~糸井side~
「……ん……」
宇佐見は小さく身じろぎをすると、すぅすぅ、と静かで規則正しい寝息を立て始めた。
熱に浮かされ、あれだけ溜め込んでいた本音をぶちまけて疲れ果てたのだろう。
毒気が抜けたその寝顔は、驚くほど幼くて無防備だった。
俺は、宇佐見の手を握ったまま、空いている方の手でその色素の薄いふわふわとした髪に触れた。
指先をすり抜けていく柔らかな感触。
「……赤ちゃんかよ」
思わず、独り言がこぼれた。
こんなに近くで見つめる宇佐見の顔は、ため息が出るほどに整っている。
影を落とす長い睫毛、
透き通るような白い肌、
そしてやわらかそうな唇。
女子が騒ぐのも頷ける。
こいつは自分がどれだけ他人を魅了するか一ミリも分かってないけれど。
学校ではあんなにツンとしていて、誰の侵入も許さないようなオーラを纏っているのに。
今目の前にいる宇佐見は、俺が手を離せばどこかへ消えてしまいそうなほど、儚くて愛おしい。
無防備すぎる。
俺がここにいるのをわかっていて、よくこんな風に眠れるな。
髪を撫でていた手に、微かな圧力を感じた。
見れば、握り合っていた宇佐見の手に、ぎゅっと力がこもっている。
夢の中でさえ、俺を離さないでいてくれるんだろうか。
そう思うだけで、胸の奥が締め付けられるように熱くなった。
正直、人を好きになるなんて、自分には無縁の話だと思っていた。
女子から告白されることは、日常茶飯事だった。
けれど、どいつもこいつも俺の何を知っているのかと言えば、答えは決まって「顔」か「雰囲気」だ。適当に笑ってあしらえば、勝手に夢を見て、勝手に幻滅していく。
そんな薄っぺらいやり取りに、俺はとっくに飽き飽きしていた。
古川のダル絡みを適当にスルーして、ログインボーナスの回収に精を出す。
俺にとっての日常は、その程度に無機質で、平坦なものだった。
――宇佐見斗亜《うさみとあ》。
俺の後ろの席のやつ。いつも死んだように寝ている、不愛想な男。
最初は、その程度の認識だった。
先生に怒られても、「さあせんしたぁ」と面倒そうに前髪をかき上げてまた眠りにつく。
山岸とかいううるさい奴に絡まれても、眉間に皺を寄せて無視を貫く。
ああ、こいつも俺と同じタイプだ。
外側に「壁」を作って、余計なものを入れないようにしている。
自分と同じ匂いを感じて、少しだけ親近感を持っていた。それだけの存在だったはずなのに。
あの日。
廊下に落ちていた、一枚のプリント。
ふと目に留まった右上の名前は、驚くほど字が汚かった。
「……何これ、汚すぎんだろ。ミミズでも這ったの?」
思わず独り言が漏れた。あの整った、冷たいほどに綺麗な顔立ちから、こんなに『人間味」の溢れる汚い字が書かれるなんて、想像もしていなかった。
なんだ、こいつ。面白いな。
軽い好奇心で、下駄箱にいた宇佐見に声をかけた。
プリントを突き出すと、宇佐見は少し驚いたように俺を見た後、
「ありがとう」
そう言って、ふわりと、春の陽だまりみたいに笑ったのだ。
不愛想な仮面の裏側に、そんな顔を隠し持っていたなんて。
心臓が、経験したことのない速度で跳ねた。
思考が真っ白になり、指先まで熱が回る。
――ああ、もう遅い
俺はその瞬間、宇佐見斗亜という深い沼に、真っ逆さまに落ちてしまった。
それからは、もう止まれなかった。
もっと宇佐見を知りたい。
もっとその声を聴きたい。
俺は『席が前後』という便利な大義名分を掲げて、宇佐見の聖域にずかずかと踏み込んでいった。
そこからは、自分でも呆れるくらい宇佐見のことばかりを目で追うようになった。
話しかけてみて、まず驚いたのは、こいつが思った以上に口が悪いことだ。
「何?用がないならどけ。……邪魔」
「つれないなあ。ね、今の数学のノート、見せてよ。宇佐見の字、もっとじっくり見たくて」
「…………死ね」
