、でもどこか救われるような気がした。
「……山岸、営業妨害。騒ぐなら今すぐ帰って」
糸井が冷ややかな、でもどこか楽しげな笑顔で山岸の襟首を掴み、ひょいとつまみ出そうとする。
「ちょ、糸井! 離せ!俺は客だぞ、お客様!」
ドタバタと騒がしいクラスメイトたちを眺めながら、僕は小さく息を吐いた。
秘密にするつもりだったわけじゃないけれど、こんな風にあっさりと「付き合ってる」を肯定してくれる糸井の強さが、やっぱり好きだなと思ってしまう。
「……とにかく、そういうことだから」
山岸の襟首を掴んだまま、糸井は低い、けれどよく通る声で告げた。
いつもの『完璧な王子様』の微笑みはどこへやら、その瞳には明確な独占欲の光が宿っている。
「宇佐見は俺のだから。安易に触るなよ。特に山岸、お前。マブだかなんだか知らないけど、ベタベタ触ったら、殺すぞ」
「い、糸井……お前、目がマジなんだよ……!殺すとか怖すぎんだろ。分かった、分かったから!宇佐見、お前いい彼氏持ったな!」
山岸が半泣きで手を上げ、糸井がようやく解放する。
古川は相変わらず「へえ、糸井ってガチだとそういうキャラなんだ~」と呑気に、他人事のようにニヤニヤしながら、ポテトをつまんでいる。
なんとか嵐のような二人を落ち着かせ、午前中のシフトを終える。
僕はもともと今日は昼までのシフトだったし、
糸井も初日ということで、店長が気を利かせて「今日はもう上がっていいよ」と声をかけてくれた。
バックヤードで着替えを済ませ、店の裏口から外に出る。
七月の強い日差しが降り注ぐ中、さっきまでの傲慢な態度はどこへ行ったのか、糸井は少しだけ不安そうな顔で僕を覗き込んできた。
「……ねえ、宇佐見」
「ん?」
「さっき、勢いでばらしちゃったけど……よかった?」
低い声が、少しだけ揺れている。
さっきまで山岸に「殺すぞ」と言っていたやつと同一人物か疑うほどだ。
少しだけ不安そうに僕の顔を覗き込む糸井は、まるで飼い主の顔色を伺う大型犬みたいだ。
「…………別に、いいよ」
僕は視線を逸らしながら、素直に答えた。
「隠さなきゃいけない理由もないし。お前に『俺の』って言われるの……そんなに嫌じゃなかったし」
最後の方は、自分でも聞き取れないくらい小さな声だったけれど。
糸井の顔が、ぱあっと明るくなるのが気配でわかった。
「…………宇佐見」
不意に、強い力で抱き寄せられる。シャツ越しに伝わる糸井の心拍。さっき、山岸たちを威嚇していた時よりも、ずっと速く打っている。
「よかった。……俺、宇佐見が嫌がったらどうしようって、内心心臓バクバクだったから」
「……嘘つけ。あんなに威嚇してたくせに」
「宇佐見限定で、ヘタレなんだよ」
糸井は僕の肩口に顔を埋めて、深く息を吐き出した。
学校の人気者で、完璧な王子様。
そんな男の『初めて』や『ヘタレな部分』を、僕だけが独占している。
廊下でプリントを拾ってもらったあの日には、想像もしていなかった温度。
「よし、せっかくバイトも昼までなんだし、これからデート行こう? 行きたいところ、ある?」
「……お前の行きたいところでいいよ」
僕がそう言うと、糸井は「じゃあね……」と僕の手をぎゅっと繋いだ。
「宇佐見の好きな、甘いもの食べに行こうか。宇佐見の好きなもの、俺が全部奢るよ。それから、もっとゆっくり二人でいられるところ」
繋いだ手から、糸井の確かな熱が伝わってくる。
またそうやって子供扱いする。
文句を言おうと見上げた僕の唇に、糸井は「大好きだよ」と囁きながら、優しいキスを落とした。
そのまま糸井が歩き出そうとするから、僕は駐輪場を指さす。
今日は糸井が来るなんて思っていなかったから、僕はいつも通りチャリでバイトに来ていた。当然、帰りも自分で漕いで帰るつもりだったのに、糸井はなぜか嬉しそうに笑って僕の手を引き、駐輪場へ。
「よし、じゃあ出発しようか」
