無関心な僕が、お前だけは例外

 それからの数日間、僕は狂ったようにバイトを入れた。

 学校が休みの日には開店から閉店まで立ち続け、平日も22時まで、
 わざと自分を追い込むようにほとんど毎日シフトを詰め込んだ。

 身体を動かしていれば、余計なことを考えなくて済む。
「バイト代も増えるし」と意味のない言い訳を自分自身に何度もした。
 忙しさに追われていれば、休み時間の静寂も、糸井の冷え切った背中も、記憶の隅に追いやることができる。


 そう思っていた。


 けれど、無理やり蓋をした感情は、確実に僕の体を蝕んでいた。

 バイトの休憩中、
 鏡を見ると自分の顔が、あの日糸井に拾ってもらったプリントよりもずっと白いのが分かった。
 喉は焼けるように熱く、ふとした瞬間に立ちくらみがして、視界がぐにゃりと歪む。

 ――休め。

 本能がそう告げているのを、僕はあえて無視した。

 指先が微かに震えるのも、胃の奥がムカムカするのも、
 全部『疲れのせい』だと自分に言い聞かせた。
 そうやって自分を極限まで追い込んでいないと、
 不意に耳の奥で蘇るあの甘い「好きだよ」という声に、正気を保てそうになかったからだ。

 学校では、一言も交わさないどころか、視線すら合わせようとしない糸井。
 その静寂に耐えるためには、バイト先の喧騒と、思考を停止させるほどの肉体疲労がどうしても必要だった。

 それに、あいつに「好きだ」と言われたあの日から、まともに眠れた夜なんて一日もなかった。
 目を閉じればあの甘い声が鼓膜を震わせ、目を開ければ拒絶のような沈黙が待っている。
 学校でも机に突っ伏してはいたけれど、浅い微睡みの中でさえ、糸井の気配を探してしまう自分がいた。


 そして、ある日の朝。

 季節はすっかり夏で、窓の外からは蝉の鳴き声がうるさいほど響いているのに、僕は毛布の中でガタガタと震えていた。

 「……っ、寒い」

 刺すような寒気に耐えられず、奥歯が鳴る。
 体温を測るまでもなく、体が重い。鉛を流し込まれたような倦怠感と、ズキズキと脈打つ頭痛。

 結局、僕はその日、一度も立ち上がることができずに学校を休んだ。

 母さんは朝早くから仕事に出ている。
 静まり返ったアパートの一室で、僕はただ、天井の染みを眺めていた。

 あいつは今日、僕がいないことに気づくだろうか。
 いや、今のあいつなら、僕がいようがいまいが関係ないだろう。
 誰かに囲まれ、平然とスマホゲームに没頭しているだけだ。

 そんな惨めな思考が、熱で朦朧とした脳内をぐるぐると回り続ける。

 汗で張り付いたシャツが気持ち悪いのに、着替える気力も湧かない。
 ただ、渇いた喉の奥で、呼んでも届かない『誰か』の名前を無意識に繰り返していた。


 夕方になり、西日が狭い部屋をオレンジ色に染め始めた頃。

 ピン、ポーン。

 控えめに玄関のチャイムが鳴った。

 最初は、変なセールスでも来たのだろうと無視した。
 それに、こんな時間に、僕を訪ねてくる人間なんていないはずだ。

 けれど、

 ピンポーン

 と次は明確に鳴った。

 「……はい」

 仕方なく掠れた声を振り絞り、ふらつく足取りで玄関へ向かう。

 重い扉を少しだけ開けた。

 「……なんで」

 そこに立っていたのは、到底、僕の日常に現れるはずのない男だった。

 学校帰りなのだろう。制服を少し着崩した糸井が、手元に袋を提げて、僕を見下ろしていた。

 「……宇佐見。体調悪いって聞いて、心配で来た」

 息を整えながらそう言った糸井の瞳は、この数日間の冷たさが嘘だったかのように、切実な焦げるような熱を帯びて揺れていた。

 「暑いだろ。中、入れば」

 追い返そうと思ったのに、
 細く開けたドアの隙間から、糸井の額にじわりと滲む汗が見えた途端
 僕はドアを大きく開け、糸井を招き入れた。

 七月の夕暮れ。
 外はまだ、肌を刺すような熱気が居座っている。
 糸井の呼吸は少しだけ乱れていた。急いできたのだろうか。
 糸井は「お邪魔します」と小さく呟き、律儀にスニーカーを整えてから、遠慮がちに僕の後に続いた。