普通なら引くような言葉なのに、俺は喉の奥で笑いが込み上げた。
必死に余裕を取り繕っていたけど、できていたかは怪しい。
不愛想にそっぽを向くのに、なんだかんだ言って俺がくだらない話を続けても、
宇佐見は「ふーん」とか「興味ない」とか言いながら、必ず相槌をくれる。
聞き上手で、根が優しい。
俺だってもともと誰かにベラベラ喋るタイプじゃないのに、不思議と宇佐見には話したいことが溢れて止まらない。
言葉には棘があるのに、いつだって宇佐見は自分のことより他人を優先する不器用な優しさがあった。
そして、何より反則だと思ったのは。
「お昼、それだけ?」
「……いいだろ、僕の勝手」
――「僕」。
あんなに鋭い視線で毒を吐くくせに、
一人称が『僕』。
そのギャップがたまらなく可愛くて、俺は自分の頬が緩むのを抑えるのに必死だった。
あいつが「僕は……」と口にするたび、俺の中の何かがぐちゃぐちゃにかき乱される。
反則だろ、そんなの。
お昼休みの過ごし方も、気づけば全部把握していた。
あいつはいつも、パンしか食べていない。
チョコチップメロンパンと、ミルクフランス。
よく食べている組み合わせを横目で見ては、甘いものが好きなんだな、なんて勝手に親近感を覚え、最近できたクレープ屋に誘おうか真剣に悩んだ。
今のところそんなチャンスはなくて、放課後宇佐見は気づけばいなくなっていたのだけれど。
お昼を食べ終わると、宇佐見はたいてい机に突っ伏して眠りにつく。
細い腕を枕にして、その上に預けられる驚くほど小さな顔。
でも、それ以上に多かったのは、昼飯も食べずに寝ている姿だった。
机に突っ伏して、色素の薄い髪をふわりと揺らして眠るあいつを見ては、
「だからそんなに細いのか」と、妙に保護欲をそそられた。
Eラインが綺麗な横顔。その指先。全部が俺だけのものになればいいのに。
……そんなことばかり考えていた。
その無防備な姿を眺めている時間は、俺にとって何よりの癒やしだったけれど、同時に猛烈な『独占欲』を駆り立てる毒でもあった。
こいつのこの顔を知っているのは、俺だけでいい。
そう思っていたのに。
「うっさみぃー!お昼寝の邪魔しにきたぞー!」
山岸が、遠慮もなく宇佐見の背中に抱きついた瞬間、俺の中で何かが「ブチッ」と音を立てて切れた。
「山岸。宇佐見、寝てるんだから。離れろよ」
「えー? 糸井には関係ないだろ。俺と宇佐見はマブなんだよなー?」
「…………死ねって言ってるだろ、山岸」
眠そうな声で宇佐見が毒づく。俺に向けられるのと同じ言葉。
それが、どうしようもなく癪に障った。
宇佐見と『マブ』を自称し、馴れ馴れしく体に触れる山岸が、殺したいほどに憎たらしい。
山岸が宇佐見の細い肩に腕を回すたび、俺の胸の奥ではどす黒い嫉妬が渦を巻いた。
宇佐見の髪も、肌も、その汚い字さえも、全部俺だけのものになればいい。
そして、宇佐見はモテた。
度々、誰かに呼び出されてはめんどくさそうに立ち上がり、数分で眉をしかめて帰ってくる。
あいつが誰かに呼び出されるたびに「行くな」と何度言いかけたか。
断ったと分かるたびに安堵したか。
そんな傲慢な独占欲を隠しながら、『王子様』の面を被ってあいつの隣に居座り続けた。
伝えるつもりなんて、本当になかった。
あいつを困らせたくなかったし、今の距離が壊れるのが怖かった。
こんな重すぎる執着をぶつけたら、宇佐見は間違いなく引いて、今度こそ俺を拒絶する。
そうわかっていたのに、あの日――。
昼休み。
ざわつく教室の片隅で、幸せそうに眠る宇佐見を見ていたら、愛おしさが決壊した。
普段、誰かにベタベタ触られて嫌そうにしているあいつが、俺が指を絡めたり、イヤフォンを片耳ずつしたりして距離を詰めても拒絶しなかったから調子に乗ってしまっんだと思う。
「……好きだよ。宇佐見」
気づいた時には、声に出ていた。