糸井が軽やかに僕の自転車のハンドルを握り、サドルに腰を下ろした。
「……は?ちょ、待てよ。なんでお前が漕ぐんだよ。僕のチャリだぞ」
「いいからいいから。ほら、宇佐見は後ろ。しっかり掴まって」
僕は呆れて言葉を失った。
「お前、二人乗りは『今は……まだいい。』て、この前言ってただろ」
「それは『付き合う前』の話。今はもう、俺たち付き合ってるんだからいいでしょ。それに……」
糸井は振り返り、悪戯っぽく、でもどこか熱を帯びた瞳で僕を見つめた。
「こんなに可愛くて細っこい子に、俺を乗せて漕がせるなんて過酷なこと、王子様としてできないわけ。……それにさ、もし俺が後ろに乗ってみなよ。宇佐見に抱きついて、そのまま我慢できなくなって襲っちゃいそうだから。……ね? だから俺に漕がせて」
「……っ、バカかお前は。変なこと言うな!」
真っ赤になって毒突く僕を、糸井は「あはは」と楽しそうに笑い飛ばした。
結局、僕は折れるしかなくて、おずおずと荷台に腰を下ろした。付き合う前の「宇佐見の隣を歩きたい気分」なんて言っていたしおらしい糸井はどこへ行ったのか。
「……いくよ」
糸井が力強くペダルを踏み込む。
ぐんと加速する感覚。僕は慌てて、糸井のシャツの腰のあたりをギュッと掴んだ。
目の前には、糸井の大きな背中。
夏の日差しを浴びて、あいつの清潔感のある香りがふわりと鼻先をくすぐる。
付き合う前、糸井が話しかけてこなくなってからこの背中を見つめては、届かない距離に絶望していた自分を思い出す。
今、その背中に触れているのは、世界中で僕だけだ。
「宇佐見、もっとちゃんと掴まって。落ちるよ」
「……掴まってる」
「甘い。ほら、もっとこう、ギュッと。俺の腹のあたりに腕回して」
糸井が片手を離して、僕の手を引き寄せようとする。
危ないからやめろと言いたいのに、あいつの背中から伝わる体温が心地よすぎて、僕はされるがままにその広い背中に顔を埋めた。
「……これでいいんだろ」
「うん。最高」
糸井の声が、少しだけ弾んでいるのがわかった。
アスファルトに伸びる、重なり合った二人の影。
夏の風を切って進む自転車は、僕たちが今まで通ったことのない、もっと甘くて熱い場所へと向かって走っていく。
反射的に頭痛がした。
そこには、以前『合コン会場』としてこの店を訪れた古川と山岸。
「……はあ、また来た」
僕は思わず深くため息をついた。
自動ドアから入ってきたのは、相変わらず騒がしい山岸と、それを後ろで面白そうに眺めている古川だ。
「宇佐見ー! 宇佐見がそろそろ俺に会いたがってると思って、強制バ先凸しにきた!」
「……一ミリも会いたくない。山岸、前にもう来るなって言っただろ。出禁だ、出禁」
「そんなこと言うなよ宇佐見。俺も、そろそろほとぼりが冷めたかなと思ってさ。なあ、とりあえず四人席いい?」
古川が慣れた手つきで空席を指差す。
こいつはいつもそうだ。
山岸の暴走を止めるどころか、自分も便乗して楽しんでいる節がある。
僕のバイト先がたまたま判明した翌日に糸井に「宇佐見の邪魔になるからもう行かないよ」と釘を刺されていたのに。
なにが「ほとぼりが冷めた」だ。
僕がげんなりしながら案内しようとしたその時、後ろで控えていた新人
――糸井が、スッと前に出た。
「いらっしゃいませ。二名様ですね。こちらへどうぞ」
完璧な接客スマイル。
目が一ミリも笑っていない。
けれど、その声を聞いた山岸と古川は、まるで呪文をかけられたかのようにその場で静止した。
「……え、いと、え?」
「は? 糸井? なんでお前がここにいんの!?」
山岸が今日一番のデカい声を出して指を差す。古川も流石に驚いたのか、少し目を見開いて糸井と僕を交互に見た。
「新人。今日からここでバイトすることになったから。宇佐見先輩、案内は俺がやるよ」
「えっ、ちょ、待てよ! お前ら、なんで……」