 「ごめん、冷房、効いてないけど」

 自分の頭が割れるように痛むことなんてどうでもよかった。
 僕は急いでキッチンへ向かい、冷蔵庫から冷えた麦茶を注いで糸井に差し出した。

 「宇佐見、いいよ、座ってなよ。顔真っ赤だし、相当しんどいだろ」

 「大丈夫だから。これくらい、大したことない。そんなことより、これ飲めよ」

 差し出したコップを受け取ろうとした糸井の指先が、僕の手に触れる。
 その瞬間、糸井の表情が険しくなった。

 「こんな時まで優しくしなくていいから」

 糸井はため息をつくと、僕の拒絶を無視して、そっと僕の額に手を触れた。
 呆れたような、それでいてどこか怒ったような態度。

 「……っ」

 避けようとしたけれど、体温を奪われるようなその感覚に、思わず動きが止まった。

 いつもは温かくて、時に熱いとさえ感じていた糸井の手が、今は驚くほど冷たくて、心地いい。
 熱を持った皮膚に、その温度がじんわりと染み込んでいく。

 「すごい熱……。これでも大したことないって言うの?」

 「冷たい……」

 「そりゃ、宇佐見が熱すぎるからだよ。ほら、大人しくして」

 糸井は困ったように眉をひそめると、手際よく手元の袋から冷却シートを取り出し、僕の額にぴたりと貼り付けた。

 急激な冷たさに身を震わせると、
 糸井の指先が、シートを定着させるように優しく僕の額にもう一度、添えられる。
 その冷たさに少しだけ毒気を抜かれ、僕は反論する気力を失った。

 言われるがままにベッドに座り込むと、糸井が僕の隣に腰を下ろした。

 「……なんで、こんなになるまでバイトばっかりしてたの」

 「……別に。お前に関係ないだろ。それに、なんでお前が知ってるんだよ」

 自然と視線が落ちた。

 「関係なくないよ。山岸に聞いた。『宇佐見が前にもましてシフト入れまくってて、全然遊んでくれない』ってボヤいてたから」

 糸井は僕の顔を覗き込むようにして、低く、静かな声で言った。

 「それに……俺も、ずっと見てたから。ここ数日、宇佐見の顔色がどんどん悪くなっていくの、気づかないわけないだろ」

 糸井の声は、低く、沈み込むように響いた。

 見ていた?

 僕があいつの背中を睨んでいたのと同じように、あいつも僕を見ていたのか。

 その事実に、また心臓が騒がしくなる。

 「そこまで自分を追い込む理由、何?昼もほとんど食べてないよね?」

 僕は熱に浮かされた瞳で、ぼんやりとあいつを見つめた。

 そんなことまで見ていたのか?

 実際、あれから昼飯を食べる余裕なんてこれっぽっちも無かった。
 昼休みになった途端に机に突っ伏していたのは確かだ。僕はそれを全部『疲れのせい』だって自分に言い聞かせていた。

 「ただの人手不足」

 そう言ったら、糸井は僕の肩に自分の手を添えた。

 言わなくていい。黙っていればいい。

 なのに、冷却シートの冷たさが心地よすぎて、糸井の視線が刺さって、つい、口が滑る。

 「……うちは、母子家庭だから。僕が働かないと、余裕ないんだよ。」

 「でも、限度ってものがあるだろ。ほんとにそれだけか?」

 糸井の声に、隠しきれない苛立ちが混じる。
 けれど、その苛立ちが自分に向けられたものではなく、無理をした僕に向けられたものだと気づいた瞬間、またしても心の堤防が脆く崩れ始めた。

 僕は糸井のシャツの袖を、震える指先で少しだけ掴んだ。

 掴んだシャツの感触が、指先を通じて現実感を僕に繋ぎ止めていた。

 けれど、脳内は熱に焼かれて、言葉の重さを測る秤はもう壊れてしまっている。

 「……本当は、お前のせいだ」

 一度こぼれ落ちた言葉は、もう止められなかった。

 糸井が、目に見えて息を呑むのがわかった。

 「お前が……あの日、あんなこと……『好きだ』なんて、急に言うから。そのせいで寝れなくなって、考えないようにするには、動くしか、なかったんだよ……っ」

 掠れた声で吐き出すたびに、胸の奥が熱く焼ける。

 「気になって、ずっと、ムカついてた。……なのに、お前は次の日から、急に話しかけてこなくなって。プリント回す時だって、一回も目合わせないで。あんなの、ずるいだろ。勝手にかき乱して、自分だけ知らんぷりして……」