寝ていると思って零した本音の告白。
宇佐見は驚いた顔をして跳ね起きた。
焦った。
心臓が止まるかと思った。
動揺を隠すために子供扱いして茶化して逃げたけれど、その後の俺はもう限界だった。
これ以上そばにいたら、あいつのすべてを奪ってしまいそうで。
これ以上、宇佐見のパーソナルスペースを汚さないように。宇佐見を困らせないように。
だから、あえて距離を置くことに決めた。
宇佐見をこれ以上困らせないように。俺の汚い独占欲で、あいつを汚さないように。
――俺から距離を取ったのに。
自分から離れたくせに、俺の視線は結局、宇佐見を追いかけ続けていた。
あれから視界の端に映る宇佐見の顔色は、日を追うごとに悪くなっていく。
もともと細い身体が、さらに薄くなっていく。このまま、あいつが消えてしまうんじゃないか。
誰の手も届かないところへ、一人で行ってしまうんじゃないか。
「…………っ、居なくならないでくれ」
そんな不安に押し潰されそうになっていた矢先、
宇佐見が学校を休んだ。
「宇佐見は、体調不良で欠席です。」
朝のホームルームで担任が事務的に放ったその一言を聞いた瞬間、俺の頭からは理性が吹き飛んだ。
そのあとに担任がまだ何か言葉を続けていたような気がするけど、俺には何も聞こえていなかった。
俺はもう、自分の決意なんて、どうでもいい。
その日の授業はいつも以上にダルく感じて、今すぐ駆け付けたい気持ちを必死で抑えた。
きっと朝から押し掛けたって寝てるだろうし、迷惑だ。
体調不良ってことは病院にいるかもしれないし。
スマホを取り出して「大丈夫か?」と連絡しようとして、あいつの連絡先知らないことに腹が立った。
俺は宇佐見のこと何も知らないんじゃないか。
勝手に気持ちをぶつけて、宇佐見を困らせただけだ。
帰りのホームルームが終わった瞬間俺は教室を飛び出した。
たった一度だけ送ったあのアパートへ向かって走り出していた。
「……ん……」
宇佐見は小さく身じろぎをすると、すぅすぅ、と静かで規則正しい寝息を立て始めた。
熱に浮かされ、あれだけ溜め込んでいた本音をぶちまけて疲れ果てたのだろう。
毒気が抜けたその寝顔は、驚くほど幼くて無防備だった。
俺は、宇佐見の手を握ったまま、空いている方の手でその色素の薄いふわふわとした髪に触れた。
指先をすり抜けていく柔らかな感触。
「……赤ちゃんかよ」
思わず、独り言がこぼれた。
こんなに近くで見つめる宇佐見の顔は、ため息が出るほどに整っている。
影を落とす長い睫毛、
透き通るような白い肌、
そしてやわらかそうな唇。
女子が騒ぐのも頷ける。
こいつは自分がどれだけ他人を魅了するか一ミリも分かってないけれど。
学校ではあんなにツンとしていて、誰の侵入も許さないようなオーラを纏っているのに。
今目の前にいる宇佐見は、俺が手を離せばどこかへ消えてしまいそうなほど、儚くて愛おしい。
無防備すぎる。
俺がここにいるのをわかっていて、よくこんな風に眠れるな。
髪を撫でていた手に、微かな圧力を感じた。
見れば、握り合っていた宇佐見の手に、ぎゅっと力がこもっている。
夢の中でさえ、俺を離さないでいてくれるんだろうか。
そう思うだけで、胸の奥が締め付けられるように熱くなった。
正直、人を好きになるなんて、自分には無縁の話だと思っていた。
女子から告白されることは、日常茶飯事だった。
けれど、どいつもこいつも俺の何を知っているのかと言えば、答えは決まって「顔」か「雰囲気」だ。適当に笑ってあしらえば、勝手に夢を見て、勝手に幻滅していく。
そんな薄っぺらいやり取りに、俺はとっくに飽き飽きしていた。
古川のダル絡みを適当にスルーして、ログインボーナスの回収に精を出す。
俺にとっての日常は、その程度に無機質で、平坦なものだった。
――宇佐見斗亜《うさみとあ》。
