クロスケと呼ぶには

 疲れたという言葉すら口に出したくない夜だった。残業終わりの帰り道、コンビニの袋を片手に、人気のない住宅街をとぼとぼ歩く。

春が近いとはいえ夜風はまだ冷たい。
スーツの上に薄手のコートだけでは心もとないし、ヒールのせいで足も痛い。

 今日は上司に資料の修正を三回も差し戻されてしまった。
おまけに駅前で買ったお気に入りのパンはうっかり手から落としてしまい、たまたま通りかかった自転車により、潰れた。

「……最悪」

そう呟くには充分な1日だった。
 私は一人暮らしを始めて早3年になる。
仕事にも慣れたし家事もそれなりにこなせるようになった。
大人としてちゃんとしているつもりだった。
けれど、こういう日には決まって思う。

 誰かが「おかえり」と言ってくれたら、気持ちが少しくらい救われるのに。
そんなことを考えた瞬間だった。

「……にゃあ」

か細い声が足元の暗がりから聞こえ足を止める。
古いアパートの塀のそば、ゴミ置き場の陰。
街灯の光が届きにくい場所に小さな黒いかたまりがうずくまっていた。

「え……猫?」

私がしゃがみ込むと、その子はびくりと肩を震わせた。黒猫だった。
けれど、つややかな毛並みとは程遠い有様だ。
全身が汚れ、毛はぼさぼさ、片耳の先は少し切れているようだ。前足にはかすり傷まであった。
警戒しているのか、金色の(うつ)ろな目がじっとこちらを見上げている。

「ボロボロじゃん…。」

 手を伸ばしかけて、止める。
野良猫なら逃げるかもしれない。下手に触って嫌がらせたくはなかった。
かと言って、見捨てて帰るなんて私には出来なかった。
私はたった今思ったばかりの思考を撤回するかのように問いかける。

「うち、来る?」

 自分でも馬鹿みたいな問いかけだと思う。
猫が人間の言葉をわかるわけがないし、仮にわかったとしても、知らない人間にほいほいついてくるとは思えない。
 それでも、その黒猫はしばらくじっと私を見たあと、震える足で一歩だけ前に出た。

「……え」

もう一歩──

そして、ふらりとよろめいた。

「ちょ、危ないっ!」

慌てて抱き上げると驚くほど軽かった。
温かいはずの体は夜気(やき)に冷えていて、細い骨が腕越しに伝わる。

「ほんとに、ひどい……。」

黒猫は抵抗しなかった。
むしろ、かすかに喉を鳴らした気がした。
その小さな音に、胸の奥がきゅっと締めつけられる。

「大丈夫だよ。とりあえず、帰ろう。」

 こうして私はその夜、黒い捨て猫を拾った。


 ワンルームのアパートに戻るなり、私は大慌てだった。
お湯を沸かしてタオルを濡らし、汚れた毛を優しく拭く。救急箱を引っ張り出して傷を消毒し、冷蔵庫にあったささみを茹でて更に乗せた。
1人暮らしの部屋に猫用のものなんてあるはずもないが、今はとにかくできることをするしかなかった。

「痛くない?ごめんね、ちょっとしみるかも。」

声をかけながら手当てをすると、黒猫はおとなしくされるがままだった。
途中で指先をぺろりと舐められて、思わず動きが止まる。

「…なにそれ。反則でしょ。」

 ふっと笑ってしまう。
さっきまであんなにささくれていた気持ちが、少しだけほどけていた。

 食べ物を出すと、その子は最初だけ様子を伺うように匂いを嗅いで、安全だと分かったのかその後は夢中になって食べていた。
よほどお腹が空いていたのだろう。
小さな体のどこに入るのかと思うくらい、あっという間に皿が空になる。