 視界が急激に歪んでいく。

 それが高熱のせいなのか、それとも、この数日間たった一人で耐えてきた情けない寂しさのせいなのか、もう判別がつかなかった。

 「……意味、わかんねえよ。なんで……なんで僕ばっかり、こんなに……お前のこと、考えて……」

 言葉が、震える吐息と一緒にこぼれ落ちる。

 糸井は、微動だにせず僕の言葉を受け止めていた。添えられていた手が、僕の肩を壊れ物を扱うようにそっと引き寄せる。

 「……ごめん。そんなに追い詰めてるなんて、思わなかった」

 糸井の声は、今まで聴いたことがないくらい低く、ひどく後悔に満ちていた。

 「……宇佐見。もう、そんなに無理しないで。……俺のこともっと頼ってよ。……っていうか、もう俺が養いたい。宇佐見がそんなにボロボロになるまで働かなきゃいけないなら、俺が全部、面倒みるから」

 「……は?」

 自分でも驚くほど素っ頓狂な声が出た。
 熱で朦朧とした頭でも、その言葉の異常さはわかった。

 養う? 面倒をみる? なんだよそれ。

 「……意味、わかんねえよ。お前、何言って……」

 「本気だよ。この前の『好き』も、冗談なんかじゃない。……本当に、宇佐見が好きなんだ」

 糸井の瞳が、至近距離で僕を射抜く。

 ここ数日の氷のような冷たさは消え、そこには逃げ場のないほどの執着が宿っていた。

 「じゃあ……っ、なんで、無視したんだよ。あの日から、一言も……話しかけてこなかっただろ……」

 震える声で問い返すと、糸井は苦しげに目を細め、僕の額にかかった髪をそっと払った。

 「宇佐見を困らせたくなかったんだ。伝えるつもりもなかった。……でも、宇佐見が山岸と話してたり、山岸に抱き着かれてるの見て、我慢できなくなって……」

 糸井が一度言葉を切って、僕を抱きしめるように腕に力を込めた。

 「宇佐見が誰かに取られるくらいなら、いっそ嫌われた方がマシだと思った。距離を置けば、この気持ちも少しは静まるかと思ったのに……。逆だった。離れようとすればするほど、宇佐見のことしか考えられなくなった」

 耳元で響く、糸井の声。

 その必死な響きに、僕の心臓はさらに大きく跳ねる。

 「……僕だって、寂しかった」

 自分でも驚くほど、素直な言葉が口を突いて出た。

 「最初は、あんなに話しかけてきてなんだよこいつって思ってたのに……。今まで、こんなに誰かに踏み込まれたこと、なかったから。……踏み込ませなかったから」

 誰とも関わらず、
 ただ静かに、目立たないように生きていれば、傷つくこともないと思っていた。
 そうしているうちに、気づけば誰にも興味を持てなくなっていた。

 なのに、この男だけは、僕が必死に守ってきた境界線を、いとも簡単に、そして残酷なほど鮮やかに壊していったんだ。

 「お前に触れられても、嫌じゃなかった。他の奴と楽しそうにしてるの、ムカついた。お前が言ったんだろ、取られたくないって。僕だって、同じなのに……」

 最後の方は、もう声になっていたかどうかもわからない。
 けれど、糸井には届いたようだった。

 「宇佐見。今の、もう一回言って?」

 「……うるさい。一回しか言わない」

 「……ああ、もう。その顔、反則」

 糸井は片手で自分の顔を覆ってから
 僕に向き直り、僕の頬を両手で包み込む。

 熱に浮かされて赤くなった僕の顔を、愛おしくてたまらないというような目で見つめていた。

 「……来てくれて、ありがと」

 ぽつりと呟くと、糸井は一瞬目を見開いた後
 ひどく甘い、溶けてしまいそうな笑顔を見せた。

 嫌われていなかった。

 話しかけてこなかったのは、嫌いになったからじゃなかったんだ。

 その安堵感が、熱で疲れ切った僕の身体を、深い眠りへと誘う。

 「おやすみ、宇佐見。ずっと、ここにいるから」

 遠ざかる意識の中で、心地よい冷たさと、あいつの温かい匂いに包まれながら、
 僕は久しぶりに、穏やかな眠りの中に落ちていった。