俺の後ろの席のやつ。いつも死んだように寝ている、不愛想な男。
最初は、その程度の認識だった。
先生に怒られても、「さあせんしたぁ」と面倒そうに前髪をかき上げてまた眠りにつく。
山岸とかいううるさい奴に絡まれても、眉間に皺を寄せて無視を貫く。
ああ、こいつも俺と同じタイプだ。
外側に「壁」を作って、余計なものを入れないようにしている。
自分と同じ匂いを感じて、少しだけ親近感を持っていた。それだけの存在だったはずなのに。
あの日。
廊下に落ちていた、一枚のプリント。
ふと目に留まった右上の名前は、驚くほど字が汚かった。
「……何これ、汚すぎんだろ。ミミズでも這ったの?」
思わず独り言が漏れた。あの整った、冷たいほどに綺麗な顔立ちから、こんなに『人間味」の溢れる汚い字が書かれるなんて、想像もしていなかった。
なんだ、こいつ。面白いな。
軽い好奇心で、下駄箱にいた宇佐見に声をかけた。
プリントを突き出すと、宇佐見は少し驚いたように俺を見た後、
「ありがとう」
そう言って、ふわりと、春の陽だまりみたいに笑ったのだ。
不愛想な仮面の裏側に、そんな顔を隠し持っていたなんて。
心臓が、経験したことのない速度で跳ねた。
思考が真っ白になり、指先まで熱が回る。
――ああ、もう遅い
俺はその瞬間、宇佐見斗亜という深い沼に、真っ逆さまに落ちてしまった。
それからは、もう止まれなかった。
もっと宇佐見を知りたい。
もっとその声を聴きたい。
俺は『席が前後』という便利な大義名分を掲げて、宇佐見の聖域にずかずかと踏み込んでいった。
そこからは、自分でも呆れるくらい宇佐見のことばかりを目で追うようになった。
話しかけてみて、まず驚いたのは、こいつが思った以上に口が悪いことだ。
「何?用がないならどけ。……邪魔」
「つれないなあ。ね、今の数学のノート、見せてよ。宇佐見の字、もっとじっくり見たくて」
「…………死ね」
普通なら引くような言葉なのに、俺は喉の奥で笑いが込み上げた。
必死に余裕を取り繕っていたけど、できていたかは怪しい。
不愛想にそっぽを向くのに、なんだかんだ言って俺がくだらない話を続けても、
宇佐見は「ふーん」とか「興味ない」とか言いながら、必ず相槌をくれる。
聞き上手で、根が優しい。
俺だってもともと誰かにベラベラ喋るタイプじゃないのに、不思議と宇佐見には話したいことが溢れて止まらない。
言葉には棘があるのに、いつだって宇佐見は自分のことより他人を優先する不器用な優しさがあった。
そして、何より反則だと思ったのは。
「お昼、それだけ?」
「……いいだろ、僕の勝手」
――「僕」。
あんなに鋭い視線で毒を吐くくせに、
一人称が『僕』。
そのギャップがたまらなく可愛くて、俺は自分の頬が緩むのを抑えるのに必死だった。
あいつが「僕は……」と口にするたび、俺の中の何かがぐちゃぐちゃにかき乱される。
反則だろ、そんなの。
お昼休みの過ごし方も、気づけば全部把握していた。
あいつはいつも、パンしか食べていない。
チョコチップメロンパンと、ミルクフランス。
よく食べている組み合わせを横目で見ては、甘いものが好きなんだな、なんて勝手に親近感を覚え、最近できたクレープ屋に誘おうか真剣に悩んだ。
今のところそんなチャンスはなくて、放課後宇佐見は気づけばいなくなっていたのだけれど。
お昼を食べ終わると、宇佐見はたいてい机に突っ伏して眠りにつく。
細い腕を枕にして、その上に預けられる驚くほど小さな顔。
でも、それ以上に多かったのは、昼飯も食べずに寝ている姿だった。
机に突っ伏して、色素の薄い髪をふわりと揺らして眠るあいつを見ては、
「だからそんなに細いのか」と、妙に保護欲をそそられた。
Eラインが綺麗な横顔。その指先。全部が俺だけのものになればいいのに。
……そんなことばかり考えていた。