山岸の混乱を無視して、糸井は鮮やかな手つきで二人を席へ誘導した。
注文を取り終えたあとも、山岸の追求は止まらない。
「おかしい! 絶対おかしいだろ! 最近、糸井と宇佐見、いつも一緒にいすぎじゃね⁉この前なんてさ、休み時間に糸井の膝の上に宇佐見が乗ってたの、俺、見ちゃったんだからな!」
山岸の叫び声が店内に響き渡り、僕は思わずお盆で顔を隠した。
周囲の客がチラチラとこちらを見ているのがわかる。
「もうお前じゃ興奮しなくなったんだろ」
古川はニヤニヤしながら意味不明なことを言ってくる。
けれど、当の糸井は全く動じる様子がなかった。
いつもどおり、涼しい顔をしている。
「……ああ、あれ。隠すつもりもないし、別にいいよ」
糸井はそう言うと、僕の肩をごく自然に抱き寄せた。シャツ越しに、糸井の体温が伝わってくる。
「俺たち、付き合ってるんだよね。宇佐見」
「……っ、お前、ここで言うか普通!」
「ええええええええ!? ほんとに⁉マジで⁉」
山岸が椅子から転げ落ちそうになる勢いで騒ぎ出す。
一方で、古川は「やっぱり?」と呟きながら、ストローをくわえてさっきよりもニヤニヤしている。
「あー、やっぱりね。なんかそんな空気してたわ。糸井、俺が話かけてるのにずっと宇佐見見てたもんな」
「流石、古川は察しがいいね。彼女が絶えないだけあるわ」
「おい!古川、お前知ってたのかよ!仲間外れか⁉俺も彼女欲しい!なんで宇佐見に先越されてんだよ!」
一人で絶望して机を叩く山岸。
察しのいい古川と、恋愛に関してはからっきしで騒ぐだけの山岸。
この対比が、今の僕には少しだけ滑稽で、でもどこか救われるような気がした。
「……山岸、営業妨害。騒ぐなら今すぐ帰って」
糸井が冷ややかな、でもどこか楽しげな笑顔で山岸の襟首を掴み、ひょいとつまみ出そうとする。
「ちょ、糸井! 離せ!俺は客だぞ、お客様!」
ドタバタと騒がしいクラスメイトたちを眺めながら、僕は小さく息を吐いた。
秘密にするつもりだったわけじゃないけれど、こんな風にあっさりと「付き合ってる」を肯定してくれる糸井の強さが、やっぱり好きだなと思ってしまう。
「……とにかく、そういうことだから」
山岸の襟首を掴んだまま、糸井は低い、けれどよく通る声で告げた。
いつもの『完璧な王子様』の微笑みはどこへやら、その瞳には明確な独占欲の光が宿っている。
「宇佐見は俺のだから。安易に触るなよ。特に山岸、お前。マブだかなんだか知らないけど、ベタベタ触ったら、殺すぞ」
「い、糸井……お前、目がマジなんだよ……!殺すとか怖すぎんだろ。分かった、分かったから!宇佐見、お前いい彼氏持ったな!」
山岸が半泣きで手を上げ、糸井がようやく解放する。
古川は相変わらず「へえ、糸井ってガチだとそういうキャラなんだ~」と呑気に、他人事のようにニヤニヤしながら、ポテトをつまんでいる。
なんとか嵐のような二人を落ち着かせ、午前中のシフトを終える。
僕はもともと今日は昼までのシフトだったし、
糸井も初日ということで、店長が気を利かせて「今日はもう上がっていいよ」と声をかけてくれた。
バックヤードで着替えを済ませ、店の裏口から外に出る。
七月の強い日差しが降り注ぐ中、さっきまでの傲慢な態度はどこへ行ったのか、糸井は少しだけ不安そうな顔で僕を覗き込んできた。
「……ねえ、宇佐見」
「ん?」
「さっき、勢いでばらしちゃったけど……よかった?」
低い声が、少しだけ揺れている。
さっきまで山岸に「殺すぞ」と言っていたやつと同一人物か疑うほどだ。
少しだけ不安そうに僕の顔を覗き込む糸井は、まるで飼い主の顔色を伺う大型犬みたいだ。
「…………別に、いいよ」
僕は視線を逸らしながら、素直に答えた。
「隠さなきゃいけない理由もないし。お前に『俺の』って言われるの……そんなに嫌じゃなかったし」
最後の方は、自分でも聞き取れないくらい小さな声だったけれど。
