いつものように出勤して、上司に頼まれた業務を片そうとしていた時だった。
「春日井さん、最近ちょっとぼーっとしてる?」
「えっ」
不意に声をかけられて、私はキーボードを打つ手を止めた。顔を上げると、隣のデスクで仕事をしている同僚の佐藤美晴さんがこちらを見ていた。
「いや、その…!あぁ…すみません…。」
「謝るほどじゃないけどさ。なんか疲れてる?大丈夫?」
心配そうな顔で声をかけてくれる優しい人だ。
だからこそ――ちょっと、困る。
「…大丈夫です。」
「ほんとに?」
「はい」
なんとか笑ってごまかす。でもたぶん、全然ごまかせてない。ここ数日、明らかに様子がおかしいのは自分でもわかっている。
理由はもちろん――
(クロスケ……)
頭の中に浮かぶのは、あの黒い耳と尻尾。
そして、やたら距離の近い同居人。
昨日も外出して、今日は朝から「行かないで」って袖つかまれて。
正直、仕事どころじゃないのは事実で。
「春日井さんってさ、あんまりそういうの言わないタイプだよね。」
「え?」
「悩みとか、全部一人で抱えそう。」
「そんなことは…。」
否定しようとして言葉が詰まる。
だって図星だったから。
昔から嫌なことや悩みごとがあっても家族にさえ相談することが出来なかった。
そのせいで精神が潰れてしまうことも多く、体調を崩したりもあった。
もちろん、ただの自業自得なのだけど。
佐藤さんはそんな私に気付いていたようだ。
「なんかあったら言ってよ?ここでは同僚だけど年齢的に言ったら一応先輩だし。」
「ありがとうございます…。」
少しだけ、胸があったかくなった。
でも今抱えている悩みは簡単に解決出来るはずがなかった。言えるわけがなかった。
“拾った黒猫がいきなり人間になって成り行きで同居してます”なんて。
言った瞬間、確実に病院案件だ。
しかも私が成人してるのに比べ彼は大人…ではないと思う。動物年齢で言ったら立派な大人だけど、人間の姿時は高校生くらいだ。
ただでさえ猫だからと戸籍登録もしていないのに、あれだけ若い見た目をしてる彼と同居してるなんて見られたら確実に犯罪である。
家族、なんて言っちゃったけど…どうしたものか…。
私がそうしてグルグルと思考を巡らせていると表情にでも出ていたのか佐藤さんが核心を突いてきた。
「あ、もしかして最近ちょっと生活変わったとか?」
「っ…!」
一瞬、心臓が跳ねた、やはり鋭い。
「顔に出てるよ、やっぱなんかあったでしょ。」
「えっと…。」
やはり顔に出ていたようだ。この場をどうする?どうする私、どう切り抜ける?
正直に言う?いやいや無理、絶対無理!
何とかやり過ごすための言い訳を、自分でもこの時、どうしてあんなことを言ったのか分からなかった。
「ね、猫を…飼い始めまして…。」
「え!?」
思ったより大きい反応が返ってきた。
「猫!?いいなぁ〜!」
「え?あ、その…。」
「写真とかないの!?」
「しゃ、写真…。」
(クロスケの写真…人間の姿しかない…。)
あ、詰んだかも。
「いやまだその…来たばっかりで…。」
「どんな子?何歳くらい?」
「く、黒猫で…拾ったんですけど、体は小さいのでまだ若いんじゃないかなぁ〜と…?」
半分は本当。半分は、言えない部分。
全部嘘というわけではない、と思っておこう。
「えー!保護猫じゃん!春日井さん優しい!」
「いやいや、そんな…!」
「名前は?」
「クロスケ…です。」
「かわいい名前〜!」
佐藤さんは猫が好きなのか、動物が好きなのか。
私も猫飼いたいなぁ〜とか、やっぱ保護団体とかで見つけてきたほうが良いよねぇとか、そんなことを呟き始めた。
クロスケのことを褒められたようで、ちょっと嬉しい。
「でもそれなら確かに大変だよねぇ、慣れてないとバタバタするでしょ?」
「はい、まあ…。」
当たり前だが、“人間になる”とは言ってない。
でも、ある意味それ以上にバタバタしてる。
「夜とか大丈夫?捨て猫だったんなら警戒心あるだろうし、鳴いたりしない?」
「えぇ…っと…。」
私は昨晩の出来事を思い出した。
――「ありさ、一人で寝るのやだ」
――「ありさ、こっち来て」
──「ありさ、トイレの音大きくて怖いから着いてきて…。」
これは…子供か…?