その無防備な姿を眺めている時間は、俺にとって何よりの癒やしだったけれど、同時に猛烈な『独占欲』を駆り立てる毒でもあった。
こいつのこの顔を知っているのは、俺だけでいい。
そう思っていたのに。
「うっさみぃー!お昼寝の邪魔しにきたぞー!」
山岸が、遠慮もなく宇佐見の背中に抱きついた瞬間、俺の中で何かが「ブチッ」と音を立てて切れた。
「山岸。宇佐見、寝てるんだから。離れろよ」
「えー? 糸井には関係ないだろ。俺と宇佐見はマブなんだよなー?」
「…………死ねって言ってるだろ、山岸」
眠そうな声で宇佐見が毒づく。俺に向けられるのと同じ言葉。
それが、どうしようもなく癪に障った。
宇佐見と『マブ』を自称し、馴れ馴れしく体に触れる山岸が、殺したいほどに憎たらしい。
山岸が宇佐見の細い肩に腕を回すたび、俺の胸の奥ではどす黒い嫉妬が渦を巻いた。
宇佐見の髪も、肌も、その汚い字さえも、全部俺だけのものになればいい。
そして、宇佐見はモテた。
度々、誰かに呼び出されてはめんどくさそうに立ち上がり、数分で眉をしかめて帰ってくる。
あいつが誰かに呼び出されるたびに「行くな」と何度言いかけたか。
断ったと分かるたびに安堵したか。
そんな傲慢な独占欲を隠しながら、『王子様』の面を被ってあいつの隣に居座り続けた。
伝えるつもりなんて、本当になかった。
あいつを困らせたくなかったし、今の距離が壊れるのが怖かった。
こんな重すぎる執着をぶつけたら、宇佐見は間違いなく引いて、今度こそ俺を拒絶する。
そうわかっていたのに、あの日――。
昼休み。
ざわつく教室の片隅で、幸せそうに眠る宇佐見を見ていたら、愛おしさが決壊した。
普段、誰かにベタベタ触られて嫌そうにしているあいつが、俺が指を絡めたり、イヤフォンを片耳ずつしたりして距離を詰めても拒絶しなかったから調子に乗ってしまっんだと思う。
「……好きだよ。宇佐見」
気づいた時には、声に出ていた。
寝ていると思って零した本音の告白。
宇佐見は驚いた顔をして跳ね起きた。
焦った。
心臓が止まるかと思った。
動揺を隠すために子供扱いして茶化して逃げたけれど、その後の俺はもう限界だった。
これ以上そばにいたら、あいつのすべてを奪ってしまいそうで。
これ以上、宇佐見のパーソナルスペースを汚さないように。宇佐見を困らせないように。
だから、あえて距離を置くことに決めた。
宇佐見をこれ以上困らせないように。俺の汚い独占欲で、あいつを汚さないように。
――俺から距離を取ったのに。
自分から離れたくせに、俺の視線は結局、宇佐見を追いかけ続けていた。
あれから視界の端に映る宇佐見の顔色は、日を追うごとに悪くなっていく。
もともと細い身体が、さらに薄くなっていく。このまま、あいつが消えてしまうんじゃないか。
誰の手も届かないところへ、一人で行ってしまうんじゃないか。
「…………っ、居なくならないでくれ」
そんな不安に押し潰されそうになっていた矢先、
宇佐見が学校を休んだ。
「宇佐見は、体調不良で欠席です。」
朝のホームルームで担任が事務的に放ったその一言を聞いた瞬間、俺の頭からは理性が吹き飛んだ。
そのあとに担任がまだ何か言葉を続けていたような気がするけど、俺には何も聞こえていなかった。
俺はもう、自分の決意なんて、どうでもいい。
その日の授業はいつも以上にダルく感じて、今すぐ駆け付けたい気持ちを必死で抑えた。
きっと朝から押し掛けたって寝てるだろうし、迷惑だ。
体調不良ってことは病院にいるかもしれないし。
スマホを取り出して「大丈夫か?」と連絡しようとして、あいつの連絡先知らないことに腹が立った。
俺は宇佐見のこと何も知らないんじゃないか。
勝手に気持ちをぶつけて、宇佐見を困らせただけだ。
帰りのホームルームが終わった瞬間俺は教室を飛び出した。
たった一度だけ送ったあのアパートへ向かって走り出していた。