糸井の顔が、ぱあっと明るくなるのが気配でわかった。
「…………宇佐見」
不意に、強い力で抱き寄せられる。シャツ越しに伝わる糸井の心拍。さっき、山岸たちを威嚇していた時よりも、ずっと速く打っている。
「よかった。……俺、宇佐見が嫌がったらどうしようって、内心心臓バクバクだったから」
「……嘘つけ。あんなに威嚇してたくせに」
「宇佐見限定で、ヘタレなんだよ」
糸井は僕の肩口に顔を埋めて、深く息を吐き出した。
学校の人気者で、完璧な王子様。
そんな男の『初めて』や『ヘタレな部分』を、僕だけが独占している。
廊下でプリントを拾ってもらったあの日には、想像もしていなかった温度。
「よし、せっかくバイトも昼までなんだし、これからデート行こう? 行きたいところ、ある?」
「……お前の行きたいところでいいよ」
僕がそう言うと、糸井は「じゃあね……」と僕の手をぎゅっと繋いだ。
「宇佐見の好きな、甘いもの食べに行こうか。宇佐見の好きなもの、俺が全部奢るよ。それから、もっとゆっくり二人でいられるところ」
繋いだ手から、糸井の確かな熱が伝わってくる。
またそうやって子供扱いする。
文句を言おうと見上げた僕の唇に、糸井は「大好きだよ」と囁きながら、優しいキスを落とした。
そのまま糸井が歩き出そうとするから、僕は駐輪場を指さす。
今日は糸井が来るなんて思っていなかったから、僕はいつも通りチャリでバイトに来ていた。当然、帰りも自分で漕いで帰るつもりだったのに、糸井はなぜか嬉しそうに笑って僕の手を引き、駐輪場へ。
「よし、じゃあ出発しようか」
糸井が軽やかに僕の自転車のハンドルを握り、サドルに腰を下ろした。
「……は?ちょ、待てよ。なんでお前が漕ぐんだよ。僕のチャリだぞ」
「いいからいいから。ほら、宇佐見は後ろ。しっかり掴まって」
僕は呆れて言葉を失った。
「お前、二人乗りは『今は……まだいい。』て、この前言ってただろ」
「それは『付き合う前』の話。今はもう、俺たち付き合ってるんだからいいでしょ。それに……」
糸井は振り返り、悪戯っぽく、でもどこか熱を帯びた瞳で僕を見つめた。
「こんなに可愛くて細っこい子に、俺を乗せて漕がせるなんて過酷なこと、王子様としてできないわけ。……それにさ、もし俺が後ろに乗ってみなよ。宇佐見に抱きついて、そのまま我慢できなくなって襲っちゃいそうだから。……ね? だから俺に漕がせて」
「……っ、バカかお前は。変なこと言うな!」
真っ赤になって毒突く僕を、糸井は「あはは」と楽しそうに笑い飛ばした。
結局、僕は折れるしかなくて、おずおずと荷台に腰を下ろした。付き合う前の「宇佐見の隣を歩きたい気分」なんて言っていたしおらしい糸井はどこへ行ったのか。
「……いくよ」
糸井が力強くペダルを踏み込む。
ぐんと加速する感覚。僕は慌てて、糸井のシャツの腰のあたりをギュッと掴んだ。
目の前には、糸井の大きな背中。
夏の日差しを浴びて、あいつの清潔感のある香りがふわりと鼻先をくすぐる。
付き合う前、糸井が話しかけてこなくなってからこの背中を見つめては、届かない距離に絶望していた自分を思い出す。
今、その背中に触れているのは、世界中で僕だけだ。
「宇佐見、もっとちゃんと掴まって。落ちるよ」
「……掴まってる」
「甘い。ほら、もっとこう、ギュッと。俺の腹のあたりに腕回して」
糸井が片手を離して、僕の手を引き寄せようとする。
危ないからやめろと言いたいのに、あいつの背中から伝わる体温が心地よすぎて、僕はされるがままにその広い背中に顔を埋めた。
「……これでいいんだろ」
「うん。最高」
糸井の声が、少しだけ弾んでいるのがわかった。
アスファルトに伸びる、重なり合った二人の影。
夏の風を切って進む自転車は、僕たちが今まで通ったことのない、もっと甘くて熱い場所へと向かって走っていく。