「鳴くというか、喋るというか…。」
思い出した出来事は猫を飼っているとは想像しにくく、話していると自信も無くなり、だんだん小声になってしまう。
「え?喋る!?」
「あ、いや!?なんでもないです!気のせいです気のせい!」
私は慌てて否定する。危なかった。
完全にアウトな発言だった。
「まあでも猫ってたまに人間みたいな反応するよね。」
「そ、そうですね…!」
た、助かった。世の中の人間みたいな反応をする猫に感謝したい。
「でもいいなあ、癒やしある生活、ちょっと憧れちゃうなぁ…。」
「癒やし、ですか…?」
思わず遠い目になる。考えれば確かに癒やしはある。でも同時に、心臓に悪いことも多い。
主に距離感が。
「帰るの楽しみじゃない?」
「まあ、それは…そうかもしてないです。」
否定できなかった。
家に帰れば、クロスケがいる。
「おかえり」って言ってくれるし、すぐ近くに来るし、名前呼んでくるし。
…やっぱり、距離が近いな。
「いいじゃん。なんか良い変化って感じ!」
「そうですね…。」
小さく頷いた。確かにあの日、クロスケを拾ってから私の毎日は、確実に変わった。
忙しくて、振り回されて、意味わからなくて。
それでも楽しいなと思える生活でもあった。
「じゃあさ、今度写真見せてよ!」
「…え?」
「クロスケくんの写真!」
「くん!?」
「え、オスでしょ?」
「え、あ、まあ…たぶん…?」
人間の姿が男の子だと、そのまま本来の姿もオスなのかな。冷静に考えたらそれが普通か。
「じゃあクロスケくんだね。」
「……。」
なんか違う、すごく違う。でも訂正もできない。
「楽しみにしてるね、クロスケくんの写真!」
「は、はい…。」
ど、どうしよう…猫の写真用意しないと…。
いやその前に、クロスケに猫のフリさせる…?
無理じゃない?
内心で頭を抱えながら、私は再びキーボードに向かった。
画面の文字は、全然頭に入ってこなかった。
浮かぶのは、ただひとつ。
(…早く帰りたいな。)
今日もきっとあの子は待っている。
「ありさ」って私の名前を呼びながら。
そんなクロスケの声を思い出して、
少しだけ頬が緩んだ気がした。
「春日井さん、最近ちょっとぼーっとしてる?」
「えっ」
不意に声をかけられて、私はキーボードを打つ手を止めた。顔を上げると、隣のデスクで仕事をしている同僚の佐藤美晴さんがこちらを見ていた。
「いや、その…!あぁ…すみません…。」
「謝るほどじゃないけどさ。なんか疲れてる?大丈夫?」
心配そうな顔で声をかけてくれる優しい人だ。
だからこそ――ちょっと、困る。
「…大丈夫です。」
「ほんとに?」
「はい」
なんとか笑ってごまかす。でもたぶん、全然ごまかせてない。ここ数日、明らかに様子がおかしいのは自分でもわかっている。
理由はもちろん――
(クロスケ……)
頭の中に浮かぶのは、あの黒い耳と尻尾。
そして、やたら距離の近い同居人。
昨日も外出して、今日は朝から「行かないで」って袖つかまれて。
正直、仕事どころじゃないのは事実で。
「春日井さんってさ、あんまりそういうの言わないタイプだよね。」
「え?」
「悩みとか、全部一人で抱えそう。」
「そんなことは…。」
否定しようとして言葉が詰まる。
だって図星だったから。
昔から嫌なことや悩みごとがあっても家族にさえ相談することが出来なかった。
そのせいで精神が潰れてしまうことも多く、体調を崩したりもあった。
もちろん、ただの自業自得なのだけど。
佐藤さんはそんな私に気付いていたようだ。
「なんかあったら言ってよ?ここでは同僚だけど年齢的に言ったら一応先輩だし。」
「ありがとうございます…。」
少しだけ、胸があったかくなった。
でも今抱えている悩みは簡単に解決出来るはずがなかった。言えるわけがなかった。
“拾った黒猫がいきなり人間になって成り行きで同居してます”なんて。
言った瞬間、確実に病院案件だ。
しかも私が成人してるのに比べ彼は大人…ではないと思う。動物年齢で言ったら立派な大人だけど、人間の姿時は高校生くらいだ。
ただでさえ猫だからと戸籍登録もしていないのに、あれだけ若い見た目をしてる彼と同居してるなんて見られたら確実に犯罪である。
家族、なんて言っちゃったけど…どうしたものか…。
私がそうしてグルグルと思考を巡らせていると表情にでも出ていたのか佐藤さんが核心を突いてきた。
「あ、もしかして最近ちょっと生活変わったとか?」
「っ…!」
一瞬、心臓が跳ねた、やはり鋭い。
「顔に出てるよ、やっぱなんかあったでしょ。」
「えっと…。」
やはり顔に出ていたようだ。この場をどうする?どうする私、どう切り抜ける?