「よしよし、えらい。」

 そう言って頭を撫でると、ぴくっと耳が動く。

真っ黒な毛並みはまだぼさぼさだけれど、目だけは宝石みたいに綺麗だった。

「名前、どうしようかな。」

 一人暮らしの部屋にぽつんと猫がいる。
その非日常がなんだか不思議で、でも悪くなかった。黒くて、小さくて、弱っていたくせに妙に気が強そうで。

「……クロスケ、かな。」

 昔話に出てきそうな、単純な名前。
我ながら安直だと思ったけれど、口にするとしっくりきた。

「今日から君はクロスケだ。」
「にゃ」
「ふふ、返事した?」

 猫じゃらしもベッドもトイレも、明日すぐ買いに行かなきゃ。それに、このボロボロ具合では病院は連れて行きたい。

会社は…午前休み取れるかな。いや、無理かな。
そんな現実的なことを考えながらも、心のどこかは浮ついていた。
誰もいないはずの部屋に、小さな命がいる。
それだけで、いつものワンルームが少しだけ違って見えた。

 私は床に座り込んだまま、そっとクロスケを抱き寄せた。

「これからは家族だよ。」

 半分は自分に言い聞かせるみたいに、半分は願うように呟く。クロスケは腕の中で目を細め、やがて安心したように小さく喉を鳴らした。
その音を聞きながら、私はいつもよりずっと穏やかな気持ちで眠りについた。


翌朝───

 目を覚ました私はまず違和感に気づいた。

「……あれ?」

腕の中にいるはずの、温かい重みがない。
跳ね起きて布団の周りを見回す。
部屋は昨日のまま、脱ぎっぱなしのコートも、ローテーブルの上のマグカップもそのままだ。
 なのに、クロスケだけがいない。

「クロスケ?」

 呼んでも返事はない。

ベッドの下、カーテンの裏、ローテーブルの陰。ありそうな場所を一通り覗いてみるけれど、黒いしっぽひとつ見当たらなかった。

「え、どこ行ったの…?」

 落ち着いて辺りを見回す。
玄関は閉まっている。窓も昨日のままだ。
ということは、部屋のどこかにいるはず。
猫なんだから、狭いところに隠れているだけかもしれない。

「…とりあえず、朝ごはん。」

 自分を落ち着かせるように呟きながらキッチンに立つ。トースターにパンを入れて、フライパンを温め卵を割る。
じゅう、と音がして、少しだけ気持ちが落ち着いたその時。

「おはよう」

 すぐ後ろから、男の子の声がした。

「っ!?」

心臓が飛び跳ねた。

 一人暮らしの部屋だ。誰かがいるはずがない。
悲鳴になりかけた声を飲み込んで振り向くと、

そこには――

 知らない少年が立っていた。
17歳前後に見える、背の高い男の子。
黒いパーカーに黒いズボン。寝起きなのか少し跳ねた黒髪。
白い肌に、じっとこちらを見つめる金色がかった瞳。

そして

「…………え?」

 頭の上に、ぴんと立った黒い耳。
腰の後ろには、ゆらりと揺れる黒い尻尾まで。
思考が完全に止まる。

何これ、コスプレ?いやいや、そんなわけない。そもそも、鍵の閉まった私の部屋にどうして知らない男の子がいるのだろう。
怖いし意味がわからない。
夢?寝ぼけてる?過労で幻覚?

