また明日


まるで水の中で浮いているような感覚に包まれた。

上に進んでいるのか下に向かっているのか、それとも右か左か分からない。
温度も感じさせず、先程の痛みもない。
ただ、体が自分のモノでは無いように言う事を聞いてくれないだけ。

開けていた目を閉じたら深く沈んでいくのがわかった。
どれくらい経ったか分からない。だけど、聞こえて来た「音」にゆっくりと目を開け、声にならないまま口を開いて、淡い光を放つ場所に向かって手を伸ばした。

ー……春陽


暗かった場所から一変し、景色は見慣れた物へ変化した。緩りと顔を上げると母屋の庭だ。自分の意識は幼い冬弥と同化している。いや、これは追体験か。


御影家の次期当主と言う立場は、幼い冬弥にとっては関心が無い物だった。
徹底的に叩き込まれ続ける当主としての教育と怪異との戦闘。遊ぶ時間もゆっくりする時間も無く、常に大人の中で暮らしていたこの時の冬弥は淡々と過ごすだけで、未来とか自分の命さえ、全てがどうでもよかった。

自殺する前まで実の母から幾度と殺されそうになっても
使用人から世話をさせれずに無視をされ続けても
誰かが用意した冬弥の食事に毒を盛られても
今よりも幼かった時に、助けを求めて父に向けて伸ばした手を無視させれたとしても

絶望なんてしない。
今更期待もしない。
それが、冬弥の「全て」だった。

有る秋の昼下がり、紅葉が色付き始めた頃に、実の父から命じられて母屋と離れた場所にある小さな離れの屋敷を宛てがわれた冬弥が一人で本を読んでいた時、落ち着いた女性の声が聞こえて来た。返事をすると、襖が開かれる。
「本日よりご当主様の命で、冬弥様にお仕え致します梅野と申します。」
冬弥は、少し若い白髪混じりの整えられたくすんだ赤色の着物を着た女性が床におでこがつきそうになるまで座礼しているのを見て、音もなく本を閉じた。
誰からもそんな話は聞いていないが……まぁ、いい。
「……梅野、顔を上げなさい。」
静かな、それでいて空っぽな、硝子の様な温度を感じさせない幼い声。
そに従う様に梅野がゆっくりと上体を起こし、自分の主人を見た時に言葉を失った。
凡そ5歳とは思えない程の表情が動かない顔、灰色の目には光がなく黒に近く、肌は色白で陶器の様。きっちりと整えられた着物姿、崩さない正座と伸びた背筋。
梅野は「噂通り」だと、しれずに手を握っていた。

「……ご苦労でした。後は出来るから下がってください。」
顔合わせをしてから業務連絡以外での会話は無く、梅野は宛てがわれた自室に下がらされた。
襖も閉められてしまい、まるでこれが二人の距離感だと言わずには居られない。
翌日からはもう少し頑張ろうと思ったのだが……

「若様…」
「あぁ、梅野。おはよう。」
「お、おはようございます。」
翌日の、日が昇るよりも早い時間。
台所で食器を洗っていた冬弥を発見した梅野は、幼い体でも高い台所に届く様に専用の台に登り、襷を巻いている姿に、本当に子供なのだろうかと思わずに居られなかった。
「朝食はーーー」
「梅野、当主より私の世話をしろと言われていると思いますが、それはしなくていい。ここでは自分の好きなように過ごしてください。」
言い終わるよりも先に口を開いた。
キュッと蛇口を閉めてタオルで手を拭いて台から静かに降りると、梅野を見上げながら「何もしなくていい」と告げる。
「なぜ……」
「私には不要だからです。もしも、何もしていないと当主やほかの者に貴女が責められるのなら、表向きはしている風に装いなさい。私もそれに合わせます。」
横を通り過ぎて自室へ戻った冬弥。
梅野は何も言えなかった。いいや、言わせて貰えなかった。一度も合わない視線が、答えだと思ってしまった。

その日より約半年。
梅野と冬弥の距離は縮まる事はなく、ただの一度も世話を焼かせて貰えなかった。
身の回りの全てを自分でこなしてしまう。梅野は自分がここにいる意味を探す事が増えた。
そんなある日……

「こんにちはーーー!誰かいますかー!!」

元気な声がこの離れに響いた。
聞き間違いかと思ったが、もう一度「こんにちはー!」と聞こえた事で、冬弥は静かに立ち上がると、声のした庭の方へと向かう。
前方の廊下から梅野が慌ててやって来ると、2人はそっと庭を見た。
そこには冬弥と同い歳くらいの小さな男の子。Tシャツと半ズボンと手には木の棒。所々薄汚れている。
「なんだ、人いるじゃん!」
男の子は整えられた庭をズカズカと進み、縁側の硝子扉を開くと、身を乗り出した。

「こんにちは!!俺の名前は月待遥陽!君の名前は!?」

これが、冬弥と遥陽の出会い。
真っ青な目の輝きに、自身が焼かれてしまいそうだと思った。