正直に言う?いやいや無理、絶対無理!
何とかやり過ごすための言い訳を、自分でもこの時、どうしてあんなことを言ったのか分からなかった。
「ね、猫を…飼い始めまして…。」
「え!?」
思ったより大きい反応が返ってきた。
「猫!?いいなぁ〜!」
「え?あ、その…。」
「写真とかないの!?」
「しゃ、写真…。」
(クロスケの写真…人間の姿しかない…。)
あ、詰んだかも。
「いやまだその…来たばっかりで…。」
「どんな子?何歳くらい?」
「く、黒猫で…拾ったんですけど、体は小さいのでまだ若いんじゃないかなぁ〜と…?」
半分は本当。半分は、言えない部分。
全部嘘というわけではない、と思っておこう。
「えー!保護猫じゃん!春日井さん優しい!」
「いやいや、そんな…!」
「名前は?」
「クロスケ…です。」
「かわいい名前〜!」
佐藤さんは猫が好きなのか、動物が好きなのか。
私も猫飼いたいなぁ〜とか、やっぱ保護団体とかで見つけてきたほうが良いよねぇとか、そんなことを呟き始めた。
クロスケのことを褒められたようで、ちょっと嬉しい。
「でもそれなら確かに大変だよねぇ、慣れてないとバタバタするでしょ?」
「はい、まあ…。」
当たり前だが、“人間になる”とは言ってない。
でも、ある意味それ以上にバタバタしてる。
「夜とか大丈夫?捨て猫だったんなら警戒心あるだろうし、鳴いたりしない?」
「えぇ…っと…。」
私は昨晩の出来事を思い出した。
――「ありさ、一人で寝るのやだ」
――「ありさ、こっち来て」
──「ありさ、トイレの音大きくて怖いから着いてきて…。」
これは…子供か…?
「鳴くというか、喋るというか…。」
思い出した出来事は猫を飼っているとは想像しにくく、話していると自信も無くなり、だんだん小声になってしまう。
「え?喋る!?」
「あ、いや!?なんでもないです!気のせいです気のせい!」
私は慌てて否定する。危なかった。
完全にアウトな発言だった。
「まあでも猫ってたまに人間みたいな反応するよね。」
「そ、そうですね…!」
た、助かった。世の中の人間みたいな反応をする猫に感謝したい。
「でもいいなあ、癒やしある生活、ちょっと憧れちゃうなぁ…。」
「癒やし、ですか…?」
思わず遠い目になる。考えれば確かに癒やしはある。でも同時に、心臓に悪いことも多い。
主に距離感が。
「帰るの楽しみじゃない?」
「まあ、それは…そうかもしてないです。」
否定できなかった。
家に帰れば、クロスケがいる。
「おかえり」って言ってくれるし、すぐ近くに来るし、名前呼んでくるし。
…やっぱり、距離が近いな。
「いいじゃん。なんか良い変化って感じ!」
「そうですね…。」
小さく頷いた。確かにあの日、クロスケを拾ってから私の毎日は、確実に変わった。
忙しくて、振り回されて、意味わからなくて。
それでも楽しいなと思える生活でもあった。
「じゃあさ、今度写真見せてよ!」
「…え?」
「クロスケくんの写真!」
「くん!?」
「え、オスでしょ?」
「え、あ、まあ…たぶん…?」
人間の姿が男の子だと、そのまま本来の姿もオスなのかな。冷静に考えたらそれが普通か。
「じゃあクロスケくんだね。」
「……。」
なんか違う、すごく違う。でも訂正もできない。
「楽しみにしてるね、クロスケくんの写真!」
「は、はい…。」
ど、どうしよう…猫の写真用意しないと…。
いやその前に、クロスケに猫のフリさせる…?
無理じゃない?
内心で頭を抱えながら、私は再びキーボードに向かった。
画面の文字は、全然頭に入ってこなかった。
浮かぶのは、ただひとつ。
(…早く帰りたいな。)
今日もきっとあの子は待っている。
「ありさ」って私の名前を呼びながら。
そんなクロスケの声を思い出して、
少しだけ頬が緩んだ気がした。