フライパンの上で卵が焦げる音がしているのに、体が動かなかった。

 少年はそんな私を見て、少しだけ眉をひそめる。

「なに、その顔。」

「その顔って…いやちょっと待って、待って待って待って!?冷静に!誰!?なんでいるの!?ていうか…何その耳としっぽは!!」

 一気に叫ぶと、少年はむっとしたように頬を赤くし拗ねたように目をそらしたあと、ぽつりと言う。

「うるさいんだけど朝から。」
「うるさいのはそっちでしょ!」
「ちゃんといるじゃん、隠れてただけだってば。」
「何言ってるの!?そういう問題じゃなくて!」

 思わずキッチンの端に後ずさる。
包丁立てが目に入りさらにパニックになりそうになるけれど、目の前の少年からは不思議と強い害意を感じない。

それどころか、どこか見覚えがあるような――

金色の瞳が、じっと私を見る。
その目に、昨夜の黒猫が重なった。

 まさか、と思った瞬間には、口が勝手に動いていた。

「……名前、は?」

少年は少しだけ首を傾げた。
そして当然みたいに答える。

「クロスケ。」
「…………」
「昨日、あんたがつけた。」

 間違いない。
その言い方、少し不満そうな顔にその目。

昨夜、私が拾ったボロボロの黒猫だ。

「ええええええええええっ…!?」

 ようやく出た叫びは、アパート中に響きそうなほど大きかった。クロスケはぴくっと耳を動かし、うるさそうに顔をしかめる。

「だからうるさいって。」
「うるさくなるでしょ普通!猫が!人になって!しゃべってるんだけど!?」
「人っていうか、まあ…人型?」
「そこはどうでもよくない!?」

頭が痛い。理解が追いつかない。

でも目の前の少年――
クロスケは平然としていた。

むしろ少し眠そうで、私の慌てぶりのほうが不思議だと言わんばかりだ。

「お腹すいた」
「は?」
「さっきの、焦げてる。」

 言われて、はっとフライパンを見る。
半熟にするはずだった目玉焼きは端がしっかり茶色くなっていた。

「ああもうっ!」

慌てて火を止める。
 振り返ると、クロスケはすぐそこまで来ていた、が、近い。近すぎる。

「ちょ、ちょっと離れて!」
「やだ。」
「やだって何!?」
「昨日、家族だって言った。」

真顔でそんなことを言うから、言葉に詰まった。
確かに言った、言いました。勢いで。それも猫相手に。
 でも普通、それで翌朝人間になって家族面してくるなんて思わないじゃない。

「……それは、猫だったからでしょう…?」
「今もクロスケだけど。」
「そういう問題じゃないの!」

 言い返すたびに、クロスケは不満そうに耳を伏せる。その仕草が妙に猫っぽくて、余計に混乱した。
しかも、少し傷ついたみたいな顔をするのだ。

「……俺、いたらだめ?」

 寂しそうに低くなった声に、どきりとする。
金色の瞳がまっすぐ私を映していた。

昨夜、暗がりの中で見上げてきた時と同じ目だ。
放っておけないと思った、あの目。

「それは……」

だめだと言えば、この子はどうするんだろう。
外に出すの?この状態で?
人間なのか猫なのかもわからないこの子を?
そんなこと、できるわけがなかった。

 しばらく黙り込んだ私を見て、クロスケはそっと袖口をつまんだ。

「お腹すいた。」
「…だから、それさっきも聞いたって。」
「知ってる。だから、食べたい。」
「……はあ」

深いため息をついて私は観念する。

混乱はしている。むしろ混乱しかしていない。
でも、まずは話を聞かなければ始まらない。
そしてその前に、朝ごはんだ。

「わかった、食べるのはいい。でもちゃんと説明して。どうして人になってるのかとか、なんでしゃべれるのかとか、いろいろ全部ね。」
「ん。」
「返事軽っ。」
「あ、」
「何?」

 クロスケは私を見上げ、少しだけ頬を赤くしたまま言った。

「一人で寝るの、やだ。」
「…………は?」
「昨日、あったかかった。」
「ちょっと待ってそれは絶対だめ…!」

朝から全力で叫ぶ私に、クロスケは耳をぺたんと伏せた。

――こうして、平凡だったはずの私の日常は、たった一晩でめちゃくちゃに変わった。

拾った黒猫はなぜか人になっていて。
しかも、とんでもなく距離が近い。
会社はどうする。病院は?役所は?戸籍は!?
というか、そもそもこの子はいったい何者なの?

 だけどその時の私は、まだ知らなかった。

この同居生活が、想像以上に騒がしくて、甘くて。
そして――




二度と“ひとり”には戻れなくなる始まりだということを